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私の彼氏はちょっとだけ心配性。:005

last update publish date: 2026-06-14 16:18:01

 113番というのはコンビニで売られているタバコの番号だ。葵依を呼び止めた男は113番の銘柄をいつも買う常連の男で、葵依は彼がいつも買う銘柄の番号で呼んだ。番号で呼ばれた男は目を見開いた後不機嫌そうに口を曲げた事に葵依は気付かない。ぺこりと頭を下げたからだ。頭を上げると、そこには女のような成り立ちの甘い顔があった。

「どうされましたか? もしかして、私……違う煙草を渡しちゃいました?」

 葵依の問いが聞こえているのかいないのか……113番は無言のまま葵依を見下ろした。

 葵依がバイトを始めた頃、この113番は葵依がレジでクレーマーに絡まれている所を助けている。

 それは二年前に遡る。

「俺を馬鹿にしているのか」

 レジに並ぶ客達の対応をしていて、その男の番が来ると目の前でそう声を掛けられた。

 そんなつもりはなかった。ただバイトを始めて日が浅い葵依の接客はたどたどしく、それが不快に思わせてしまったのかもしれない──新人でクレーム対応なんぞ出来ない葵依は対応しきれずに、オロオロと助けを求めるように田中に視線を送った。

 ──が、田中は隣のレジに並ぶ客の対応に追われているようで葵依の視線に気付かないようだった。実際はワザと聞こえないフリをしていたが葵依にそういうフリの見分けがつく訳はない。

「お前の笑った顔が気に食わない」

 今まで生きてきて、そんな言葉を言われた事がない葵依は戸惑った。どちらかと言えば「可愛い」「安心できる」と褒められる事が多いのだ。

 何も言えずにいると、それに調子ついたのかクレーマーは突然大声を放った。

「底辺コンビニ店員のくせに!」

 自分に非があると思い込んだ葵依は怒鳴り声に恐縮して肩を竦めた。

 クレーマーに手を掴まれる。葵依はただ普通に接客していただけで、まして新人でたどたどしいグリーティングは、「頑張れ」と応援したくなるものだったし、途中で接客用語を噛んでしまうのは庇護欲をそそられてしまう程可愛い。傍目から見て頑張りが分かるもので新人ながらも丁寧なものだった。そこを女で小柄だから「弱い」と思われたからか……日頃の鬱憤を晴らす対象に選ばれてしまう。

 隣にいる田中はレジに並ぶ客はいないのにレジのドロアーの開閉を繰り返して、先輩バイトは陳列台に隠れて様子を見ているだけ。細い手首を男の力で強く握られ怖い思いをしながらも自分の接客が不快に思わせてしまったんだ、と申し訳なくなり、自分が情けなくなる。それでも人前で涙を流してはいけない、と下唇を噛んで泣く事を堪えた。しかし小柄な葵依にとって自分より身長と幅もある男から力任せに来られるのは恐怖でしかなく……手首を掴んだクレーマーの爪が肉に食い込んで痛みに顔を歪めたところ──手首の痛みが軽くなる。

 と同時に、ドンっ! という音がコンビニ内に響いた。

 葵依の目の前で起きているのは、さっきまで自分の手首を掴んでいたクレーマーが額をレジ台に叩きつけられた。その背後には真っ黒いスーツに身を包んだ男が立っていて、クレーマーの腕を片手一本で後ろ手に纏めて掴み、もう片方で後頭部を押さえつけていた。その正体が113番だ。

 顔色変えず113番は背後からクレーマーの膝を蹴り真っ直ぐに立たせると、クレーマーの後ろ手を掴んだままコンビニを出て行った。その様子を葵依は呆然としたまま見送った。

 ──これが二年前の出来事である。

 それから暫くして葵依は助けてくれた113番へ感謝の言葉を伝え、お礼に喫煙者だからとシガレットケースをプレゼントした。ライターも常に持っているだろうからと、ライター収納付シガレットケースだ。色は男性らしく、黒を選んだ。

「どうも」とぶっきら棒にお礼を言われ「贈り物は迷惑だったかな?」と一瞬悩みはしたが胸ポケットには贈ったシガレットケースがいつも覗いていたから愛用してくれているんだと葵依は嬉しくなったのだった。

 だからと言ってその後は何かしらの進展があったわけではなく、ただの常連客と店員という関係のままだ。これがきっかけで、二人が顔を見れば会話するような仲になったわけではなかった。

 葵依とこの男の会話と言えば。

『いらっしゃいませ!』

『113番ですね』

『600円頂戴致します』

『ありがとうございます。またお越しくださいませ!』

 他には『おはようございます』『こんにちは』『こんばんは』くらいか。

 葵依は客から世間話を振られれば会話はするものの、自ら声は掛けないのだ。根が真面目な葵依は仕事中に無駄話なんてしない。生活資金をバイトで稼いでいる彼女は、お金を貰う以上は妥協せずに働くのだ。そんな彼女であるものの、愛想が良くて小柄で小動物のようにちょろちょろ動く葵依にファンは沢山いる。本人が意識していないだけ。

 とは言うものの113番が来店すれば他の客達と違って自ら笑顔で会釈するし、顔を見る度に「キレイな顔だなぁ」と思っていたりする。たまに同僚らしき男性とコンビニへ訪れる。陳列台の前でふざけ合って談笑をする姿が、いつも見せる姿と真逆なのだ。大きく口を開けて笑うその横顔がキラキラと輝いているように見えてしまう。もっと見たい、かも──仕事中なのに。

(笑った顔、かわいい)

 男の人なのに、そう思ってしまうのって変かな。

(でも、そう思ってしまうのはきっとママと同じ煙草を吸っているから)

 113番──その銘柄は葵依の亡くなった母親が愛煙していたのと同じだった。だから親近感が湧いてしまうんだ、と彼女は思っている。

 113番が店へ入ってくる姿を見かけると髪の毛を手櫛で整えたり、助けてもらってから、目で追ってしまっていたり、レジ台から、商品が陳列された棚を眺めている横顔を見たり。レジへ立たれてドキッとして。「113番」という声を聞いて心臓がキュッと締め付けられたり。レジが『お会計セルフ』に変わる前は、お金は手渡しで指が触れ合う度にドキドキしていたし綺麗に整えられた爪を持つ指先に触れられて、頬を染めたりしていた。それらは全て無意識だった。

 これはもう、立派な『恋』である。

 誰がなんと言おうが、葵依は113番に恋心を抱いている。

 しかし本人は見ての通り自覚していない。

 なんせ、葵依は彼氏いない歴=年齢で十七年間彼氏が居た事はない。葵依の近くに居る男と言えば叔父と従弟だが、彼らとの交流は四年前に始まったばかりだ。だから葵依の男性免疫はないに等しい。そんな葵依が自分の恋心に自ら気付く事はないのだ。例え、三ヵ月振りに来店して113番の姿を見た日は仕事中ずっとハッピーで、「113番」以外の声を聞いたその日はずっと鼻歌を口ずさんでいようとも、葵依は無自覚なまま二年間ものバイト生活を続け、そして今日バイトを退職した。

 自覚がない葵依の113番の認識は煙草を来店する度に買うヘビースモーカー止まりである。そして買っていく度に、

(肺癌になったりしないのかな……)

 と身体の心配までしていた。

 今まで話しかけられた事がないのに、どうして声をかけてきたのか──葵依に思い浮かぶ理由はただ一つ。

「やっぱり112番か114番を渡しちゃったかも」である。

「正しい煙草に変えてあげなきゃ。でも私は未成年だから買えない」とか悩んでいたら低い声が葵依の耳に届いて顔を上げた。

「今日でバイトが最後だと聞いた」

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