ログイン113番というのはコンビニで売られているタバコの番号だ。葵依を呼び止めた男は113番の銘柄をいつも買う常連の男で、葵依は彼がいつも買う銘柄の番号で呼んだ。番号で呼ばれた男は目を見開いた後不機嫌そうに口を曲げた事に葵依は気付かない。ぺこりと頭を下げたからだ。頭を上げると、そこには女のような成り立ちの甘い顔があった。
「どうされましたか? もしかして、私……違う煙草を渡しちゃいました?」 葵依の問いが聞こえているのかいないのか……113番は無言のまま葵依を見下ろした。 葵依がバイトを始めた頃、この113番は葵依がレジでクレーマーに絡まれている所を助けている。 それは二年前に遡る。 「俺を馬鹿にしているのか」 レジに並ぶ客達の対応をしていて、その男の番が来ると目の前でそう声を掛けられた。 そんなつもりはなかった。ただバイトを始めて日が浅い葵依の接客はたどたどしく、それが不快に思わせてしまったのかもしれない──新人でクレーム対応なんぞ出来ない葵依は対応しきれずに、オロオロと助けを求めるように田中に視線を送った。 ──が、田中は隣のレジに並ぶ客の対応に追われているようで葵依の視線に気付かないようだった。実際はワザと聞こえないフリをしていたが葵依にそういうフリの見分けがつく訳はない。 「お前の笑った顔が気に食わない」 今まで生きてきて、そんな言葉を言われた事がない葵依は戸惑った。どちらかと言えば「可愛い」「安心できる」と褒められる事が多いのだ。 何も言えずにいると、それに調子ついたのかクレーマーは突然大声を放った。 「底辺コンビニ店員のくせに!」 自分に非があると思い込んだ葵依は怒鳴り声に恐縮して肩を竦めた。 クレーマーに手を掴まれる。葵依はただ普通に接客していただけで、まして新人でたどたどしいグリーティングは、「頑張れ」と応援したくなるものだったし、途中で接客用語を噛んでしまうのは庇護欲をそそられてしまう程可愛い。傍目から見て頑張りが分かるもので新人ながらも丁寧なものだった。そこを女で小柄だから「弱い」と思われたからか……日頃の鬱憤を晴らす対象に選ばれてしまう。 隣にいる田中はレジに並ぶ客はいないのにレジのドロアーの開閉を繰り返して、先輩バイトは陳列台に隠れて様子を見ているだけ。細い手首を男の力で強く握られ怖い思いをしながらも自分の接客が不快に思わせてしまったんだ、と申し訳なくなり、自分が情けなくなる。それでも人前で涙を流してはいけない、と下唇を噛んで泣く事を堪えた。しかし小柄な葵依にとって自分より身長と幅もある男から力任せに来られるのは恐怖でしかなく……手首を掴んだクレーマーの爪が肉に食い込んで痛みに顔を歪めたところ──手首の痛みが軽くなる。 と同時に、ドンっ! という音がコンビニ内に響いた。 葵依の目の前で起きているのは、さっきまで自分の手首を掴んでいたクレーマーが額をレジ台に叩きつけられた。その背後には真っ黒いスーツに身を包んだ男が立っていて、クレーマーの腕を片手一本で後ろ手に纏めて掴み、もう片方で後頭部を押さえつけていた。その正体が113番だ。 顔色変えず113番は背後からクレーマーの膝を蹴り真っ直ぐに立たせると、クレーマーの後ろ手を掴んだままコンビニを出て行った。その様子を葵依は呆然としたまま見送った。 ──これが二年前の出来事である。 それから暫くして葵依は助けてくれた113番へ感謝の言葉を伝え、お礼に喫煙者だからとシガレットケースをプレゼントした。ライターも常に持っているだろうからと、ライター収納付シガレットケースだ。色は男性らしく、黒を選んだ。 「どうも」とぶっきら棒にお礼を言われ「贈り物は迷惑だったかな?」と一瞬悩みはしたが胸ポケットには贈ったシガレットケースがいつも覗いていたから愛用してくれているんだと葵依は嬉しくなったのだった。 だからと言ってその後は何かしらの進展があったわけではなく、ただの常連客と店員という関係のままだ。これがきっかけで、二人が顔を見れば会話するような仲になったわけではなかった。 葵依とこの男の会話と言えば。 『いらっしゃいませ!』 『113番ですね』 『600円頂戴致します』 『ありがとうございます。またお越しくださいませ!』 他には『おはようございます』『こんにちは』『こんばんは』くらいか。 葵依は客から世間話を振られれば会話はするものの、自ら声は掛けないのだ。根が真面目な葵依は仕事中に無駄話なんてしない。生活資金をバイトで稼いでいる彼女は、お金を貰う以上は妥協せずに働くのだ。そんな彼女であるものの、愛想が良くて小柄で小動物のようにちょろちょろ動く葵依にファンは沢山いる。本人が意識していないだけ。 とは言うものの113番が来店すれば他の客達と違って自ら笑顔で会釈するし、顔を見る度に「キレイな顔だなぁ」と思っていたりする。たまに同僚らしき男性とコンビニへ訪れる。陳列台の前でふざけ合って談笑をする姿が、いつも見せる姿と真逆なのだ。大きく口を開けて笑うその横顔がキラキラと輝いているように見えてしまう。もっと見たい、かも──仕事中なのに。 (笑った顔、かわいい) 男の人なのに、そう思ってしまうのって変かな。 (でも、そう思ってしまうのはきっとママと同じ煙草を吸っているから) 113番──その銘柄は葵依の亡くなった母親が愛煙していたのと同じだった。だから親近感が湧いてしまうんだ、と彼女は思っている。 113番が店へ入ってくる姿を見かけると髪の毛を手櫛で整えたり、助けてもらってから、目で追ってしまっていたり、レジ台から、商品が陳列された棚を眺めている横顔を見たり。レジへ立たれてドキッとして。「113番」という声を聞いて心臓がキュッと締め付けられたり。レジが『お会計セルフ』に変わる前は、お金は手渡しで指が触れ合う度にドキドキしていたし綺麗に整えられた爪を持つ指先に触れられて、頬を染めたりしていた。それらは全て無意識だった。 これはもう、立派な『恋』である。 誰がなんと言おうが、葵依は113番に恋心を抱いている。 しかし本人は見ての通り自覚していない。 なんせ、葵依は彼氏いない歴=年齢で十七年間彼氏が居た事はない。葵依の近くに居る男と言えば叔父と従弟だが、彼らとの交流は四年前に始まったばかりだ。だから葵依の男性免疫はないに等しい。そんな葵依が自分の恋心に自ら気付く事はないのだ。例え、三ヵ月振りに来店して113番の姿を見た日は仕事中ずっとハッピーで、「113番」以外の声を聞いたその日はずっと鼻歌を口ずさんでいようとも、葵依は無自覚なまま二年間ものバイト生活を続け、そして今日バイトを退職した。 自覚がない葵依の113番の認識は煙草を来店する度に買うヘビースモーカー止まりである。そして買っていく度に、 (肺癌になったりしないのかな……) と身体の心配までしていた。 今まで話しかけられた事がないのに、どうして声をかけてきたのか──葵依に思い浮かぶ理由はただ一つ。 「やっぱり112番か114番を渡しちゃったかも」である。 「正しい煙草に変えてあげなきゃ。でも私は未成年だから買えない」とか悩んでいたら低い声が葵依の耳に届いて顔を上げた。 「今日でバイトが最後だと聞いた」葵依は撫でられた頭に触れ──心の奥がまたも擽ったい気持ちになる。 (あぁ……ダメだ) 壱から心配されて鼻がツンとする。 心配される事は嫌いだ。だからいつもは笑顔で「大丈夫です」と話を切り上げる。でも、今までとは違う感情が芽生えた。 壱から心配された。ただそれだけなのに、心が震える。今までと違う感情に葵依は戸惑った。 田中や担任、バイト仲間から受ける心配や親切よりも、壱からの言葉が嬉しい──いつもと違う感情の起伏なのに葵依自身それに気付いていない。 (感情を自分から切り離す事が出来たら良いのに) 今日は珍しく沢山喋ったから感情が不安定だ。 俯かず、前を見なければと目を大きく見開くとまだ背を屈めたまま自分を覗き込む壱の目と目が合って面食らった。その表情には不安の色がありありと浮かんでいた。 「レイプ被害の80%は面識がある犯行なんだからな。そのうち顔見知り程度が14%だ。数字でも表れているんだから、プレゼントを渡すだけとかいう言葉を簡単に信じちゃ駄目だ」 壱の口から「レイプ」という不穏な単語を聞いて葵依は押し黙った。 プレゼントを取りに行くだけだと思っていたのだが壱の話を聞いて、そういう危険があるのかと怖くなって、身震いをする。 「ごめんなさい……」 しゅん、と葵依は項垂れた。簡単に考えていた自分が恥ずかしくて素直に謝ると、壱から「俺も強く言い過ぎたよ。ごめんな」と申し訳なさそうに目尻を下げられた。 壱は背を正して、 「そういう危険が自分の身に降りかかるか誰にも分からないもんだが、その危険性を如何にして減らすか出来る範囲でやっていこうな」 「はい!」と葵依は頷いた。 「あ、じゃあ自転車で夜道を走らないというのは防犯になりますか?」 叔父が葵依に課した約束の一つだ。叔父が言うように安全なのかを確認したかった。 「なる。自転車狙いの待ち伏せタイプは多いんだ。夜道は人通りが少ない場所は特に危険だ。闇に隠れて横から自転車を蹴飛ばすとかバンで横について自転車ごとバンへ掻っ攫うとか。自転車へ乗っていると対応が遅れて逃げられない」 スラスラと答える壱に葵依は「へぇ!」と感嘆した。 「じゃあ、夜道を歩く時は携帯電話で話しながら帰る、はどうですか?」 「それは危険だ。注意力が散漫になって周囲の音や背後から不審者が近
会話の中で葵依は壱へ自分の母が娘の誕生日を迎える前に末期癌で息を引き取った事や叔父と従弟の話、それから通う高校を受験した理由は成績次第でありとあらゆる学費が免除になり、お金が発生しないからだと話をした。給付金を貰っている話も友人が一人しかいない事まで話す。その目には『同情』はなかった。「気を休めた方が良いよ」とか「頑張り過ぎるのは良くないよ」とか「頑張っているね」とか……そういう言葉を掛けられる事はなく。ただ、相槌を打ちながら葵依の話を聞く。話を最後まで聞いてくれたのは、壱が初めてだった。壱は聞き上手で同情の眼差しで自分を見ないし安っぽい言葉も言わない。絶妙なところで相槌を打って、話が一段落した後に質問をしてくるのだ。「それで、どう感じた?」とか……お陰で誰にも話した事がない誕生日前に母を亡くした時の感情まで吐露してしまう。その記憶を思い出してしまって泣きそうになってしまうのを堪える為に、空いた手を強く握り締めて痛みで涙を堪えた。 「113番」しか喋らず、同僚と来店した時だけ喋る姿を見ていた葵依は壱がこんなにも話すなんて葵依は夢にも思ってもいなかった。 しかも、その会話を楽しんでいる自分がいる。壱に対する警戒心は既に薄まっていて、葵依は純粋に壱との会話を楽しんでいた。 「八月が楽しみだな」とニコっと笑う壱に葵依は笑顔を返した。 八月という、あと三カ月先の約束をされて葵依の胸は弾んだ。約束をしたという事は、八月は会えるという事だ。受験勉強で忙しくデートへ出掛ける暇はないと言ったけど、それくらいは作ってあげたい。 (でも、壱さんはお仕事が激務って言ってた) 時間は合うかな。 ……合えばいいな。 母親が亡くなって、誰かへ料理を振る舞う機会がなくなった葵依は、自分が作った料理を食べてもらえる事が嬉しくてしょうがない。ウキウキする。 「壱さんの大好物はなんですか?」 「豚の生姜焼き」 「じゃあ、ケーキと一緒に作りますね」 そう言うと、一瞬黙ってしまった壱を見て葵依は首を傾げる。もしかしたら、適当に言った大好物かもしれない。それとも、ケーキには合わないって思ったかな……。生姜焼きっていつでも作れるから特別感ないかも。 しかし、間を置いて耳まで赤くなった壱の発言を聞いてそれは勘違いだと葵依は知った。 「すげー嬉しい……」 赤が感染
葵依が住むアパートは信号を渡って、真っ直ぐに進んだ後公園を左へ曲がる。 それを真っ直ぐ進んで、一つ目の角を曲がると道路が細くなる。些か狭い車道は対向車があれば、どちらか一方は1台が通り過ぎるまで待たねばならないような不便な道路で電灯は心もとない弱い光で、家から漏れる灯りはそうそう強くない。そんな道を葵依と壱は手を繋いだまま葵依のアパートへ向かった。 葵依が住むアパートへ着くまで二人はお互いの事を知ろう、と交互に質問をして答えるという会話を繰り広げていた。 「好きなお菓子は何ですか?」 「甘いのは好き好んで食べないな。ガムは食べるよ。葵依は?」 「チョコが好きです」 「コンビニでさ、値段が手軽でピーナッツチョコあるじゃん? 俺、あれ好きなんだよね。チョコの甘さが控えめでピーナッツに歯ごたえあって」 「私も好きです! コンビニによって甘さと食感が違うんですよ。お家で手軽に食べたいって思って一時期、自分で作って食べてました。でも、コンビニと同じ味は出せなかったです」 「俺、葵依が作ったそれ食べたいな。今度作ってくれる? すぐにできるもんなの?」 「30分くらいです。チョコが固いのを好みなら冷蔵庫へ冷やす時間をもうちょっとだけ長くするので、それ以上かかります。甘さ控えめが好きならビターチョコで良いですか?」 「ビターが良いな。葵依って他にも作れるの?」 「最近は作る事が出来ていなくて……でも趣味がお菓子作りなんです。一度で良いからケーキを焼いてみたいんですけど、お家にはオーブンがなくて。だからレアチーズケーキとか、生チョコタルトとか、オーブンを使わなくて済むお菓子をママの誕生日によく作ってました。あと、プリンも作ったことがあります」 「へぇ。今度俺にも作ってよ」 「もちろんです!」 満面の笑みで承諾してくれた葵依を見て、壱はだらしなく頬を緩めた。 好きな子が自分の事を知ってくれることが、こんなにも胸を満たしてくれることを壱は生まれて初めて知った。 「じゃあ次は俺から質問」 壱は軽く咳き込んだ。 「葵依は休みの日は何をしてるの?」 「勉強です!」 「大学はどこに行きたいの?」 「T大です!」 「へえ。俺も同じ大学」 「わあ! じゃあ私の先輩ですね!」 外灯が少ない夜道にも関わらず、眩しさを感じて、壱は葵依の笑顔
「あ……ぅ」 口をパクパクさせながら葵依の頬が染まっていくのを見届けて、壱は葵依の掴んだ指先に自分の指を絡める。白い箇所が1ミリも残らない程、葵依は赤く染まった。 「これからよろしく頼む」 「こ、ちらこそよろしくお願いします。つまらない者ですが……」 ペコッと頭を下げる葵依の動作がいちいち可愛くて困る。 頭を下げたまま動かなくなった葵依の旋毛を見て、旋毛にまで愛しさを感じてしまう。自分ながらに気持ち悪いなと思うも、そんな自分を不思議と嫌いになれない。恋とはここまで人を変えてしまうのか。恐ろしいと思うも嬉しくも思う。矛盾した気持ちに壱は人知れず苦笑を浮かべた。 それから、変わらず頭を下げた葵依に背を屈めて顔を近付ける。下から覗き込むと、唇をむにゃむにゃと動かしている葵依がいた。突然覗き込まれて、動きは止まったが。 「一つだけ訊いて良いか?」 葵依はコクンと顎を動かす。 「どうして、俺と付き合う気になった?」 年上の、顔見知り程度の男に告白されれば、いくらなんでも怖いだろう。それが例え、顔が良い男でも。 大の大人が精神的に未熟な17歳に面と向かって告白をするような男にろくなのは居ない──自分にブーメランが返ってくるが、そういう認識は間違いではない。お互いの接点を失う前に、何かしらの繋がりを持ちたかった。それは告白をする、という今日の行動に結び付く。 逃げるチャンスはあった。 これでも、逃げ道は用意してあげていた。 腰を引き寄せた時だって、肩を抱いた時も脈を測る時も力の半分も出してはいなかった。簡単に解けるものを彼女は抵抗せず、距離を取った時でさえ信号を渡らず、俺の目の前に居た。もしも、大声で叫んで誰かが駆け付けたとしても俺は捕まる覚悟でいたし、信号を渡って逃げ去ったとしても追いかける気はなかった。今日、手酷く振られたとしても失恋した心と共に二度と彼女に交わらないように人生を過ごす心持ちだったのだ。 『こんな私で良ければ……宜しくお願いします』 (これでもう──逃がしてあげられない) 一度、自分の腕の中に入ってきたのだから離すつもりはない。逃げたい、別れたいなんて思わせないように幸福という檻の中で囲む。 例え、俺の押しに負けたとしても。もし俺の前にしつこく迫る男が現れていたとしたら、そいつを受け入れていたのかも
「ん?」と首を少し傾けたまま、こちらを見下ろしている黒い瞳と目が合った。でもそれは、純粋な黒ではなく深い焦げ茶色だ。壱からフッと微笑まれて、ドギマギしてしまうし顔が熱くなる。でも今は照れている場合ではない。 「俺が好きか、俺の顔が好きか、俺を見るとドキドキするか、という質問の問いに、平常時は九十前後だったのに、一二〇を超えた。即ち、俺の事が好きって事だ」 「えっ、あっ?」 「あとメロンとイチゴは大好物、茄子は嫌い、猫と犬は好き、虫は嫌い、って事も分かった」 「脈を取るだけでそんなことまで?」 感嘆の声を上げてしまって「感心している場合じゃない」と葵依は首を左右に振った。そしてここで初めて、壱から距離を取る。すると肩に回されていた手は案外簡単に解けた。 そのまま後ろ向きに2、3歩いて葵依は足を止めた。目の端に信号が青から赤へ点滅している光が入る。このまま走って信号を渡れば逃げられる。そう思ったが脚は信号に向かわなかった。爪先は変わらず壱の方を向いている。 熱い顔を手でパタパタと扇ぎながら葵依は深呼吸を繰り返した。 「は、初めて告白されるからなんと答えたら良いか分からないんです。だから、恋って言われても良く分からなくて」 「告白されたのは俺が初めて? 本当に?」 葵依がコクっと頷くのを見て、壱は目を見開いた。 それから長い溜息を吐きながら、その場にしゃがみ込んだ。 「先を越されなかった……良かった……」 地面に向かって吐いた独り言は葵依の耳には届かず。 具合が悪いのかな、と心配になって近付こうとしたら壱が立ち上がって葵依は足を止めた。 立ち上がった壱は真っ直ぐに葵依の目を見る。それから前髪を掻き上げた。 その仕草が妙に色っぽくて葵依はドキッとする。キレイな顔は額までキレイなんだな……そんな感想を抱いた。清潔感を感じる。 「俺は君と付き合いたいし彼氏になりたい。もしこのまま別れたら、二度と君に会えない。今まで店員と常連客という関係だったから、顔を見る事が出来たが……バイトを辞めてしまった今、俺には会える方法がないんだ」 「辛過ぎる」と心痛に呟いて搔き上げた髪をそのままくしゃりと握り締めた。 葵依はそっと目を逸らして地面を見やる。縋るような目を見ていられなかった。 「でも、私……大学に落ちたら……」 (ママの夢
後ろ髪より少しだけ長い前髪が横頬を擦り、薄い唇がゆっくりと動く。その様子がスローモーションのように見えて、理解するのに時間がかかった。 「好きだ」 またもや言われ。 壱の顔は信じられない程に真剣で冗談を言っているようには見えない。 「そ、そんな……何度も言わなくても……」 「俺は下田葵依が好きだ」 熱い吐息と共にフルネームで名を呼ばれた葵依は口を噤んだ。 どうして壱に告白をされているのか理解が追い付かない。 「俺は何度でも言う。好きだ」 葵依は返事の代わりにギュッと目を閉じる。 どうして告白をされているのか暗闇の中考えようとして目を閉じたのだが……これでは『キス待ち』をしているように見えた。実際、壱は堪えるように眉間に皺を寄せていた。ゴクリと唾を飲み込む音が壱から漏れる。 ふー、と壱は長い息を吐くと、葵依の頬に触れた──全理性を総動員させて葵依の唇に触れるのを止めた。それを知らない葵依は自分の頬にひんやりとした何かの感触に瞼を痙攣させる。目元をなぞる何かの動きが目を開けるようにと催促しているように感じて、葵依はゆっくりと目を開いた。その正体は壱の指だったようで、指は一本、ニ本と増えていき……掌で包み込むように頬に触れた。親指で目の下を優しく、何度も撫でられて葵依は目を細める。 「ど、どうして私を? ちゃんと喋ったことはないのに……」 暗闇で考えて見たけど答えが出なかった。本人へ訊いた方が早いと思った。 指の動きのように、優しい目をして自分を見下ろす壱の目を見て訊ねると彼はフッと微笑んだ。その笑みがあまりにも色っぽく、いつものぶっきら棒さが嘘のようで目がテンになってしまう。 「一目惚れだった。二年前からずっと好きだったが話しかける機会を逃し続けて今日まできたんだ。バイトを辞めると知って二度と会えなくなるのは辛い。だから、告白をしようと決めた」 (た、くさん喋ってる……喋れるんだ……) つい感心してしまう。 「俺と付き合って欲しい」 「で、でもお互いの事を良く知らないですし……」 「これから知っていけば良い」 「私なんて面白くないですよ?」 勉強とバイトに明け暮れる日々だし、友達一人だし……。その友達にも「付き合いが悪い」って言われるし……。 「俺の彼女になって欲しい」 「勉強に専念したいので……







