LOGINその日、凛華は客室の隅で、黙々と埃を払っていた。 ふと、上品な服装をした老婦人が部屋の前で足を止める。 どこか焦った様子で室内を何度も見回し、小さく何かを呟いていた。どうやら何かを探しているらしい。「お嬢さん……。青い指輪を見なかったかしら」「それは亡くなった主人が残してくれた、たった一つの形見なの。なくなってしまって……。どうしたらいいのかしら」 老婦人は涙を拭いながら言った。 凛華は慌てて近づく。「どうか落ち着いてください。一緒に探します。こちらの部屋以外に、どこか行かれましたか?」 老婦人は少し考え込み、困ったように首を振った。「もう年ね……。記憶が曖昧で。ただ、このホテルの裏庭を少し歩いたのは覚えているわ」 そう言って、力なく肩を落とす。その様子を見た凛華の脳裏に、ふと朝の光景がよぎった。 朝礼のとき、和田が珍しく自分に絡んでこなかったこと。それだけではない。和田が何かを庭に埋めるような仕草をしていたことを凜華は思い出した。(あの人……ホテルの庭で何をやっていたんだろう)(もしかして……拾ったものを自分のものにしようとして、一時的に隠した?) 嫌な予感が胸をよぎる。凛華はひとまず老婦人をソファへ座らせ、温かいお茶を差し出した。「少しお飲みください。落ち着けば、きっと見つかりますから。お名前伺っても良いですか?」「高槻よ」 名前を聞き、前台へ向かい遺失物の記録を確認する。 しかし、指輪に関する届け出はどこにもなかった。やはり誰かが持ち去った可能性が高い。 凛華は静かに息を吐いた。指輪そのものよりも、それは“思い出”そのものなのだと分かっていたからだ。 部屋に戻ると、すでに数人の屈強な男たちが高槻婦人の前に並んでいた。「申し訳ありません、見つかりませんでした」「庭園も含め、すべて確認しましたが……」 報告を聞いた瞬間、高槻夫人の表情から一気に色が消える。「そんな……どうしたらいいの……」 その場の空気が重く沈んだ。 凛華は男たちを見た。スーツ姿で体格もよく、一目で只者ではないと分かる。それでも彼らは、高槻夫人には深く頭を下げている。 この人の立場は、かなり上のはずだ――凜華はそう直感した。 凛華は強く唇を噛む。(ここで黙っていたら、終わる)(でも……。これは賭けになる) 一歩前に出る。「奥様」
「今日からお前は、全客室のトイレ清掃を担当しろ」 直属の上司になった和田の言葉に、凛華は思わず顔を上げた。「どうしてですか? 私はずっと庭園の清掃を担当していましたし、仕事の流れも覚えています」 和田は鼻で笑う。「どうしてだと? 俺がこのホテルの責任者だからだ。文句があるなら辞めればいい」 凛華は唇を強く噛んだ。言い返したい。 だが、今の自分には仕事を失う余裕などなかった。 その時だった。和田が不意に距離を詰めてくる。「まあ、お前が夜に俺の部屋へ来て肩でも揉んでくれるなら、考えてやってもいいがな」 そう言いながら、和田の手が凛華の太腿に触れた。 凛華の全身が強張る。五十歳近い和田は、長年の贅沢な生活で肥え太っていた。脂ぎった顔。近づくだけで鼻を突くような汗の臭い。吐き気を催すほどだった。凛華は反射的に一歩後ろへ下がる。その瞳には恐怖と嫌悪が浮かんでいた。「近づかないでください」 冷たい声で言い放つ。「仕事はきちんとします。それ以外のことを心配していただく必要はありません」 そう言い残し、凛華はその場を離れた。これ以上、同じ空気を吸うことすら耐えられなかった。・・・ 担当が変わってからというもの、凛華の仕事はさらに過酷になった。 トイレ清掃に加え、雑用ばかり押し付けられる。上司が変わり初日ということもあり作業に慣れず、仕事が終わった頃には夜十時近くになっていた。 翌日。まだ空も明るくならない時間に、凛華は同僚に叩き起こされる。「あなた、エリアの客室も掃除しといて」 同僚は露骨に嫌そうな顔をした。「午後は庭の掃除も頼むから」 寝不足で頭が回らない凛華は、一瞬言葉の意味を理解できなかった。「え……? そこって、元々あなたの担当じゃ……」 すると同僚の女は馬鹿にしたように笑う。「和田さんの指示だから。文句があるなら本人に言えば?」 そう言い捨てて去っていく。凛華は拳を握った。(あの人、最初は親切そうにしていたのに……。数日で本性を隠さなくなったわね) 胸の奥に怒りが込み上げる。だが、それをぶつける相手はいない。 仕事場へ向かうと案の定、和田が待っていた。まるで獲物を品定めするような目で凛華を見つめている。その視線が全身を這うたび、鳥肌が立った。 関わりたくない。そう思い、凛華は踵を返そうとする。 しかし次の瞬間
その光景は、建物の角にひっそり立つ男の視線に、すべて見透かされていた。誰にも気づかれることなく、凛華の一挙手一投足を見つめている。「……あれは、凛華なのか?」「どうして……。あんなみすぼらしい姿に……」 そう呟いた男は、宗像 涼真《むなかた りょうま》、三十四歳。 容姿は、目尻にほくろがあるシックな上品な大人の青年に見える。爽やかな顔立ち、穏やかな雰囲気とは裏腹に、その瞳は煌々と揺れていた。 瘦せこけた頬に生気のない顔、色褪せた服装は、かなり凜華のことを知っている人間ではないと彼女だとわからないだろう。涼真の表情に、一瞬だけ苦痛の色がよぎった。(今の自分には地位も名誉もある。凜華に、以前よりずっといい生活を与えられるはずだ)(そうする資格だって、自分にはある。一年の服役? そんなものが代償になるというなら、安すぎるくらいだ。それで全部帳消しになる。むしろ、それ以上に何を求める?)(今の凜華は何も持っていなくていい。過去に何があろうと俺には関係ない。自分がすべて受け入れれば、それで終わる話だ。支えてやればいい。埋めてやればいい。失ったものも、壊れた時間も、自分が全部作り直せばいい) 長い付き合いの運転手だ。運転手も凜華のことを知っていた。「見間違えでは?」(涼真様もなぁ……)(桜庭さんのことになると、どうしても冷静じゃいられないんだろう) とはいえ、運転手もさっきの女が桜庭凜華とは、とても思えなかった。 ぼろぼろのコートに身を包み、顔色も悪い。あれでは、よほど近しい人間でもなければ気づけないだろう。 いや――そもそも別人のはずだ。 桜庭凜華は、あの『桜庭式鍼法』を生み出した人間だ。医療業界では知らない者はいない。有名病院からの誘いだって引く手あまただった。それなのに凜華は、一流病院からのスカウトを断り続け、夫の病院を守ることを選んだ。(今思えば、不思議な人だったな) あれだけの才能があったのに、名声にも金にも興味がない。結局、最後まで何を考えていたのか分からなかった。(まあ……好きな男のためだったのかもしれないが) 涼真は運転手の問いかけに静かに答えた。「……。そうであってほしい」 だが、わずかでも同一人物である可能性を考えると、気持ちが落ち着かなくなる。「凜華のことを調べろ。出所はしているのか。今、どこにいるのか。早
その日も凛華は、いつものようにホテルの庭を掃除していた。 日葵を預ける人がいないため、仕方なく仕事場へ連れてきている。片手で子どもを抱えながら、もう片方の手で掃除道具を動かすだけでも精一杯だ。 とはいえ、今の仕事内容にはすでに慣れてきた凛華は、黙々と作業を進め、思ったより早く清掃を終わらせることができた。帰ろうとしたその時、遠くから人の話し声が聞こえてくる。「直哉くん、もう身体の調子は大丈夫。……私たち、結婚しましょう?」 その言葉に、直哉の胸が一瞬強く揺れた。 思わず口を開く。「凛華は俺の妻だ。それを忘れたのか?」 唯衣は不満そうに唇を尖らせる。「でも姉さんはもう……」「その話は後だ」 直哉はそれだけ言って、会話を切るように歩き出した。唯衣は内心の苛立ちを押し殺しながら、その後をすぐに追う。 その会話を、凛華は物陰で聞いていた。<凛華は俺の妻だ>その言葉に、凜華の身体がぴたりと止まる。(……私は、直哉にとって一体何なの?)(昔はあれほど嫌っていたのに、今さらそんなことを言うなんて) 凜華の考えがまとまらないまま、二人はすでに目の前まで来ていた。 凛華は反射的に視線を落とし、日葵を抱きしめる腕に力を込める。心臓の音がやけに大きく響いていた。そして、二人はそのまま凜華の前を通り過ぎていく。――はずだった。「待て」 背後から冷たい声が落ちる。 凛華の身体が固まった。「振り向け」 唯衣が苛立ったように声を上げる。「聞こえないの? あなた」 ゆっくりと、凛華は体を動かした。直哉は凜華の顔を見た瞬間、胸の奥に説明のつかない空白が走る。(……違う)(何だ、この感じは……) 一瞬だけ湧いた違和感を振り払うように、短く言う。「……いや、いい」 そう言うと、そのまま背を向けて去っていった。唯衣は去り際、凛華を一瞬だけ振り返る。視線はどこか暗い。(この女……この前、モールにいた女じゃない)(やっぱり直哉くんを狙ってるんだろう)(姉さんを排除したばかりなのに、また邪魔が出てくるなんて) 唯衣の中で警戒心と苛立ちが強くなる。 その日の夜、唯衣は屋敷に戻ると、使用人に身体を預けてマッサージを受けながら今日の出来事を思い返していた。(あの女……絶対に怪しい)(このままだと、また邪魔される) 彼女はゆっくりと目を細め、
凜華は娘である日葵を抱え、仕事を探していた。各店舗に掲示されるポスターや、職業安定所まで足を運ぶ。受付の職員は、凜華の話を少し聞くだけで「難しい」とただ一言冷たい言葉をかけるだけだった。 いくつか紹介された雇用先へ直接話を聞きに行くが、結果はいつも同じだ。凜華の痛々しい顔の傷、前科がある経歴、どこにも預けることができない小さな子ども、この条件があることで、面接を受ける前に冷たくあしらわれる。それでも凜華は日葵と一緒に生きていくため、仕事を探し続けていた。 かつて凜華は、医療業界で一世を風靡した天才医師。スカウトはもちろん、取材や彼女の手腕を求めて遠くから来院する患者も多かった。毎日が忙しく、医師としての天職に生きがいを感じる毎日だったのに。それが今では、誰にも必要とされない存在となってしまったのだ。 冷たい風が凜華の髪の毛を揺らす。凜華は先の見えない未来に、唇を噛みしめるしかできない。(どうして……。こんなにも無情なんだろう) 凜華の腕の中の日葵は、寒さからか顔色が青くなっていた。「ごめんね……。お母さんがダメで……」(どうして……。そこまで私たちを追い詰めるの? 日葵は何も悪くないのに) 凜華の肩が震えた。 それは寒さによるものではなない。胸の奥で渦巻いているのは、直哉への消えることのない憎しみ。凜華は日葵を包む毛布を強く抱き寄せる。目を閉じるたびに、直哉の冷たい顔が脳裏に浮かんだ。 その時――。 足元に一枚の紙が落ちてきた。拾い上げ、記載内容を確認する。 ホテル清掃員募集の案内だ。凜華が目を引いたのは、その募集内容の待遇だった。 住居付きであり、一日二食のまかない補助あり。月給は十万円から。今の凜華にとって、住める場所と食事がある環境は、とても好待遇の条件に見える。(もう、ここにかけてみるしかない) 凜華は迷わず、募集先であるホテルへ向かった。…… ホテル会社は、簡単に彼女を受け容れた。 今までずっと話さえ聞いてもらえず、門前払い状態の凜華には「大変でしょうが、頑張ってください」 そんな人事担当の言葉すら温かな救いを感じる。 即日求人対応だったため、すぐにホテル内の清掃場所に向かう。大通りから見える綺麗な外観からは想像できなかったが、ホテルの庭園は酷く汚れていた。 無造作に溜まっている落ち葉に、雨上がりの水たまり、
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。 凜華は目を伏せた。赤ん坊を強く抱きしめるその姿に、胸が熱くなる。「あ、やっぱり違うのか……」 思わず追いかけたくなる衝動に駆られるが、唯衣の手が強く腕を引く。 直哉はもどかしく、けれど抗えず商業施設の外へ連れ出された。(あの女……。なんだったんだ……) 胸に残る違和感、どこか懐かしい気配、そして守らねばと思う強い衝動。 だが、考えを振り払うように、直哉は今日夜、重要な会議があることを思い出す。「早くデートを済ませて、帰ろう……」 無理やり自分に言い聞かせながら、直哉はその場を離れる。 凜華はその背中が見えなくなるまで固まったまま動けず、胸の奥がグッと苦しいくらいに締め付けられた。(あ……危ない、直哉に見られるところだった……!) 赤ん坊を抱く腕に力が入り、手が冷たく汗ばんでいく。心臓の音が耳まで響くようで、目の前が一瞬真っ白になった。 ようやく意識を取り戻し、ゆっくりと息を吐き出す。胸の奥のざわめきは、まだ収まらない。 本当なら、直哉と結婚するのは妹である唯衣だった。しかし唯衣は先天性の心臓病を抱えており、子どもを産める体力がなく、直哉の母は唯衣との結婚を許さなかった。 そしてーー。 一族の繁栄のために、両親は「結婚しなければ祖父の命に関わる」と凜華を脅し、直哉との結婚を強要したのだ。 凜華は信じていた。三年ほど時間をかければ、この男の心も変わるだろうと。しかしそれは夢のまた夢だった。……(それでも、今の私には日葵がいる) 腕の中の小さな命を見つめた。わが子だけが、凜華の唯一の支えだ。(もう、行き場のない日々は嫌。この子のために――) 現実は残酷で、今の凜華には仕事すらない。…… 直哉は先ほどの女のことが頭から離れずにいた。 唯衣はその様子に気づき「直哉くん、どうしたの? ぼんやりしているように見える。具合が悪い?」 甘く優しい声音で問いかける。 直哉は首を振った。「何でもない。仕事のことだ」 唯衣は膝の上で、指先を強く握りしめた。「ねぇ……。昨日、姉さんを迎えに行ったって聞いたの」「まだ私のこと……。恨んでるのかな?」 直哉の手が止まる。 唯衣の声は、直哉の意識に届いていなかった。 目の前にはおにぎりがある。香ばしい懐かしい匂い。――凛華がまだ家にいた頃。