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秋風、骨を刺す
秋風、骨を刺す
Author: 宗正安奈

第1話

Author: 宗正安奈
柳井悦美(やない よしみ)は妊娠8か月目にして、深刻な交通事故に遭った。

子宮が破裂し、子どもは胎内で死亡した。

加害者である女性ドライバー樋口凛音(ひぐち りお)は病院に押しかけ、硬貨に両替した数百万円の現金を袋ごと彼女に投げつけた。

「あのガキは、死ぬべき運命だったよ。この金を持ってとっとと消えなさい。たとえ裁判に訴えたところで、これ以上の賠償は絶対に手に入らないわ」

悦美は狂った獣のように、体の痛みも顧みず凛音に飛びかかり、嗄れ声で怒鳴った。

「必ず訴えてやる!その命で償わせてやるわ!」

しかし、裁判当日、悦美の夫である川野時雨(かわの しぐれ)が法廷で精神鑑定書を提出した。

そして、悦美が被害妄想を患っており、故意に凛音の車に飛び込んで子どもを死なせたのだと証言した。

悦美は証人席に立つ夫を見て、雷に打たれたように愕然とした。

悦美は、高度に危険な精神病患者と認定され、特殊病棟に閉じ込められたまま、5年間辛い目に遭った。

電気ショックや穿刺、鞭打ちなどは、彼女の命をほとんど奪うところで、心身に深い傷を残した。最後には、病室のドアが開く音を聞くだけで失禁してしまうほどになった。

ついに精神鑑定が正常とされた日、彼女は初めて陽光と青空を見たが、強い刺激にアレルギーを起こした体は真っ赤な発疹で覆われていた。

一台の車が遠くからやって来て、彼女の前に止まった。車の窓がゆっくりと開く。

時雨の顔が車内に現れた。彼女を見る目は冷たく嫌悪に満ち、まるで通りで物乞いをする乞食を見下ろすようだ。

「出てきたんなら、これからは大人しくしてろ。郊外に別荘を買ったから、これからはそこで暮らせ」

そう言い残すと、彼は返答を待たず、後ろの車に彼女を乗せるよう指示し、窓を閉めて去って行った。

悦美が別荘に着いて降りると、生涯忘れられない光景を目にした。

時雨の車は彼女が降りた別荘の門を越えて、その隣の家の敷地にまっすぐ入っていった。

彼は車を降りると、車の前に立って両手を広げた。

小さな女の子が先に別荘から駆け出してきて、嬉しそうな小鳥のようにまっすぐ彼の胸に飛び込んだ。あどけない赤ん坊っぽい声が瞬時に悦美の心を刺した。

「パパ、パパ、やっと帰ってきたね。会いたかったよ!」

時雨は愛おしそうに女の子を抱き上げ、ぷくっとしたピンクの頬に軽くキスをした。「パパも会いたかったよ。今日ママとお家で楽しかった?」

女の子はくすくす笑いながら振り向き、大声で叫んだ。「ママ来て!パパが花暖(かのん)をくすぐってるよ。パパ悪いの!ママ、パパを叩いて!」

次の瞬間、凛音が妖艶な姿で家の中から出てきて、両手で時雨の首に回しながら、その燃えるような赤い唇を彼の頬に当てては離した。残されたのは鮮やかな赤い跡だけだった。

「ほら、ママがパパを叩いたよ。これで嬉しいでしょ、花暖」

悦美の心臓は一瞬にしてえぐられるように痛み、まっすぐ立つことさえ困難になった。

彼ら三人が仲良くしているのを見ると、彼女はその場で自分の目を抉り取りたいほど耐えられなかった。もう一度見ることすら、精神病院での5年間の虐待よりも痛ましかった。

なぜだ?

彼女の子どもは、この世を一度も見ることができなかった。

彼女の素晴らしい人生も、あの女の手によって台無しにされた。

しかも今や、彼女と時雨はまだ離婚もしていないのに、彼らはもう待ちきれないかのように三人家族の幸せな生活を始めていた。

悦美は今どんな気持ちか説明できず、問い詰めに行く勇気もなかった。

頭の中は耳鳴りがし、心臓は押し潰されるように痛んだ。

彼女はもはや耐えられず、そのまま倒れ込むと、手のひらが地面の小石に触れて深い傷が付き、血が瞬時に噴き出した。

当時、時雨はあらゆる手段を尽くして彼女に精神病の濡れ衣を着せ、5年間精神病院に入れたのは、凛音と堂々と一緒になり、彼らの子を産ませるためだった。

かつて、時雨と悦美は幼なじみで、中学に入る前はいつも一緒だった。両家の大人たちは、時雨と悦美が将来必ず結婚し、いつまでも一緒にいると何度も冗談で言っていた。

その後、川野家は突如没落した。時雨の両親は重大な経済犯罪で死刑判決を受けた。彼は未成年だったため、遠縁の叔父に引き取られ、高校に進むまで再会することはなかった。

しかしその頃の時雨は叔父の家で満たされない日々を送り、毎日やつ当たりのはけ口にされていた。家族からしょっちゅう殴られ罵られ、満足に食事も与えられず、服もいつも汚れていた。身長は185センチもあるのに、体重は65キロにも満たず、痩せこけて弱々しい体だった。

悦美は毎日彼を自分の家に連れ帰り、食事や入浴、洗濯、宿題の手伝いなどをしていた。

遠縁の叔父の家では、みんなが寝静まると、彼はこっそり家に戻って寝た。そして翌日、夜が明けきらないうちにまた出かけた。

あるとき家に帰った際、ちょうど叔父が夜遅くに帰宅した。酔った彼は、ドアのそばにあったシャベルを手に取り、時雨に振りかざした。

彼女は何も考えず飛び出し、その身をかばった。その結果、肋骨を二本折られ、全身血だらけになったが、彼女は一言も声を上げなかった。

その日、時雨は彼女を抱きしめて神に誓った。「悦美、俺は一生お前を大切にする。お前に良い暮らしをさせる。もしこの誓いを破るなら、俺はろくな死に方をしないさ」

その日以来、彼は懸命に努力して、這い上がった。ついに京北市で台頭するダークホースとなり、川野グループを再建した。

悦美はどん底から彼を支え、幾多の困難を共に乗り越えて人生の頂点まで歩んだ。自らも努力を重ね、環境モニタリング分野で最も注目される専門家となった。

二人は結婚し、400平方メートルを超える広いフラットに引っ越した。やがて妊娠し、すべてがそれはもう幸せそのものだった。

しかし妊娠8か月のとき、彼女が地獄へ突き落とされた。

時雨は悦美を裏切り、愛人が彼女の子を殺したことを容認した。さらに、彼女に精神病者という濡れ衣を着せ、地獄のような場所に閉じ込めた。そして、想像を絶する非人道的な苦しみを味わわせた。

彼が誓いを破ったのに、結局無様に死んだのは彼女の子だった。それは一体なぜなんだ!

隣の部屋からの会話が続けざまに聞こえてきた。「時雨、今日悦美さんを迎えたんでしょ?会いに行かないの?」

凛音はそう言いながら時雨の胸に顔を埋め、彼を手放す気などさらさらない様子だ。

時雨のクールで端正な顔立ちは、陽光に照らされてさらに鋭く際立った。眉間には嫌悪の色が走り、声もひどく冷たかった。「彼女を迎えたのは、昔の情けを慮ってのことだ。あいつの生活全般まで、俺が面倒を見るわけないだろ」

悦美の掌にある砂利は、握り締める拳の力でさらに固められていった。手の下の地面には血の染みがにじみ、黒く変色していた。

彼女はついに自分を奮い立たせ、みすぼらしい姿のまま立ち上がった。そして、よろめきながらも別荘の中へと駆け込んでいった。

彼女はスマホを取り出し、全身震えながら5年前の連絡先を必死に探した。ようやく親友の小林夕子(こばやし ゆうこ)の番号を見つけてかけた。

「夕子、私、出てきたの。前に病院に見舞いに来たとき、教えてくれたあの人。連絡してくれる?」

「本当なの、悦美?覚悟決めたの?」

ついに涙が溢れ落ち、悦美は力強く頷いた。

「決めたわ。自分と死んだあの子のために、無念を晴らすわ!

川野時雨と樋口凛音に、その命で償わせる!」
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