素王召喚

素王召喚

last updateLast Updated : 2026-11-05
By:  日野智貴Updated just now
Language: Japanese
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 「彼女いない歴=年齢」の非モテサラリーマン・前田弘貴(23)は、「魔王討伐」の名目で律令風異世界・大倭帝国へ召喚された。  だが、それは建前だった。  素王とは、魔王を倒す勇者であると同時に、皇族へ新しい血を迎えるために異世界から呼ばれる存在。前田に期待された本当の役目は、次期法皇となる女性皇太子・彩比売の夫候補になることだった。  勇者になるはずが、いきなり皇位継承問題の当事者に。恋愛は振られた経験しかない前田にとって、難問が襲いかかる。  しかも、もう一人の素王として召喚されていたのは、よりによって現実世界で前田を振った女性・佐藤綾子(28)。彼女は大王交代を狙う勢力の切り札として動き始めていた。

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Chapter 1

序章 光の中の宣告

 コピー機の前にいたはずの前田弘貴まえだこうきは、足場も影もない光の中に立っていた。

「これは、夢か?」

 数秒前まで、室内照明の白い光も、オフィスの硬い床も確かにあった。今は、そのどちらもない。

 目の前に広がるのは、白とも黒ともつかない光だけだった。

 目が見えなくなったのか。そう思って手足を動かしても、何にも触れない。

 立っているのか、浮いているのかさえわからない。自分の身体の輪郭まで、光に溶けてしまいそうだった。

 その光の中に、いつの間にか一人の男が立っていた。

 男と呼んでよいのかもわからない。穏やかな顔は老人にも青年にも見え、白い衣だけが光の中で輪郭を保っていた。

「前田弘貴くんだね?」

「……はい?」

 返事をしてから、前田は自分でも間抜けな声だと思った。

 だが、無理もなかった。仕事中に突然、得体の知れない空間へ飛ばされ、目の前の人物から名前を呼ばれたのである。冷静でいろという方が無理だった。

「落ち着き給え。君はこれから、別の世界へ行く。」

「別の世界?」

「律令風異世界、という言ったらわかるかな。日本人の君には、ある程度なじみやすい部分もあると思うよ。古代の日本や中華風の制度に似たところも多い。」

「いや、待ってください。律令風? 異世界? それ、どういう――」

「それでね。」

 男は前田の混乱をまるで気にしなかった。

「今回、魔王討伐の名目で、君を含めて二人の素王が召喚されているらしい。」

「……魔王討伐?」

 前田は思わず聞き返した。ラノベとかに出てくる勇者になれとでもいうのか。

「なのに律令風? 和風? というか、もう一人召喚?」

 ラノベの異世界は洋風だったはずだ。なぜ洋風なのかは前田もよくしらないが、そういうお約束がある。

「そう。別々の者たちが、それぞれに召喚しているみたいでね。政治的には少し面倒なことになるかもしれないが、まあ、仕方ない。」

「仕方ないで済ませる話ですか、それ。」

 こう言う場面でツッコミを入れることができる前田も、結構図太い神経の持ち主である。まぁ、そういう人だからこそ召喚されたのかもしれないが。

「君の持ち物も、ある程度は一緒に移るはずだよ?」

「持ち物って……。」

 前田は反射的に自分の手元を見たが、そこには何もない。

 自分の持ち物とは、いったい何なのか。家に置いてある物まで巻き込まれるのか、それとも今持っている物だけなのか。そもそも召喚に法的所有権の概念が通じるのか。

 考えれば考えるほど、安心できる材料は一つもなかった。

「ちょっと待ってください。私は同意していません。魔王討伐なんて無理です。私はただの会社員で――」

「行き先で詳しい説明を受けるといい。では、頑張り給え。」

「いや、詳しい説明って何ですか! 行き先って、どこ――」

 無責任な神様のような存在に対する前田の問いは、最後まで言葉にならなかった。

 いきなり足元が抜けるような感覚があり、ジェットコースターに乗っているような、あの不快な感覚になった。同時にあたかも幽体離脱したような、身体の輪郭を感じなくなるような、言葉にできない違和感が全身を走った。

 最後に耳へ残ったのは、『二人の素王』という言葉だった。

 そして前田弘貴は、意識を失った。

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序章 光の中の宣告
 コピー機の前にいたはずの前田弘貴は、足場も影もない光の中に立っていた。「これは、夢か?」 数秒前まで、室内照明の白い光も、オフィスの硬い床も確かにあった。今は、そのどちらもない。 目の前に広がるのは、白とも黒ともつかない光だけだった。 目が見えなくなったのか。そう思って手足を動かしても、何にも触れない。 立っているのか、浮いているのかさえわからない。自分の身体の輪郭まで、光に溶けてしまいそうだった。 その光の中に、いつの間にか一人の男が立っていた。 男と呼んでよいのかもわからない。穏やかな顔は老人にも青年にも見え、白い衣だけが光の中で輪郭を保っていた。「前田弘貴くんだね?」「……はい?」 返事をしてから、前田は自分でも間抜けな声だと思った。 だが、無理もなかった。仕事中に突然、得体の知れない空間へ飛ばされ、目の前の人物から名前を呼ばれたのである。冷静でいろという方が無理だった。「落ち着き給え。君はこれから、別の世界へ行く。」「別の世界?」「律令風異世界、という言ったらわかるかな。日本人の君には、ある程度なじみやすい部分もあると思うよ。古代の日本や中華風の制度に似たところも多い。」「いや、待ってください。律令風? 異世界? それ、どういう――」「それでね。」 男は前田の混乱をまるで気にしなかった。「今回、魔王討伐の名目で、君を含めて二人の素王が召喚されているらしい。」「……魔王討伐?」 前田は思わず聞き返した。ラノベとかに出てくる勇者になれとでもいうのか。「なのに律令風? 和風? というか、もう一人召喚?」 ラノベの異世界は洋風だったはずだ。なぜ洋風なのかは前田もよくしらないが、そういうお約束がある。「そう。別々の者たちが、それぞれに召喚しているみたいでね。政治的には少し面倒なことになるかもしれないが、まあ、仕方ない。」「仕方ないで済ませる話ですか、それ。」 こう言う場面でツッコミを入れることができる前田も、結構図太い神経の持ち主である。まぁ、そういう人だからこそ召喚されたのかもしれないが。「君の持ち物も、ある程度は一緒に移るはずだよ?」「持ち物って……。」 前田は反射的に自分の手元を見たが、そこには何もない。 自分の持ち物とは、いったい何なのか。家に置いてある物まで巻き込まれるのか、それ
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第1話 召喚した女たち
 召喚陣の光が消えても、華麟はしばらく動けなかった。 隠れ家の床には、見知らぬ衣服を着た青年が横たわっている。呼吸はある。脈も乱れていない。それを確かめて、華麟はようやく息をついた。「成功したな。」 美凰は扉の外へ意識を向けたまま言った。喜びより警戒が先に立つ声だった。「はい。でも……。」 華麟は青年の顔を見下ろした。召喚の瞬間、彼の記憶がわずかに流れ込んできた。白い光に満ちた職場。帰りを待つ者のいない部屋。胸の奥に残った、忘れられない女性の影。「この方は、私たちを許してくださるでしょうか?」「そんなこと、気にしたらキリがない。そもそも許しを求める資格があると思うか?」 美凰の言葉は厳しかった。だが、華麟を責めているのではない。自分自身にも向けているのだと、長い付き合いの華麟には分かった。「私たちはこの男から、元いた世界を奪った。彩比売殿下のためという理由でな。」 華麟は唇をかんだ。皇太子である彩比売を支えたい。その思いに偽りはない。けれど、目の前の青年を政略結婚の駒にしてよい理由にはならなかった。「だから、選べるようにしたいです。事情を隠さずに話して、そのうえで前田様ご自身に決めていただきます。」「悠長なことを言える状況ではない。」「それでもです。」 華麟が顔を上げると、美凰はようやく振り返った。深紅の髪の奥で、涼しい目がわずかに細められる。「なら、まず生き延びさせろ。選ぶのはその後だ。」「はい。」「それから、忘れるな。こいつは彩比売殿下の夫候補である前に、一人の人間だ。」 華麟は頷き、青年の乱れた襟元をそっと直した。 そのとき、前田弘貴の指先がかすかに動いた。
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第2話 皇太子の夫
 前田が目を覚ましたとき、まず鼻に入ったのは畳に似た草の匂いだった。 その次に木の匂いがする。古い家の匂いに近い。どことなく懐かしさを感じた。 だが、前田が知る日本家屋とは少し違っていた。柱は太く、壁には見慣れない文様が刻まれている。燭台のようなものには青白い火が揺れていたが、油の匂いはしなかった。「……ここは?」 前田は身を起こそうとして、頭に鈍い痛みを覚えた。 周囲には荷物が散らばっていた。 会社の鞄やスマートフォン、文庫本、小さなお守り――なぜか自宅で使っていた湯呑みと皿まである。お気に入りではあったが、今ここにある理由はわからない。 しかし、それらがかえって、あの光の空間が夢ではなかったことを示していた。やはり所有権の概念は法律とは関係ないようだ。 前田はゆっくり顔を上げた。 そこにいた二人の女性が、同時に前田を見た。 一人は、やや明るい黒髪を長く垂らした女性だった。澄んだ瞳には人懐っこさと、前田の無事を案じる色が同居している。古風な衣には、見慣れない刺繍が走っていた。 もう一人は、黒に近い深紅の髪を結った女性だった。涼しい目は隙がなく、立っているだけで部屋の空気が引き締まる。「あ、気がつきましたか?」 やわらかな方の女性が、ほっとしたように顔を明るくした。「前田弘貴様ですね。私は華麟と申します。」「かりん……さん?」「はい。華やかな麟と書いて、華麟です。」 前田はまだ頭が回らなかった。 そのとき、もう一人の女性が短く言った。「美凰だ。」「みおう……さん?」「そうだ。説明は後にする。召喚術を使った痕跡はいずれ感知される。ここに長くはいられない。」「感知?」「追手が来るということだ。」 美凰の声は落ち着いていた。 落ち着きすぎていて、かえって怖かった。「追手って、何ですか。私は召喚されたばかりで、何も――」「何も知らないから危険なんだ。」 美凰は部屋の入口へ視線を走らせた。「ここは隠れ家だ。だが、もう安全ではない。前田弘貴、お前は素王として召喚された。いずれ大倭帝国の皇太子、彩比売殿下の夫となることを期待されている。」「……夫?」 前田の口から、乾いた声が漏れた。「いや、待ってください。魔王討伐では?」「表向きはな。」 美凰はそう言い切った。 華麟が慌てて美凰の袖を引いた。「美凰、最初か
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第3話 麒麟と鳳凰
「麒麟?鳳凰?」「はい。私たちは、どんな生きものにも姿を変えることができます。」 そう言うと、華麟の輪郭が淡く光った。 前田は息を呑んだ。 次の瞬間、そこにいた女性の姿は消え、代わりに美しい霊獣が立っていた。 鹿に似たしなやかな身体。龍を思わせる顔立ち。額には角があり、鱗は淡い光を帯びている。鬣は絹糸のように流れ、瞳には人間以上の知性が宿っていた。 前田は思わず後ずさった。 華麟の声が、耳ではなく頭の内側に響いた。《驚かせてしまって申し訳ありません。でも、これが私の本来の姿です》「……頭の中に声が。」《主君と見做した仙人とは、聖別を通して想いを通わせることができます。ただし、前田様への正式な聖別はまだです。今は召喚の儀に伴う仮の縁にすぎません。》「聖別……?」 前田が聞き返すと、美凰が口を挟んだ。「麒麟と鳳凰は、主君と定めた純仙に聖別を与える。聖別は、特別な力と正統性を付与する契約だ。大王や親王、そして皇身位者は、麒麟と鳳凰の双方から聖別を受けるのが慣例になっている。」「純仙?」「お前のことだ。」「私が?」「生まれながらの仙人のことだ。異世界から召喚された素王は、なぜかこの世界へ来た時点で仙人になる。理屈は完全には分かっていない。だが、そういうものだ」 前田は自分の手を見た。 見た目は変わっていない。少なくとも、鏡を見なくても分かる範囲では、身体は自分のものだった。 いったい、どこが人間じゃなくなったというのか。「私、人間じゃなくて人外になったのですか?」「人外という言い方はやめろ。仙人だ。」 美凰は淡々と言った。「仙人って、あの仙人?」 白髪に長い髭をたくわえた老人へ変わったのだろうか。前田は思わず自分の顎に触れた。「お前の世界の仙人がどういう存在かは知らんが、まぁ見た目とかは人間と変わらないな。仙人だから偉いわけではない。条件を満たした存在というだけだ。そこに宗教的な意味を見出す者は多いが、実態はもっと現実的だ。」「現実的……。」 現実的という言葉が、これほど現実味なく響いたことはなかった。 美凰が窓の外へ目を向ける。「時間がない。華麟、先に運べ。荷物は後でこちらが手配する。」《はい》 華麟が前田の前に身を低くした。《前田様、私の背に乗ってください。まずここを離れます》「いや、いきなり乗れと言
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第4話 もう一人の素王
 麒麟の姿になった華麟の背は大きく、馬よりも安定して見えた。だが、それでも目の前にいるのは伝説上の霊獣である。乗るという発想自体が非現実的だった。 そもそも、前田は馬に乗ったことすらない。乗馬などただのサラリーマンには縁のない話だ。 外からかすかに金属の鳴る音が聞こえた。 もしかしたら追手が来ているのかもしれない、と前田が思うよりも先に美凰が表情を変えていった。「早いな。もう近くまで来ている。」「本当に追手が?」「だから言った。」 前田は観念した。 荷物は後で手配するという美凰の言葉を信じて鞄だけを手に取り、華麟の背におそるおそる跨る。鱗の感触がスーツ越しにも伝わった。 硬いが冷たくはない。むしろ、生命の熱があった。《しっかり掴まってください。舌を噛みますよ。》「え、ちょ――」 華麟が地を蹴った。 家の戸が開くより早く、前田の視界が跳ねた。 壁が近づき、消えた。華麟は開け放たれた裏戸から庭へ飛び出し、石垣を一息に越えた。前田は必死に鬣へ掴まった。落ちたら死ぬ。少なくとも、普通の人間なら死ぬ高さだった。 だが華麟の動きは滑らかだった。 地面を走るというより、風の上を跳ぶようだった。屋根瓦が後方へ流れ、細い路地が一瞬で過ぎ去る。古風な町並みはどこか日本に似ており、漢字を用いているので大体の意味は分かった。 そこへ一羽の大きな鳥がやってきたかと思うと、降り立って荷物を持った人間の姿となり隣を走った。さきほど「後から荷物を手配する」と言っていた美凰だった。 走っている、というより、軽くないはずの荷物を背負って屋根から屋根へ跳び移っている。衣の裾が風に舞う。人間の身体能力ではあり得なかった。「まず状況だけ言う。」 美凰の声は風に流されず、はっきり届いた。「ここは大倭帝国。法皇を国家元首とする連邦制国家だ。直轄領と、大王を元首とする大王国によって成り立っている。」「連邦制……。」「そしてここは、その構成国の一つ、総漢国だ。」 華麟が塀を越える。《前田様は、女性皇太子である彩比売殿下の夫となる素王として召喚されました。私と美凰が召喚しました》「素王って何?」《実際に王権を行使するわけではないですが徳によって人々を治める王を指します。》 説明はまだ腑に落ちない。だが、それ以上に気になる言
last updateLast Updated : 2026-09-23
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第5話 政治の駒
「大王は原則として世襲だ。総漢国の大王家もそうだ。だが、素王という存在は例外を作る口実になる。魔王討伐のために召喚された素王が、民のために大王位を請願する。法皇はそれを無下にはしにくい。」「つまり、綾子さんは魔王討伐の名目で召喚されたけれど、本当は総漢国の新しい大王になるために動いている。」「そう見ていい。」「そして私は、彩比売殿下の夫になるために召喚された。」「それも正しい。」「……政治の駒じゃないですか。」「今さら気づいたか。」 美凰の返事は冷たかった。 華麟が慌てて前田の前に出る。「でも、前田様をただの駒にしたいわけではありません。私は、前田様に彩比売殿下を支えてほしいんです。殿下が法皇になれば、女系法皇の道が開かれます。そうすれば、帝国の血統秩序も変わります。」「私がその夫に。」「はい。将来は、男性皇后となられるお立場です。」「男性皇后……。」 前田は額を押さえた。女系天皇に男性皇后とは、現実世界で聞いたあの議論を強く連想する。 会社員が皇位継承論争の当事者に。人生の転落なのか出世なのか、判断がつかなかった。 美凰が歩き出す。「ここから山道に入る。皇都へ向かう前に、別の隠れ家で正式な聖別を行う。」「聖別って、先ほど言っていた契約ですか。」「そうだ。華麟と私が、お前を主君と見做し、麒麟と鳳凰としての力を付与する。皇太子の夫候補として動くなら、最低限それが必要になる。」「受けなかったら死ぬとかではないんですよね?」「死にはしない。お前はすでに純仙だ。だが、聖別なしでは政治的にも霊力的にも弱い。素王として名乗ることはできても、彩比売殿下の夫候補としては不足だ。」 華麟が補足する。「聖別を受けると、私たちと深く想いを通わせることができますし、危険を察知したり、霊力を扱うための助けにもなります。もちろん、それは主従の契約でもありますから、軽いものではありません。」「主従……。」「はい。
last updateLast Updated : 2026-09-24
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第6話 暗君の国
 三人は町外れの道を進んだ。 日が傾き始め、空は赤みを帯びていた。道の両側には田畑が広がっている。整然と区画された田は、どこか懐かしい。だが、よく見ると耕されていない場所が多かった。壊れた農具が放置され、畔には雑草が伸びている。 前田はそれを見て、思わず足を止めた。「休耕田みたいだ。」「きゅうこうでん?」 華麟が聞き返す。「私のいた世界にも、使われなくなった田んぼがたくさんありました。減反政策と言って、政府が米の生産を減らしたり、農業を続けても生活できなかったりして、田が荒れていくんです。」 美凰がわずかに目を細めた。「作物を減らすのか。飢える者がいても?」「米の値段を維持するため、という理屈でした。」「馬鹿げている。」 美凰は短く吐き捨てた。 華麟は悲しそうに田を見つめた。「こちらも似ています。尚英様は魔王討伐のためと言って税を重くしました。けれど、実際には宮殿の修繕や軍備にばかり使われて、民の暮らしは苦しくなる一方です。」「それで泰鳳が反発しているわけですか?」 前田が言うと、美凰は頷いた。「理由だけ見れば、泰鳳の方が正しく見えるだろうな。」「違うんですか?」「尚英が暗君であることと、泰鳳が正しいことは同じではない。」 美凰の声には、苦いものが混じっていた。「大王を代えるということは、総漢国だけの問題では済まない。法皇の権威、帝国の連邦秩序、麒麟と鳳凰の聖別の慣例、そのすべてに波紋が及ぶ。しかも今は魔王がいる。混乱に乗じて動かれれば、誰が止める。」「魔王は本当にいるんですね。」 魔王討伐が建前だと言われたばかりだけに、前田は少し意外そうな顔をした。「いる。」 美凰は即答した。「千年前、伯王波旬が異端の教義を唱え、自ら魔王を名乗った。神々は皇身位者より優位であり、仏教より魔法が上であり、魔法による統治を行うべきだとな。帝国の根幹を揺るがす思想だ。」「
last updateLast Updated : 2026-09-25
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第7話 美凰が守るもの
「美凰さんは、どうして尚英大王を支持しているんですか?」 前田は聞いた。「重税で民を苦しめている暗君なんでしょ?鳳凰の多くが泰鳳についたなら、美凰さんもそちらに行けばよかったのでは。」 美凰の足が止まった。 華麟が不安そうに彼女を見た。「……大王が見放されたから、私も捨てろということか?」「そういう意味では。」「分かっている。」 美凰は振り返らなかった。「尚英が愚かであることは否定しない。だが、正しい手順もなく大王を倒せば、最初に血を流すのは民だ。私はそれを忠義とは呼ばない。」「なるほど、忠誠心が篤いのですね。」 前田が少し感動したところで、美凰は続けた。「それに、私は泰鳳が嫌いだ。」 それだけ言うと、美凰は再び歩き出した。 前田は華麟に小声で尋ねる。「美凰さんと泰鳳さんは、何かあったんですか?」 華麟は困ったように笑った。「昔、張り合っていたんです。泰鳳様が若くして鳳凰の中で頭角を現し始めた頃、美凰も負けじと頑張っていました。でも、進む道が違ってしまって。泰鳳様は武と権力へ、美凰は法治と政治の均衡を守る方へ行ったんです。」「それで仲が悪くなった。」「はい。泰鳳様からすれば、美凰は体制側に取り込まれた裏切り者です。美凰からすれば、泰鳳様は秩序を壊す危険な改革者です。」「聞こえているぞ、華麟。」 前を歩く美凰が言った。 華麟は肩を跳ねさせた。「ひゃっ!」「余計な同情を誘うな。同情で動く男は使い物にならん。」「美凰は本当に口が悪いです!」「事実だ。」 前田は苦笑した。「そんな話を聞くだけで同情するわけないじゃないですか。三流ラノベの感動シーンではあるまいし。」 だが、内心では笑えなかった。 同情で動く男。 美凰の言葉は、前田の胸に刺さっていた。 自分は何で動くの
last updateLast Updated : 2026-09-26
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第8話 森の気配
 やがて道は山へ入った。夕方の山道は現代人にとっては不気味である。 木々が空を覆い、夕暮れの光が途切れ途切れに地面を照らしている。湿った土の匂いが濃くなり、鳥の声が遠くで響いた。 町の気配はもうない。 前田の靴は山道に向いていなかった。石を踏むたびに足裏が痛む。スーツの裾には泥がつき、息も上がってきた。 華麟が心配そうに覗き込む。「大丈夫ですか、前田様。もう一度、私の背に乗られますか?」「大丈夫です。たぶん。」「無理はしないでください。正式な聖別の前ですし、この世界の身体に慣れていないでしょうから。」「仙人になったのに、疲れるんですね。」「もちろん疲れます。純仙は不死身ではありません。寿命が長く、霊力を持つだけです。」 美凰が前方を見たまま言った。「平均寿命は二百年。長ければ五百年。だが、殺されれば死ぬ。飢えれば弱る。毒も効く。仙人を神仏のように見る者は多いが、実際には生きものだ。」「飢える?仙人は霞を食べて生きるのではないのですか?」「誰がそんなことを言った。仙人も普通に食事を食べる。完全菜食だがな。お前も今後はそうなる。」「元から肉はあまり食べない方でしたけど……」「なら都合がいい。」 美凰はそれだけ言った。 前田はふと、元の世界のことを思い出した。 職場。散らかった部屋。安い食器。親の疲れた顔。貧しさから抜け出そうとして、それでも抜け出せなかった日々。 そして、綾子。 彼女もこの世界にいる。 しかも、前田より先に動き始めているという。 育ちのよい令嬢。頭が切れる。傲慢で、わがままで、しかし根は悪くない女。前田を男として見ていなかった女。 その綾子が、大王になるために動く。 あまりにも彼女らしい気もした。 彼女なら、召喚された先でも怖気づかないだろう。状況を読み、利用できるものを利用し、泰鳳や杏麟を味方につける。自分が選ばれた意味を理解
last updateLast Updated : 2026-09-27
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第9話 違法召喚の追手
「まったく、ずいぶん堂々とした逃避行だ」 豊野弾正大忠清海忌寸直道――大王直轄の監察機関である総漢国弾正臺のナンバー3、事実上の現場責任者である豊野直道は、思わず愚痴をこぼした。 場所はさっきまで前田らがいた隠れ家だ。豊野たちが音が聞こえる距離まで近づいた後で前田と華麟が逃げたし、さらには少し遅れて――先頭の官吏が家の前に立ったその時に、美凰が荷物を持って空を飛んで行ったのである。 元の世界で言うと、警察官が家の前まで来てから堂々と逃げ出すようなものだ。舐めているようにしか見えない。 いや、実際、少なくとも美凰は弾正臺を舐めているのだ。「豊野様、逃げてくれてよかったですよ。もしも本当に美凰を素王無断召喚の現行犯で捕まえていたら却って厄介なことになっていたんですから。」 豊野の指揮下で隠れ家の捜査をしている高槻連高松陽介が言う。「大王の許可なく素王の無断召喚が違法と言ったところで、許可を得て召喚した泰鳳は反大王派なのはみんな知ってるじゃないですか。大王殿下も内心では美凰様がしたことを喜んでいるんでしょ?」「黙れ。俺たちが守るのは本音ではない、建前だ。」「そんなこと言ったって、本当に総漢国の鳳凰界の大王派のホープである美凰様を捕まえたりなんかしたら、大王殿下に粛清されません?」 そうなのだ。 総漢国の鳳凰界の長である鳳凰総領泰鳳が反大王派であることは公然の事実である。 しかし、若くして鳳凰界の実力者となった泰鳳は、堂々と許可を得て「魔王討伐」の名目で素王佐藤綾子を召喚した。 もちろん大王尚英は内心では許可したくなかったはずだ。 だが、許可を得た背景には地皇の圧力があったとされる。 地皇は鳳凰や麒麟についての帝国の事務を掌っている。 もちろん、地皇陛下御自ら数ある連邦構成国の一国である総漢国の状況を把握したわけではなく、要は地皇宮の官吏たちの中に泰鳳に近いのがいた、ということである。 泰鳳は総漢国の麒麟だけでなく連邦政府にもシンパを作るなど、着実に地盤を整えていた。 その結果、大王派である美凰たちによる前田の召喚の方が“違法”であるという逆転現象が起きてしまっている。 もっとも、美凰と華麟の背後にも人皇がいたりするのであるが――そのことはまた別の話となる。「それに
last updateLast Updated : 2026-09-27
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