เข้าสู่ระบบ土曜日の昼前になると、玄関の呼び鈴が鳴った。瑠衣が扉を開けると、灯がいつものように立っている。手には薄い紙袋が一つあった。「こんにちは」「こんにちは」 灯は靴を脱ぎ、揃えてから廊下へ上がった。洗面所で手を洗い、戻ってくると鞄から本を一冊取り出す。いつもの場所へ座る前に書棚の前で少し迷い、そこから別の一冊を抜いた。 瑠衣はその様子をキッチンから見ていた。先週のことが頭に残っていたせいか、灯の一つ一つの動作に目が向く。けれど灯は特に変わった様子もなく、椅子に座ると本を開いた。 ページをめくる音が聞こえる。 瑠衣は冷蔵庫から食材を取り出した。「何か食べますか?」「お願いします」 返事もいつも通りだった。瑠衣は包丁を取り出し、まな板の上へ置く。しばらくすると、肩に入っていた力が少し抜けた。 昼食を終えたあと、灯はまた本を読んでいた。瑠衣は向かいの席で食器を片づけながら、ふと思いついたことを口にした。「灯さんって、社員さんにはどんな感じなんですか?」「普通だと思います」「本当に?」「はい」 灯は本から顔を上げた。真面目に答えているらしい。その顔を見ていると、瑠衣は少しだけ笑ってしまった。「藤堂さん、そう思ってない気がします」「そうですか?」「この前も、灯さんに仕事を頼んでましたし」「社長なので」「社長なのに、御厨さんに資料の場所を聞いてましたよね」「御厨さんの方が詳しいので」 灯は当然のように答えた。 瑠衣は食器を重ねながら、先日の資料整理を思い出した。御厨は資料の棚をほとんど迷わず案内していた。氷川は紙の種類まで覚えている。藤堂も各部署の動きを把握している。「灯さんって、分からないことは普通に聞くんですね」「知っている人に聞いた方が早いですから」「社長なのに?」「社長でも分からないことはあります」 その答えがあまりにも平然としていて、瑠衣はまた笑った。 灯は不思議そうに瑠衣を見る。それから何事もなかったように本へ視線を戻した。 午後になって、瑠衣がコーヒーを淹れていると、背後から小さな息の音が聞こえた。振り返ると、灯が本を片手にしたまま口元を押さえている。「今、笑いました?」「……はい」「珍しいですね」「面白かったので」 灯は本のページを指で押さえたまま、もう一度そこを読み返している。瑠衣が近づいて表
午前中、瑠衣は資料室で古い契約書の整理をしていた。年度ごとに分けられたファイルを棚から取り出し、保存するものと確認が必要なものを机の上で分けていく。紙の端が揃っていない束を見つけるたびに、瑠衣は日付を確かめてから順番を直した。 棚の奥から取り出したファイルには、古い付箋が何枚も貼られていた。書かれている文字を確認しながら一枚ずつ剥がし、必要なものだけ新しい付箋へ書き直す。作業を始めてからしばらく経ったところで、受付の方から人の話し声が聞こえた。 瑠衣は手を止めなかった。 資料の束を揃え、ファイルを閉じる。次の箱へ手を伸ばした。 その頃、灯火書房の受付には見覚えのある男性が立っていた。「相沢灯社長にお取次ぎいただけますか」 藤堂が顔を上げる。「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」「江品です」 藤堂は一度だけ相手の顔を確認した。「承知しました。社長がお話ししますので、少々お待ちください」「お願いします」 藤堂は内線を取り、来客があることを灯へ伝えた。ほどなくして応接室の準備が整い、父は案内されていった。 資料室には、そのことを知らない瑠衣がいる。 応接室では、灯が向かいの席に座っていた。「ご無沙汰しています」「こちらこそ」 父が持参した資料を机の上へ置く。灯はそれを受け取り、表紙を確認してから中を開いた。「こちらの件ですね」「ええ。先方から確認がありまして」「分かりました。担当に確認しておきます」 父が資料の一箇所を指差す。「この数字なんですが、先方では前回のものと違うと言っていまして」 灯はページを一枚戻した。「前回はこちらです。今回の数字は契約条件が変わった後のものですね」「ああ……そうでしたか」「念のため、担当から改めて説明させます」「お願いします」 父が頷く。 仕事の話だけなら、二人の間に特別な違和感はなかった。資料のページがめくられ、日付と案件名が確認される。必要なことだけが短く交わされていく。「では、こちらは後ほどご連絡します」「助かります」 父が資料を閉じた。 そこで、ほんの少し間が空いた。「……親父も、最後までお前のことを気にしてたよ」 灯の指が、閉じた資料の端に触れた。「そうですか」「あの人は昔から面倒見がよかったからな」 父は椅子の背へ体を預けた。懐かしむような口調だっ
午前中、瑠衣は資料室の奥で古い段ボール箱を開けていた。 表面は日に焼けて茶色く変色し、テープの跡がいくつも重なっている。角が少し潰れ、持ち上げるとかすかに軋む音がした。蓋を開けると、埃っぽい紙の匂いが立ちのぼった。奥の棚の隙間から、長年動かされていなかったことが分かる薄い埃の層が見えた。窓から差し込む光の中に、埃が細かく舞うのが見えた。 中には、灯火書房の創業当時のものらしい書類が詰まっていた。 手書きの帳簿。角の擦り切れたパンフレット。インクの色が薄くなった契約書の控え。表紙に書かれた年号は、瑠衣が生まれるよりも前のものだった。ひとつひとつを丁寧に取り出しながら分類していく。紙は乾いていて、扱うたびにかすかな音を立てた。 帳簿のページをめくると、几帳面な数字の並びが目に入った。誰の字なのか、瑠衣には分からなかった。パンフレットの隅には、今とは違う古いロゴマークが印刷されていた。 書類の束の下に、封筒に入った写真が何枚か重なっていた。封筒の紙はすでに黄ばみ、端が少し丸まっている。瑠衣はその封筒を手に取り、中身を確認しようとした指を止めた。何が入っているのか分からないまま、しばらく手のひらの上で重さを確かめていた。封筒の隅には、消えかけた鉛筆書きで日付らしき数字が記されていた。 封筒の口を開け、一枚を取り出す。 写真は全体的に色が褪せ、赤みがかった色調になっていた。小さな事務所らしき場所に、数人の男女が並んで写っている。机の上には古いタイプライターが置かれ、壁には手描きの案内板のようなものが掛かっていた。今の灯火書房とは違う、狭く簡素な部屋だった。段ボール箱が壁際に積まれ、床には配線コードがむき出しのまま這っている。窓には今はもう使われていないタイプのカーテンが掛かっていた。 端のほうに、まだ若い灯が写っていた。今よりも髪が長く、表情も硬い。少し緊張したような立ち姿で、カメラのほうをまっすぐ見ていた。 その隣に立つ人物の顔に、瑠衣は目を留めた。目尻の皺の寄り方、少し傾いた立ち方に、見覚えがあった。「......おじいちゃん」 声に出してから、瑠衣は思わず周囲を見渡した。資料室には誰も気づいた様子がない。御厨は棚の前で資料を確認しており、氷川は隅の机で別の作業に没頭していた。窓の外を、鳥の影が一羽横切っていった。 瑠衣はもう一度、写真に視
午後の資料整理をしていた瑠衣のスマートフォンが机の上で震えた。画面には母の名前が表示されている。手を止めて確認すると祖父の法事についての連絡だった。日時と場所を確かめてから短く返信する。しばらく画面を見ていたが、追加の連絡が来る様子はなかった。瑠衣はスマートフォンを伏せ、開いていた資料へ手を戻した。「ご家族の用事ですか?」 向かいの机から藤堂が顔を上げている。「祖父の法事です」「それは行かないとですね」「はい」 瑠衣はスマートフォンを鞄へしまった。資料の端を揃えてから、途中だった数字の確認を続ける。藤堂もそれ以上は聞かなかった。隣の机では御厨が画面を見たまま作業を続けている。いつもの午後だった。 法事の日は朝から曇っていた。駅から歩いていくと寺の門が見えてくる。境内にはすでに何台か車が停まっていて、親族らしい人たちが本堂へ向かっていた。見覚えのある顔もあれば、名前の分からない人もいる。瑠衣は軽く頭を下げながら、その中を通った。 靴を脱いで中へ入ると、父がすぐに気づいた。「せっかくの会社を辞めて、今はどうしてるんだ」「働いてる」「どこで?」「出版社」 父は一度瑠衣の顔を見てから、隣にいた親戚へ視線を移した。「出版社か。前よりはいいのか?」「普通」 母が横から口を挟む。「お給料は大丈夫なの?」「大丈夫」「そう」 母はそれ以上聞かなかった。瑠衣が座布団へ座ると、少し離れたところにいた真衣がこちらを見る。以前より大きくなったお腹を抱えるようにして座っていた。「お姉ちゃん、仕事辞めたんだっけ?」「うん」「ああ、そう」 真衣はそれ以上何も言わず、お腹へ手を添えた。瑠衣も正面へ向き直る。母が親戚の誰かと話し始め、父は別の人に呼ばれて席を
午前中、瑠衣は資料整理の机に向かっていた。前日に戻ってきた書類を年度ごとに分け、確認を終えたものからファイルへ収めていく。 電話が鳴ったのは、ちょうど一冊の背表紙を揃えたところだった。「資料整理の担当って、江品さんで合っていますか?」 受話器を耳に当てたまま、瑠衣は手元のファイルに目を落とした。「はい」 相手は営業部の高瀬と名乗った。数年前のイベント資料を探しているらしい。開催時期と資料の内容を聞きながら、瑠衣は空いている用紙にメモを取った。「少々お待ちください。確認します」 受話器を置くと、隣の机にいた御厨へ視線を向ける。「御厨さん。この年度のイベント資料なんですが……」「江品さんが担当した資料なら、江品さんが探した方が早いですよ」 御厨は画面から目を離さず、右手だけを資料庫の方向へ向けた。 瑠衣は一度だけ瞬きをした。それから手元のメモを持ち上げる。「分かりました。確認してみます」 立ち上がり、資料庫へ向かった。 受話器を置いたあと、瑠衣はメモした日付をもう一度確認した。三年前の資料だった。ファイル名だけでは判別しにくいものも多く、資料庫の配置を思い浮かべながら歩く。机の端に置いていたペンを戻し、メモだけを持って進んだ。 資料庫の扉を開けると、棚には年度ごとに並んだファイルが続いていた。瑠衣はメモを見ながら該当する棚を探し、背表紙を一冊ずつ確認していく。見つけた資料を机へ戻して中身を確認すると、探していたイベント名が目に入った。 必要なページを抜き出し、コピーを取る。原本を元の位置へ戻してから、コピーを封筒に入れた。 高瀬のいる営業部へ向かうと、何人かが机を囲んで資料を見ていた。営業部の机には、開いたパソコンと書類がいくつも並んでいる。高瀬は瑠衣に気づくと振り向いた。「これです」「助かりました。これ、ずっと探してたんです」 高瀬は受け取った資料をすぐに開き、目的のページをめくった。紙を押さえる指が止まり、探していた箇所を見つける。
昼休みになると、社員食堂が少しずつ混み始めた。灯火書房には部署ごとに席が決まっているわけではなく、空いている場所へ社員が自然に集まっている。瑠衣も藤堂、御厨、氷川と同じテーブルについた。 窓際では別の部署の社員が仕事の話をしている。食器の触れ合う音と話し声が重なる中で、氷川は食事より先に机の端へ置かれた雑誌を手に取っていた。「これ、先月のですね」「食べてからにしてください」「すみません」 氷川が雑誌を伏せたところで、藤堂が何気なく口を開いた。「そういえば、最近オルビット・コミュニケーションズが大変らしいですよ」 瑠衣の箸が止まった。 持ち上げたご飯が、そのまま少しの間だけ宙に浮く。瑠衣は静かに箸を下ろした。「大変、ですか?」「ええ。取引先の人がそんな話をしてました」 藤堂は煮物を一口食べてから、湯飲みに手を伸ばした。「前にうちと広告の企画をしていたところでしょう?」「そうです」 御厨が頷く。「少し揉めたみたいですね」 瑠衣は弁当の端にある卵焼きへ箸を伸ばした。味はいつもと変わらないはずなのに、口へ運ぶまで妙に時間がかかった。「広告の担当だった社員さんが、若い俳優さんと一緒にいるところを週刊誌に撮られたとか」 瑠衣の箸先が弁当箱の隅に触れた。 梨香子の顔が浮かぶ。 けれど、その名前は誰の口からも出なかった。「それで企画も変更になったらしいですよ」 藤堂は煮物の汁が蓋につかないように箸で端へ寄せている。「まあ、若い人ですしね」「若いからって、何でも許されるわけじゃないと思いますけど」 御厨が湯飲みを持ち上げる。「仕事と私生活は分けた方がいいと思いますけど」 瑠衣は顔を上げた。 御厨は誰かを責めるような顔をしていない。ただ湯飲みの
金曜日の夜、玄関を開けたら革靴があった。なぜか少し安心した。その事実に気づいて、すぐ気づかないふりをした。スーパーの袋を台所に置いて、地下書庫に向かった。灯は先週と同じ場所にいた。棚の前に立って、背表紙を眺めていた。「こんばんは」「こんばんは」それだけだった。いつも通りだった。夕食を作りながら、考えた。先週来た。今週も来た。偶然が二回続くと、習慣に近い。灯が「普段は別の場所に住んでいて、本が読みたいときだけ来る」と言っていたの
金曜日だった。 仕事帰りの電車の中で、今週を振り返った。同情された。気を遣われた。案件は三件動いた。雅之からまた意味のわからないメッセージが来た。無視した。上司に「本当に大丈夫か」と四回聞かれた。四回とも大丈夫だと答えた。 豪邸に帰るのが、少し当たり前になってきていた。 それが嫌だった。当たり前にしていい場所ではない気がした。でも帰る場所はここしかなかった。 最寄り駅で降りて、いつもの道を歩いた。コンビニに寄ろうか迷って、今日は食材を買おうと思って、駅前のスーパーに入った。何を作るか決めていなかったが、野菜と豆腐と卵を買った。それだけあれ
招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。 "披露宴開始 13:00" 式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。 駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。 歩いて、何度か立ち止まった。 (あれ、なんで私こんなことしてるんだろう) もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。 それより心にあるのは"無"だった。 感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。 (一番バカなのは、私かもしれない) 受付に並んで、順番が来た。 「江品家で招待されている、江品瑠衣です」 スタッフの女
瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。 "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した 玄関に靴が多い。 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで