LOGIN土曜日の昼前、インターホンが鳴った。
時計を見た。いつもより一時間ほど早かった。 玄関を開けると灯が立っていた。紙袋を持っていた。 「今日は少し早いですね」 「仕事が早く終わりました」 「珍しいですね」 「校了が昨日のうちに終わったので」 それだけだった。説明を足さなかった。中に入った。靴を揃えた。 紙袋を見ると、本の形が二冊分あった。返しに来たのか、持ってきたのか、あるいは両方か。聞かなかった。どちらでもいい気がした。 「どうぞ」 「失礼します」 灯は地下書庫へ向かった。 しばらくして、書庫を覗いた。 灯は棚の前に立っていた。紙袋から本を出して、先週整理した棚の続きを確認していた。戻す本と、持ち帰る本を分けているらしかった。 「手伝いましょうか」 「大丈夫です。少し確認したいだけなので」 隅の椅子に座って見ていた。 灯は一冊ずつ背表紙を確認して、場所を決めて、戻した。戻すたびに指先で整えた。企画は修正案のまま正式に進むことが決まった。会議の終わりに部長がそう告げると、会議室の空気が少しだけ緩んだ。誰かが小さく息を吐く音がする。正木は資料を閉じ、椅子の背にもたれかかった。ペン先でテーブルを軽く叩き、天井を見上げる。 その安堵の中で、梨香子だけが違った。ノートパソコンを閉じる音が、他の誰よりも大きく響いた。ファイルを乱暴に鞄へ押し込み、聞こえよがしに言った。 「結局、地味な企画になっちゃいましたよね」 誰も反応しない。 「絶対あっちの方が話題になったのに」 部長は書類をまとめている。正木はパソコンの画面を見たままだった。瑠衣も自分の資料をファイルに戻す手を止めなかった。誰の返事もない会議室に、梨香子の声だけが浮いたまま消えていった。梨香子は誰かが振り向くのを待つように、しばらくその場に立っていた。誰も振り向かなかった。 鞄を肩にかけ直し、先に会議室を出ていく。扉が閉まる音が、少し強かった。残された社員たちの間に、気まずさとも安堵ともつかない沈黙が漂う。誰かが小さく咳払いをして、それを合図に皆それぞれの席へ戻っていった。正木だけは、閉まった扉をしばらく見ていた。資料の束を、もう一度揃え直していた。 昼休み、給湯室でお茶を淹れていると、背後で足音が止まった。振り返ると梨香子が立っていた。腕を組み、湯気の向こうから瑠衣を見ている。 「先輩、部長に何か言いました?」 瑠衣は蛇口を止め、首を振った。 「言っていません」 「でも正木さんには何か言いましたよね?」 責める口調ではなかった。本気で確かめているだけの声だった。目には疑いも敵意もなく、ただ確認したいという色だけが浮かんでいる。だからこそ、瑠衣は答えに詰まった。マグカップを両手で持ったまま、湯気の行方を目で追うようにして間を置いた。 「企画について聞かれたので、思ったことを話しただけです」 「思ったこと、ですか」 梨香子はその言葉を繰り返した。責めているわけではない。ただ、自分の中の何かを確かめるように、口の中で転がしている様子だった。 「私、あの企画に結構自信あったんです。俳優さんの伝手も
緊急会議の翌日、正木は自分のデスクで企画書を開いたまま動けずにいた。 表紙をめくる。目次を眺める。三ページ目で止まる。ページを戻す。また同じ場所で止まる。手元のペンはキャップを外したまま、何も書かれていない紙の上で待ち続けている。俳優を起用する案が消えた瞬間、企画そのものの骨格までなくなってしまったようだった。 朝からずっとこの調子だった。コーヒーは冷めたまま机の端に置かれている。誰かに話しかけられても、正木は上の空で頷くだけだった。何を軸にすればいいのか、正木自身にもわからなくなっているのが、隣の席からでも見て取れた。 午前中、正木は何度か違う書き出しを試していた。市場調査の数字を並べてみる。競合他社の事例を書き出してみる。どれも途中で手が止まり、消しゴムで消す音だけが響いた。何度目かの消しゴムの音のあと、正木は破いた紙をくしゃりと丸め、ゴミ箱の縁で跳ねさせた。 瑠衣は自分の仕事を進めながら、その様子をしばらく気にしないふりをしていた。だが正木が三度目のため息をついてペンを机に置いたところで、思わず声をかけた。 「何を届けたい企画でしたか」 正木が顔を上げる。しばらく黙ったまま、瑠衣を見返した。答えが出てこない。視線が企画書の表紙に落ち、また黙る。指先が表紙の角を、意味もなくなぞっていた。 「……それが、わからなくなってしまって」 正木がようやく口にしたのは、それだけだった。椅子の背にもたれ、天井を見上げる。「最初は、はっきりしてたはずなんですけどね。バズらせなきゃ、話題にならなきゃって考えてるうちに、何が言いたかったのか見失って」 瑠衣は少し言葉を選びながら、椅子を正木のほうへ向けた。 「私は詳しくありません」 まず、そう前置きした。専門的なことは何もわからない、ただの営業事務だという自覚がある。それでも、続けた。 「でも、本より俳優が目立ってしまったら……読書支援システムって、誰にも届かない気がします」 正木はペンを持ち直した。手はまだ
午前十時、会議室のモニターに灯火書房の担当者が映し出された。 マイクの音量を確認し、簡単な挨拶が済むと、オルビット側の説明が始まる。梨香子が画面共有をしながら、資料を順に送っていった。 起用予定の俳優のプロフィール。SNSでの投稿計画。都内でのイベント案。インフルエンサーを三十名招く先行体験会。 「投稿は公開の一週間前から段階的に出していきます。ハッシュタグはこちらで統一して、トレンド入りを狙います」 スライドが切り替わるたびに、数字が並ぶ。想定リーチ数、拡散率、想定インプレッション。 モニターの中の担当者は、口を挟まずに最後まで聞いていた。目立った表情の変化もない。ただ、時折手元に視線を落として何かを書き留めている。 一通りの説明が終わり、梨香子が「以上になります」と締めくくった。 短い間の後、担当者が口を開いた。 「ありがとうございます。ひとつだけ、確認させてください」 穏やかな声だった。 「読書支援システムのご説明は、どちらで行われる予定でしょうか」 会議室の空気が、少し止まった。 梨香子は気づいていないようだった。資料の次のページを開こうとしていた。瑠衣は手元のメモを見たまま、視線を上げられなかった。担当者の質問は責めていなかった。ただ確認していた。その静けさの方が、怒声より重かった。 梨香子が次のスライドに移った。俳優のプロフィール写真が映し出された。担当者は画面を見た。何も言わなかった。その沈黙が何を意味するのか、梨香子には届いていなかった。 誰かの椅子が小さく軋む音がした。梨香子はすぐには答えず、資料を戻すようにマウスを動かした。 それから、明るい声で切り出した。 「そちらは、後半のフェーズで考えています。まず俳優さんに興味を持ってもらって、その流れで自然にシステムを紹介すれば十分かと」 自信のある口ぶりだった。良い順序を組み立てたと信じている声だった。 「認知が広がってからの方が、届く人数も増えますので」 担当者は少し頷き、それからゆっくりと言葉を選んだ。 「なるほ
火曜の午前、企画チームの打ち合わせが始まった。 配られた資料が、机の上を滑るように回ってくる。瑠衣は一枚目に目を落とした。 灯火書房とのタイアップ企画が正式に動き出す。表紙にはそう書かれている。ページをめくると、二枚目の上半分に大きく人名が印刷されていた。人気若手俳優、起用予定。名前の下には出演作の一覧が続いている。 その下、余白を挟んだ小さな活字で、読書支援システムの概要が三行だけ添えられていた。 瑠衣の視線が上下に往復する。読書機会の平等という言葉と、俳優の名前。同じ紙の上に並んでいるのに、文字の大きさがまるで違った。 資料の端を持つ指に、少し力が入る。 斜め向かいの席で、正木も黙ったまま同じページを見ていた。 会議室はいつも通りの空気だった。プロジェクターが立ち上がり、担当者が資料の説明を始める。視覚障害者の読書支援、電子書籍と紙の書籍の両対応、AI読み上げシステムの概要。その説明が続く間、梨香子はスマホを見ていた。資料ではなく、スマホを。 担当者の説明が終わった。梨香子がスマホを置いた。「じゃあ私から補足します」と立ち上がった。資料には目を向けなかった。 梨香子が立ち上がり、ホワイトボードの前に出た。「この俳優さん、私の知り合いなんです」 明るい声だった。手元の資料を見ずに話し始める。「事務所も乗り気で、SNSも回してもらえます。フォロワー、二百万超えてるんですよ」 誰かが感嘆の声を上げる。若手の男性社員が身を乗り出した。「それ、めちゃくちゃ強いですね」「でしょう? 絶対バズります」 梨香子は嬉しそうに頷いた。自分の企画を信じている顔だった。誰かを出し抜こうとしているのでも、手を抜こうとしているのでもない。これが一番良い形だと、本気で思っている。 男性社員たちの間で、拡散数の話が続く。ハッシュタグをどうするか、投稿のタイミングをいつにするか。 瑠衣は資料の三行を、もう一度読んだ。「本末転倒じゃないか」 斜め向かいから、小さな声がした。正木だった。誰にも届かないような音量だったが、瑠衣の耳には届いた。 顔を上げると、正木は資料を裏返して机に伏せていた。 梨香子の説明は続く。フォロワー数、拡散力、タイアップ実績。数字は並んでいたが、読書支援という言葉は一度も出てこなかった。男性社員の声が重なるたびに、梨香子の声は少
土曜日の午後、玄関のチャイムが鳴った。 いつもの時間、いつもの顔だった。灯は軽く会釈をして靴を脱ぎ、廊下を進んでいく。書庫の扉を開ける手つきも、椅子を引く動作も、これまでと変わらない。 書庫に入った時から、鞄を置く動作が少し遅かった。本を選ぶのにいつもより時間がかかっている。心がここにないというのがぴったりくる動作だった。瑠衣は少し首を傾げて、台所でお茶を淹れた。 瑠衣がお茶を運んでいくと、灯はもう本を広げていた。 それから一時間近く、机の上の光景はほとんど動かなかった。 灯の指は本の右端に触れたまま止まっている。視線は確かに紙面の上にあるのに、文字を追っている速さではなかった。同じ行のあたりで目が止まり、しばらくしてまた戻る。ページをめくる音が、いつもより遠い間隔でしか聞こえてこない。 湯呑みも減っていない。運んできた時とほとんど同じ位置に、同じ高さの水面のまま置かれている。表面に浮いていた湯気は、とうに消えていた。 瑠衣は本棚の整理をするふりをして、その様子を少し見ていた。 声をかけるべきか、少し迷った。 書庫に入った時から、灯の様子は普段と違った。鞄を置く動作が少し遅かった。 本を選ぶのにいつもより時間がかかった。それでも何も言わなかったので、瑠衣も何も聞かなかった。お茶を淹れて持っていった。「ありがとうございます」という返事は、いつも通りだった。 灯が書庫へ来てから、もう一時間ほど経っていた。その間、ページをめくった回数を数えていたわけではないが、ほとんど動いていないことは分かった。お茶も最初の一口から変わっていない。カップの外側に水滴がついていた。 声をかけるべきか迷った。書庫に入った時から、鞄を置く動作が少し遅かった。本を選ぶのにいつもより時間がかかった。それでも何も言わなかったので、瑠衣も黙っていた。 以前にも、灯が茶に手をつけないまま夕方を迎えたことがある。あの時は本の中に入り込みすぎて、周りが見えなくなっていた。今は違う。本が灯を掴んでいるのではなく、灯の方が本の上で立ち止まっている。 指
月曜日の朝、オフィスの空気がいつもと違った。 エレベーターを降りた瞬間から、廊下の話し声が普段より多い。「出版社案件らしいよ」「大型企画みたいだね」 誰もが噂だけを口にして、詳細を知る者はいない。瑠衣は自分のデスクに着き、いつも通りパソコンを立ち上げた。メールを開き、今日の予定を確認する。周囲のざわめきは気になったが、手を止める理由にはならなかった。 修正依頼の対応が二件入っていた。メーカーとのやり取りを終えて、社内確認を済ませる。普段通りの仕事だった。ただ廊下の話し声は昼になっても続いていた。「大型案件」「出版関係」という言葉が、断片的に耳に入ってくる。瑠衣はその都度、画面に視線を戻した。午前の仕事を終えた頃、部長から声がかかった。「今日の午後、案件説明の場を設ける。第一営業局は全員参加で」 昼休み。近くの定食屋に行くと、先に正木がカウンターで食事を取っていた。瑠衣の姿を見ると軽く手を上げた。隣の席が空いていた。 腰かけて日替わり定食を食べると正木が話しかけてきた。「大型案件の噂は本当だったんだ。瑠衣さん、灯火書房って知ってる?」「名前だけなら」 それだけだった。正木は定食の味噌汁を一口飲んでから、少し声を落とした。「出版社って、うちあんまり取引ないじゃないですか。だから余計に気になって」「ですよね。珍しい案件ではあると思います」「灯火書房って、電子書籍系の会社だよね。なんか変わった社長がいるって聞いたことある」 瑠衣はカウンターに出された定食の盆を軽く見て、箸を取ろうとした手が止まった。「そうですか」 それだけ答えた。二人とも、詳細はまだ知らなかった。 会議室に部長の声が響いた。「今日はみんなに、新しい案件の概要を話す」 スクリーンに一枚のスライドが映し出される。「クライアントは、灯火書房」 瑠衣はペンを持つ手を止めた。社名だけが、他の言葉より少し大きく耳に残った。 部長がスライドを進める。「AIによる読み上げシステムの共同開発案件だ。紙の本も電子書籍も両
招待メッセージを三回読んで、やっと気づいた。 "披露宴開始 13:00" 式の時刻が書いていない。私は披露宴にしか呼ばれていない。 駅から会場まで、十分ほど歩いた。招待状を持って、一人で歩いた。 歩いて、何度か立ち止まった。 (あれ、なんで私こんなことしてるんだろう) もっと怒っていいはずなのに、邪魔しようと考えてもいいはずなのに。 それより心にあるのは"無"だった。 感情より足が動くことがあるんだな、と瑠衣は自分自身に感心していた。 (一番バカなのは、私かもしれない) 受付に並んで、順番が来た。 「江品家で招待されている、江品瑠衣です」 スタッフの女
瑠衣は今日も仕事で帰りが遅くなった。 "江品"という表札の門をくぐった時に、違和感を感じた。実家なのに、自分が住んでいる家なのに、何か違う感じがした。そしてそれは、玄関に入った時に確信した 玄関に靴が多い。 父のスリッパ、母のパンプス、妹の真衣のスニーカー、それから男物のローファーが二足。 仕事帰り、鍵を回す手が一瞬止まった。いやな予感というより、答えの見えた数式を解く前の感覚に近かった。 リビングのドアを開けると、全員いた。父、母、真衣、婚約者の深内雅之、そして見覚えのある顔が二つ——雅之の両親だ。テーブルを囲んで
駅前のベンチに座った。 キャリーケースを足元に置いて、スマホでホテルを検索した。最寄り駅周辺、今夜から、一名。画面に価格が並んだ。一泊八千円。一週間で五万六千円。一か月で……計算したところで閉じた。 ネカフェでもいい。足さえ伸ばせれば。いや、足を伸ばしたい。今日一日立ったり座ったり、笑い声を聞いたり無視されたり、それだけで体が限界に近かった。 ポケットから鍵を出した。 メモを見た。相沢灯。住所。知らない地名。 今日初めて会った人間の家の鍵が、手の中にある。状況だけ取り出すと相当おかしい。しかし今夜の選択肢を並べると、これが一番まともだった。「……行くか」 独り言が出た。誰もい
「ブーケトスのお時間です!」 司会の声が会場に響いた。テーブルから立ち上がる女性たちの気配。瑠衣も立ちかけた。「お客様はご着席でお待ちください」 スタッフが笑顔で近づいてきた。丁寧な声だった。意味は一秒で理解できた。「……わかりました」 ブーケが空中を飛んだ。歓声が上がった。拍手が起きた。瑠衣の円卓だけが、切り取られたように静かだった。 しばらくして、真衣側の友人席から男が一人やってきた。グラスを持ったまま、ふらついた足取りで。酔っていた。「ねえ、君いくつ?」 瑠衣を見て、気さくに話しかけてきた。「二十九です」 男は数秒、止まった。「え」「二十九歳です」「おばさんじ







