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私のかわいい息子は、夫の初恋をママと呼んだ

私のかわいい息子は、夫の初恋をママと呼んだ

By:  ミントソーダCompleted
Language: Japanese
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松井湊(まつい みなと)と結婚して7年目。松井楓(まつい かえで)は、息子の松井健太(まつい けんた)の無邪気な一言を、偶然聞いてしまった。 「パパ、どうして僕のママは渚さんじゃだめなの?」 楓は思わず固まった。 「渚さん」って吉田渚(よしだ なぎさ)……湊の初恋の相手? 聞き間違いだろうか。そう思って声をかけようとした瞬間、一台の車が物凄いスピードで健太に向かって突っ込んできた。 楓は考えるより先に、とっさに健太の前に飛び出し、その体を突き飛ばした。 ドンッ。 凄まじい衝撃に襲われ、楓はその場で意識を失った。 目が覚めると、病室のベッドの上だった。湊と健太の無事な姿が目に入り、楓は胸をなでおろした。 「大丈夫だよ」と、そう二人に声をかけようとした時、ふと事故の前に聞いた健太の言葉が頭をよぎった。 楓は何かに駆られるように、ぼんやりとした表情を作って、二人を見つめた。 「すみません……今、何も思い出せないのです」 ベッドの前に立っていた二人は、楓の言葉を聞いて目を大きくして、慌ててナースコールを押した。 一通りの検査を終え、医師は診断結果を告げた。 「頭部を強く打った影響で、一時的に記憶が混乱しているのでしょう」 医師が病室を出た後でも、楓は何もわからないという表情を保ち続けた。 「どうして私は事故になんて……それに、あなたたちは誰ですか?」 湊は眉をひそめ、何かを言おうとした。だがその前に、興奮を隠しきれない幼い声が、彼の言葉を遮った。 「楓さんは、うちの家政婦だよ!」

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Chapter 1

第1話

松井湊(まつい みなと)と結婚して7年目。松井楓(まつい かえで)は、息子の松井健太(まつい けんた)の無邪気な一言を、偶然聞いてしまった。

「パパ、どうして僕のママは渚さんじゃだめなの?」

楓は思わず固まった。

「渚さん」って吉田渚(よしだ なぎさ)……湊の初恋の相手?

聞き間違いだろうか。そう思って声をかけようとした瞬間、一台の車が物凄いスピードで健太に向かって突っ込んできた。

楓は考えるより先に、とっさに健太の前に飛び出し、その体を突き飛ばした。

ドンッ。

凄まじい衝撃に襲われ、楓はその場で意識を失った。

目が覚めると、病室のベッドの上だった。湊と健太の無事な姿が目に入り、楓は胸をなでおろした。

「大丈夫だよ」と、そう二人に声をかけようとした時、ふと事故の前に聞いた健太の言葉が頭をよぎった。

楓は何かに駆られるように、ぼんやりとした表情を作って、二人を見つめた。

「すみません……今、何も思い出せないのです」

ベッドの前に立っていた二人は、楓の言葉を聞いて目を大きくして、慌ててナースコールを押した。

一通りの検査を終え、医師は診断結果を告げた。

「頭部を強く打った影響で、一時的に記憶が混乱しているのでしょう」

医師が病室を出た後でも、楓は何もわからないという表情を保ち続けた。

「どうして私は事故になんて……それに、あなたたちは誰ですか?」

湊は眉をひそめ、何かを言おうとした。だがその前に、興奮を隠しきれない幼い声が、彼の言葉を遮った。

「楓さんは、うちの家政婦だよ!」

楓は、健太の言葉に絶句した。用意していた次のセリフが、喉の奥に引っかかって出てこない。

こわばった表情で、自分が命がけで産んだ我が子を見る。楓は信じられない思いで、その言葉を繰り返した。

「家政婦……」

「うん、そうだよ」健太は即答した。「じゃなきゃ、どうしてパパと僕がずっとここにいるの?うちの家政婦だから、特別に面倒を見てあげてるんだよ」

楓は何も言わず、健太の顔をじっと見つめた。その表情から、少しでも冗談めいた色を見つけ出そうと必死だった。

次の瞬間には、「ママの嘘なんてお見通しだよ」と、健太が笑って飛びついてくることを期待した。

しかし、その期待は裏切られた。健太は真剣な顔で、湊の袖を引っ張りながら言った。

「ねえ、パパ。楓さんは僕を助けてくれたんだから、ご褒美をたくさんあげてね」

あまりの出来事に、楓は全身の力が抜けていくのを感じた。

命をかけて守ったこの子にとって、自分は、ただの家政婦でしかなかったなんて……

じゃあ、健太にとっての「ママ」は、一体誰なの?もしかして、渚?

胸の奥が、ちくりと痛んだ。楓は唇を強く噛みしめ、息子に問いただしたい衝動を必死に抑えた。

彼女は、それまでずっと黙ったままの湊に視線を移した。

息子の心に自分がいないことは、もうこれで分かった。なら、結婚して7年になるこの夫の心の中には、果たして自分の居場所があるのだろうか。

楓と視線が合うと、湊は目を逸らしただけで、彼女に一言もかけず、健太を連れて病室を出て行った。

楓の心が、どこまでも沈んでいくようだった。

なにも否定しなかった。それがすべての答えなのだろう。

体中の痛みをこらえながら、楓はベッドを降りた。そして、病室のドアに体を寄せ、聞き耳を立てた。

ドア隙間から、廊下の様子が見えた。湊が健太の前にしゃがみ込み、怒りを抑えた声で尋ねた。

「健太、どうして家政婦だなんて嘘をついたんだ?」

健太は口をへの字に曲げ、不満そうな顔をした。

「だって、渚さんに僕のママになってほしかった。渚さんと一緒にいる時は楽しいのに、ママと一緒だと怒られてばっかで嫌だから。

それに、渚さんはピアノがすごく上手なんだよ。それに比べてママは、1日中うちにいるだけで、何も面白くないじゃないか」

渚に母親になってほしいと、健太自身の口から聞いてしまった楓は、全身の力が抜けていくのを感じて、ずるずると床にへたり込んだ。

やっぱり……聞き間違いじゃ、なかったんだ。

健太は、そんなにも渚のことが好きだったのか。自分を家政婦扱いしてまで、渚を母親にしたかったなんて。

渚の名前を聞いた途端、湊の怒りは少し和らいだ。それでも、表情は険しいままだった。

「そうだとしても、嘘をつくのはよくない」

「だって、ママは今、何も覚えてないんだよ。自分が誰かなんて、わかってないじゃん」健太は湊の大きな手にすがりついて甘えた。「聞いて、パパ。渚さんも、僕のママになりたいって言ってたんだ。せっかくのチャンスなんだから、本当にお願い!

パパだって、渚さんといる時に楽しそうにしてたじゃん。この嘘は、パパにとってもきっといいことなんだよ。誰も傷つけないし、ママが記憶をなくしてる間だけでいいから!」

湊は、健太の言葉に心が動いたようだった。ゆっくり考えた後、とうとう頷いた。

「わかった。でも、1週間だけだ。1週間後には、ママの記憶が戻らなくても、渚を『ママ』と呼ぶのはおしまいだ」

湊の許しを得て、健太は嬉しそうに飛び跳ねた。

「やったあ!じゃあ、今すぐ渚さんのところに行って、このことを教えてあげようよ!」

そう言って、健太は嬉しそうに湊の手を引いて歩き出した。

二人は、事故にあったばかりの楓のことを、もう気にしていないようだ。

遠ざかっていく足音を聞きながら、楓はなぜか笑っていた。大粒の涙が次から次へと頬を伝って、床に落ちていった。

ほんの出来心で試しただけなのに。まさか、それで夫と息子の本音を知ってしまうなんて。

結婚して7年の夫も、大切に育ててきた息子も、自分のことなんてどうでもよかったんだ。

幸せな家族だと思っていたのは、自分だけ。全ては、笑えない冗談で片づけられた。

その時、静かな病室に、スマホの着信音が鳴り響いた。

電話は、医薬科学研究所からのものだった。

「楓さん、考えはまとまったかい?例のプロジェクトの件なんだが」

楓は、スマホの待ち受けにしている家族3人の写真に目を落とした。その瞳は、感情が抜け落ちたように虚ろだった。

「はい、参加させてください」

静かな病室に、楓の声が響いた。か細いながらも、その声には強い決意が込められていた。

「ただ、プロジェクトが始まる前に、私の過去に関する情報をすべて消してもらいたいんです」
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第1話
松井湊(まつい みなと)と結婚して7年目。松井楓(まつい かえで)は、息子の松井健太(まつい けんた)の無邪気な一言を、偶然聞いてしまった。「パパ、どうして僕のママは渚さんじゃだめなの?」楓は思わず固まった。「渚さん」って吉田渚(よしだ なぎさ)……湊の初恋の相手?聞き間違いだろうか。そう思って声をかけようとした瞬間、一台の車が物凄いスピードで健太に向かって突っ込んできた。楓は考えるより先に、とっさに健太の前に飛び出し、その体を突き飛ばした。ドンッ。凄まじい衝撃に襲われ、楓はその場で意識を失った。目が覚めると、病室のベッドの上だった。湊と健太の無事な姿が目に入り、楓は胸をなでおろした。「大丈夫だよ」と、そう二人に声をかけようとした時、ふと事故の前に聞いた健太の言葉が頭をよぎった。楓は何かに駆られるように、ぼんやりとした表情を作って、二人を見つめた。「すみません……今、何も思い出せないのです」ベッドの前に立っていた二人は、楓の言葉を聞いて目を大きくして、慌ててナースコールを押した。一通りの検査を終え、医師は診断結果を告げた。「頭部を強く打った影響で、一時的に記憶が混乱しているのでしょう」医師が病室を出た後でも、楓は何もわからないという表情を保ち続けた。「どうして私は事故になんて……それに、あなたたちは誰ですか?」湊は眉をひそめ、何かを言おうとした。だがその前に、興奮を隠しきれない幼い声が、彼の言葉を遮った。「楓さんは、うちの家政婦だよ!」楓は、健太の言葉に絶句した。用意していた次のセリフが、喉の奥に引っかかって出てこない。こわばった表情で、自分が命がけで産んだ我が子を見る。楓は信じられない思いで、その言葉を繰り返した。「家政婦……」「うん、そうだよ」健太は即答した。「じゃなきゃ、どうしてパパと僕がずっとここにいるの?うちの家政婦だから、特別に面倒を見てあげてるんだよ」楓は何も言わず、健太の顔をじっと見つめた。その表情から、少しでも冗談めいた色を見つけ出そうと必死だった。次の瞬間には、「ママの嘘なんてお見通しだよ」と、健太が笑って飛びついてくることを期待した。しかし、その期待は裏切られた。健太は真剣な顔で、湊の袖を引っ張りながら言った。「ねえ、パパ。楓さんは僕を助けて
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第2話
電話の向こうの先生・山本英樹(やまもと ひでき)の声は、少し驚いているようだった。「でも、そうしてしまったら、君という人間は社会から完全にいなくなったということになる。ご主人も息子さんも、君がどこにいるのかを知る手段がなくなるんだぞ。以前は二人のために、この話を断ったじゃないか。それが、どうして今になって……」楓はぎゅっとスマホを握り締めた。これまでの人生が、頭の中を一気に駆け巡った。湊と健太は知らない。自分が、何もできないただの専業主婦なんかじゃないってことを。7年前、楓は東都の中央大学の医学博士課程に、最年少で在籍していた。研究者としての才能に恵まれ、ほとんど毎日研究室にこもっていた。ある日、また徹夜で実験を終えて、ふらふらと土手を歩いていた。疲労のせいで突然目が眩み、そのまま川の方へと倒れてしまった。周りから悲鳴が聞こえる中、誰かの手が、腕をがしっと掴んでくれた。しかし、次の瞬間、楓はもう意識を失ってしまった。再び目が覚めたとき、病院のベッドにいた。隣のベッドでは、擦り傷だらけの湊が手当てを受けていた。看護師から聞いて、ようやく何があったのか分かった。川に落ちる寸前、湊がとっさに腕を掴んでくれた。しかし、落ちる勢いのまま、二人とも川に引きずり込まれそうになった。水に落ちる寸前、湊がとっさに木の枝を掴んでくれたから、なんとか助かったらしかった。楓は感謝と申し訳なさでいっぱいになった。そんな彼女を見て、湊は優しく声をかけた。「大丈夫。次からは気をつけろ」って。楓は気を失っただけで、彼は全身に傷を負っているのに、慰めてくれたのだ。その瞬間、研究のことしか頭になかった楓の心に、湊の姿がすっと入り込んできた。退院する日、楓は勇気を振り絞って、湊の電話番号を聞いた。断られるのが怖くて、楓は慌てて付け加えた。命の恩人だから、何かお礼がしたいだけなんだ、と。すると湊は、しばらく黙って楓を見つめてから、こう言った。「お礼がしたいって?じゃあ、俺と結婚してくれないかな?」楓は信じられない気持ちで、湊を見つめ返した。彼が冗談を言っているわけじゃないと分かると、胸が激しく高鳴った。そして、気づけば、楓は彼に答えていた。「はい、喜んで」こうして、楓は湊の妻になった。結婚してすぐ、楓は健太を授かった。もともと体が弱か
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第3話
楓は事故で3日間病院で休んでいるけれど、まだ退院できる状態ではなかった。そして渚は、楓が入院してから毎日、インスタの投稿を更新した。そこにはいつも、湊と健太が写っていた。1日目は、ケーキの手作り体験。健太は、出来上がったケーキの最初の一口を渚に食べさせてあげていた。2日目は三人でキャンプ。夜は、湊と渚が健太を間に挟んで、テントの中から星を眺めていた。3日目は、健太の絵画教室に二人で付き添っていた。その日のテーマは「僕のママ」で、健太が描いたのは、渚の顔だった。そして退院当日。3日間、一度も顔を見せなかった湊と健太が、ようやく渚を連れて現れた。楓の体に残る痛々しい傷跡に目をやり、渚は申し訳なさそうに微笑んだ。「楓さん、本当にごめんなさいね。この数日、みんな忙しくて、今日ようやくお見舞いに来れたわ」そう言うと、渚は微笑みながら、楓の顔色を探った。「健太から事故にあったって聞いたけど、体の具合はどう?」湊と健太の二人は、少し緊張しているのが分かった。彼らは、楓が記憶を取り戻したかどうかを試しているのだと気づいた。「お医者さんはもう退院できるって、ただ、まだ何も思い出せないの。あの、あなたは誰なんですか?」楓は、何も分からないといった表情を崩さなかった。目の前の3人は、そろって安堵のため息を漏らした。健太が、自分から渚の手を取って、楓に紹介した。「楓さん、この人は僕のママだよ」退院の手続きをしていた楓の手が、ぴたりと止まった。健太が渚のことを母親のように慕っているのは知っていた。でも、いざ目の前で「ママ」と呼ばれるのを聞くと、どうしようもなく息が詰まった。命がけで産んだ我が子が、こんなにもあっさりと他の女を「ママ」と呼ぶなんて。楓は顔を上げ、黙ったままの湊を見た。いつもは落ち着いている湊は、珍しく、彼女と目線を合わせてくれなかった。湊はすっと視線をそらし、やはり何も言わなかった。楓の目に浮かんだ皮肉の色が、一層濃くなった。7年も連れ添った夫は、息子のこの振る舞いを、ただ黙って見ているだけ。なんて惨めなのだろう。楓は込み上げてくる悔しさをぐっとこらえ、喉の奥から「そうですか」と一言、絞り出した。退院手続きを済ませ、4人は一緒に車に乗り込んだ。後部座席では、健太が渚と
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第4話
湊は先に歩く二人の後を追おうとした。しかし、楓のそばを通りかかった時、彼女の顔にある傷跡が目に入った。事故の時、楓が身を挺して健太をかばった光景が頭に浮かんで、湊は立ち止まって、優しく声をかけた。「退院したばかりなんだから、休めるところで待っていて。健太には俺と渚がついているから、心配しないで」楓は、皮肉な笑みを浮かべた。「ええ、わかっています。ご家族の邪魔にならないように気を付けます」楓がそんな風に答えるとは思っていなかった湊は、思わず目を見開いた。いつも優しさで満ち溢れていた彼女の瞳が、いつからか、暗くなった気がした。訳もなく、湊の胸はちくりと痛んだ。彼は何か言いたそうに口を開いたけれど、結局は言葉を飲みこみ、ただ黙って楓を見つめた。「本当は……お前にこんなものを、見せたいと思っているわけじゃないんだ」その言葉を聞いて、楓はこみ上げてくる笑いをこらえるのに必死だった。健太の提案に頷いて、健太の母親で、湊の妻である自分の代わりに、渚を迎え入れたのは、他の誰でもない、湊だった。それなのに、今さら楓の前で申し訳なさそうな顔をして、一体どうしてほしいというのだろうか?「このすべてを許したのはあなたなんでしょう?」湊は、はっと息をのんだ。その瞳に、ほんの一瞬だけ、焦りの色がよぎった。楓は……なぜあんなことを言うんだ?まさか、記憶が戻ったのか?湊が自分の考えを確認しようとしたけれど、楓はまるで何事もなかったかのように、くるりと背を向けて休憩所へ向かった。湊は思わず後を追いかけようとした時、前方から健太の呼ぶ声が聞こえてきた。楓の穏やかな後ろ姿を見ていると、さっきまで速まっていた鼓動が、少しずつ落ち着いてきた。楓は自分と健太をあんなに愛しているのだ。もし記憶が戻っていたら、健太が他の女の人を「ママ」と呼んでいるのを見て、こんなに冷静でいられるわけがない。さっきのは、おそらく聞き間違いだったんだろう。湊はもう迷わず、前を歩く二人の元へ急いだ。楓は休憩所の窓から、遠くに見える3人の後ろ姿を眺めていた。健太は、渚と湊に手を引かれ、真ん中で楽しそうに飛び跳ねている。渚が健太の額の汗をハンカチで優しく拭い、湊が微笑ましい二人の姿を優しい眼差しで見つめていた。絵に描いたような幸せな家族。楓はふと目を伏
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第5話
日が暮れ始める頃、3人はようやく園内から戻ってきた。健太は全力で遊んだせいで汗びっしょりになっていた。休憩所が目に入ると、一番に駆け込んで席に座った。アイスクリームが売ってあるのを見て、健太は目を輝かせた。そして、売り場を指差しながら、楓に命令するように言った。「楓さん、僕、アイスクリーム食べたい。早く買ってきてよ」そう言うと、健太はぶつぶつと小声でつぶやいた。「今はただの家政婦で、ママじゃないんだから。僕のこと、止められないでしょ」健太は難産で、生まれつき体が弱かった。そのため医者からは、健康管理にはくれぐれも気をつけてと、念を押されていたのだ。健太を世話してきたこの5年、楓は一日も気を抜かなかった。毎日、健太の体調を気にして、栄養バランスのいい食事のレシピを勉強した。抵抗力をつけるために、定期的に運動に連れて行った……そんなに汗をかいた状態でアイスクリームを食べれば、健太はすぐに風邪をひいてしまうのだ。以前の楓なら、きっぱりと断っていただろう。そして優しくなだめながら、水を差し出すはずだった。でも今の楓は、健太の額の汗に目をやり、ただ静かに頷くだけだった。健太は信じられないというように目を見開いた。記憶を失っただけで、ママはこんなに別人みたいになっちゃうの?健太は思わずもう一度尋ねてみた。「本当に?」楓はアイスクリームを買ってきて健太に手渡し、行動で健太に答えた。「これからは、やりたいことを、思うようにやりなさい」たとえそれが、渚を母親にすることだとしても。そこへ近づいてきた湊は、健太の手にあるアイスクリームを見て眉をひそめた。そして、思わず楓に問いかけた。「どうしてアイスなんて食べさせてるんだ?」「買ってきて欲しいと言われたのですよ」湊はその答えに納得できず、平然とした顔の楓をじっと見つめた。湊は覚えている。以前の楓なら、健太が汗だくの状態でアイスクリームを食べるのを絶対に許さないはずだ。記憶を失ったとはいえ……あんなに頑張って産んだ子を見て、記憶の奥に、母親としての本能すら残っていないというのか?渚はその様子を見て、少し目を輝かせた。そして、健太の額の汗を拭いてあげながら、優しく湊に提案した。「湊、もう帰ろう。午後から遊んでるんだから、きっと健太が疲れてるわ」
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第6話
救急隊員が楓を車から運び出すと、真剣に尋ねた。「ご家族に連絡しますか?」楓は、一瞬黙ってから、静かに首を横に振った。「いいえ、家族はいませんから」自分の命を見捨てた夫と息子なんて、もう家族じゃない。楓は一人、事故の衝撃によるめまいを必死にこらえながら病院へ運ばれた。幸い、検査の結果、大きな問題はなかった。数日間、薬を飲んで安静にしていれば治るそうだ。薬を受け取った帰り、偶然、処置室の前を通りかかった。医師が渚の傷の手当てをしていた。ただの浅いかすり傷で、血が少し滲んでいるだけだった。それでも、隣にいる二人は焦った様子で見守った。健太は医師の手の中のガーゼを見つめ、心配そうに尋ねた。「先生、ママの手のひらに、傷跡は残りますか?」湊も、たまらず口を挟んだ。「ピアニストなんです。どうか傷が残らないように、丁寧にお願いします」それを聞いた医師は、笑顔になって言った。「ご主人と息子さんは優しいですね。安心してください、この程度の傷では跡は残りませんよ」ドアの外に立っていた楓は、目に浮かんだ嫌悪を隠すように、すっと目を伏せた。ええ、本当に「優しいご主人と息子さん」だこと。楓は視線をそらすと、踵を返してその場を去ろうとした。「楓!?」「か……楓さん!?」背後から、驚きを隠せない二人の声が聞こえた。「楓、どうして病院に?検査は受けたのか?もう大丈夫なのか?」湊は楓に、不安そうに尋ねた。「ありがとうございます、旦那様。ご心配には及びません」「旦那様」の一言に、湊の体が強張った。今の楓は松井家の家政婦。頭では分かっていても、いざ彼女からそんな他人行儀な呼ばれ方をされると、胸の中に複雑な感情が渦巻いた。何か言おうとしたけれど、楓の落ち着いた表情を見ると、喉に何かがつっかえて言葉が出てこなかった。その時、湊のスマホが鳴った。会社で急用ができたようで、湊は先に帰ることになった。3人に、自分たちで帰るようにと言い渡した。家に帰ると、健太は真っ先に渚の手を引いて2階へ向かった。楓は、渚がもともと自分の寝室だった部屋へ入っていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。渚を部屋へ案内し終えると、健太はドタドタと階段を下りてきた。1階の家政婦たちのための部屋を指差して、楓に言った。
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第7話
楓はデスクの角に腰を打ってしまった。鋭い痛みが全身を走り、額に冷や汗を浮かべた。それでもなんとか体を起こして、説明しようとした。「そのようなことは……しておりません」しかし健太は全く耳を貸してくれなかった。楓が何度説明しても信じてくれず、ボディーガード一に楓をリビングまで連れて行くよう命じた。リビングでは、渚の肌が所々赤くなり、湊の腕の中でぐったりしていた。「楓、こんなことをするような人間だとは思わなかった」湊の声は、怒りを押し殺しているようだった。「湊……」渚が弱々しく口を開いた。「もしかしたら……楓さんは、わざとじゃないのかもしれないわ」健太は、そんな渚の姿を見て、心配で、目に涙をためていた。「ママ、もう楓さんをかばわないで!ずっとキッチンにいたんだから、マンゴージュースを入れたのは絶対に楓さんだよ。ママをいじめたいんだ!」楓は、全てが可笑しく見えた。渚に何かがあると、この親子はいつでも自分のせいにするのだ。しかし、彼らは忘れているのだろうか。今の自分は松井家の家政婦に過ぎない。この家の「奥様」である渚を、害する理由なんてないのに。ぶつけた腰の痛みを感じながら、楓はもう一度繰り返した。「私は、やっておりません」「うるさい!ママがこんなに苦しんでるのが見えないのか!まだ言い訳する気?」健太は怒りを抑えきれずに、楓に怒鳴りつけた。「パパ、楓さんがママをいじめたんだ。罰を与えなきゃだめだよ!」湊は気づけば両手の拳を握りしめ、複雑な表情で楓を見つめていた。腕の中の人がどんどん弱っていくのを感じながら、彼は目を閉じ、声を低くして言った。「そうしよう」そう言うと、湊は渚を抱きかかえ、車で病院へと向かった。「楓さん」健太は無表情のまま手、二人のボディーガード一に楓を押さえつけるように指示した。「悪いことをしたら自分に返ってくる。そう教えてくれたのは、楓さんだったよね」そう言うと、健太は使用人に牛乳を一杯、持ってこさせた。楓は信じられないものを見る目で健太を見た。自分にひどい牛乳アレルギーがあることを、健太は知っているはずだった。楓は必死にもがいたが、ボディーガードの力にはかなわなかった。牛乳が口に入った瞬間、呼吸が苦しくなり、その場に崩れ落ちた。かすむ視界の中で、健太が静かに、冷や
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第8話
一方、その頃。湊は健太を連れて、渚の病室に入った。その時には、渚の症状はほとんど治まっていた。健太はベッドに駆け寄り、心配そうに尋ねた。「ママ、もう大丈夫?」渚は健太の頭を撫でて、にっこりと笑った。「もう大丈夫よ。ありがとう、健太」健太はほっとした様子で、得意げに言った。「ママ、安心して。楓さんのアレルギーの牛乳を、僕が飲ませてやったから。ママを苦しめたんだから、罰を受けなきゃダメだよね!」そう言う健太の幼い顔には、まだ怒りが残っていた。渚は一瞬驚いたように目を見開いたけれど、すぐにその表情は喜びに変わった。まさか、ただの自作自演が、こんなに喜ばしい結果になるなんて。もともとは湊と健太の中の、楓の評判を落とすのが目的だった。まさか健太がここまで自分のことを大事にしてくれているとは思わなかった。自分のために、実の母親に罰を下してくれた。そう気づいた瞬間、渚はさらに自信を深めた。これだけ健太が懐いてくれているなら、楓が座っている妻の座も、いずれは自分のものになるだろう。湊のことも心配ない。彼は今でも自分を想ってくれている。楓なんて、出国した自分を忘れるための道具に過ぎなかったのだ。そう考えると笑みがこぼれそうになったが、渚はわざと困ったような表情を作ってみせた。「健太、でも楓さんは健太の本当のお母さんなのよ。もし記憶が戻ったら……」その言葉に、健太の体はこわばった。最初にママに牛乳を飲ませた時、ママの記憶が戻ったら怒られるんじゃないかって、考えなかったわけじゃない。でも、渚の弱々しい姿が頭から離れなかった。それに、昔ママに教わったんだ。「悪いことをしたら、ちゃんと罰を受けなきゃいけない」って。だからカッとなって、無理やり飲ませてしまった。しかし、ママが床に倒れて動かなくなったのを見たとき、わけもなく不安になって、すぐにボディーガードの人にママを病院へ運んでもらったんだ。本当は、もうとっくに後悔していた。だけど、ベッドにいるママが何も思っていないかのように振る舞っているのを見ると、なぜか意地を張って、思ってもいないことを言ってしまった。パパがなだめてくれたおかげで、ようやく気持ちは落ち着いたけれど、渚の言葉を聞いて、また胸がざわつき始めた。「大丈夫だよ、ママは……きっと怒っ
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第9話
健太は、こんな風に湊に怒鳴られるのは初めてだった。怖くなって、少し身を縮めた。「でも……」「でも、じゃない!」湊は、健太の言葉を強い口調で遮った。「ママは、大変な思いをしてお前を産んで、毎日お前の面倒を見てくれているんだ。そんなことを言ったら、どれだけ悲しむか分かるか?この7日間、渚が母親でいてくれたのは、お前のちょっとした願いを叶えるためだけだ。本当に母親を替えられるわけじゃないんだぞ」「うん……分かったよ、パパ」健太はうつむき、力なく返事をした。そのやりとりを聞いていた渚は、ベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。湊の心の中で、楓の「妻」という立場が、これほど確かなものだなんて、考えもしなかった。「渚、ゆっくり休んでくれ。俺は健太を連れて、楓の様子を見てくる」そう言って、湊は健太の手を引いて部屋を出ていった。歩きながら、どうにも納得できない健太は、湊に尋ねた。「パパ、僕、やっぱり渚さんがママの方がいい。この1週間、すっごく楽しかったんだ。パパだって、渚さんといる時、楽しそうだったじゃないか?」湊は、あれだけはっきりダメだと言ったのに、まだ健太が渚を母親にしたいと思っていることに、少し驚いた。しかし、どう説明すればいいのか、すぐには言葉が見つからなかった。確かに、渚は自分の初恋の相手だった。付き合っていた頃は、本気で渚との結婚を考えていた。だから渚が別れを告げて海外へ行ってしまった時、なかなか諦めきれなかったのだ。そんな時、楓から恩返しをしたいと言われて、つい魔が差して結婚を申し込んでしまった。最初は、確かに本気で結婚に向き合っていなかった。結婚することで、失恋の辛さから逃れようとしていただけなのだ。だが、結婚式の日。楓の瞳の奥が、きらきらと輝いて、心から喜んでいる姿を、湊は見た。その一瞬で、湊は自分の心が、その瞳に捕まれたように感じられた。目の前にいるこの女性を、裏切ってはいけないと、湊は強く思った。誓いの言葉も、心から溢れた言葉だった。結婚した後の生活も理想そのものだった。朝食にはいつも、あたたかくて美味しい料理。深夜に帰宅した時、自分を迎えてくれる明かりのついたお家。酔って苦しい時に、テーブルにそっと置かれている酔い覚ましの水……一つ一つの出来事が、あの時の自分の決断が正しかった
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第10話
退院?楓がいつ退院の手続きを?なんで自分は知らないんだ?湊はスマホを取り出し、楓に電話をかけた。「おかけになった番号は、只今電話に出ることが……」湊は立て続けに何度も楓に電話をかけてみるが、返ってくるのは冷たい機械音声だけだった。どうしてだろう、湊の胸に今までにない不安がこみ上げてきた。楓が電話に出ないだなんて、これまでに一度もなかったのに。まさか……彼女の身に何かあったのか?その可能性を考えただけで、胸のが一気にざわめき始めた。隣にいた健太は、病室から母親がいなくなって、電話も繋がらないのを見て、湊の袖を引っ張った。「パパ、ママはおうちに帰ったんじゃないかな?」帰った?そうだ。医者は、楓の体は特に大きな問題はないと言っていた。それに楓は自分のことを家政婦だと思い込んでいるから、勝手に退院して家に帰ったのも不思議ではない。そう思うと、湊は健太を抱き上げ、足早で病院の外へと向かった。家に着いてドアを開けるなり、声を大きくして楓の名前を呼んだが、返事はなかった。湊は眉をひそめて、2階の寝室へ探しに行こうとしたが、健太に服を掴まれた。「パパ、忘れたの?ママは今、1階の部屋にいるんだよ」その言葉を聞いて、湊の表情が一瞬、複雑に歪んだ。この芝居をそれらしく見せるため、楓の荷物を1階の家政婦の部屋に移させ、渚に2階寝室を使ってもらったのだ。自分も、ここ数日は書斎で寝ていた。さっきは動揺のあまりに、そのことをすっかり忘れていた。湊は踵を返し、1階の家政婦の部屋へと向かった。しかし、ドアを開けて目にしたのは、空っぽな部屋だった。湊は、今まで感じたことのない焦りに襲われた。スマホを取り出し、秘書に楓の行方を捜してもらおうとした時、一人の使用人・佐藤智子(さとう ともこ)に呼び止められた。「旦那様、奥様は午後に一度お戻りになり、荷物をまとめて出て行かれました」湊は信じられないというように、その場で固まった。「自分から出て行ったというのか?」智子はうなずいた。その時になって、湊はようやく気づいた。部屋から楓の服や私物がすっかり無くなっていることに。なぜ楓は出て行ったんだ?どこへ行った?どうして何も言わずに?無数の疑問が頭を駆け巡り、混乱して何も考えられなかっ
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