LOGIN高橋蓮(たかはし れん)と結婚して五年目、私は病に倒れた。 彼はどんな代償も惜しまず、私に最も適合するドナーを見つけてくれた。 手術の一週間前、私は薬のせいで眠り込んでいて、目を覚ましたあと、手で触れたのはつるりとした頭皮だった。 渡辺葵(わたなべ あおい)はバリカンを手に、目を細めてにこにこと笑った。「美玲さん、どうせもうすぐ手術なんだし、私が剃ってあげたほうがちょうどよかったでしょ」 けれど、骨髄移植に髪を丸刈りにする必要なんて、もともとない。 「誰がそんなことしていいって言ったの、それは私の髪よ」 怒りのあまり、私は声を張り上げた。 そのとき、蓮がドアを押して入ってきた。 「葵はまだ若いし、ちょっといたずらが過ぎただけだ。美玲、そんなに目くじら立てるな」 彼はそこでいったん言葉を切り、私を見た。複雑な眼差しをしていたが、その言葉だけははっきりしていた。「それに、この子はお前に骨髄を提供してくれる人なんだから」
View More一週間後、私は株式譲渡契約書と不動産贈与契約書を受け取った。手に取るとずしりと重くて、その中にさらに封筒が一つ入っているなんて思わなかった。中には、昔私たちが撮ったツーショット写真が詰められていた。蓮は、それを一枚一枚印刷していた。昔の私は写真を撮るのが大好きだったけれど、蓮はいつも、そんなもの必要ないと言っていた。それでも、私が撮ろうとすると、彼は文句も言わずちゃんと隣に寄ってきて、撮られてくれた。その中の一枚一枚が、私をあの頃へ引き戻していく。別れてからまだそれほど経っていないはずなのに、記憶の中では、あれはもうずっと昔のことのように思えた。写真のいちばん最後には、蓮からの手紙まで添えられていた。これは、結婚前の彼がいちばん大事にしていたことだった。何通もの手紙を私に書いてくれて、彼はよく言っていた。手紙は、写真よりもっと意味のあるものだと。でもそのうち、彼は私に手紙を書かなくなった。それどころか、話をすることさえ億劫そうになっていった。私はその手紙をろくに読まなかった。ただ、何気なく最後の結びだけが目に入った。そこにはこう書かれていた。【俺たちがこんな結末を迎えるなんて、一度も思ったことはなかった】【ごめん】本当は、私だって、こんなふうになるなんて思っていなかった。私の思い描いていた未来では、私たちはきっと、このまま穏やかに幸せな一生を共にできるはずだった。だって、あれほど深く愛し合っていたのだから。けれど残念ながら、この世界のことはたいてい、願ったとおりにはいかない。私は手紙を細かく引き裂いて、そのままゴミ箱へ捨てた。そしてようやく、心は完全に静まった。恨みもなければ、未練もない。私の中では、すべてがようやく完全に終わったのだ。その後、私は二度と蓮の名前を耳にすることはなかった。破産して自殺したらしいと語る人もいれば、何か問題を起こして海外へ逃げたらしいと言う人もいた。私はただ笑って、軽く「ああ、そう」と返すだけだった。それ以上は聞かず、確かめもせず、ただそんな噂が勝手に空気の中へ消えていくのに任せた。生きていようが死んでいようが、彼のすべてはもう私とは無関係だった。私の髪はようやく、昔と同じ長さまで伸びた。頬にも少しずつ健康的な血色が戻り、体もどんどんよくなっていっ
一か月後、葵がまた私の家の前に現れた。以前のような華やかさはもうなく、彼女は開口一番こう言った。「あの人を返しに来たの」私は中へは入れず、ただ面白がるように彼女を見た。「へえ?」「蓮さん、頭がおかしくなっちゃったの」葵の声は震え始めていた。「彼、あちこちで言いふらしてるの。私がしつこく付きまとってきた、恥知らずな愛人だって。前に私たちで撮った写真も、全部ネットにばらまいたの。それだけじゃなくて、私の実家にまで行って言いふらしたの。今じゃこのことをみんな知ってる。私は職を失ったし、出した履歴書も全部まるで音沙汰なし。道を歩いていても、みんなにひそひそ噂される。あの人はもう、名声も体面もいらないの。自分ごと私を道連れにして、全部壊すつもりなの」彼女は大きく息を吸い込んだ。今にも窒息しそうなほどで、次の瞬間には、前触れもなく涙がこぼれ落ちた。「美玲さん、私、本当に間違ってた。彼がああいうことをしてるのは、全部あなたに見せつけるためなの。私を壊すことで、自分がどれだけ後悔してるか、どれだけあなたを愛してるかを証明しようとしてる。だから、あの人をあなたに返す」「それで、言いたいことは終わり?」私は静かな声でそう言った。葵は一瞬呆けたようにして、それから戸惑いながら頷いた。「じゃあ、もう帰って」私はドアのほうへ歩き、彼女に立ち去るよう示した。「あなたの謝罪は受け取った。でも、私と蓮の間のことは、あなたには関係ない。だいたい、ここが何に見えるの?不用品の回収所か何か?」葵は、まさかそんな反応を返されるとは思っていなかったのだろう。その場に立ち尽くし、どうしていいかわからない様子だった。「それから、蓮があなたにしていることについてだけど」私は少し言葉を切ってから、彼女を見た。「それはあなたたちの問題なの、私には関係ない。来る相手を間違えてるわ。どの道を選ぶかは自分次第。その代償を払うのも自分しかいないの。もう子供じゃないんだから、それくらい私に言われるまでもないでしょう」最後に一度だけ彼女を見て、私は言った。「もう二度と、私のところへ来ないで」葵は口を開き、まだ何か言いたげだった。けれど私は、もうドアを閉めていた。私の暮らしは、そのまま決まった軌道を静かに進んでいった。再検査を受け、薬を
私は体に鞭打って、別の私立病院へ移った。回復にはひどく時間がかかり、剃り落とされた頭にも少しずつ新しい髪が生えてきた。毎日、窓から陽の光が差し込むたび、日々にもほんの少しだけ楽しみが生まれた。けれど、蓮がこんなにも早く私を見つけ出すなんて、思ってもみなかった。彼はまるで別人のようだった。顎には青黒い無精ひげが伸び、髪は乱れ、目は赤く充血していた。彼は一歩ずつ近づいてきて、震える声で言った。「美玲、本当にお前なんだな。やっと見つけた」私は静かに彼を見た。「高橋さん、何かご用?」その呼び方が彼を傷つけたのは明らかだった。彼の体がぐらりと揺れた。「美玲、そんなふうに呼ばないでくれ。この間ずっと……俺は本当に、お前に会いたくてたまらなかったんだ。もう怒らないでくれ。俺が悪かった。全部説明できる。俺と葵の間には何もない。ただ、お前を助けてくれたことに感謝していただけなんだ。それだけだ」「感謝?」私は思わず笑ってしまった。「あなたにとって感謝って、際限なく肩入れすることなの?二人で一緒に食べて、遊んで、楽しむことなの?」「違う、違うんだ」彼は苦しげに言い訳したが、その声には少しの説得力もなかった。「俺が愛してるのはお前だ。お前だけなんだ。彼女にああしていたのだって、お前の代わりに恩を返したかっただけなんだ」「私を愛してる?愛してるから、私がいちばんあなたを必要としていたときに、彼女とアイスランドへ行ったの?愛してるから、彼女が私の髪を丸刈りにするのを許したの?愛してるから、私が跡形もなく消えてからようやく思い出したの?」私は笑った。「それをまだ恩返しだなんて言うの?返し方なんていくらでもあるのに、どうしてよりにもよってそんなやり方を選んだの?そこに自分の私情が一切なかったなんて、言えるの?」「そんなことない!」蓮は尻尾を踏まれた猫みたいに突然怒鳴った。こめかみには青筋が浮いていた。「美玲、そんなふうに俺を見るな」「じゃあ、どう思えばいいの?」「俺は……」彼は言葉を詰まらせ、そのまま嗚咽し、もう続けられなかった。両手を苦しげに髪へ差し入れる。「本当に、あの恩に報いたかっただけなんだ」私は肩をすくめた。「それならちょうどいいじゃない。私はもういなくなったんだから、これで思う存分、彼女に報いればいいでしょう」
目の前にいるそのまったく見知らぬ顔を見つめ、蓮は申し訳なさそうに笑った。「すみません。もともとここに入院していた桐生美玲が、どの病室に移ったかご存じないですか?」相手は首を横に振った。「看護師さんに聞いたほうがいいですよ」蓮はそこでようやく我に返ったように、慌てて病室を飛び出し、看護師を探しに行った。「桐生美玲さんなら、一週間前にもう退院されましたよ。あの体の状態では本来退院なんて認められないんですけど、ご本人がどうしても同意書に署名して出るとおっしゃって……」看護師がそのあとも何か言っていたが、蓮の耳にはもう入ってこなかった。一週間前。蓮は受付のカウンターに手をつき、今にも立っていられなくなりそうだった。それは、彼が葵と一緒にアイスランドへ発った日だった。つまり、あの後ろ姿は見間違いなんかじゃなかった。あれは本当に、美玲だったのだ。蓮は狂ったようにスマホを取り出した。返ってきたのは、ただ冷たい機械音声だけだった。「おかけになった電話番号は現在使われておりません」彼の指は激しく震えていた。ビデオ通話をかけた。けれど、つながらなかった。嫌な予感がしてメッセージを送ってみると、画面には冷たく「送信できませんでした」とだけ表示された。ブロックされていた。電話だけじゃない。彼が美玲にたどり着ける、ありとあらゆる手段すべてで。心臓が見えない手で思いきり握り潰され、次の瞬間には突き放されたようだった。あとに残ったのは、空っぽに落ちていくような鈍い痛みだけだった。そして彼は気が狂ったように階下へ駆け下り、車を飛ばして家へ向かった。鍵を鍵穴に差し込み、扉を開ける。カーテンはぴたりと閉ざされ、部屋の中は薄暗かった。人の気配はない。部屋の配置こそ以前のままだったが、美玲のものだけがきれいさっぱり消えていた。ローテーブルの上に、見覚えのあるクラフト紙の封筒が置かれていた。蓮は歩み寄ってその封筒を手に取った。離婚協議書の文字が目に入ったその瞬間、彼はその場で凍りついた。全身の血が、いっせいに凍りついたようだった。彼はそのとき初めて知ったのだ。美玲が、あの時点でもう離れるつもりでいたことを。「いや、そんなはずない」彼はうわ言のようにつぶやいた。「美玲はきっと怒ってるだけ