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風過ぎて、オーロラは寂しい

風過ぎて、オーロラは寂しい

By:  ちょうどいいCompleted
Language: Japanese
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高橋蓮(たかはし れん)と結婚して五年目、私は病に倒れた。 彼はどんな代償も惜しまず、私に最も適合するドナーを見つけてくれた。 手術の一週間前、私は薬のせいで眠り込んでいて、目を覚ましたあと、手で触れたのはつるりとした頭皮だった。 渡辺葵(わたなべ あおい)はバリカンを手に、目を細めてにこにこと笑った。「美玲さん、どうせもうすぐ手術なんだし、私が剃ってあげたほうがちょうどよかったでしょ」 けれど、骨髄移植に髪を丸刈りにする必要なんて、もともとない。 「誰がそんなことしていいって言ったの、それは私の髪よ」 怒りのあまり、私は声を張り上げた。 そのとき、蓮がドアを押して入ってきた。 「葵はまだ若いし、ちょっといたずらが過ぎただけだ。美玲、そんなに目くじら立てるな」 彼はそこでいったん言葉を切り、私を見た。複雑な眼差しをしていたが、その言葉だけははっきりしていた。「それに、この子はお前に骨髄を提供してくれる人なんだから」

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Chapter 1

第1話

高橋蓮(たかはし れん)と結婚して五年目、私は病に倒れた。

彼はどんな代償も惜しまず、私に最も適合するドナーを見つけてくれた。

手術の一週間前、私は薬のせいで眠り込んでいて、目を覚ましたあと、手で触れたのはつるりとした頭皮だった。

渡辺葵(わたなべ あおい)はバリカンを手に、目を細めてにこにこと笑った。「美玲さん、どうせもうすぐ手術なんだし、私が剃ってあげたほうがちょうどよかったでしょ」

けれど、骨髄移植に髪を丸刈りにする必要なんて、もともとない。

「誰がそんなことしていいって言ったの、それは私の髪よ」

怒りのあまり、私は声を張り上げた。

そのとき、蓮がドアを押して入ってきた。

「葵はまだ若いし、ちょっといたずらが過ぎただけだ。美玲、そんなに目くじら立てるな」

彼はそこでいったん言葉を切り、私を見た。複雑な眼差しをしていたが、その言葉だけははっきりしていた。「それに、この子はお前に骨髄を提供してくれる人なんだから」

胸の中で荒れ狂っていた怒りも悔しさも、蓮のその一言で無理やり押し込められてしまった。

そうだ、彼女は私が生き延びるための希望だった。

私が黙り込むと、葵は得意げに私をちらりと見て、バリカンを何気なくベッドサイドテーブルに置き、困ったように言った。「蓮さん、私、ただ手伝ってあげたかっただけなのに。どうしてそんなにきつく当たるの?」

蓮は歩み寄ると、ごく自然に葵の髪をくしゃっと撫でた。「お前が優しさでやったのはわかってる。そんな顔するなよ。あとで、お前が行きたがってたあのフレンチに連れてってやる」

そう言ってから、彼はまたこちらを振り向き、その視線を私のつるつるになった頭皮へ落とした。「美玲、お前も大げさなんだよ。そんなに怒ることないだろ、たかが髪だ。またそのうち生えてくるんだから」

蓮はかつて、私のこの長い髪がいちばん好きだと言っていた。

昔、私が髪をとかしていて何本か抜けるだけでも、彼は大事そうに拾い上げて、ためておこうなんて笑っていた。

今、その髪は床に散らばったまま、何も語らない。

私はもう二人を見なかった。ただ、剥き出しになった頭頂の皮膚が、ひやりひやりと冷えていくのを感じていた。まるで冷たい風が、骨の隙間にまで直接吹き込んでくるようだった。

「大丈夫だよ。美玲さん、具合が悪ければ気分がすぐれないのも当たり前だもん」葵は聞き分けのいい顔でそう言いながら、そばのりんごを手に取った。「私、りんご剥いてあげる。病人はビタミンをちゃんと取らないとね」

私が答える前に、彼女はもう勝手にナイフを手にしていた。

蓮はその隣に立ち、かすかに微笑みながら彼女を見ていた。

葵のりんごの剥き方はひどくぎこちなく、皮はぶつぶつ途切れ、果肉ごと薄く削ぎ落としていたが、不意に「あっ」と小さく声を上げ、指を切った。

蓮はすぐに緊張したように彼女の手を取った。「なんでそんなに不注意なんだ。痛くないか?」

彼はポケットから絆創膏を取り出し、割れ物でも扱うみたいにそっと貼ってやった。

その一方で、私の手には、何日も点滴を続けたせいで、青の針跡やテープの跡がびっしり残っていた。

場所によっては、血がにじんでいるところもあった。

けれど彼は、それに気づいたことなんて一度もないみたいだった。

「大丈夫だよ、蓮さん。これっぽっちも痛くないから」葵は顔を上げて笑い、それから私のほうを向いて、でこぼこに剥かれたりんごを差し出した。「美玲さん、はい」

私はそのりんごを見て、胃の奥がぐっとかき回されるような気分になった。

「食べたくない」

蓮はたちまち眉をひそめた。「美玲、葵がお前のために剥いてくれたんだ。せっかくの気持ちを無下にするな」

「いらないって言ったでしょ」

私はもう一度そう言って目を閉じ、二人を見ないことにした。

蓮の声には、かすかな苛立ちが混じっていた。「お前、最近ますます気難しくなったな。葵はお前の命を助けに来てくれたんだぞ。もう少し優しくできないのか?」

葵は聞き分けのいい顔で、取りなすように言った。「蓮さん、怒らないで。美玲さんは具合が悪くてつらいんだから、気分が沈むのも当たり前だよ。私は気にしてないから」

蓮はため息をつき、葵の肩を抱いた。「先に出よう。少し頭を冷やさせたほうがいい」

閉まりきらなかったドアの隙間から、二人があのフレンチの話をしている声が聞こえてきた。

今夜、私に福々亭のコロッケを買ってきてくれると言っていたことを、蓮はどうやらもう忘れてしまっていたらしかった。
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第1話
高橋蓮(たかはし れん)と結婚して五年目、私は病に倒れた。彼はどんな代償も惜しまず、私に最も適合するドナーを見つけてくれた。手術の一週間前、私は薬のせいで眠り込んでいて、目を覚ましたあと、手で触れたのはつるりとした頭皮だった。渡辺葵(わたなべ あおい)はバリカンを手に、目を細めてにこにこと笑った。「美玲さん、どうせもうすぐ手術なんだし、私が剃ってあげたほうがちょうどよかったでしょ」けれど、骨髄移植に髪を丸刈りにする必要なんて、もともとない。「誰がそんなことしていいって言ったの、それは私の髪よ」怒りのあまり、私は声を張り上げた。そのとき、蓮がドアを押して入ってきた。「葵はまだ若いし、ちょっといたずらが過ぎただけだ。美玲、そんなに目くじら立てるな」彼はそこでいったん言葉を切り、私を見た。複雑な眼差しをしていたが、その言葉だけははっきりしていた。「それに、この子はお前に骨髄を提供してくれる人なんだから」胸の中で荒れ狂っていた怒りも悔しさも、蓮のその一言で無理やり押し込められてしまった。そうだ、彼女は私が生き延びるための希望だった。私が黙り込むと、葵は得意げに私をちらりと見て、バリカンを何気なくベッドサイドテーブルに置き、困ったように言った。「蓮さん、私、ただ手伝ってあげたかっただけなのに。どうしてそんなにきつく当たるの?」蓮は歩み寄ると、ごく自然に葵の髪をくしゃっと撫でた。「お前が優しさでやったのはわかってる。そんな顔するなよ。あとで、お前が行きたがってたあのフレンチに連れてってやる」そう言ってから、彼はまたこちらを振り向き、その視線を私のつるつるになった頭皮へ落とした。「美玲、お前も大げさなんだよ。そんなに怒ることないだろ、たかが髪だ。またそのうち生えてくるんだから」蓮はかつて、私のこの長い髪がいちばん好きだと言っていた。昔、私が髪をとかしていて何本か抜けるだけでも、彼は大事そうに拾い上げて、ためておこうなんて笑っていた。今、その髪は床に散らばったまま、何も語らない。私はもう二人を見なかった。ただ、剥き出しになった頭頂の皮膚が、ひやりひやりと冷えていくのを感じていた。まるで冷たい風が、骨の隙間にまで直接吹き込んでくるようだった。「大丈夫だよ。美玲さん、具合が悪ければ気分がすぐれないのも当たり前だ
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第2話
翌日、葵はアルバムを一冊持ってきた。「蓮さんが、最近ずっと寝てばかりで退屈してるだろうからって。気晴らしになるものを持ってきてあげたの」彼女は私のベッド脇の椅子に腰かけ、アルバムを開いた。写真が一枚、また一枚と、私の目の前を流れていく。蓮が彼女にコーヒーを買ってやる何気ない日常、彼女が静かに眠っている姿、そして二人で撮ったさまざまなツーショット。私は爪を深く掌に食い込ませた。鈍い痛みが走ったが、胸の奥を刺すようなその鋭い痛みは、どうしても抑えられなかった。「蓮さんって、写真撮るの上手でしょ?」葵は無邪気に笑った。「私のほうが美玲さんよりポーズの取り方がうまいから、自然に撮れるんだって」私はいきなりそのアルバムをひったくり、全身の力を込めて壁に叩きつけた。アルバムは壁にぶつかって鈍い音を立て、ビニールのカバーが裂けて、写真が雪のように床一面へ散った。「出ていって」歯の根が合わないほど震えていた。葵はさすがに驚いたようで、たちまち目の縁を赤くし、びくりと身をすくませた。「桐生美玲(きりゅう みれい)、お前はいったいいつまで騒げば気が済むんだ?」蓮が初めて、名指しで私を怒鳴った。こめかみに青筋が浮いていた。「葵が何をしたっていうんだ?ただお前を少しでも元気づけたかっただけだろ。少しは聞き分けてくれないのか」「元気づける?」私は笑った。けれど涙は何の前触れもなくこぼれ落ちた。「蓮、見えないの?私がつらいのが見えないの?この手の針跡も、痩せ細って別人みたいになった私も、何も見えないの?今のあなたの目には、もう彼女しか映ってないんでしょう?」私は葵を指さした。指先は震えていた。「彼女は若い、いたずらっ子、善意でやった。じゃあ私は?蓮、私はあなたの妻よ。私たち、結婚して五年になるの。今、本当に病気なのは私なのよ」蓮の頬の筋肉がぴくりと引きつった。彼は私の燃えるような視線を避け、硬い口調で言った。「変なことを考えるな。俺が今してることは、全部お前を助けるためだろ。葵の骨髄がなかったら、お前はどうするんだ?少しは俺のプレッシャーもわかってくれないのか」彼は腰をかがめ、床に落ちた何枚かの写真を拾い上げると、そっと埃を払った。その手つきはやさしかった。「美玲」彼は言った。「頼むから、手術のために、生きるために、も
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第3話
手術当日、蓮は私の手を強く握りしめ、緊張で額に汗をにじませていた。「怖がるな。俺はずっと手術室の外で待ってるから」看護師が同意書を持ってきて、彼に署名を求めた。葵は歩み寄ってきて私を見つめ、ふっと笑った。「安心して。ちゃんと助けてあげるから」彼女は腰をかがめ、私の耳元に顔を寄せた。「だって、蓮さんが約束してくれたのよ。美玲さんが元気になったら、私をアイスランドへオーロラを見に連れていってくれるって。あれはもともと、私に返されるはずのものなんだって」「そうだ、あとね」彼女は急に思い出したように言った。「美玲さんの髪を剃った日、蓮さんはずっとドアの外にいたの。私が待っててって言ったんだよ、あなたへのサプライズだからって。そしたら、あの人も頷いた」彼女の吐息が耳にかかり、私はぞくりと身を震わせた。蓮が歩いてきた。「何を話してるんだ?」葵は身を起こし、「別に。女の子同士の秘密だよ」と笑った。蓮はそれ以上は追及せず、真剣な眼差しで私を見た。「美玲、待ってるからな」手術室の扉が目の前で開き、そしてゆっくり閉じていく。意識が完全に闇へ沈むその一秒前、私の脳裏を最後によぎったのはこの五年間の蓮だった。私が何気なく、ある老舗の和菓子が好きだと口にしたとき、彼は三時間も並んで買ってきてくれた。出張から戻るたびに、彼のスーツケースの中はいつも私への土産でいっぱいだった。現地の名物菓子が入っていることもあれば、洒落たしおりが入っていることもあった。私が料理を覚えようとして作った真っ黒な一皿も、彼は顔色一つ変えずに平らげて、親指を立てて言った。「うちの奥さん、ほんと発想がすごいな。次も頑張れ!」そう言ってから、こっそり大きなコップ一杯の水を流し込んでいた。白血病だと診断されたあの日、彼は私を抱きしめ、私以上に体を震わせながら言った。「怖がるな、美玲。俺がいる。絶対に治してみせる。俺たちには、これから先もまだまだ何度も五年があるんだから」……次に目を開けたとき、私は病室にいた。きょろきょろと辺りを見回した私に、看護師が親切に声をかけてくれた。「旦那さんをお探しですか?今は渡辺さんについておられますよ」私はそっと目を閉じた。涙が枕へ染み込んでいく。それでも、この命は助かった。まだ生きていける。それがいちば
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第4話
蓮はその日、ひどく早く起きた。まだ夜が明けきらないうちから、わざわざ遠回りして、葵がいちばん好きだというあの店の朝食を買いに行った。あの子は味にうるさいし、しかも骨髄を提供したばかりで体も弱っている。ちゃんと手をかけて養ってやらなければならないって。朝食を提げて車に戻り、助手席に置いた、その瞬間だった。彼はふいに、美玲が昔から福々亭のコロッケを好んでいたことを思い出した。病気になってから食欲は落ちていたのに、それでも唯一少しだけ未練を見せていたのがあのコロッケだった気がする。何度も買ってやると約束した。けれど、そのたびに葵の体調不良に邪魔されるか、医者に呼ばれて話し込むことになるか、あるいは彼自身が忘れてしまっていた。今になって、その遅すぎた思いつきが何の前触れもなく彼の頭にぶつかってきた。彼は苛立たしげに眉をひそめ、反射的にスマホを開いた。【美玲、起きたか?急にお前がコロッケ食べたいって言ってたのを思い出した。こっちの用事が片づいたら、帰りに買っていく】しばらく待っても返信はなかった。まだ眠っているのか、それとも起きていてもスマホを見ていないのか。彼はそんなふうに考え、スマホを助手席に放り出してエンジンをかけた。葵は早くからマンションの下で待っていた。彼女のスーツケースを受け取り、まだ温かい朝食をその手に渡した。二人は並んで、予定どおり空港に着いた。そのとき、不意に彼の足がぴたりと止まった。少し先、搭乗手続きカウンター近くの大きな窓の前に立つ、見覚えのある後ろ姿が、雷のように彼の脳裏を貫いた。美玲?いや、まさか。そう思った瞬間、その考えを彼は強引に押し殺した。美玲が今いるはずなのは病院のベッドの上だ。起き上がるのにだって人の手を借りなければならないほど弱っているはずだった。見間違いに決まっている。彼はきつく目を閉じ、もう一度開いた。その人影はすでに手続きを終え、彼とは反対側の保安検査場へ向かって歩いていった。彼の胸がまた、わけもなくどくりと跳ねた。「何見てるの?」葵の声に意識を引き戻され、彼は首を振った。「いや、何でもない。見間違いだ」アイスランド行きの機内で、葵は彼にもたれて眠っていた。彼は窓の外でうねる雲海を見つめながら、どうしても空港で見たあの後ろ
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第5話
目の前にいるそのまったく見知らぬ顔を見つめ、蓮は申し訳なさそうに笑った。「すみません。もともとここに入院していた桐生美玲が、どの病室に移ったかご存じないですか?」相手は首を横に振った。「看護師さんに聞いたほうがいいですよ」蓮はそこでようやく我に返ったように、慌てて病室を飛び出し、看護師を探しに行った。「桐生美玲さんなら、一週間前にもう退院されましたよ。あの体の状態では本来退院なんて認められないんですけど、ご本人がどうしても同意書に署名して出るとおっしゃって……」看護師がそのあとも何か言っていたが、蓮の耳にはもう入ってこなかった。一週間前。蓮は受付のカウンターに手をつき、今にも立っていられなくなりそうだった。それは、彼が葵と一緒にアイスランドへ発った日だった。つまり、あの後ろ姿は見間違いなんかじゃなかった。あれは本当に、美玲だったのだ。蓮は狂ったようにスマホを取り出した。返ってきたのは、ただ冷たい機械音声だけだった。「おかけになった電話番号は現在使われておりません」彼の指は激しく震えていた。ビデオ通話をかけた。けれど、つながらなかった。嫌な予感がしてメッセージを送ってみると、画面には冷たく「送信できませんでした」とだけ表示された。ブロックされていた。電話だけじゃない。彼が美玲にたどり着ける、ありとあらゆる手段すべてで。心臓が見えない手で思いきり握り潰され、次の瞬間には突き放されたようだった。あとに残ったのは、空っぽに落ちていくような鈍い痛みだけだった。そして彼は気が狂ったように階下へ駆け下り、車を飛ばして家へ向かった。鍵を鍵穴に差し込み、扉を開ける。カーテンはぴたりと閉ざされ、部屋の中は薄暗かった。人の気配はない。部屋の配置こそ以前のままだったが、美玲のものだけがきれいさっぱり消えていた。ローテーブルの上に、見覚えのあるクラフト紙の封筒が置かれていた。蓮は歩み寄ってその封筒を手に取った。離婚協議書の文字が目に入ったその瞬間、彼はその場で凍りついた。全身の血が、いっせいに凍りついたようだった。彼はそのとき初めて知ったのだ。美玲が、あの時点でもう離れるつもりでいたことを。「いや、そんなはずない」彼はうわ言のようにつぶやいた。「美玲はきっと怒ってるだけ
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第6話
私は体に鞭打って、別の私立病院へ移った。回復にはひどく時間がかかり、剃り落とされた頭にも少しずつ新しい髪が生えてきた。毎日、窓から陽の光が差し込むたび、日々にもほんの少しだけ楽しみが生まれた。けれど、蓮がこんなにも早く私を見つけ出すなんて、思ってもみなかった。彼はまるで別人のようだった。顎には青黒い無精ひげが伸び、髪は乱れ、目は赤く充血していた。彼は一歩ずつ近づいてきて、震える声で言った。「美玲、本当にお前なんだな。やっと見つけた」私は静かに彼を見た。「高橋さん、何かご用?」その呼び方が彼を傷つけたのは明らかだった。彼の体がぐらりと揺れた。「美玲、そんなふうに呼ばないでくれ。この間ずっと……俺は本当に、お前に会いたくてたまらなかったんだ。もう怒らないでくれ。俺が悪かった。全部説明できる。俺と葵の間には何もない。ただ、お前を助けてくれたことに感謝していただけなんだ。それだけだ」「感謝?」私は思わず笑ってしまった。「あなたにとって感謝って、際限なく肩入れすることなの?二人で一緒に食べて、遊んで、楽しむことなの?」「違う、違うんだ」彼は苦しげに言い訳したが、その声には少しの説得力もなかった。「俺が愛してるのはお前だ。お前だけなんだ。彼女にああしていたのだって、お前の代わりに恩を返したかっただけなんだ」「私を愛してる?愛してるから、私がいちばんあなたを必要としていたときに、彼女とアイスランドへ行ったの?愛してるから、彼女が私の髪を丸刈りにするのを許したの?愛してるから、私が跡形もなく消えてからようやく思い出したの?」私は笑った。「それをまだ恩返しだなんて言うの?返し方なんていくらでもあるのに、どうしてよりにもよってそんなやり方を選んだの?そこに自分の私情が一切なかったなんて、言えるの?」「そんなことない!」蓮は尻尾を踏まれた猫みたいに突然怒鳴った。こめかみには青筋が浮いていた。「美玲、そんなふうに俺を見るな」「じゃあ、どう思えばいいの?」「俺は……」彼は言葉を詰まらせ、そのまま嗚咽し、もう続けられなかった。両手を苦しげに髪へ差し入れる。「本当に、あの恩に報いたかっただけなんだ」私は肩をすくめた。「それならちょうどいいじゃない。私はもういなくなったんだから、これで思う存分、彼女に報いればいいでしょう」
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第7話
一か月後、葵がまた私の家の前に現れた。以前のような華やかさはもうなく、彼女は開口一番こう言った。「あの人を返しに来たの」私は中へは入れず、ただ面白がるように彼女を見た。「へえ?」「蓮さん、頭がおかしくなっちゃったの」葵の声は震え始めていた。「彼、あちこちで言いふらしてるの。私がしつこく付きまとってきた、恥知らずな愛人だって。前に私たちで撮った写真も、全部ネットにばらまいたの。それだけじゃなくて、私の実家にまで行って言いふらしたの。今じゃこのことをみんな知ってる。私は職を失ったし、出した履歴書も全部まるで音沙汰なし。道を歩いていても、みんなにひそひそ噂される。あの人はもう、名声も体面もいらないの。自分ごと私を道連れにして、全部壊すつもりなの」彼女は大きく息を吸い込んだ。今にも窒息しそうなほどで、次の瞬間には、前触れもなく涙がこぼれ落ちた。「美玲さん、私、本当に間違ってた。彼がああいうことをしてるのは、全部あなたに見せつけるためなの。私を壊すことで、自分がどれだけ後悔してるか、どれだけあなたを愛してるかを証明しようとしてる。だから、あの人をあなたに返す」「それで、言いたいことは終わり?」私は静かな声でそう言った。葵は一瞬呆けたようにして、それから戸惑いながら頷いた。「じゃあ、もう帰って」私はドアのほうへ歩き、彼女に立ち去るよう示した。「あなたの謝罪は受け取った。でも、私と蓮の間のことは、あなたには関係ない。だいたい、ここが何に見えるの?不用品の回収所か何か?」葵は、まさかそんな反応を返されるとは思っていなかったのだろう。その場に立ち尽くし、どうしていいかわからない様子だった。「それから、蓮があなたにしていることについてだけど」私は少し言葉を切ってから、彼女を見た。「それはあなたたちの問題なの、私には関係ない。来る相手を間違えてるわ。どの道を選ぶかは自分次第。その代償を払うのも自分しかいないの。もう子供じゃないんだから、それくらい私に言われるまでもないでしょう」最後に一度だけ彼女を見て、私は言った。「もう二度と、私のところへ来ないで」葵は口を開き、まだ何か言いたげだった。けれど私は、もうドアを閉めていた。私の暮らしは、そのまま決まった軌道を静かに進んでいった。再検査を受け、薬を
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第8話
一週間後、私は株式譲渡契約書と不動産贈与契約書を受け取った。手に取るとずしりと重くて、その中にさらに封筒が一つ入っているなんて思わなかった。中には、昔私たちが撮ったツーショット写真が詰められていた。蓮は、それを一枚一枚印刷していた。昔の私は写真を撮るのが大好きだったけれど、蓮はいつも、そんなもの必要ないと言っていた。それでも、私が撮ろうとすると、彼は文句も言わずちゃんと隣に寄ってきて、撮られてくれた。その中の一枚一枚が、私をあの頃へ引き戻していく。別れてからまだそれほど経っていないはずなのに、記憶の中では、あれはもうずっと昔のことのように思えた。写真のいちばん最後には、蓮からの手紙まで添えられていた。これは、結婚前の彼がいちばん大事にしていたことだった。何通もの手紙を私に書いてくれて、彼はよく言っていた。手紙は、写真よりもっと意味のあるものだと。でもそのうち、彼は私に手紙を書かなくなった。それどころか、話をすることさえ億劫そうになっていった。私はその手紙をろくに読まなかった。ただ、何気なく最後の結びだけが目に入った。そこにはこう書かれていた。【俺たちがこんな結末を迎えるなんて、一度も思ったことはなかった】【ごめん】本当は、私だって、こんなふうになるなんて思っていなかった。私の思い描いていた未来では、私たちはきっと、このまま穏やかに幸せな一生を共にできるはずだった。だって、あれほど深く愛し合っていたのだから。けれど残念ながら、この世界のことはたいてい、願ったとおりにはいかない。私は手紙を細かく引き裂いて、そのままゴミ箱へ捨てた。そしてようやく、心は完全に静まった。恨みもなければ、未練もない。私の中では、すべてがようやく完全に終わったのだ。その後、私は二度と蓮の名前を耳にすることはなかった。破産して自殺したらしいと語る人もいれば、何か問題を起こして海外へ逃げたらしいと言う人もいた。私はただ笑って、軽く「ああ、そう」と返すだけだった。それ以上は聞かず、確かめもせず、ただそんな噂が勝手に空気の中へ消えていくのに任せた。生きていようが死んでいようが、彼のすべてはもう私とは無関係だった。私の髪はようやく、昔と同じ長さまで伸びた。頬にも少しずつ健康的な血色が戻り、体もどんどんよくなっていっ
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