LOGIN私の婚約者の真宮湊(まみや みなと)は、清廉な仏弟子だった。 付き合って二年になるけれど、彼は一度たりとも私に触れたことがない。かつて仏の前で「戒を破らぬ」と誓ったからだと言う。 湊はさらに、妊娠するまでは籍を入れるつもりはないと、人工授精を先に受けるよう求めてきた。 ようやく妊娠がわかったとき、湊は静かに微笑んで、私に盛大な結婚式を約束してくれた。 けれど、結婚式当日、私は彼に九十九回電話をかけたが、彼はとうとう現れなかった。 代わりに届いたのは、彼の義姉香月紗良(こうづき さら)からの一通のメッセージ。 添付されていた動画に映っていたのは、ベッドの上で彼女と絡み合う湊の姿だった。あの清廉な彼の面影など、そこには微塵もなかった。 その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。 戒を破れなかったんじゃない。私が、愛される相手じゃなかっただけ。 しばらくして、湊からメッセージが届いた。 【昨日の夜、紗良が熱を出してね、放っておけなかった】 【君も知ってるだろう。兄貴はもういない。今、彼女には俺しかいないんだ】 【結婚のことは、彼女の体調が落ち着いてから、改めて考えよう】 私はスマホの画面を見つめたまま、ただ黙って涙をこぼした。 そして父に電話をかけた。 「お父さん、決めたよ。政略結婚、受けることにした」
View More「このマーメイドラインのドレス、ウエストがより細く見えて本当にお似合いですよ」ウェディングドレス店の店員は鏡を持ったまま、私の周りをくるくると回りながらそう言った。ちょうどそのとき、隣の試着室から抑えた声の会話が聞こえてきた。「聞いた?真宮製薬、一晩で倒産したんだって。真宮湊、取引先に追い回されてるらしいよ」「自業自得じゃん。あの浮気動画、見てない人なんていないだろう」もうひとつの声があざけるように笑った。「結局、女も会社も両方失ってるしね」私は鏡に映る自分を見つめながら、そっと真珠のピアスを直し、口元には、どこか吹っ切れたような笑みが浮かんでいた。あの頃の憎しみも悔しさも、もうとっくに心の奥に沈めてしまった。「陽菜」一真がふいに立ち上がり、そっと私の前に片膝をついた。その手には、大粒のダイヤがきらめく指輪が静かに掲げられていた。「結婚式の日取りはもう決まってるけど、どうしても、ちゃんとした形で伝えたかったんだ。高坂陽菜、僕と結婚してください」周囲からは、感嘆の息が漏れた。熱くなった目元をごまかすように、私はそっと彼の手の上に自分の手を重ねる。「一真、はい……私、あなたと結婚する」彼は私の指先にそっと口づけ、指輪をはめてくれた。挙式の日。陽光が島の砂浜を琥珀色に染め上げ、まるで蜜に包まれたような景色が広がっていた。私は煌めくビジューをちりばめたウェディングドレスに身を包み、静かにバージンロードを歩く。その先で、目を赤く潤ませた一真が、そっと両手を差し伸べて私を迎えてくれた。「動くな!」つぎの瞬間、鋭い怒声がその場の空気を裂いた。振り返る間もなく、男が私に向かって突進してきた。真宮湊だった。酒臭く乱れたスーツ姿、乱れた髪の隙間から血走った目がのぞいている。そして、鋭い刃物が私の首元に押し当てられた。「もう俺には何もない!会社も潰れて、契約も切られて。全部、お前のせいだ!」湊は突然顔を上げ、一真に怒鳴り声をあげた。「お前さえ現れなければ、陽菜はまだ俺のそばにいたはずなんだ」彼はさらに顔を近づけ、アルコールの匂いをまとった息がかかる。「陽菜……お前しかいないんだ。なあ、一緒に来てくれよ。これからは、お前だけを大事にするって誓うから」「湊、落ち着いて」恐怖
言葉を継ぐ間もなく、一真は私の顔を両手で包み込んだ。「説明なんていらない。僕は君を信じてる」湊はよろめきながら扉を押し開けた。部屋の中には、紗良がいる。彼が買い与えたシルクのナイトガウンをまとい、ソファにだらしなくもたれかかってスマホをいじっていた。湊の荒れた様子を見て、彼女はすっと立ち上がる。「どこ行ってたの?メッセージ、何度も送ったのに、全然返事くれないじゃない」「全部、お前のせいだ」湊は真っ赤な目で紗良に詰め寄り、怒りのままに彼女の襟首を掴んだ。「なぜ動画を陽菜に送った!なんでだ」紗良のスマホが床に落ち、パキッと音を立てて画面が砕け散った。「苦しいっ……離してよ、狂ってるの」「俺の人生をめちゃくちゃにしたのは、お前だ」湊は彼女を突き飛ばし、紗良はよろめいてテーブルの角にぶつかり、膝からじわりと血がにじみ出た。「高坂グループの一人娘なんて……俺は陽菜を、あの陽菜を手放してしまったんだ」「な、何を言ってるの」紗良は顔面を蒼白にしながら身を起こし、声を震わせた。「陽菜って……まさか」「今、業界中が大騒ぎさ。高坂家と黒澤家が婚約するってな」湊はテーブルの上にあった花瓶を壁に叩きつけた。花瓶は粉々に砕け、破片が四方に飛び散る。「お前さえいなければ、俺が高坂家の婿になってたんだ」「バンッ」と、寝室のドアが勢いよく開かれ、湊の母親が飛び出してきた。「あんたたち、何やってるの!家を壊す気なの」彼女は一目で部屋の荒れようを見て取り、「高坂家の一人娘」という言葉が耳に届いた瞬間、その顔に衝撃の色が走った。「だ、だれだって?高坂家の……婿」湊は砕け散った陶器の破片の中にへたり込み、ふいに声を上げて笑った。その笑いには、どうしようもない苦さが滲んでいた。「お母さん……陽菜は高坂グループの会長の、たった一人の娘だったんだ」頬からすっと色が消え、湊の母は呆然と壁にもたれた。「じゃあ……ネットでの噂、本当だったの?黒澤家との縁談って」「本当だ。だが俺は、その縁談を自分の手で、黒澤一真にやったんだ」すると突然、紗良が甲高く笑い出す。「アハハハ……結局、私じゃなくて彼女の家柄を愛しているのね」「黙れ!」湊の母が怒りに任せて紗良に平手打ちを食らわせた。「このふしだらな女
「彼女は僕の婚約者、高坂グループの一人娘──高坂陽菜です」一真は私の腰に回した腕にぐっと力を込めた。湊の顔から血の気が引き、私の顔をまじまじと見つめながら、喉仏が激しく上下する。「……君が……どうして」「もう行こう」私は湊に一瞥もくれず、一真の腕を取り、そのまま会場を後にした。今日は一真の母の誕生日パーティー。こんな場所で湊と修羅場を演じるつもりなんてない。「陽菜」背後から明るい声が飛んできた。振り返ると、十センチヒールに赤いソールのパンプスを履いた一真の母が、満面の笑みでこちらへ歩いてくる。「やっと会えたわね!一真ったら、高校のときのクラス委員長がどうのって、毎日のように家で話してたのよ」彼女は有無を言わせず私を抱きしめ、ふわりと漂うバラの香水とぬくもりに包まれた。「その時にあんたがいてくれてなかったら、この頑固者がどれだけ苦労したか分からないわ」パーティのあいだ、一真の母はほとんど私の手を離そうとしなかった。シャンパングラスを片手に、来る人来る人に言う。「この子がうちの一真の婚約者よ」私はお世辞の波に飲み込まれ、顔が火照ってどうしようもなかった。冷房の効いた会場なのに、頬が熱を帯びているのを感じた。私は一真に「ちょっと風にあたってくる」と合図した。バルコニーに出て、夜風を感じてようやく息をついたとき――背後から、カツンと革靴が落ち葉を踏む音が響く。「陽菜」掠れた声がした。振り向くと、そこには湊が立っていた。「……なぜ、高坂グループの令嬢の身分を隠していたんだ」私はくるりと背を向けて手すりに寄りかかり、皮肉な笑みを浮かべながら彼を見据えた。「父と賭けをしたの。あなたが私の家柄なんかじゃなく、私自身を本気で愛してくれるなら――結婚を認めてもらえるってね」思い出が胸をよぎり、私は思わず吹き出してしまった。「でも、全部私の負けだった」湊が一歩踏み出した拍子に、スーツの袖口から手首の古傷がちらりと覗いた――あれは昔、私を庇って不良に立ち向かったときにできたものだ。けれど今、それを見ても、胸に浮かぶのはただの皮肉だった。「君がそんな家の娘だなんて……知らなかった。もし最初からわかってたら」「わかってたら?私が『金のなる木』だって気づいて、必死に縋りつい
私は彼を見つめたまま、言葉を失っていた。「ずっと、君を探してた」一真はふいに身を寄せ、その声が耳元をかすめる。「君との縁談の話を聞いたとき、やっと神様が味方してくれたと思った。陽菜、高校のときからずっと君が好きだった。今まで一度も、想いが薄れたことなんてない」私は、どうしようもなく、頬が熱くなるのを感じた。デパートでの買い物に、一真は三時間も付き合ってくれた。限定ジュエリーにオートクチュールのドレス――どれも彼と選んだ品は、上質な包みに収められていき、どれも細部までこだわりの光る品ばかりだった。黒のマイバッハが豊ヶ丘の高坂家の邸宅前に停まったとき、私は少し緊張していた。家に帰るのは、ずいぶん久しぶりだった。「陽菜」「ギィ……」と音を立てて彫刻入りの鉄門が開いた瞬間、両親の姿が目に飛び込んできた。私はもう堪えきれず、二人の胸に飛び込んで号泣した。「ごめんなさい……親不孝な娘で」「帰ってきてくれただけで、十分よ……もう十分よ」母は震える手で背中をさすり、声を詰まらせながら言った。父は目を真っ赤にして、慌てて顔をぬぐった。そして、私の後ろに立つ一真に気づくと、すぐに表情を和らげて笑顔を向けた。「さあ、早く中へ。一真くんも一緒に食事しよう」食卓では、一真が自然な仕草で私の皿に料理を取り分け、海外での子ども時代のエピソードで、両親を何度も笑わせていた。誰も真宮湊のことには触れなかった。私が家を出ていたあいだの苦しさにも、何ひとつ聞かれなかった。そっと包み込んでくれるようなこの静かな優しさが、私の胸の奥を何度も熱くさせた。「明日はうちの母の誕生日なんです」食後、一真は箸を置き、優しい眼差しで私を見つめた。「ぜひご両親にもお越しいただきたい。それから、僕たちの結婚のことも、ちゃんとお話ししたくて」堂々としたその言葉に、私は真っ赤になって俯いてしまった。帰りの際、一真は私に小さなベルベットの箱を渡してきた。箱を開けた瞬間、月明かりの下で猫目石のネックレスが妖しくも美しい光を湛え、きらきらと輝いた。先月、フランスのオークションで天価で落札された、世界にひとつしかない逸品だった。「世界に、たったひとつだけだ」一真は私の顎にそっと手を添え、真剣な眼差しで見つめてくる。「世界で一番いいも