LOGIN美羽には、翔太の意図がまったく分からなかった。マンションを贈るのは「補償」だとして、花でいったい何を補償するというのだろう。彼女は手にしたカードを見つめた。「夜月」という字は機械的に印字されているのに、不思議と彼が自ら手書きした名前の筆跡が目に浮かんでしまう。かつて彼女は秘書として、彼が契約書に自分の名を署名する姿を幾度も見てきた。その字は流麗で力強く、とても美しかった。彼を最も好きだった頃は、何をしても崇拝の眼差しで見つめていた。暇があれば白紙に、彼の名前を真似して繰り返し書いていた――夜月翔太、夜月翔太……一筆一筆、真剣に。その姿を一度、彼本人に見られてしまったことがあった。彼は興味深そうに片眉を上げ、彼女は慌てて書類で隠し、顔を伏せた。冷ややかさと薄い揶揄の混じる彼の眼差しに耐えられず、耳まで真っ赤にしたものだった。「……」今の美羽なら、もう何も感じなくなり、麻痺しているはずなのに。どうしてこんなことを思い出して、胸の奥がチクリと痛んだのか。彼女はカードを花束に差し戻し、そのまま抱えて会社の入口へ。ゴミ箱の蓋を開け、無表情のまま花を投げ捨てた。蒼生のおかげで、最近は花を捨てる手つきがどんどん板についてきた。ちょうどそのとき、背後で拍手の音が響いた。思わず振り向くと――蒼生が笑みを浮かべて歩み寄ってきた。「やっと分かったよ。君が俺の花を捨てる姿がね」「……」美羽は一瞬で仕事モードに切り替え、丁寧に応じた。「霧島社長、どうしてこちらへ?」「言っただろ?君が危ない目に遭わないか心配で、様子を見に来たんだ」蒼生はゴミ箱を一瞥した。「君が受け取った『得体の知れない荷物』って、その花のこと?」美羽は答えを曖昧にし、そのまま話を切り上げようとした。「ご覧のとおり、何も問題ありません。お仕事に戻られては」「仕事はもう済ませた。今の俺の唯一の任務は――彼女を口説くことさ」蒼生はにこやかに言った。美羽は、まるでその「彼女」が自分ではないかのように、すっとかわした。「それでは失礼します。まだ仕事がありますので」「待ってるよ、終わるまで」蒼生は気にしなかった。彼女は一秒も迷わず社内へと足早に入っていった。蒼生は目線を戻し、ふとゴミ箱の脇に落ちている一枚のカードを見つけた。彼女が花を捨てたときにこぼれたのだ
美羽はその場で固まってしまった。確認すると、名義人はまさに自分の名前だった。物件の立地は、相川グループの会社にもほど近い高級マンション。「……」美羽は頭の中でしばし嵐のように考えを巡らせ、まず慶太の線を消した。彼がこんな突拍子もないことをするはずがない。仮にマンションを贈るつもりだったとしても、必ず事前に一言伝えてくれるはずだ。こんな突飛なことをする人間といえば……美羽はすぐに蒼生にメッセージを送った。【霧島社長、会社に何か送ってきたりしましたか?】彼はこれまでに何度も花を贈ってきたので、この場違いな出来事も彼の仕業だと疑うのは自然なことだった。蒼生は忙しかったのか、すぐには返事をせず、1時間以上経ってから電話をかけてきた。「真田秘書は、今日まだ花が届いてないことをわざわざ思い出させてくれたのかな?君の言うとおり、無駄遣いせずにその分を慈善に寄付することにしたんだよ」美羽はわずかに眉をひそめた。「じゃあ今日は何も送っていないんですね?」蒼生は指でペンを弄びながら、からかうように笑った。「じゃあつまり、差出人不明の荷物を受け取ったってこと?……触らないほうがいい。今すぐ君のところに行って一緒に開けるよ。もし爆弾か暗器だったら、俺のハニーが怪我でもしたら大変だからね」美羽は彼の言葉を気にせず受け流した。「霧島社長、こちらは何も問題ありませんので、どうか来ないでください。お仕事の邪魔をしてすみません、それでは」彼女は即座に電話を切った。蒼生はスマホを見つめ、口角を上げると、秘書を呼んだ。「調べさせてた件、どうなった?」秘書は調べた資料を差し出した。蒼生はパラパラと目を通し、指先で書類を弾くと、車のキーを手に立ち上がった。「同伴は不要だ」……美羽はなおも登記識別情報のことで考え込んでいた。蒼生ではないのなら、残る可能性は――翔太しかいない。あり得ないとは思いながらも、他に候補はいなかった。彼女は迷いに迷った末、登記識別情報通知の写真を撮り、翔太に送りつけた。メッセージには【?】を添えて。すぐに返信が来た。【何人か候補を挙げてから、最後に俺に辿り着いたってわけか?】本当に彼だった!美羽は混乱した。【どうして私にこれを?】翔太は気軽に返した。【昨夜あれだけ俺を責めただろう。良心の呵責
「夜月社長、私たちはもう終わったの。私が突然いなくなったから、未練があるのは理解する。でももうこんなに時間が経ったんだから、現実を受け入れるべきじゃないか。これ以上、私なんか……『夜月社長に飽きられた女』に執着する必要はない」「飽きられた女」も、「使い古し」も、そう言ったのは他ならぬ彼だった。翔太が一歩、彼女に近づいた。駐車場は明かりが乏しく、彼の顔立ちはぼんやりとしか見えず、その感情もそうだ。「言え、続けろ。他には?俺が何を言った?」美羽は少し考え、苦笑した。「気に入らない、釣り合わない、育ちが悪い、軽すぎる……」ただ復唱しているだけなのに、胸が締め付けられるように痛んだ。どんな女の子でも、そんな侮辱を浴びせられて、何も感じないはずがない。「夜月社長は遊びたいだけなら、相手なんていくらでもいる。望めば、女なんて手を伸ばすだけで手に入るでしょう。でも私は……家族を背負って生きるだけで精一杯なの。ほんとうに、遊びなんてしている余裕はない」美羽は頭を垂れ、翔太の表情を見ようともせず、自分の顔も見られようとはしなかった。時が止まったように、二人の間に沈黙が落ちた。ただ風だけが吹き抜けていく。やがて、翔太は何も言わず、袋に入った上着を彼女に投げ渡すと、そのまま車に乗り込み去っていった。車の尾灯が消えていくのを見届けた後、美羽は目尻に手をやった。濡れた感触。指先についた雫を見て、口元を歪めた。少し自嘲気味に。――まさか、本当に自分で自分を泣かせるなんて。彼女が「惨めさ」を演じるのは、同情を乞うためじゃない。ただ、彼の中にわずかに残っているであろう良心に触れ、一刻も早く解放してほしいだけ。ロトフィ山荘でも一度そうしたことがあった。あのとき気づいたのだ。情の薄い翔太は、意外にも「弱さ」に弱いのだと。だから月咲は彼に好かれているだろう。月咲は本当に「いかにも可哀想」といった風情を漂わせるのだから。美羽は生きるだけで大変なのに、結局自分も一番嫌っていたやり方を学ばないと。無表情のまま美羽は配車アプリを呼び、車が来るのを待ちながら音羽にメッセージを送った。――上着は受け取った、と。すぐに返信が来た。【え、うちの従兄もう渡しに行きましたか?】【今日は翠光市の緒方家で双子のお宮参りがあって、そこで会った
彼の掌は熱く、その感触はどうしても無視できなかった。美羽の体は思わず強張り、何か言おうとした矢先、翔太は彼女を放して、礼儀正しく一歩退いた。まるで本当に「紳士的に」支えただけ、ただそれだけのように。美羽は慌ててドレスを整え、訝しげに彼を二度見すると、手を差し出した。「服を返してください」翔太は自分の腕にかけていた上着を差し出した。美羽は手を引っ込めて言った。「相川教授の上着をください」翔太の目が細くなった。美羽は仕方なく説明した。「あれは相川教授の上着なの。返さなきゃならないから」翔太の表情は、今にも上着をそのままゴミ箱に放り込みそうに見えた。だが、数秒の沈黙のあと、結局彼はそれを渡した。美羽は慌てて受け取り、意外にも素直に返してきたことに驚いた。「大の男が香水なんてつけて、女々しいと思わないのか」慶太の上着には、ごく淡いシナモンの香りが残っていた。温かく優しいその香りは、彼の纏う雰囲気に溶け込み、決して翔太の言うような侮蔑には当たらない。美羽は小声で反論した。「それは一種の社交マナーよ」翔太が使わないからといって、異常なことではない。根拠もなく人を貶すのは、あまりにも暇すぎる。それでも、今夜は三度も彼女に「譲歩」した。それが美羽には意外で仕方がなかった。以前なら、絶対にあり得なかったからだ。彼女は上着を羽織らず、きちんと畳んで腕に抱えた。その仕草に、翔太の表情がわずかに和らいだ。「この前音羽に借りた上着、俺が預かってる。君に返すよう頼まれているんだ」美羽はうなずいた。「夜月社長が誰かに届けさせてくれればいい」「いいだろう。なら今の君の住所を送ってこい」と翔太が言った。美羽は一瞬止まり、翠光市の住まいを知られたくなくて、やんわりと言った。「相川グループ宛に送ってもらえばいい」「俺に住んでる場所を知られるのがそんなに嫌か?俺を警戒してる?」と翔太の口元がわずかに歪んだ。「本気で調べようと思えば、わざわざ聞く必要もないだろう」彼がその気になれば、何もかも調べ上げられるのは明らかだった。美羽は目を伏せ、穏やかに言葉を濁した。「考えすぎだよ。そんなつもりはない」翔太は珍しくしつこく迫った。「なら、俺が送ってやろう。ちょうどここで抜けられる」美羽はもう耐えきれず、再びやんわりと断った。
美羽は聞き返すように振り返った。「夜月社長、今なんと?」部屋は床暖房で十分に温かく、翔太はジャケットを脱いで腕に掛け、白いシャツに濃いグレーのニットベスト姿だった。袖留めをしていて、布地に縛られた腕の筋肉の線が際立ち、上品さと野性味が同時に存在している。これほど近い距離で、彼の言葉が聞き取れないはずはない。わざと聞こえないふりをしていることなど分かっていた。翔太は冷笑し、「何でもない」とだけ言った。美羽は双子の赤ん坊に視線を戻した。――そう、彼女はただ関わりたくなかった。なぜ突然あんなことを口にするのか、彼女には分からない。あの子は、たとえ流産せずとも、彼が産ませるはずがなかった。痛みで倒れた時に「流産だ」と誤解されたあの日、彼自身がすでに答えを示していた。だから彼女は、子供のことなど話題にしたくない。奇妙だし、無意味だから。静かに眠っていた双子は、美羽が身をかがめて覗き込んだ瞬間、片方が突然泣き出した。驚いた彼女の目の前で、もう一人もつられて泣き始めた。自分が起こしてしまったのかと、美羽は慌てた。その手を、翔太が掴んでベビーベッドから離した。乳母が慌てて駆け寄り、赤ん坊を抱き上げた。「どうしたんでしょう、急に泣き出して……」美羽が説明しようとした時、翔太は彼女の手首を強く握った。怪訝に振り返ると、彼は無表情。ちょうどその時、乳母が原因を見つけた。「……あら、うんちしてましたね。お嬢様と若様はこうなんです。片方が泣くと、もう片方も泣き出してしまうんですよ。失礼します、今すぐキレイにしてきますね」「ええ、お願いします」美羽は安堵の息をついた。自分の爪で傷つけたのかと、内心冷や汗をかいていたのだ。翔太が淡々と告げた。「君のせいじゃない。どうして急いで自分の非にしたがる?」「非を認めたかったんじゃありません。赤ちゃんが泣く前に何があったか伝えれば、乳母さんが原因を早く突き止められるでしょう?」「他人から見れば、それは『言い訳』や『自己弁解』だ」翔太は冷ややかに言った。「自分に関係のないことなら、余計な口を挟まず、聞かれた時に答えればいい」美羽は黙った。普段なら確かに関わらない。しかし相手が子供なら、心配になってしまう。何かあったら取り返しがつかないから。彼女は横目で
しかし最後まで、翔太と慶太は美羽の返事を聞くことはなかった。ちょうどその時、慶太の携帯が鳴り、結菜からの電話だった。「お兄さん、今どこなの?私、大変なことになっちゃった、早く助けに来て!」慶太は眉をひそめた。「結菜、落ち着け。何があったんだ?」結菜は怯え切った様子で、しどろもどろに言った。「わ、私……運転中にちょっとスマホを見ちゃって、それで顔を上げたら前に人が横断しようとしてて……」慶太の胸が一瞬冷たくなった。「それで?」「慌ててハンドルを切って避けたら、車がグリーンベルトに突っ込んで動かなくなっちゃったの……どうしよう、怖いよ、早く来て助けて……」「誰もケガしてないなら幸運だと思え。運転中にスマホを見るなんて誰が教えた?まだ泣く余裕があるのか。悠真兄に知られたら足を折られるぞ」「うう……もう叱らないでよ、お願いだから早く来て……」「まず車から降りて安全な場所に行け。位置情報を送れ、すぐ行く」事情を察した美羽は言った。「行ってあげて。結菜さん、きっと怯えてるわ」妹のことが気がかりな慶太はうなずき、急いで歩き出した。しかし何か思い直したように足を止め、戻ってきて美羽の前に立った。「明日のお昼、僕がご馳走する」「明日は忙しいから、時間がないと思う」「じゃあ明後日」美羽は苦笑した。「時間がある時にしましょう」はっきりした答えを得られず、不満は残ったが、結菜の件は待てなかった。「じゃあせめて、もう僕を避けたりしないって約束してくれる?」美羽は少し迷ったが、結局うなずいた。「……うん」ようやく返事をもらえて、慶太は笑みを浮かべ、その場を去った。彼の姿が消えるのを見届けてから、美羽はスマホを取り出して時間を確認した。宴会場に戻ってあと15分ほど顔を出してから、緒方夫人に挨拶して退席しよう。そうすれば無礼にはならない。そう考えた時、不意に頭上から何かが軽く落ちてきて、「きゃっ」と声を上げた。転がり落ちてきたものを反射的に受け止めると、それは一輪のピンクの牡丹だった。彼女は呆然として顔を上げた。すると二階の窓辺に、手すりに両手を置いて立つ翔太の姿があった。「……」彼を目にした途端、美羽の神経は反射的に緊張した。――やっぱり、さっきの冷淡に線を引く態度は嘘だった。結局また自分をからかいに