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第8話

Author: 麦穂
「彼女は自分で転んだフリをした」

千夏は眉間に深い皺を寄せ、歯の隙間から声を絞り出すように言った。

「私に、彼女を押す力なんてないわ。全部、彼女の自作自演なのよ。どうして、私が謝らなきゃいけないの?」

今の千夏は、傍らの机にすがりついてやっと地面に倒れ込まずに済んでいた。

龍生の視線は刃のように鋭く、全てを貫くように千夏に突き刺さる。

「お前が言いたいのは、愛莉が腹の子の命を使ってまで、わざとお前を陥れたってことか。

自分の子供をそんなふうに利用する母親がどこにいる。彼女に何の得があるんだ?」

千夏は他の女を必死で庇う龍生をじっと見つめ、その瞳は水底のように静まり返っていた。

沈黙の後、口元に皮肉な笑みを浮かべて言う。

「もちろん、橋本夫人の座のためよ。私はもう別れを切り出したわ。あなた達の望み通りに」

結婚式の前に婚姻届を出していなかったことを、この時ほどありがたく思ったことはなかった。離婚の話し合いにまで進まずに済んだからだ。

龍生の顔に一瞬で陰りが走り、呼吸は荒くなる。

「千夏!俺は一度も別れるなんて言ってない!

最初から最後まで勝手に暴れてるのはお前だ。分かれたいだと?ふざけるな!今日、病院で起こったこと全部、愛莉に対する謝罪としてお前が処理してこい!」

千夏は視界がますますぼやけ、頭もくらくらしていた。春菜との約束の時間は刻一刻と迫ってきている。焦燥が胸を締めつけ、ただこの息苦しい場所から離れたいと願うばかりだった。

だが踵を返そうとした瞬間、龍生に乱暴に腕をつかまれた。

「お前の友達の春菜、最近大金を入れて会社を立ち上げたばかりだろ?その資金を丸ごと水の泡にしたくはないよな」

龍生の声は氷のように冷たく、蛇の舌のようにぞっとするほど陰湿で、千夏の背を悪寒が駆け抜けた。

「……私を脅してるの?」

「千夏」

龍生の口元に冷酷な笑みが浮かぶ。その瞳には露骨な威圧が宿っていた。

「先に脅してきたのはお前だろ。俺はお前を何年も養ってきた。ようやく俺達の子供も授かったんだ。逃げられると思うな」

その言葉に、千夏の胸は無数の針で刺されたように痛み、一度鼓動する度に胸の奥に激痛が走る。

子供が欲しいと言ったのは龍生だった。だから彼女は苦しさに耐えた。

けれど結果は、自分の子供が他人の子供に踏みにじられる仕打ち。

妊活が辛いと言ったのも龍生だった。だから彼女は仕事を辞め、夢まで捨てて体外受精の準備に専念した。

だが最後には、「男に寄生するだけの女」だと罵られる。

滑稽で、そして耐えがたい屈辱だった。

千夏は手に握った流産の診断書をきつく握りしめ、龍生の冷たい瞳を見つめて、歯を食いしばりながら答えた。

「……わかった」

どうせ今日を越えれば、ここを、そしてこの男を二度と見なくて済む。

今は耐えればいい、それだけだ。

愛莉は挑発するように視線を寄越しながらも、声色だけは遠慮がちで可哀想ぶる。

「上野さんは妊娠中なんです、こんなふうに一日中走り回ったら体に障りますよ」

龍生は書類を全部千夏に押し付けた。

受付、検査、報告書の受取、会計……

そして愛莉を振り返ると、口調は一変して優しくなる。

「大丈夫だ。二ヶ月経てば安定期だし、一日くらい動き回っても支障はない。俺が普段から甘やかしすぎたんだ。これを機に妊娠中の大変さをちょっとは味わわせてやらないとな」

だが千夏に向き直った時、その声は再び冷たく落ちた。

「検査、一つも漏らすな」

千夏は唇を結び、何も言わず、虚ろな体で各科を駆け回った。

歩を進める度に、腹部を鋭い痛みが貫く。内側で刃物がかき回されているかのようだ。

流産したばかりの体では到底こなせる労働ではなかった。数歩歩くだけで全身が針で突き刺されるように痛む。その苦しみは手術そのものよりも強烈で、身体中が裂けてしまいそうだった。

夕方、ようやく千夏は愛莉の入院手続きをすべて整えた。

書類の束を無造作に龍生の胸に押し付けると、もう限界だった。力尽きたように椅子に倒れ込む。

顔は真っ青で紙のように血の気がなく、額は冷や汗でびっしょり。湿った髪が頬に張り付いている。

薄い衣服も冷汗に濡れ、吹き込む風が骨にまで沁みて震えが止まらなかった。

龍生はまだ顔を険しくしており、口元を歪め嘲ろうとした。

「また大げさに……」

だがその言葉が終わる前に、傍らから悲鳴が上がった。

「血だ!大変だ!血がすごく出ている!」

周囲の視線が一斉に集まる。

千夏が呆然と視線を落とすと、温かい液体が腿を伝い、ズボンを真っ赤に染め上げていた。

流産後の大出血――!

次の瞬間、山のように覆いかぶさる激痛が腹を貫き、体から一気に力が抜けて暗闇に引きずり込まれる。

意識が途切れる瞬間、千夏は龍生の怯えきった顔を見た。

「千夏!」
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