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縁が結ぶ影 〜神解きの標〜
縁が結ぶ影 〜神解きの標〜
Penulis: 渡瀬藍兵

1.神鳴山

Penulis: 渡瀬藍兵
last update Tanggal publikasi: 2025-08-20 13:03:24

 白く焼けたアスファルトが、陽炎かげろうの中で揺らめいていた。

 耳の奥では、飽和した蝉時雨せみしぐれが鳴り続けている。窓を閉め切った教室の中にいても、その音はどこからか染み込んできて、脳の芯までじわじわと痺れさせた。

 汗で肌に張りつくワイシャツの感触が、気持ち悪い。

 息をするだけで、体の奥に熱が溜まっていく気がした。

 夏。

 この季節が、どうしようもなく嫌いだった。

 思考も身体も、何もかもが熱に溶けて、輪郭を失っていく。何かをする気力も、何かを考える集中力も、全部まとめて削られていく。

 その気怠さの象徴みたいに、教室の窓の向こうには、一つの山塊さんかいが横たわっていた。

 神鳴山かみなりやま

 ここ、霞沢県かすみさわけんにありながら、まるでその美しい名前を嘲笑うかのように、不吉な響きを持つ山。

 夏草の深い緑におおわれているはずの山肌は、遠目には黒々とよどんで見えた。

 まるで、この世ならざるものが滲み出した巨大な染みだ。

 地元では有名な山だった。

 ただし、観光名所としてではない。

 畏敬の念をもって語られるわけでもない。

 今、あの山は人を“招く”。

 そんな噂が、町には昔からある。

 行方不明者の報せが流れるたび、町の人間は誰も口には出さない。出さないだけで、きっと同じものを思い浮かべている。

 あの黒い山。

 神鳴山に、喰われたのだと。

「おーい、|輝流《あきる》ぅ!」

 背後から聞こえた間の抜けた声に、思考が現実へ引き戻された。

 振り返らなくても分かる。

 鬼龍院きりゅういん智哉ともちかだった。

「……なんだよ」

 俺が顔だけ向けると、智哉は机に片手をつきながら、いつも通りの人懐っこい笑みを浮かべていた。

「また随分と気怠そうだな、相変わらず」

「気怠そう、じゃない。気怠いんだ。俺はもともとこういう性質たちだろ」

「ちがいねぇ!」

 太陽みたいに笑って、智哉はそんな俺をあっさり肯定した。

 その屈託のなさが、少しだけ眩しい。

 こいつはいつもそうだ。

 こっちの湿った気分なんてお構いなしに、勝手に明るい場所から声をかけてくる。

「でさ!」

 智哉は身を乗り出した。

「今日の約束、覚えてるよな?」

「……一応確認するけど、本気なのか?」

「あ、あ、あったりまえだろぉ?」

 声が少し裏返っていた。

 俺は半眼で智哉を見る。

「どもってるぞ」

「ど、どもってねぇし」

「いや、今のはさすがに無理がある」

 智哉は誤魔化すように咳払いをした。

 まあ、無理もない。

 約束した場所が場所だ。

 元々怖がりな智哉が平静でいられないのも、当然と言えば当然だった。

 今夜、俺たちは神鳴山へ行く。

 地元では禁忌みたいに扱われている、あの山へ。

 バレたらただ怒られるだけでは済まない。親や教師に知られれば説教どころの話ではないし、町の大人たちも黙ってはいないだろう。

 それくらいには、あの山は避けられている。

 けれど、俺は智哉の誘いに乗った。

 正確には、乗ってしまった。

「まあ、ならいいけどさ」

 俺は窓の外の山へ視線を戻した。

「無理はすんなよ」

「お、おうっ!」

 返事だけは威勢がいい。

 中身が伴っているかは別として。

 その時、俺の背後から、ひょこっと誰かが顔を出した。

「|浅生《あさい》くーん。何話してるの?」

 白石穂乃果。

 智哉と同じく、俺の幼なじみだ。

 セーラー服の襟が、動きに合わせて小さく揺れる。穂乃果は俺と智哉の顔を交互に見て、何か面白いものを見つけたみたいに目を細めていた。

「別に」

 俺は顔を背ける。

「えー、別にって顔じゃないよ?」

 穂乃果は遠慮なく距離を詰めてきた。

 机の横からぐいっと覗き込み、逃げ場を塞ぐように肩へ手を置く。

「なになに? 隠し事?」

「やめろって……」

 肩を揺らされる。

 小柄なくせに、こういう時の圧は妙に強い。

「ぐぐぐ……!」

 智哉がわざとらしく拳を握りしめた。

「朝からイチャつきやがって……!」

「イチャついてない」

「そうだよ、智哉くん。これは尋問だよ」

「もっと悪いだろ」

 俺が突っ込むと、穂乃果は楽しそうに笑った。

「ねぇ、教えてよ。何の話?」

「……誰にも言わないか?」

「うんっ。約束する」

 返事はやけに軽かった。

 けれど、穂乃果はこう見えて口が固い。

 それに、俺は昔から、穂乃果に隠し事をするのがあまり得意じゃなかった。

 隠しても、どうせ変なところで勘づかれる。

 なら、最初から言った方がまだ面倒が少ない。

「実は今夜、智哉と約束してる」

「うん」

「神鳴山へ行くんだよ」

 その瞬間。

 穂乃果は笑顔のまま固まった。

「……え?」

「だから、神鳴山に行くんだって」

「…………」

 沈黙。

 次の瞬間、穂乃果の声が教室中に響いた。

「えええええええ!?」

 クラスの連中が一斉にこちらを見る。

 俺は反射的に穂乃果の口元へ手を伸ばしかけて、ぎりぎりで止めた。

「ば、馬鹿野郎……っ。静かにしろ……!」

「ご、ごめん」

 穂乃果は慌てて声を落とした。

 けれど、その顔色はさっきまでとまるで違っていた。

 笑っていない。

 冗談だと思っていない。

 神鳴山。

 その名前を聞いただけで、穂乃果の中の空気が変わった。

「うんうん。でもまあ、そんな反応になるよなぁ」

 智哉が腕を組み、妙に分かったような顔で頷く。

 お前も行く側だろ、と言いたかったが、今はそれどころではなかった。

「い、いや……それはさすがに不味くない?」

 穂乃果は俺の机に両手をついて、身を乗り出してくる。

「だって、浅生くんもあの話知ってるでしょ?」

「ああ、知ってるよ」

 知らないわけがない。

 この町で育って、神鳴山の噂を知らずに生きる方が難しい。

 人を招く。

 入った者は帰ってこない。

 山に魅入られた者は、喰われる。

 行方不明者が出るたび、報道や町の噂は、必ずあの山へ結びつけた。

 けれど。

「でも、どうせ噂だ」

 俺は言った。

「人を招くとか、人が喰われるとか。どれも神鳴山に結びつけられてるけど、本当にそうなのかは分からないだろ」

「それは……そうだけど」

「実際には、誰も事実を知らない」

 俺は窓の外を見る。

 夏の光の中で、神鳴山だけが影のように沈んでいた。

「本当に喰われてるのか。それとも、何か別の事件が起きてるのか。誰も見てない。誰も確かめてない。ただ怖がって、避けて、噂だけが太っていく」

 昔から、それが引っかかっていた。

 子供の頃、初めてあの山の話を聞いた時から。

 大人たちは、神鳴山に近づくなと言った。

 理由を聞けば、危ないから、と返ってくる。

 何が危ないのかと聞けば、言葉を濁す。

 そういう曖昧な恐怖が、俺は嫌いだった。

 いや、違う。

 嫌いだったというより、気になって仕方がなかった。

 この退屈で、熱に溶けたみたいな日常の向こうに、本当に何かがあるのなら。

 その正体を、自分の目で見てみたかった。

「だからって、行っていい場所じゃないよ」

 穂乃果の声は、さっきより小さかった。

 けれど、軽くはなかった。

「危ないって言われてる場所には、危ない理由があるんだよ」

「大丈夫だって!」

 智哉が割って入る。

「ちょっと見て、すぐ降りるからよ!」

「智哉くんが一番心配なんだけど……」

「え、俺!?」

「うん」

 穂乃果は即答した。

 智哉がわざとらしく胸を押さえる。

「ぐはっ。幼なじみからの信用が痛い……」

 俺は小さく息を吐いた。

 少しだけ、教室の空気が緩む。

 けれど、穂乃果の目から不安が消えたわけではなかった。

「本当に、気をつけてね……?」

 穂乃果は俺を見た。

 その声には、冗談もからかいも混じっていなかった。

 ただ、心配だけがあった。

 真っ直ぐすぎて、少し居心地が悪い。

「分かってる」

 俺は短く答えた。

 窓の外では、蝉時雨がまだ鳴り続けている。

 夏の光に焼かれた教室の向こうで、神鳴山は黒く沈黙していた。

 まるで、最初から俺たちを待っていたみたいに。

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