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四十三話:出発前のひととき

Auteur: 渡瀬藍兵
last update Date de publication: 2025-05-30 19:01:40

「美琴っ! ごめん、お待たせ……!」

 息を切らしながら駆け寄る悠斗を、美琴は少し目を丸くして迎えた。

「先輩が遅刻なんて、珍しいこともあるのですね……?」

 責めるような色はない。むしろ心配げに首を傾げるその仕草が、かえって悠斗の胸を締めつける。

「うっ……。実は、なんか変な夢を見た気がして……」

「変な夢、ですか?」

「不思議なことに全く思い出せないんだけど……」

「それで、遅れたということですか?」

「ご、ごめん!! 言い訳にならないのは百も承知なんだ……! 次からは気をつけるから!」

 深々と頭を下げる悠斗に、美琴が慌てて両手を振る。

「い、いえ。別に怒ってるわけじゃありませんよ?」

 柔らかな微笑み。その穏やかさに、悠斗はようやく肩の力を抜いた。

「それならいいんだけど……! と、とにかく気をつけるね」

「ふふ、ええ。そうしてくださいね」

 束の間の和やかさが、ふっと引いた。美琴の表情から笑みが消え、真っ直ぐな眼差しが悠斗を射る。

「先輩、今日の目的はわかっていますね?」

「うん。今日は、詩織さんの家に行くんだ」

 悠斗も声のトーンを落とした。美琴は小さく頷き、言葉を選ぶように間を置いてから続ける。

「今回は、とても大変ですよ。それこそ、前回のように霊だけで完結できる話ではありませんから」

「うん。それもわかってる。今回は……生きている人も巻き込むんだから」

 静かに、けれど揺るぎなく。その声には、昨日の決意がそのまま息づいていた。

「では、その前に……朝ごはんを食べましょうか」

 穏やかな提案に、悠斗は一瞬きょとんとした。

「うん。うん? いま、なんて?」

「ご飯です。先輩、慌てて出てきたのですから。きっと、朝食をちゃんと食べてないですよね?」

 優しい声音なのに、視線だけが鋭い。見透かされている、と悟るのに一秒もかからなかった。

「うっ……! す、鋭い……」

 ばつが悪そうに目を逸らす悠斗に、美琴は小さく息をついた。

「ダメですよ? 霊と関わるのはとてもエネルギーを消耗するんですから。ちゃんとご飯を食べて、力をつけなければ」

 心配と叱責がちょうど半分ずつ。その物言いにはどこか年上のような厳しさがあって、悠斗は観念したように苦笑する。

「わかった、わかった。じゃあ、どこか入ろうか」

「ええ。そうしましょう」

 微笑む美琴に促され、二人は並んで歩き出した。重い目的を抱えた朝に、ほんのひとときだけ日常が差し込む。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 桜織駅のすぐそば。ビル群が立ち並ぶ、桜織でも有数の繁華な一角だ。

 二人が入ったのは、通りから少し奥まった場所にある小さなカフェだった。店内にはほのかに桜の香りが漂い、それだけで肩の力がふっと抜ける。

「どうですか? 落ち着いて、とてもいい雰囲気でしょう?」

「うん……。正直、驚いたよ」

「えっ? 私、もしかしてセンスがないと思われ——」

「ち、違う違う! 美琴は、つい最近この桜織に来たばかりでしょ? それなのに、もうこんな風に自分の行きつけの店を見つけるなんて、すごいなって驚いたんだ」

「あっ、そうでしたか……。でも……」

 ふふっ、と美琴が笑う。その目元に、小さな秘密を抱えたような悪戯っぽい色が浮かんだ。

「少しだけ違いますよ。行きつけではなく——」

 言葉の続きは、明るい声に遮られた。

「はい、お待たせしました! こちら、アイスコーヒーと特製パンケーキです!」

「あっ、はい」

 反射的に答えた悠斗の目の前に、湯気を立てる黄金色のパンケーキが置かれる。溶けかけたバターが表面を艶やかに流れ、メープルシロップの甘い香りが鼻先をくすぐった。傍らのアイスコーヒーが、透明なグラスの中で涼しげに光っている。

「ところで、美琴〜? これは一体どういうことかしら?」

 パンケーキを置いたエプロン姿の少女が、美琴に向かって意味ありげな視線を送る。友人同士でなければ出てこない、遠慮のない口調だった。

「ふふ、澪。こちらは私の先輩なの」

 すぐに笑顔を取り戻した美琴が、悠斗のほうに手を添えるようにして紹介した。

「ということは、私の先輩でもあるわね!」

 澪と呼ばれた少女が、ぱっと顔を輝かせる。

「君も、桜織高校の?」

「はい! 桜織高校の一年、澪です!」

 元気よく名乗ると、澪はまっすぐな笑顔を見せた。新しい出会いをそのまま喜べる、屈託のない明るさだった。

「ここで、私アルバイトをさせていただいてるんですよ」

 美琴がさらりと明かした一言に、悠斗は澪のほうへ視線を移した。

(なるほど、行きつけではなく職場だったのか)

「えっと、澪さん。僕は二年の櫻井悠斗。よろしくね」

「櫻井先輩ですね! よろしくお願いします!」

 澪が元気よく頭を下げるのを見届けてから、美琴が口を開く。

「ところで美琴、何飲むの?」

「うーん……迷ってるんだよね。自分で働いているところだと、なにがいいか逆に選べなくて」

(美琴のタメ口か…。なんだかとても珍しいものを見ている気がする……)

「じゃあこの桜香るコーヒーとかは?」

「……」

 メニューを覗き込みながら言い合う二人の横顔を、悠斗はなんとなく眺めていた。

 美琴にはどこかミステリアスなところがある。同い年の中にすんなり溶け込めているのか、内心では少しだけ気がかりだった。けれど今、澪と肩を並べて飲み物を選ぶ姿には、ごく自然な親しさがにじんでいる。

 杞憂だったらしい、と悠斗は胸の内でそっと息をついた。

(って、友達が少ない僕が言えたことじゃないか)

「先輩、どうしました?」

 視線に気づいたのだろう。美琴が小首を傾げてこちらを見ている。

 悠斗は小さく首を振り、「……なんでもないよ」と、穏やかに笑って答えた。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 食事を終え、二人はゆったりとした空気の中でひと息ついていた。

「ここ、パンケーキがとても美味しいね」

「でしょう? オススメした甲斐がありましたね」

「うん。今まで食べたパンケーキで一番美味しかったよ」

 世辞ではない。紛れもない本心だった。それに——美琴がここで働いていると思うと、なぜか胸のあたりがほんの少しだけ温かくなる。

 しばらくして、澪が再びテーブルへやってきた。

「櫻井先輩、こちらお下げしますね!」

「あっ、ありがとう」

「澪、一緒に片付けるね」

 美琴は自分の食器を丁寧に持ち上げ、澪のそばに並んだ。

「今日はお客さんなんだからいいのに!」

「私がそうしたいんだ」

「そ、そう? ならいいけど!」

 肩を並べて歩いていく二人のやり取りが、自然と悠斗の口元をほころばせる。

「では、先輩。少しだけ厨房の方に行ってきますね」

「うん、行ってらっしゃい」

(こんなふうにゆったりしていると、これから大変な場所に行くのに、気が緩むな…)

 穏やかな店内の空気に、つい気が緩む。けれど今日は、ただの休日ではない。

 自分の言葉で、静依の心に届くのか。不安がないわけがなかった。むしろ胸の内のほとんどを、その不安が占めている。

 それでも、止まるつもりはない。止まれるはずもない。

 美琴と共に詩織を救うと決めた。その覚悟だけは、揺らがずにここにある。

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    「……先輩も、その場所のことが気になっているんですか?」  美琴が、悠斗の顔を伺うように尋ねた。 「えっ……う、うん?」  自分でも分かっていない。なんとも間の抜けた返事だった。そんな曖昧な答えに対して、美琴がかけた言葉は—— 「また後日、その、風鳴トンネルに足を運ぶのですけど……先輩も来ます?」  一緒に来ないか、という誘い。 「えっ……」 (霊への恐怖心は……まだ消えていない。でも、なんでだろう……すごく気になる……)  霊がどのような結末を辿るのかが気になるのか。それとも、純粋に美琴の力の謎に惹かれているのか。悠斗自身にもわからない。  だが——答えは決まっていた。

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     あれから、数日が過ぎた。  悠斗の日常は、少しずつ穏やかさを取り戻していった。あの夜の出来事は記憶の片隅へと退き、日々の流れの中に静かに溶けていく。  もっとも——心霊スポットに足を踏み入れた奏汰たちは、学校に戻るなり担任教師たちからこっぴどく絞られていたが。  完全に元通りとは言えない。あの出来事の痕跡は、まだ心のどこかにうっすらと残っている。それでも確かに、悠斗の日常は戻ってきていた。  そんなある日の、穏やかな昼下がり。  悠斗は翔太と並んで、他愛もない話に時間を費やしていた。 「ったく……。もう何度同じこと言われたか分かんねぇよ。耳にタコが出来るどころじゃねぇぜ……」

  • 縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜   二十話:喪われた一年

     悠斗は美琴を伴い、地下倉庫へと足を踏み入れた。  空気が、重い。湿り気を帯びた冷たさが肌にまとわりつき、呼吸のたびに肺の奥まで染みこんでくる。光の届かない空間に澱んだ気配が充満し、まるで空気そのものが腐敗しているかのようだった。  そして——部屋の中央に、四つの人影。  いずれも床に倒れ伏したまま、微動だにしていない。 「……っ!!! 翔太! 奏汰!」  悠斗は駆け寄り、必死に二人の肩を揺さぶった。何度も、何度も。だが返ってくるのは、ぐったりと力の抜けた身体の重さだけ。目を覚ます気配は、微塵もなかった。 「……やはり、霊障の影響を受けていますね」  美琴は静かに翔太の傍らへ歩み

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