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四十二話:名を呼べぬ少女

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-05-30 19:00:42

「……ここは?」

 気づいたとき、悠斗は見知らぬ神社の境内に立っていた。

 いつ、どうやってここへ来たのか——その記憶だけが、綺麗に切り取られている。

 名前すら曖昧だった。自分が誰で、さっきまで何をしていたのか。今日が何曜日かさえ分からない。人間として当然持っているはずのものが、ひとつも手の中にない。

 本来なら、喉の奥が冷えるような恐怖に駆られてもおかしくない状況だ。なのに胸の内は奇妙なほど凪いでいて、その静けさがかえって薄い恐怖を呼ぶ。

「……とりあえず、歩くしかないか」

 立ち尽くしていても何も始まらない。自分に言い聞かせるように呟いて、砂利を一歩踏んだ。乾いた音が、やけに大きく響く。

 空は厚い雲に蓋をされ、白い霧が境内の端から端まで満ちていた。少し先の輪郭がふっと溶け、湿った冷気が頬に貼りつく。

 そのとき——どこからか、鈴の音が降ってきた。

「……今の、どこから……?」

 高く、澄んだ音色。空から落ちてくるようでいて、足元から湧くようでもある。方角が掴めない。

 悠斗は音に導かれるまま足を進めた。霧に包まれた境内を歩くうち、視界の奥に、大きな社殿の輪郭が浮かび上がる。

 柱や梁のそこかしこに、金色の蛇を模した精巧な装飾が施された、立派な造りだった。鱗の一枚一枚まで丁寧に刻まれ、霧越しの薄明かりを受けてかすかに光っている。

「これは……一体……」

『これはね、白蛇神社だよ』

 唐突に、すぐ隣から声がした。

 悠斗は息を呑み、視線を横に向ける。——いつの間に現れたのか、小さなおかっぱ頭の少女が立っていた。

 深い青色の着物を纏い、背筋をすっと伸ばしたその佇まいは、今の時代の空気をまるで纏っていない。霧の中から切り出されたように静かで、どこか此岸のものとは思えなかった。

「……君は?」

『私? 私は────』

(なんだ……? うまく、聞き取れない)

 少女の声が途中で滲むように崩れ、名前だけがきれいに掻き消された。耳に届いたのは、言葉の輪郭を失った残響だけだ。

 少女は小さく息をつき、どこか諦めの混じった目で悠斗を見上げた。

『はぁ……。あなたにも、やっぱり聞こえないんだね』

 残念さの奥に、もっと古い疲労が透けている。同じことを何度も繰り返してきた者だけが纏う、乾いた諦念だった。

「……ごめん」

 理由は分からない。ただ、この少女に対して申し訳ないという感情が、胸の底から自然に湧いた。

『謝らなくていいよ。これはそういう運命なんだから』

 少女は静かに首を振る。その瞳の奥に、悠斗には量れない深さが沈んでいた。

「運命?」

『はぁ、まぁいいわ。私の自己紹介は置いときましょう。私自身、私をどう定義したらいいのか曖昧なところがあるしね」

「それより、あなた。あなたのその力に呑まれたくなかったら、しっかりと自我を保ちなさいよ』

 再びため息をついてから、少女の声色が変わった。幼い顔立ちに似合わない、研ぎ澄まされた真剣さ。

「ちょっと待って……どういう意味?」

 だが、少女はそれ以上を語る気配を見せない。

『やれやれ……せっかく忠告してあげてるのに。ここに来る人がみんなあなたみたいな状態じゃ、助言のしようがないわ』

 呆れたように肩をすくめる仕草が、見た目の幼さを裏切って妙に老成していた。

 ——ふいに、視界が揺らぎ始めた。

 焦点が少しずつ甘くなり、社殿の輪郭が霧の中へ溶け戻っていく。少女の姿さえ、輪郭を失いかけている。

『せいぜい長く生きてみせなさい。あなたは、彼女たちが決して歩めなかった可能性の中にいるのだから』

「待って……! 一体なにを……!」

 声を張ったときには、もう何も見えなくなっていた。

『いずれ分かる。どうせ現世に戻れば、この夢のことなど何ひとつ覚えていないだろうけれど』

 遠ざかる声が、最後にひとつだけ鮮明な形を結ぶ。

『一つ助言をあげるわ。あなたがよく一緒にいる後輩——ちゃんと見ておきなさいよ。あの子、あなたにたくさん隠し事をしてるんだから』

 その言葉を最後に、意識が途切れた。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 朝の日差しが窓から差し込むのとほぼ同時に、枕元のスマートフォンが容赦なくアラームを鳴らし始めた。

「ううっ……」

 重い瞼をこじ開け、悠斗はのろのろと身体を起こす。

「……夢? なんだか、さっきまで変な夢を見ていた気がするんだけど……」

 内容はもう掴めない。ただ、何か大切なことを告げられたような感覚だけが、胸の奥にぼんやりと残っていた。

「って——今、何時!?」

 壁の時計に目を遣った瞬間、眠気が吹き飛ぶ。針はすでに七時を回っていた。

「一回分のアラーム、完全に逃してるじゃないか……!」

 布団を蹴るようにして飛び出し、着替えを済ませ、朝食をほとんど流し込む。普段ならもう少し余裕があるはずの朝が、今日に限って目まぐるしく過ぎていく。

 急いでいるのには理由があった。

 昨日、美琴に告げた言葉——『救いたい』。あの決意を、今日こそ行動に移すのだ。

 詩織の母、静依の元を直接訪ねる。

 悠斗の記憶に残った、詩織が歩んだ道を辿る。その先に、変わらずあの家があれば——。

 確証はない。頼れるのは、記憶の中に残された曖昧な映像だけ。それでも、これは踏み出さなければならない賭けだった。

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