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【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜
【完結】縁が結ぶ影〜呪われた巫女と結ぶ少年〜
Author: 渡瀬藍兵

縁語り其の一:桜舞う街

Author: 渡瀬藍兵
last update Last Updated: 2025-05-15 18:19:40

 「先輩! 絶対にその人の刃物に触れないでください!」

 鼓膜をつんざくような、切羽詰まった少女の警告。その声が響き渡ると同時、少年の喉が、ひゅっと鳴った。

 眼前に立ちはだかるのは、虚ろな眼でこちらを睨みつける、一人の男。その手には、鈍色のサバイバルナイフが握られ、尋常ならざる気配を放っている。

 「彼の周囲には……彼に殺された人たちの、怨霊が渦巻いて漂っています!」

 少女の言葉が、現実感を伴って脳髄に突き刺さる。

 「その怨念が、ナイフを、ただの凶器じゃない……“呪われた霊の武器”として成り立たせてしまっているんです!」

 あれを浴びれば、命はない。

 その事実だけが、冷たく思考を支配する。掌にじっとりと汗が滲み、指先が微かに震えていた。

 これまで遭遇してきた不成仏霊とは、魂の在り方がまるで違う。明確な殺意と、それを実行する手段を、その霊は確かに保有していた。

 ──ダンッ!

 鋭い踏み込みの音。男の身体が、獣じみた俊敏さで宙を舞う。

 空気を裂き、ナイフが横薙ぎに閃いた。少年はほとんど反射で後ろへ飛び退く。凶刃が鼻先を数ミリで掠め、ぞっとするような冷気が肌を撫でた。

 「……遅ぇよ、ガキが」

 掠れた、嘲るような声。

 次の瞬間、背後から風を裂く音。そして、左腕に走る、灼けるような鋭い痛み。

 「……っ!」

 呻きが、少年の唇から漏れた。咄嗟に庇った腕の袖が裂け、赤黒い血が迸る。骨には達せずとも、傷は決して浅くはない。

 それは、生と死が瞬時にせめぎ合う闘諍《とうじょう》。

 そして、彼らが否応なく歩むこととなる茨の道、その現実の一端に他ならなかった。

 だが──全ての始まりは、そこにはない。

 もっとずっと静かで、穏やかな春の風が吹く日々の内にこそ、その根は芽吹いていた。

 これは、一人の少年と一人の少女、二つの魂の邂逅の記録。

 そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた、宿業の物語である。

 ***

 ──桜織市の日々──

 柔らかな風が、春の訪れをそっと街へと運んでくる。桜の花びらが、まるで空に溶けていくかのようにふわりと舞い上がり、優しい陽射しが、この街全体を祝福するように包み込んでいる。

 ここ、桜織市《さくらおりし》は、風穂県《かざほけん》のなだらかな平野部に広がる、どこまでも穏やかな表情をした町だ。

 遠い昔、この土地に最初に根付いた桜の木々が、毎年春になると美しい花を咲かせ、そこに住まう人々を、ずっと静かに見守ってきたという。

 言い伝えによれば、街を見下ろす丘の上に佇む桜織神社《さくらおりじんじゃ》に宿る古き神が、その身を削って桜の枝に聖なる命を吹き込み、この町を災いから護ってきたのだ、と。

 川沿いに続く桜並木が、長い冬の眠りからゆっくりと目を覚まし始める。そして、春風がそよぐたび、無数の花びらがはらはらと舞い落ちて、地面に淡く、美しいピンク色の絨毯《じゅうたん》を敷き詰めていく。

 その一瞬一瞬が、まるで小さな幸せをそっと閉じ込めた、一枚の絵画のようだった。

 新学期の、少しだけ浮き足立った朝。

 僕が自分の教室に足を踏み入れると、大きな窓から差し込む朝の陽射しが、まだ誰のものでもない真新しい机の表面に、柔らかく落ちていた。小さな光の粒が、空気中に漂う微かな埃と一緒に、きらきらと静かに揺れている。

 少し離れた場所からは、クラスメイトたちの他愛ない笑い声が微かに漂ってきて、まだ糊の匂いが残る新しい制服の香りが、春の甘い空気とそっと混じり合っていた。

 自己紹介は、特に目立つこともなく、当たり障りなく簡単に済ませて。僕にとっての、ごくごく平凡な一日が、また静かに流れ始めた。

 ***

 昼休み。購買で買った焼きそばパンを頬張りながら、僕は数人の友人と、本当にたわいもない話をしていた。

 「なぁ、今年は何か面白いこととか、あったりすんのかなぁ?」

 誰かが、期待と少しの気怠さを込めた声で、笑いながら呟く。

 僕は、その言葉に小さく首を横に振り、「別に、これまで通り、普通でいいよ」と答えた。

 そんな、何の変哲もない時間が、僕の胸に、温かい綿のようにそっと積もっていく。

 教室の窓の外には、小高い丘の上に鎮座する桜織神社の、あの大きな桜の古木──桜翁が、春の柔らかな光の中で、穏やかに枝を揺らしているのが見えた。

 なぜだろう、あの桜翁の方を見ると、時折、誰かに呼ばれているような……そんな不思議な感覚に襲われることがある。

 (この不思議な感覚は一体……。)

 ***

 放課後。

 騒がしい昇降口を抜け出すと、西に傾いた夕陽が、校庭全体を淡い金色に染め上げていた。

 その先には、桜織市で最も古く、そして最も大きな桜の木として、皆から慕われている桜翁。そして、その向こうの、夕闇が迫る森の奥には──古社、桜織神社が静かに佇んでいる。

 教室の窓からも毎日見えていた桜翁《さくらおきな》が、今はもうその枝いっぱいに見事な花を咲かせ、茜色の夕陽に照らされて、風にその薄紅の花びらを揺らめかせている。

 神社の周辺は、いつ来ても、どこか他とは違う、凛とした特別な空気が漂っているように感じられた。

 「昔から、この土地を見守り続ける、静かで力ある守り手が宿っているんだよ」

 ──そんな、この町に古くから伝わる噂話が、ふと春の夕風に混じって、僕の耳に届いた気がした。

 そしてまた、あの桜翁の方から、僕を呼ぶような、微かな気配を感じる。

 その時だった──。

 夕陽がまさに地平線に触れようとする、その瞬間。

 桜翁の、太く逞しい幹の根元に、ふわりと舞い落ちる花びらの中に、まるで最初からそこにいたかのように、一人の少女が、静かに立っていた。

 茜色の光に照らされたその横顔は、どこか儚げで、そして息をのむほどに透き通るように美しかった。あでやかな茶色の髪が、ポニーテールに一つでまとめられていて、春の夕風に、その毛先が揺れるたび、なぜだか見ていて胸が締め付けられるような、どこか切なげな雰囲気を漂わせていた。

 その姿が、満開の桜と、燃えるような夕陽の光と、そして神社の持つ静謐な空気の中に、一枚の絵画のように、音もなく、ただ静かに、そこに在った。

 その、あまりに美しい光景に僕の目が、釘付けになって、どうしても離せなくなってしまった。

 ──ああ。その、あまりに静かな邂逅かいこうこそが、永い永い旅路の始まり。

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Comments (2)
goodnovel comment avatar
塚田空
美しい描写ですね! なんだかすごい作品に出会ってしまった そんな気がします!
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ネム……
しっかりとキャラクターの個性が出ていて物語に入りやすくフリガナもあるところも読者に対して配慮が行き届いていてこの先も読みたくなるそんな物語ですね!! この先も読んでいきます...*゜
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