「先輩! 絶対にその人の刃物に触れないでください!」
鼓膜を劈くような、切羽詰まった少女の警告。その声が響き渡ると同時、少年の喉が、ひゅっと鳴った。 眼前に立ちはだかるのは、虚ろな眼でこちらを睨みつける、一人の男。その手には、鈍色のサバイバルナイフが握られ、尋常ならざる気配を放っている。 「彼の周囲には……彼に殺された人たちの、怨霊が渦巻いて漂っています!」 少女の言葉が、現実感を伴って脳髄に突き刺さる。 「その怨念が、ナイフを、ただの凶器じゃない……“呪われた霊の武器”として成り立たせてしまっているんです!」 あれを浴びれば、命はない。 その事実だけが、冷たく思考を支配する。掌にじっとりと汗が滲み、指先が微かに震えていた。 これまで遭遇してきた不成仏霊とは、魂の在り方がまるで違う。明確な殺意と、それを実行する手段を、その霊は確かに保有していた。 ──ダンッ! 鋭い踏み込みの音。男の身体が、獣じみた俊敏さで宙を舞う。 空気を裂き、ナイフが横薙ぎに閃いた。少年はほとんど反射で後ろへ飛び退く。凶刃が鼻先を数ミリで掠め、ぞっとするような冷気が肌を撫でた。 「……遅ぇよ、ガキが」 掠れた、嘲るような声。 次の瞬間、背後から風を裂く音。そして、左腕に走る、灼けるような鋭い痛み。 「……っ!」 呻きが、少年の唇から漏れた。咄嗟に庇った腕の袖が裂け、赤黒い血が迸る。骨には達せずとも、傷は決して浅くはない。 それは、生と死が瞬時にせめぎ合う闘諍《とうじょう》。 そして、彼らが否応なく歩むこととなる茨の道、その現実の一端に他ならなかった。 だが──全ての始まりは、そこにはない。 もっとずっと静かで、穏やかな春の風が吹く日々の内にこそ、その根は芽吹いていた。 これは、一人の少年と一人の少女、二つの魂の邂逅の記録。 そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた、宿業の物語である。 *** ──桜織市の日々── 柔らかな風が、春の訪れをそっと街へと運んでくる。桜の花びらが、まるで空に溶けていくかのようにふわりと舞い上がり、優しい陽射しが、この街全体を祝福するように包み込んでいる。 ここ、桜織市《さくらおりし》は、風穂県《かざほけん》のなだらかな平野部に広がる、どこまでも穏やかな表情をした町だ。 遠い昔、この土地に最初に根付いた桜の木々が、毎年春になると美しい花を咲かせ、そこに住まう人々を、ずっと静かに見守ってきたという。 言い伝えによれば、街を見下ろす丘の上に佇む桜織神社《さくらおりじんじゃ》に宿る古き神が、その身を削って桜の枝に聖なる命を吹き込み、この町を災いから護ってきたのだ、と。 川沿いに続く桜並木が、長い冬の眠りからゆっくりと目を覚まし始める。そして、春風がそよぐたび、無数の花びらがはらはらと舞い落ちて、地面に淡く、美しいピンク色の絨毯《じゅうたん》を敷き詰めていく。 その一瞬一瞬が、まるで小さな幸せをそっと閉じ込めた、一枚の絵画のようだった。 新学期の、少しだけ浮き足立った朝。 僕が自分の教室に足を踏み入れると、大きな窓から差し込む朝の陽射しが、まだ誰のものでもない真新しい机の表面に、柔らかく落ちていた。小さな光の粒が、空気中に漂う微かな埃と一緒に、きらきらと静かに揺れている。 少し離れた場所からは、クラスメイトたちの他愛ない笑い声が微かに漂ってきて、まだ糊の匂いが残る新しい制服の香りが、春の甘い空気とそっと混じり合っていた。 自己紹介は、特に目立つこともなく、当たり障りなく簡単に済ませて。僕にとっての、ごくごく平凡な一日が、また静かに流れ始めた。 *** 昼休み。購買で買った焼きそばパンを頬張りながら、僕は数人の友人と、本当にたわいもない話をしていた。 「なぁ、今年は何か面白いこととか、あったりすんのかなぁ?」 誰かが、期待と少しの気怠さを込めた声で、笑いながら呟く。 僕は、その言葉に小さく首を横に振り、「別に、これまで通り、普通でいいよ」と答えた。 そんな、何の変哲もない時間が、僕の胸に、温かい綿のようにそっと積もっていく。 教室の窓の外には、小高い丘の上に鎮座する桜織神社の、あの大きな桜の古木──桜翁が、春の柔らかな光の中で、穏やかに枝を揺らしているのが見えた。 なぜだろう、あの桜翁の方を見ると、時折、誰かに呼ばれているような……そんな不思議な感覚に襲われることがある。 (この不思議な感覚は一体……。) *** 放課後。 騒がしい昇降口を抜け出すと、西に傾いた夕陽が、校庭全体を淡い金色に染め上げていた。 その先には、桜織市で最も古く、そして最も大きな桜の木として、皆から慕われている桜翁。そして、その向こうの、夕闇が迫る森の奥には──古社、桜織神社が静かに佇んでいる。 教室の窓からも毎日見えていた桜翁《さくらおきな》が、今はもうその枝いっぱいに見事な花を咲かせ、茜色の夕陽に照らされて、風にその薄紅の花びらを揺らめかせている。 神社の周辺は、いつ来ても、どこか他とは違う、凛とした特別な空気が漂っているように感じられた。 「昔から、この土地を見守り続ける、静かで力ある守り手が宿っているんだよ。」 ──そんな、この町に古くから伝わる噂話が、ふと春の夕風に混じって、僕の耳に届いた気がした。 そしてまた、あの桜翁の方から、僕を呼ぶような、微かな気配を感じる。 その時だった──。 夕陽がまさに地平線に触れようとする、その瞬間。 桜翁の、太く逞しい幹の根元に、ふわりと舞い落ちる花びらの中に、まるで最初からそこにいたかのように、一人の少女が、静かに立っていた。 茜色の光に照らされたその横顔は、どこか儚げで、そして息をのむほどに透き通るように美しかった。艶やかな茶色の髪が、ポニーテールにひとつでまとめられていて、春の夕風に、その毛先が揺れるたび、なぜだか見ていて胸が締め付けられるような、どこか切なげな雰囲気を漂わせていた。 その姿が、満開の桜と、燃えるような夕陽の光と、そして神社の持つ静謐な空気の中に、一枚の絵画のように、音もなく、ただ静かに、そこに在った。 その、あまりに美しい光景に僕の目が、釘付けになって、どうしても離せなくなってしまった。 ──ああ。その、あまりに静かな邂逅こそが、永い永い旅路の始まり。僕が咄嗟に展開した桜色の結界に守られながら、美琴が静かに、だが力強い声で詠唱を紡ぎ始めた。 「燦星の輝きを我が手に集めよ……我が祈りにて穢れを砕く珠を放て!!」 詠唱を終えた瞬間、彼女の華奢な身体から、眩いほどの紫色の霊気が迸った。それは、迦夜が纏う禍々しい瘴気と、どこか似ているようでいて、全く違う、澄んだ輝きを放っている。 「星燦ノ礫…っ!!」 美琴の指先から、鋭い紫色の光弾が、閃光となって弾け飛ぶ。 それは、風を切り裂いて、真っ直ぐに迦夜へと飛んでいった。それを見た迦夜は、さっきまでの般若のような怒りの形相から一転、なぜか、楽しそうににやりと口角を吊り上げた。 (本当に、何を考えてるか分からないけど…僕にも、出来る事がひとつある……!) 迦夜が、紫色の光弾をひらりとかわそうと、横に飛んだ。 その動きを、僕は見逃さない。 「幽護ノ帳!!」 迦夜が回避しようとする、その先回りをするように、僕は壁のように結界を展開する。 僕の役目は、攻撃じゃない。援護だ! 『……!!!』 行く手を阻まれた迦夜が、驚いたように、一瞬だけ動きを止める。 その、ほんの一瞬の硬直が、命運を分けた。 初めて試した、攻撃的な結界の使い方。 だけど、上手くいった。確かな手応えが、僕の指先に伝わってきた。 僕が展開した結界に阻まれ、動きを止めた迦夜。 その一瞬の隙を、美琴の紫色の光弾は見逃さなかった。 閃光が、寸分の狂いもなく、迦夜の身体の中心を貫く。 「やった!?」 僕は、思わず叫んでいた。 『オオオオォ……』 光に貫かれた迦夜が、低い呻き声を上げる。 だが、その表情からは、何故か、あの不気味な笑みは消えていなかった。 そして、次の瞬間。 その体は、まるで燃え尽きた紙人形のように、サラサラと黒い灰になって崩れ落ちていった。 「これは……!」 なのに、隣にいる美琴の声は、歓喜とは程遠い、訝しむような色を帯びていた。 「えっ?」 倒したのに? なんでそんな顔を? 僕が彼女の反応に戸惑っていると、美琴は、迦夜が崩れ落ちた場所へと、ゆっくりと歩いていく。 「やっぱり……!」 彼女は、そこに残った黒い灰を少量だけ指先でつまむと、確信したように呟いた。 「ど、どうしたの?」
どうにか写真の場所にたどり着いた僕たちは、ぜいぜいと肩で息をしていた。全力で走ってきたせいで、心臓が今にも破裂しそうだ。 「はぁ……はぁ……」 「はぁ……っ」 息を整えながら、僕たちは同時に霊眼術を発動させる。だが、やはり僕の目には、街の雑踏と、車のヘッドライトが流れていくだけで、何も見えない。 「うん…さっきまでここにいたみたい」 美琴が、悔しそうに呟いた。 「美琴、どうして僕には迦夜の痕跡が見えないんだろう…?」 僕がずっと疑問に思っていたことを口にすると、彼女は、少しだけ悲しそうな目で僕を見た。 「それはきっと、悠斗くんが呪われてないからだと思う」 「この身に宿ってる呪いが、迦夜の痕跡に反応してるみたいだから」 淡々と、まるで他人事のように告げられるその事実に、僕の胸は、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。彼女のその力が、彼女自身を蝕む呪いの副産物でしかないという現実。 「……そうなんだ」 僕がそう相槌を打った、まさにその瞬間だった。 「っ……!悠斗くん!!」 美琴が、悲鳴に近い声で叫んだ。 次の瞬間、彼女は僕の体に、全体重を預けるように強く抱きついてきた。 ドンッ、という衝撃と共に、僕の身体が突き飛ばされる。それと同時に、僕がさっきまで立っていた場所で、空気が破裂するような、肉が引き裂かれるような、悍ましい音が響き渡った。 「な、何が起きたの……!?」 何が起きたのか、まったく理解が追いつかない。僕は、尻もちをついたまま、呆然としていた。 僕を突き飛ばした美琴は、膝を折って地面に座り込む体勢になりながらも、その瞳は、鋭く前方を睨みつけている。 「迦夜……!」 美琴が睨みつける、その視線の先。 そこには、ふわり、と。 音もなく、まるで、そこにいるのが当たり前かのように、迦夜が宙に浮いていた。 目の前に、あの恐怖そのものがいる。 その事実だけで、僕の思考は、再びあの悪夢に引きずり込まれていた。 空間が引き裂かれる、耳障りな音。意識のない母さんの、虚ろな顔。終わらない路地裏を、ただひたすらに追いかけられた、あの絶望的な時間。 過去の恐怖が、次々と脳裏にフラッシュバックし、僕の身体を、見えない鎖でがんじがらめに縛り付けていく。 「迦夜……!!ようやく見つ
あれから、三日ほどが経った。 僕と美琴は、学校が終わると毎日、迦夜の痕跡を辿っていた。だが、手掛かりはいつも途中でふつりと消えてしまう。相変わらず痕跡はあるものの迦夜は見つからず、結界への入口も、まだ見つかってはいない。 「うーん…なかなか見つからないね…」 夕暮れの公園のベンチで、隣に座る美琴が、ため息混じりに呟いた。 「ここまで探して見つからないとなると…。」 僕が言いよどんだ、その瞬間だった。 脳内に、まるで微かな電流が走ったかのような、鋭い閃きがあった。 「あっ!!!」 思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。 「ど、どうしたの!?」 僕の突然の奇声に、美琴がびくりと肩を揺らした。 「もしかしたら、オカルト系の掲示板やまとめサイトが役に立つかもしれない……!」 我ながら、なんて突飛なアイデアだろうか。だが、もう藁にもすがりたい気分だった。 「なる……ほど……??」 美琴は、不思議そうに小首を傾げている。その様子からして、彼女はそういった掲示板とかは、まったく見ないし、詳しくないのだろう。 それにしても、まさか僕自身が、こんな形で真剣に心霊掲示板を覗くことになるとは、夢にも思わなかった。 僕はスマホを取り出すと、画面のロックを解除し、検索窓に心霊系まとめサイト『Uチャンネル』と打ち込んだ。 「どれどれ……」 悠斗は指をスクロールして記事のタイトルを眺めていく。 指先で画面を滑らせていくと、次々と目に飛び込んでくる記事のタイトル。 「速報!桜織市上空に謎の飛行物体!まさか天狗か!?」 「桜織森林公園で妖精を目撃!?純白のドレスだったとの証言多数!」 「【朗報】温泉郷の迷い人を導く謎の美少女アイドル!その名は陽菜ちゃん!!」 ……なんていう、どこか現実離れした見出しが並んでいる。 天狗や妖精はともかくとして…… 陽菜さんの存在が、いつの間にか「導きのアイドル」として祭り上げられている事実に、僕は驚きと、何とも言えない脱力感を隠せなかった。 その当事者を知ってる身として、気になった僕はコメント欄を覗いた。 『わざと霧の中で迷子になれば、陽菜ちゃんに会えるってマジ!?』 『やめとけ!あそこの神隠しの霧は洒落にならんぞ!死ぬぞ!』 『でも、そのピンチを助けてく
「なら……僕はもう逃げない。」 夜の静寂に、僕の声が、低く、だけどはっきりと響いた。さっきまでの、情けない自分に別れを告げるように。心の中で、確かな覚悟が芽生える。 「迦夜と真っ向から対峙してみせる。美琴の負担を…僕が少しでも担ってみせる…!」 そうだ、もう独りで背負わせない。その想いが、胸の奥から熱い塊となって込み上げてくるのを感じた。 「悠斗くん……」 美琴が、息を呑むように僕の名前を呟く。 「だから美琴…今度こそ、二人で迦夜の事を祓おう。」 まっすぐに彼女の目を見て、僕は言った。 もちろん、今の僕自身に、二人を祓うほどの力なんてない。その無力さが、また胸にちくりと痛む。だけど、もういい。今は力がなくても、必ず、彼女と肩を並べて戦えるくらい、強くなってみせる。その覚悟が、僕の中でさらに強く、固く、根を張った。 僕の言葉を、美琴は静かに受け止めていた。 やがて、その唇に、ふわりと微笑みが浮かぶ。 それは、どこまでも優しい微笑みだった。 「悠斗くん…ありがとう。」 だけど、その瞳は。 どうしようもなく、深く、哀しい色をしていた。 まるで、僕のその決意が、巡り巡って、彼女自身の、逃れられない運命を証明してしまったとでも言うように。 その切なげな表情の意味を、今の僕には、まだ知る由もなかった。 *** 翌日の放課後。 西日が差し込む無人の教室は、どこか気だるいオレンジ色に染まっていた。窓の外からは、運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音が、微かに聞こえてくる。 そんな、ありふれた日常の中で、僕たちは、ありえないほど非日常的な話をしていた。迦夜の対策についてだ。 「今日の放課後、私が迦夜の痕跡を辿るね。」 机を挟んで向かいに座る美琴が、静かに切り出した。 「うん。ひとつ聞きたいんだけど…迦夜の痕跡…って、普通の霊の痕跡とは違うの?」 昨日の今日で、僕の質問も、少しだけ具体的になっていた。 「うん。普通の霊は痕跡として、残り香やその気配が残るけど、迦夜に関しては違うの。」 美琴は頷く。 「迦夜の痕跡は、紫色の瘴気っていうのかな?それが、迦夜の歩いた道に残ってるんだ。」 「紫色の…瘴気…?」 その言葉に、僕ははっとした。 (そういえば…昨日、迦夜に遭遇する前に
俯く僕の顔を、美琴はまっすぐに見つめていた。 「悠斗くん、あなたはね…間違いなく成長してるよ」 その声は、どこまでも優しかった。だけど、その響きには、揺るぎない確信が込められている。 「だから…自分が成長してない、なんて思わないでね」 「………!」 僕は、思わず顔を上げる。 「本当に…そうなのかな…?」 自分でも、縋るような声が出たのがわかった。 「うん。霊力の扱いに関しては、もう比べ物にならないくらいに上手になってるもん」 彼女は、きっぱりと言い切った。 「………」 その言葉に、僕は何も返せない。 「きっと悠斗くんは、迦夜っていうトラウマに遭遇しちゃって、今は自信が持てないかもしれない。けどね、あなたは間違いなく成長してる」 繰り返される、その真っ直ぐな言葉。 それは、まるで固く閉ざしていた僕の心の扉を、一枚、また一枚と、ゆっくりと開けていくようだった。 「だから、心配しなくても大丈夫なんだよ?」 美琴の言葉が、冷え切っていた胸の奥に、じんわりと染み渡っていく。僕は、無意識に止めていた息を、長く、静かに吐き出した。 *** しばらくの沈黙の後、僕はようやく、ちゃんとした声で言うことができた。 「ありがとう、美琴」 「落ち着いた?」 彼女が、少しだけ安心したように、ふわりと微笑む。 「うん、おかげさまでね」 僕も、ようやく力の抜けた、小さな笑みを返す。 あんなに取り乱して、情けない姿を見せてしまった。その恥ずかしさが、今になって込み上げてくる。 でも、それと同時に、不思議な安堵感があった。 きっとこの子は、僕がどんなに弱くても、みっともなくても、こうして隣で、静かに全部受け止めてくれるんだろうな、と。 その確信が、何よりも僕の心を、温かくしてくれていた。 「それなら良かった。」 彼女は、心の底から安心したように、ふわりと微笑んだ。 その笑顔に、僕も少しだけ救われた気持ちになる。だが、その安堵が、僕の思考の隅に追いやっていた、ある決定的な違和感を呼び覚ましてしまう。 そうだ、あれは。 「あっ……!そういえば…迦夜が、幽護ノ帳を使ったんだ…!」 我に返った僕が、切羽詰まった声でそう告げると、美琴の表情から、すっと笑みが消えた。その顔が、見る間に曇っていく。 「美琴…隠さないで教えて欲しい…迦夜って…何
どれだけの時間、そうしていたのだろう。 迦夜が去った後も、僕はあの鉄の箱の中で、ただ身を丸めていた。冷たい汗が肌に張り付き、体は意思とは無関係に、カタカタと震え続けている。 (でも…いつまでもこうしてはいられない…) 脳裏に、美琴の顔が浮かんだ。 そうだ、伝えなければ。迦夜が現れたこと、そして、あの「黒い帳」のことを。 その使命感が、ようやく凍りついていた僕の身体に、か細い熱を灯していく。 僕は、震える腕で、重いゴミ入れの蓋をゆっくりと押し上げた。 闇に慣れきった目に、路地裏を照らす街灯の光が、やけに眩しく突き刺さる。 鉄の箱から這い出ると、ひんやりとした夜気が、汗で濡れた身体を撫でた。まさに、その時だった。 聞き慣れた、今一番聞きたかった声が、すぐ側から響く。 「悠斗くん!?」 その声の方へ、ゆっくりと顔を向ける。 そこに立っていたのは、息を切らし、心配そうに僕を見つめる美琴だった。 「美…琴…?」 彼女の姿を、その顔を、その声を認識した瞬間。 胸の奥で張り詰めていた氷の糸が、ぷつりと切れるような感覚がした。全身から、急速に力が抜けていく。ああ、よかった。助かったんだ。 そう、心の底から安心したら、もうダメだった。 急に視界がぐにゃりと歪み、足がもつれる。倒れかけた僕の身体は、駆け寄ってきた美琴の華奢な腕に、力強く支えられた。 「どうしたの…!??すごい汗だよ…!?」 僕の顔を覗き込む彼女の声が、ひどく遠くに聞こえていた。 *** 美琴の肩に寄りかかるようにして、僕たちは近くの公園までなんとかたどり着き、湿った夜気を含むベンチに腰を下ろす。 「悠斗くん…どうしたの…?何があったの?」 心配そうに僕の顔を覗き込む美琴に、僕はすぐには答えられない。 瞼の裏に、あの光景が焼き付いているんだ。空間を裂いて現れた異形。血の涙を流す、黄金の瞳。そして、僕の技をいとも容易く、絶望の色に染め上げた、あの黒い帳。 「迦夜が…現れたんだ…。」 絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。 「えっ…!?」 美琴が息を呑む気配が、隣で伝わってくる。 「迦夜は、僕を追いかけて来た。なんの目的があったのかは分からない。でも…体感では、すごく長い時間、あの路地裏から出ら