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九十五話: 憎しみが研ぐもの

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2025-06-25 19:00:00

どうにか黒崎を撒き、二人は廃工場の隅に積まれていたコンテナの中へ身を滑り込ませていた。

 薄暗い鉄の箱の内側は、油と錆の匂いが濃くこもっている。外から差し込むわずかな光が床を細く切り取り、その上で舞う埃だけが、かすかな動きを見せていた。遠くで鉄材の軋む音がした気がして、悠斗は無意識に息を浅くする。

「はぁ……はぁ……。美琴、大丈夫?」

 ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。走ったせいだけではない。さっき黒崎の刃に触れたときの痛みが、まだ左腕の奥に鈍く残っている。

「それは私の台詞です……。頬と左腕、大丈夫ですか?」

 息を整えきれていないはずなのに、美琴はまず悠斗の怪我を気にした。薄闇の中でも、その眼差しが真っ直ぐこちらを見ているのが分かる。

「なんとかね。美琴が言ってた“魂を切る”って意味も、嫌なくらい理解できたし」

 冗談めかして返す余裕はなかった。皮膚を浅く裂かれただけでは説明のつかない、あの感覚。傷そのものより、もっと内側を直接抉られたような不快な痛みが、言葉の端にまで滲む。

「先輩、触れますね」

 そう言って、美琴がそっと手を伸ばした。左腕に触れ、次いで頬へ。その指先は驚くほど温かい。ひやりと冷えたコンテナの空気の中ではなおさら、そのぬくもりが際立って感じられた。

 不意に触れられたことへの照れくささが一瞬だけ胸をよぎる。だが、それ以上に不思議だったのは、彼女の手が触れた場所から痛みがすうっと引いていくことだった。焼けつくようだった痛覚が、ゆっくりと遠ざかっていく。

「これは応急処置のようなものです。痛みを和らげているだけですから……何度も彼の刃物を受けてはいけません」

「……うん」

 短く頷きながら、悠斗は左腕を見下ろした。表面の傷より、その奥に残っていた嫌な痺れのほうが、ようやく薄らいでいく。

「彼の攻撃が、僕たちに通る理由……それってどうしてなの? 霊眼術を持ってるから、ってだけじゃないんだよね?」

 問いかけると、美琴はわずかに視線を伏せた。言葉を選んでいるらしい沈黙が、数秒だけ落ちる。

「……佐条さんもそうでしたけど、被害者の方々は、あの殺人鬼を強く憎んでいるはずです。それこそが理由だと思います」

「憎しみ……?」

「ええ。向けられた憎悪が、彼にまとわりついているんです。あれだけ多くの命を奪った相手ですから、並の霊とは比べものにならないほど濃い感情が集まっていても不思議ではありません」

 悠斗は眉をひそめた。被害者たちの憎しみ。それが黒崎に届き、あの異様な力の一部になっているというのか。

「でも、人が人を憎めば、普通は相手を弱らせることもあるよね。気分が落ち込んだり、体調を崩したり……。霊は逆、ってこと?」

「逆……というわけではないのですが……」

 美琴は言い淀み、少しだけ唇を噛む。

「どう説明したらいいのでしょう……。たぶん、それは“霊だから”ではなく、あの殺人鬼だからこそ、です」

 その言葉に、悠斗は顔を上げた。

「彼は、憎しみを向けられても傷つかないんです」

 美琴の声は低く、静かだった。

「普通なら、恨まれれば苦しくなるはずです。責められれば、どこかが削れる。けれど彼は違う。罵られても、憎まれても、きっと何とも思わない。むしろ相手の怒りや恐怖を見て、面白がる。嘲笑って、踏みにじって、それで満たされるような人間です」

 コンテナの外で、どこか遠く鉄が擦れる音が鳴った。悠斗は思わず息を潜める。だが、その物音すら今は、美琴の言葉の余韻を際立たせるだけだった。

「だから……向けられた憎しみさえ、彼にとっては痛みではなく、力に近いものになってしまうんだと思います」

 人を踏みにじり、恨まれるべくして恨まれた怪物が、その憎しみすら糧にしている。報いになるはずの感情が、あの男には届かないどころか、刃をさらに鋭くしてしまうのだとしたら——救いがなさすぎる。

 左腕に残っていた鈍痛は薄れつつある。なのに胸の内には、別の冷たさが静かに沈んでいった。

『どうやら、死んだ連中の姿が見えてるらしいな。……あんたたちも、黒崎に追われてるのかい』

 声は、コンテナのさらに奥――背後から響いた。

 悠斗と美琴は、はっとしてそちらを振り向く。

 薄闇の中にいたのは、血まみれのスーツを着た男だった。年の頃は五十代半ばほど。ほかの被害者たちと同じように全身へ凄惨な死の痕跡を残しているのに、その目だけは妙に静かだった。濁っていない。恐怖や苦痛に呑まれきった霊たちとは違い、そこにはまだ理性の光が残っているように見えた。

 しかも男は、コンテナの奥でロープに縛られたまま横たわっていた。

「……あなたも、彼に……?」

 美琴が慎重に問いかける。

『ああ。喉に一突きさ。ったく……あの野郎』

 吐き捨てるように言った声音には、怒りがあった。けれど、それは狂気に染まったものではない。自分が何者で、何をされたのかを、まだきちんと理解している者の怒りだった。

 悠斗は、その男を見つめる。

 血まみれの姿はほかの霊たちと変わらない。なのに、どこか決定的に違うと感じた。視線が合った瞬間にも、不気味さより先に「話が通じるかもしれない」という感覚があったのだ。ここへ来て初めて出会った、正気を保った被害者かもしれない――そんな予感が、胸の奥で小さく灯る。

『俺は石津製鉄所の経営者だった、石津明だ。悪いが、このロープを切ってくれないか』

「はい」

 美琴はすぐに屈み込み、石津の身体を縛っていたロープへ手を伸ばした。霊気をまとわせた指先で繊維を断つと、固く食い込んでいた拘束が、ぱさりとほどけて床へ落ちる。

「これで大丈夫です」

『おお、ありがとな』

 石津は肩を回しながら、小さく息をついた。

『不思議なもんだよな。幽霊になっちまったってのに、まだロープに縛られてるなんざ』

「……。きっと、生前の最後があまりにも強く脳裏に焼き付いてしまったのだと思います」

 美琴の言葉に、石津は一度目を伏せた。

『そうか……。ああ、そういうことなんだろうな』

 短いやり取りだったが、その受け答えだけでも分かる。この男は、佐条やほかの霊たちとは違う。死の瞬間に囚われながらも、完全には飲み込まれていない。

 悠斗はそこで、ずっと胸に引っかかっていた疑問を口にした。

「あの、石津さん。もし知っていたらで構わないんですけど……どうして、あの殺人鬼がここにいるんですか? 少なくとも僕の記憶では、黒崎は確かに捕まったはずなんです」

 問いかけると、石津の表情がわずかに曇る。

『……ああ。黒崎は、たしかに警察に捕まったらしいな』

「なら、どうして……」

 思わず前のめりになった悠斗に、石津は低く答えた。

『あいつは、死んでから捕まった。――そういうことさ』

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