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4.桜織旧病院と帰らない幼なじみ

作者: 渡瀬藍兵
last update 公開日: 2026-07-17 12:25:36

 翌朝。

 いつも通り教室の扉を開けた瞬間、僕は足を止めた。

 教室の中が、妙にざわついている。

 新学期が始まってまだ二日目だ。昨日と同じように浮ついた空気が残っていても、不思議ではない。

 けれど、今日のざわめきは明らかに質が違っていた。

 興奮した様子でスマートフォンの画面を見せ合う生徒がいる。その一方で、顔を強張らせ、小声で何かを囁き合っている者もいた。

「これ、本当に途中で切れたの?」

「最後の音、聞いた?」

「やばくない? まだ誰も帰ってないって……」

 断片的な言葉が耳に入る。

 誰かが面白半分に笑えば、別の誰かが「笑い事じゃないだろ」と顔をしかめる。

 高揚と恐怖。

 相反する二つの感情が教室の中で入り交じり、空気を落ち着かないものにしていた。

 一体、何があったんだろう。

 僕は自分の席へ向かい、鞄を机の横に掛ける。椅子を引いて腰を下ろすと、隣の席にいる男子生徒へ声をかけた。

「おはよう」

「お、櫻井。おはよう」

 彼はいつもと変わらない軽やかさで片手を上げた。

 その反応に少しだけ安心しながら、僕は周囲を見回す。

「なんだか、クラスの雰囲気がおかしくない? 何かあったの?」

 そう尋ねると、彼は意外そうに目を丸くした。

「なんだ、櫻井。昨日の生配信、見てないのか?」

「……生配信?」

 何のことだろう。

 僕が首を傾げると、彼は「ああ」と納得したように頷いた。

「そこからか。じゃあ櫻井、裏サイトは分かるか?」

「名前くらいなら」

 裏サイト。

 名前だけを聞けば、いかにも危険で、いかがわしい場所を想像してしまう。

 けれど、実際に扱われているのは、誰と誰が付き合い始めたとか、どこの教師が何をしたとか、町にある心霊スポットの情報だとか――そういった、狭い範囲の噂話がほとんどらしい。

 当人にとっては広められたくないような話まで、匿名で好き勝手に書き込まれている。

 以前、幼なじみの不動翔太から聞いたことがあった。

「その裏サイトでさ、奏多たちが結構有名だったんだよ」

「奏多?」

 聞き覚えのある名前だった。

 同じ学年の生徒だ。直接話したことはほとんどないけれど、廊下ですれ違ったことくらいはある。

「どうして有名になったの?」

「あいつら、よく心霊スポットに行って生配信してたんだ。それを裏サイトに上げてたら、いつの間にか人気が出てな。反応が増えたもんだから、どんどん過激な場所へ行くようになったってわけ」

「それで……その配信と、今の騒ぎに何の関係があるの?」

 彼は声を少し落とした。

「昨日、配信に行った連中が、まだ戻ってきてないんだってよ」

 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

 教室の喧騒が、少し遠くなったように感じる。

「……戻ってきてない?」

「ああ。朝になっても家に帰ってこなかったらしくて、親から学校に連絡が入ったみたいだ」

「それは……大変だね」

 思った以上に他人事のような言葉が口から出た。

 けれど、まだすべてが事実だと決まったわけではない。

 そう自分に言い聞かせるように、僕は続けた。

「配信を盛り上げるための、いたずらって可能性はないの?」

「俺も最初はそう思ったんだけどな」

 彼は腕を組み、昨夜の映像を思い返しているのか、難しい顔をした。

「たぶん、ない。少なくとも、やらせには見えなかった」

「……何が映ってたの?」

「いや、映像自体は途中からほとんど真っ暗だったんだよ。ただ、急に全員騒ぎ始めてさ。誰かが走る音がして、そのあと映像が乱れて……最後はそのまま配信が切れた」

 面白半分に肝試しへ行き、怖がるふりをする。

 それくらいなら、いくらでも演出できるだろう。

 けれど、一晩経っても帰宅していないとなれば、話は別だ。

 胸の奥に、冷たいものが滲み始める。

 まだ理由も分からない。

 それなのに、嫌な予感だけが、じわじわと輪郭を持ち始めていた。

「……ちなみに、どこへ行ったの?」

 彼は何でもないことのように、その場所の名前を口にした。

「桜織旧病院だよ」

「……は?」

 その名前を聞いた瞬間、胸の奥が一気に冷え込んだ。

 ――桜織旧病院。

 桜織市に住む者なら、一度は耳にしたことがある場所だ。

 町の外れに建つ、廃墟となった総合病院。

 戦後間もない頃に開院し、当時としてはかなり大きな病院だったらしい。けれど数十年前、患者の減少や経営難によって閉鎖され、そのまま放置された。

 それが表向きの話だ。

 裏では、病院内で不可解な事故が相次いだだとか、夜中に使われていない病室からナースコールが鳴っただとか、入院患者が不自然な死を遂げていたのだとか、いくつもの黒い噂が囁かれている。

 どこまでが本当なのかは、僕にも分からない。

 ただ、実際に中へ入った者たちは、皆、口を揃えて同じことを言うという。

 ――二度と近づきたくない。

 作り話だけで済ませるには、あの場所には噂が多すぎた。

「なんだって、そんなところに……」

「まあ、あいつら、この辺りの心霊スポットはだいたい回ってたからな。残ってた有名どころは、桜織旧病院と風鳴トンネルくらいだったし」

 だからといって、あの病院へ入るなんて正気の沙汰ではない。

 心霊スポットと呼ばれる場所の大半は、噂だけが独り歩きしている。

 暗さや静けさに恐怖を煽られ、木の軋む音を人の声だと思い込み、自分たちで怪異を作り上げてしまう。

 けれど、すべてがそうとは限らない。

 僕は、それを知っている。

 この世には、本当に近づいてはいけない場所がある。

 見えてしまう僕だからこそ、噂をただの噂として笑い飛ばすことはできなかった。

「それで、誰が行ったの?」

「奏多と蓮。それから遊助」

 彼は指を折りながら名前を挙げ、最後に付け加えた。

「あと、翔太。今、その四人が帰ってきてないらしいぜ」

「……え?」

 心臓が、一度だけ大きく脈打った。

 聞き間違いだと思った。

 いや、そうであってほしかった。

「待って」

 自分でも分かるほど、声が掠れていた。

「今、最後に誰って言った?」

 彼は僕の反応を不思議そうに見ながら、もう一度その名前を口にした。

「だから、不動翔太だって」

 その瞬間。

 教室に満ちていた話し声も、椅子を引く音も、廊下を走る足音も。

 僕に聞こえていたすべての音が、遠のいた。

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