LOGIN翌朝。
いつも通り教室の扉を開けた瞬間、僕は足を止めた。 教室の中が、妙にざわついている。 新学期が始まってまだ二日目だ。昨日と同じように浮ついた空気が残っていても、不思議ではない。 けれど、今日のざわめきは明らかに質が違っていた。 興奮した様子でスマートフォンの画面を見せ合う生徒がいる。その一方で、顔を強張らせ、小声で何かを囁き合っている者もいた。 「これ、本当に途中で切れたの?」 「最後の音、聞いた?」 「やばくない? まだ誰も帰ってないって……」 断片的な言葉が耳に入る。 誰かが面白半分に笑えば、別の誰かが「笑い事じゃないだろ」と顔をしかめる。 高揚と恐怖。 相反する二つの感情が教室の中で入り交じり、空気を落ち着かないものにしていた。 一体、何があったんだろう。 僕は自分の席へ向かい、鞄を机の横に掛ける。椅子を引いて腰を下ろすと、隣の席にいる男子生徒へ声をかけた。 「おはよう」 「お、櫻井。おはよう」 彼はいつもと変わらない軽やかさで片手を上げた。 その反応に少しだけ安心しながら、僕は周囲を見回す。 「なんだか、クラスの雰囲気がおかしくない? 何かあったの?」 そう尋ねると、彼は意外そうに目を丸くした。 「なんだ、櫻井。昨日の生配信、見てないのか?」 「……生配信?」 何のことだろう。 僕が首を傾げると、彼は「ああ」と納得したように頷いた。 「そこからか。じゃあ櫻井、裏サイトは分かるか?」 「名前くらいなら」 裏サイト。 名前だけを聞けば、いかにも危険で、いかがわしい場所を想像してしまう。 けれど、実際に扱われているのは、誰と誰が付き合い始めたとか、どこの教師が何をしたとか、町にある心霊スポットの情報だとか――そういった、狭い範囲の噂話がほとんどらしい。 当人にとっては広められたくないような話まで、匿名で好き勝手に書き込まれている。 以前、幼なじみの不動翔太から聞いたことがあった。 「その裏サイトでさ、奏多たちが結構有名だったんだよ」 「奏多?」 聞き覚えのある名前だった。 同じ学年の生徒だ。直接話したことはほとんどないけれど、廊下ですれ違ったことくらいはある。 「どうして有名になったの?」 「あいつら、よく心霊スポットに行って生配信してたんだ。それを裏サイトに上げてたら、いつの間にか人気が出てな。反応が増えたもんだから、どんどん過激な場所へ行くようになったってわけ」 「それで……その配信と、今の騒ぎに何の関係があるの?」 彼は声を少し落とした。 「昨日、配信に行った連中が、まだ戻ってきてないんだってよ」 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。 教室の喧騒が、少し遠くなったように感じる。 「……戻ってきてない?」 「ああ。朝になっても家に帰ってこなかったらしくて、親から学校に連絡が入ったみたいだ」 「それは……大変だね」 思った以上に他人事のような言葉が口から出た。 けれど、まだすべてが事実だと決まったわけではない。 そう自分に言い聞かせるように、僕は続けた。 「配信を盛り上げるための、いたずらって可能性はないの?」 「俺も最初はそう思ったんだけどな」 彼は腕を組み、昨夜の映像を思い返しているのか、難しい顔をした。 「たぶん、ない。少なくとも、やらせには見えなかった」 「……何が映ってたの?」 「いや、映像自体は途中からほとんど真っ暗だったんだよ。ただ、急に全員騒ぎ始めてさ。誰かが走る音がして、そのあと映像が乱れて……最後はそのまま配信が切れた」 面白半分に肝試しへ行き、怖がるふりをする。 それくらいなら、いくらでも演出できるだろう。 けれど、一晩経っても帰宅していないとなれば、話は別だ。 胸の奥に、冷たいものが滲み始める。 まだ理由も分からない。 それなのに、嫌な予感だけが、じわじわと輪郭を持ち始めていた。 「……ちなみに、どこへ行ったの?」 彼は何でもないことのように、その場所の名前を口にした。 「桜織旧病院だよ」 「……は?」 その名前を聞いた瞬間、胸の奥が一気に冷え込んだ。 ――桜織旧病院。 桜織市に住む者なら、一度は耳にしたことがある場所だ。 町の外れに建つ、廃墟となった総合病院。 戦後間もない頃に開院し、当時としてはかなり大きな病院だったらしい。けれど数十年前、患者の減少や経営難によって閉鎖され、そのまま放置された。 それが表向きの話だ。 裏では、病院内で不可解な事故が相次いだだとか、夜中に使われていない病室からナースコールが鳴っただとか、入院患者が不自然な死を遂げていたのだとか、いくつもの黒い噂が囁かれている。 どこまでが本当なのかは、僕にも分からない。 ただ、実際に中へ入った者たちは、皆、口を揃えて同じことを言うという。 ――二度と近づきたくない。 作り話だけで済ませるには、あの場所には噂が多すぎた。 「なんだって、そんなところに……」 「まあ、あいつら、この辺りの心霊スポットはだいたい回ってたからな。残ってた有名どころは、桜織旧病院と風鳴トンネルくらいだったし」 だからといって、あの病院へ入るなんて正気の沙汰ではない。 心霊スポットと呼ばれる場所の大半は、噂だけが独り歩きしている。 暗さや静けさに恐怖を煽られ、木の軋む音を人の声だと思い込み、自分たちで怪異を作り上げてしまう。 けれど、すべてがそうとは限らない。 僕は、それを知っている。 この世には、本当に近づいてはいけない場所がある。 見えてしまう僕だからこそ、噂をただの噂として笑い飛ばすことはできなかった。 「それで、誰が行ったの?」 「奏多と蓮。それから遊助」 彼は指を折りながら名前を挙げ、最後に付け加えた。 「あと、翔太。今、その四人が帰ってきてないらしいぜ」 「……え?」 心臓が、一度だけ大きく脈打った。 聞き間違いだと思った。 いや、そうであってほしかった。 「待って」 自分でも分かるほど、声が掠れていた。 「今、最後に誰って言った?」 彼は僕の反応を不思議そうに見ながら、もう一度その名前を口にした。 「だから、不動翔太だって」 その瞬間。 教室に満ちていた話し声も、椅子を引く音も、廊下を走る足音も。 僕に聞こえていたすべての音が、遠のいた。「竹本さん?」 街灯の下に立つ男の姿を見て、僕は思わずその名を呼んだ。 竹本さんは、僕たちと静江さんを見比べている。仕事帰りなのだろうか。片手には鞄を提げ、シャツの袖を肘までまくっていた。 けれど、こちらへ歩み寄るより先に、静江さんが血相を変えて叫んだ。「典行! やっぱりあんたの差し金だったんだね! この子たちは、あんたが寄越したんだろう!」「静江さん?」 突然責め立てられた竹本さんは、困惑を隠せない様子で足を止めた。「何のことですか。彼らとは確かに面識がありますが、私がここへ来るよう頼んだわけではありません」「しらばっくれるんじゃないよ! 詩織のことを持ち出して、二人してあたしを追い詰めようとしてるんだろう!」「待ってください。本当に、私は何も――」 竹本さんは言いかけ、僕たちへ視線を向けた。 その表情に浮かんだ戸惑いが、やがて不安へ変わっていく。「君たち、これはどういうことなんだい?」 少し声を落とし、確かめるように尋ねてくる。「詩織の霊が、どうとか……途中から聞こえてきたけれど」「竹本さん」 美琴が一歩、前へ出た。 胸元で握られた小さな手には、わずかに力が込められている。「これから、すべてお話しします。お二人にとって、とてもおつらい内容になると思います。それでも、どうか最後まで聞いてください」 夜風が、美琴のポニーテールを揺らした。 静江さんは警戒を露わにしたまま、美琴を睨んでいる。竹本さんも何かを言おうとしたが、彼女の真剣な面差しを見て、黙って口を閉じた。 そして美琴は、語り始めた。 僕たちが風鳴トンネルで詩織さんと出会ったこと。 彼女が二十年前に亡くなってからも、帰れないまま、あの場所を彷徨い続けていること。 僕が詩織さんと目を合わせ、彼女の記憶と強く共鳴したこと。 母親と分かり合えないまま家を飛び出した夜のことも、竹本さんと共に生きたいと願っていたことも。そして、事故に遭った最期の瞬間まで。 僕が見たものを、ひとつずつ。 静かに、けれど曖昧な言葉で逃げることなく伝えていく。 そのほとんどは、美琴自身が見たものではない。 僕が彼女へ話したことだ。 それなのに美琴は、一度も「先輩がそう言っているだけです」とは言わなかった。僕が見たものを疑う余地のある話としてではなく、確かに起きたこととして語ってく
夕暮れはいつの間にか夜へと呑み込まれていた。 集落の家々にはぽつぽつと灯りがともり、風に乗って味噌汁や煮物、焼き魚らしき匂いが漂ってくる。どこかの家からは食器の触れ合う音が聞こえ、遠くで子供の笑い声もした。 きっと今頃、それぞれの家で家族が食卓を囲んでいるのだろう。 そんな温かな気配に包まれた集落の中で、松田家だけが時の流れから取り残されているように見えた。 庭を埋め尽くした雑草も、閉ざされたカーテンも、昼間に見たときより一層暗く沈んでいる。 僕と美琴は、再びその玄関前に並んで立っていた。「美琴……行くよ」 乾いた喉を鳴らし、唾を飲み込む。 公園では、もう一度向き合うと決めた。 それでも、あれほど激しく拒絶された扉を前にすると、指先まで冷たくなっていく。「ええ」 隣から返ってきた声は、変わらず落ち着いていた。 僕は意を決し、インターホンを押した。 ──ピンポーン。 少しくぐもった、どこか寂しげな電子音が家の中へ吸い込まれていく。 しばらく待っていると、奥から荒々しい足音が聞こえた。「ったく……今度は誰だい……!」 扉越しに、静江さんの苛立った声が響く。 反射的に手を握り締めた。 爪が掌へ食い込む。その直後、強張っていた僕の手を、柔らかな温もりが包み込んだ。「……美琴?」 見ると、美琴が僕の手を両手でそっと握っていた。「大丈夫ですよ」 こちらを見上げた顔には、少しの迷いもない。「今度は、私に任せてください」 その眼差しに、胸の奥で暴れていたものがわずかに静まった。 玄関の向こうで鍵の回る音がする。 美琴は僕の手を一度だけ強く握ると、静かに離した。 直後、扉が勢いよく開かれた。「誰かと思えば……!」 現れた静江さんは、乱れた髪を苛立たしげに掻いた。僕たちの顔を認めた途端、深く刻まれた眉間の皺がさらに険しくなる。「またあんたたちかい! いい加減にしておくれよ!」「し、静江さん!」 僕は咄嗟に一歩前へ出た。「お願いします。今度こそ、一度だけ僕たちの話を──」「嫌だね!」 言葉を最後まで口にすることすら許されなかった。「あたしゃ、あんたたちみたいな怪しい連中の話に耳なんか貸さないよ! 昼間あれだけ言っただろう!」「でも、詩織さんは今も──」「その名前を口にするんじゃないよ!」 怒声に身体が強張
「はぁ……」 肺の奥に溜まっていたものが、深いため息になって零れた。 僕は、かつて詩織さんの記憶の中で見た公園にいた。 夕暮れに染まった空の下、古びたブランコへ腰を下ろしている。鎖がわずかに軋み、足元の砂を靴先で擦るたび、乾いた音がした。 隣のブランコには、美琴が座っている。 ずっとそばにいてくれている。 それでも、僕の心は重く沈んだままだった。 僕は焦った。 せっかく静江さんに会えたのに、言葉を選ぶこともできず、自分からその機会を壊してしまった。「はぁ……」 また、ため息が勝手に出る。「……自分が情けないよ」 夕日の橙色が、美琴の横顔を柔らかく照らしていた。「仕方ありませんよ」 美琴は前を向いたまま、静かに答える。「静江さんの警戒心も、疲弊したお心も、私の想定を大きく上回っていました。あの状態では、たとえ私が話していたとしても、説得するのは難しかったでしょう」「でも、君ならもっと上手く立ち回れたはずだ」 後悔しているわけではない。 詩織さんを救いたいと思ったことを、間違いだったとは思いたくなかった。 ただ、僕が自分でやらなければならないと意地を張らず、美琴に任せていれば。 もっと慎重に言葉を選べていたなら。 こんな結果にはならなかったかもしれない。「先輩」 美琴の声が、沈み込んでいた僕の思考を止めた。「そのように考えてしまうお気持ちは分かります。ですが、詩織さんを救いたいと願ったのは、紛れもなく先輩です」 彼女は僕へ顔を向ける。「それは、決して独りよがりなどではありません。誰かの苦しみを知り、放っておけないと思えた。そのお気持ちまで否定しないでください」「……ごめん」「謝る必要もありませんよ」 美琴は困ったように目を細め、それから柔らかく微笑んだ。「生きている方と、亡くなった方をもう一度繋ぐというのは、私であっても容易なことではありませんから」「そう、なんだ」「ええ」 小さく頷いたあと、美琴はブランコの上で身体をこちらへ向けた。 鎖が、かすかに揺れる。「ところで、先輩」「うん?」「先輩は、このあとどうしたいですか?」「どうしたいって……」 そんなのは決まっている。 詩織さんを救いたい。 けれど、その願いを口にする資格が、まだ自分にあるのだろうか。 僕が余計なことをしたせいで、静江
そして、数日後。 僕たちは、ある一軒家の前へ立っていた。 集落の奥に建つ、大きな二階建ての家。 かつては立派だったのだろう外壁は長い年月で色褪せ、庭には膝ほどまで伸びた雑草が好き放題に生い茂っている。人の手が行き届いているとは、とても思えなかった。 門柱に掛けられた表札へ目を向ける。 そこには、はっきりと──『松田』の二文字が刻まれていた。 僕たちは、賭けに勝った。 記憶の中で見たあの家が、今、現実として目の前にある。 綺麗だった外壁は薄汚れ、庭も荒れ果ててしまっている。それでも間違えるはずがない。 詩織さんが帰りたかった家だ。 ……いや。 まだ勝ったなんて言えない。 家が残っていたことには安堵した。でも、本当に会いたい相手がここにいるとは限らない。 静江さんが、まだ生きている保証はどこにもないのだから。 家全体から漂う重苦しい空気に、自然と喉が渇いた。 インターホンへ伸ばした指先が止まる。「先輩、代わりましょうか?」 隣から、美琴が静かに声を掛けてくれた。 僕は首を横へ振る。 ……だめだ。 ここで「お願い」なんて言ったら、僕は一生後悔する。 ここへ来ると決めたのは僕だ。 だったら、最初の一歩くらい、自分で踏み出さなくちゃいけない。「大丈夫。少し……緊張してるだけだから」 口ではそう言ったものの、心臓は暴れるように脈打っていた。 本当に、このまま口から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどだ。 僕は一度、大きく息を吸う。 ゆっくり吐いて、もう一度吸う。 そして、小さく自分へ言い聞かせた。「よしっ……行こう、美琴」「はい」 その返事に背中を押されるように、僕はインターホンを押した。 ……が。「……あれ?」 何も鳴らない。 押した感触すらなかった。「も、もう一回……」 少し焦りながら押し直す。 今度は、 ──ピンポーン。 乾いた電子音が静かな住宅街へ響いた。 ほどなくして、家の奥から床を軋ませるような足音が聞こえてくる。 一歩。 また一歩。 ゆっくりと近づいてきて──。 ガチャリ、と玄関の扉が開いた。「はい……。松田ですけど」「っ……」 息を呑んだ。 目の前に立っていた女性は、記憶の中にいた静江さんとは、まるで別人だった。 頬は痩せこけ、目の下には深く濃い隈が刻まれて
その後、僕たちは風鳴トンネルを離れた。 竹本さんは職場から呼び戻されたらしく、何度も僕の体調を気遣いながら、先に町へ戻っていった。 そして今、僕と美琴は町外れにある小さなカフェで向かい合っている。 窓の外では、まだ細い雨が降り続いていた。軒先から落ちる雫が一定の間隔で地面を叩き、店内には豆を挽く音と、控えめなピアノの旋律が流れている。 僕たちの濡れた傘は、入口脇の傘立てに並んでいた。「つまり――先輩は、突然現れた詩織さんと目が合い、その直後に彼女の記憶を見た。そういうことですね」 ひととおり話を聞き終えた美琴が、確認するように言った。「うん」 頷きながら、テーブルに置かれた水へ目を落とす。吐き気はもう治まっていたけれど、あのときの光景は、まだ瞼の裏に焼きついたままだった。「……先輩。あのとき、私には詩織さんの姿が見えていませんでした」 美琴はわずかに眉を寄せ、考え込むようにコーヒーカップへ指を添えた。「つまり先輩は、彼女の無念と強く共鳴してしまったのだと思います」「共鳴……?」 また、新しい言葉が出てきた。 影に、残滓に、今度は共鳴。 霊の世界には、僕の知らない言葉がいったいどれほどあるのだろう。「はい。詩織さんは、誰かに自分の過去を知ってほしいと強く願っていたのでしょう。あれほど悲しい結末を迎えたのなら、そう思うのも不思議ではありません」 美琴はカップから立ち昇る湯気の向こうで、静かに言葉を続けた。「そして彼女は、先輩を選んだ。おそらく、そういうことです。ただ……彼女の想いがあまりにも強かったため、先輩は巫術を使っていないにもかかわらず、あれほど鮮明に過去を見てしまったのでしょう」 詩織さんは、僕にあの過去を見てほしかったのか。 そう考えた途端、胸の奥に沈めたはずのものが、再び浮かび上がってくる。 竹本さんと過ごした穏やかな時間。 母親に分かってもらえなかった悲しみ。 怒りに任せてぶつけてしまった言葉。 そして、誰にも届かないまま冷たい地面へ横たわっていた孤独。 彼女は、死の間際までずっと後悔していた。 だからこそ、あの薄暗いトンネルの中で、壊れてしまったように何度も『ごめんなさい』と繰り返していたのだろう。 決して届くことのない、母親への謝罪を。 ――静江さんは、今どうしているのだろう。 そもそも、僕
──櫻井悠斗── 母さん。 母さん、ごめんなさい。 帰りたいよ――。 彼女の声が遠ざかっていく。 冷たいトンネルも、泥に濡れた指輪も、身体を蝕んでいた痛みも、深い水の底へ沈むように薄れていった。 代わりに、どこか遠くから僕を呼ぶ声が聞こえてくる。「……い!」 誰かが、必死に叫んでいる。「せん……ぱい! しっかり……してください!」 その声に引き上げられるように、僕の意識は彼女の記憶から浮上した。「はっ……!」 肺へ一気に空気が流れ込む。 目を開けると、すぐそばに美琴の顔があった。「先輩! どうされたのですか!?」 美琴はひどく取り乱した様子で、僕の顔を覗き込んでいた。いつもの落ち着きは消え、眉は不安そうに寄せられている。「僕は……」 声が掠れた。 ここは、風鳴トンネルだ。 冷たい空気。濡れた地面。外から響いてくる雨音。 分かっているはずなのに、目の前にはまだ、赤く滲んだ暗闇がこびりついていた。 詩織さんの身体を打ちつけた衝撃。 遠ざかっていくトラックの尾灯。 動かなくなった指先に光っていた、竹本さんから贈られた指輪。 そのすべてが、まるで僕自身の記憶であるかのように胸へ刻み込まれている。「彼女の……記憶を見た」 どうしてなのかは分からない。 僕はまだ、過去を見るような巫術を使えない。そもそも、術を使おうとしたわけですらなかった。 ただ、トンネルの奥から現れた彼女と目が合った。 その瞬間、意識を掴まれた。 無理やり扉をこじ開けられ、その向こうへ引きずり込まれた――そう表すのが、いちばん近い気がする。 けれど、見せられたのは出来事だけではなかった。 母親を愛する気持ちも。 分かってもらえなかった悲しみも。 最後に傷つける言葉をぶつけてしまった後悔も。 死の間際、ただ家へ帰りたいと願った心も。 どれもが僕の中に流れ込み、今も胸の奥で悲鳴を上げている。 彼女の未練。 それは、愛する母親と仲違いをしたまま、二度と帰れなかったことなのだ。「分からない……。でも僕は今、確かに彼女の記憶を見た……!」「……っ。彼女とは、詩織さんのことですか?」「う、うん……」 美琴の目が大きく見開かれる。 それでも彼女はすぐに表情を引き締め、僕の肩や顔を確かめるように視線を巡らせた。「そう