Masuk桜翁の前に立つ少女の髪を、ふいに風がさらった。
彼女は片手を上げ、揺れたポニーテールをそっと押さえる。その拍子に、桜を見上げていた横顔がこちらへ向いた。 同時に、一陣の風が桜翁の枝々を駆け抜ける。 夕日に染まった無数の花びらが枝先からこぼれ、少女の周囲を包み込むように渦を巻いた。 まるで桜翁が、彼女の存在を迎え入れ、祝福しているかのように。 舞い散る桜の中に佇むその姿は、あまりにも絵になっていた。 気づけば、僕は視線を逸らすことも忘れていた。 ほんの数秒だったのか、それとも、もう少し長いあいだ見入ってしまっていたのか。 やがて少女の瞳が、まっすぐこちらを捉えた。 「……あの、私に何かご用でしょうか?」 少女は少し困ったように眉を下げながら、それでも柔らかな笑みを浮かべて尋ねてきた。 しまった。 そう思ったときには、もう遅かった。 これだけ見つめていれば、声をかけられるのも当然だ。 けれど、どう答えればいい。 見ず知らずの相手に、桜の中に立つ姿があまりに綺麗で、つい見入ってしまった――などと正直に言えるはずがない。 そんなことを言えば、引かれるか、困らせるか。 たぶん、その両方だ。 「ごめん。用ってわけじゃないんだけど……この辺りでは見かけない顔だなと思って」 咄嗟にそう答えた。 口にしてから、我ながら悪くない言い訳だと思う。 この神社には何度も足を運んでいるし、桜の季節になると、毎年決まって見かける人たちもいる。少なくとも、彼女の姿をここ数年で目にした覚えはなかった。 だから、嘘ではない。 うん。決して嘘ではない。 ただ、本当にそれだけが理由だったのかと聞かれれば、少し答えに困る。 彼女は、素直に可愛らしいと思える顔立ちをしていた。 整った目鼻立ちに、どこか凛とした佇まい。僕の頭に真っ先に浮かんだのは、美少女という、ひどくありふれた言葉だった。 「なるほど。そういうことでしたか」 彼女は僕の言葉を疑う様子もなく、小さく頷いた。 その反応に、胸の内で安堵の息を吐く。 「その制服、桜織高校のものだよね」 「はい。本日より、桜織高等学校の一年生となりました」 少女は背筋を伸ばすと、僕に向かって丁寧に頭を下げた。 「月瀬美琴と申します。以後、お見知りおきください」 「…………」 あまりに礼儀正しい挨拶に、今度は僕が言葉を失った。 本当に高校一年生なのだろうか。 今の僕はもちろん、一年前の自分と比べても、彼女はずっと落ち着いて見える。振る舞いの一つひとつに迷いがなく、同年代には似つかわしくないほど大人びていた。 とはいえ、年上の僕がいつまでも呆然としているわけにもいかない。 「僕は桜織高校二年の櫻井悠斗。こちらこそ、よろしく」 彼女ほど礼儀正しくできた自信はないけれど、どうにか普通の挨拶は返せたと思う。 「ふふ。先輩だったのですね」 月瀬さんは、口元に手を添えるようにして微笑んだ。 その笑顔は柔らかく、春の日差しのように自然だった。 笑顔のよく似合う子だ。 だからこそ、さっき桜翁を見上げていた横顔が、どこか儚く、寂しそうに見えたことが不思議だった。 もっとも、僕の見間違いだろう。 こんなにも穏やかに笑える人なのだから。 月瀬さんは再び桜翁へ顔を向けた。 「こちらが、桜翁……でしたか?」 「うん。この木が桜翁。この町に住んでいる人なら、知らない人はいないくらい有名な老木なんだ」 「やはり、そうなのですね。一年生の間でも話題になっていましたので、気になって足を運んでみたのですが……」 言葉を切り、月瀬さんは遥か頭上に広がる桜の枝を見上げた。 風に揺れる花々を映して、その瞳がわずかに細められる。 「とても、美しいですね……」 その声には、心からの感嘆が込められていた。 彼女の横顔を見ながら、僕はふと思う。 もしかすると、月瀬さんは最近、別の町から桜織市へ来たのかもしれない。 桜翁は、この町の象徴とも呼べる存在だ。桜織市で生まれ育った人なら、実際に訪れたことはなくても、その名前くらいは知っている。 一年生の間で聞いて初めて興味を持った、という彼女の口ぶりから、そう思っただけだ。 もちろん、ただ今まで関心がなかっただけかもしれない。 それだけで決めつけるのも失礼だろう。 「綺麗だよね。桜翁は、樹齢千年とも言われてるんだ」 「千年……ですか?」 月瀬さんがわずかに目を見開き、その言葉を静かに繰り返した。 さすがに驚いたらしい。 樹齢千年。 口にするだけなら簡単だけれど、人ひとりの生涯では到底数え切れないほどの時間を、この木はここで刻み続けてきたことになる。 一体、千年ものあいだ、桜翁はこの丘の上から何を見てきたのだろう。 この町がまだ今の形になる前から、ここに立ち続けて。 人と人との出会いを見て。 やがて訪れる別れを見て。 一度は交わったはずの道が、いつの間にか違う方向へ分かれていく様子も、きっと見届けてきたのだろう。 あるいは、帰ってこない誰かを待ち続ける人の姿さえも。 僕には想像することしかできない。 「ですが……少し残念です」 月瀬さんの声に、僕は思考を引き戻された。 彼女は名残惜しそうに桜翁を見上げている。 「今日はカメラを持ってきていなくて。本当は、満開の姿をきちんと写真に収めたかったのですが……」 舞い落ちる花びらを目で追いながら、月瀬さんは小さく息を吐いた。 おそらく、今日を逃せば満開の桜を撮ることはできないと思っているのだろう。 実際、この町に咲くほかの桜は、明日から少しずつ花を散らしていくはずだ。 春の盛りは短い。 けれど、桜翁だけは違う。 「大丈夫だよ」 「えっ?」 月瀬さんが、不思議そうにこちらを見る。 「この桜翁は、ほかの桜よりずっと長く咲いているんだ。春だって感じられるうちは、ほとんどこのままだよ」 「……春の間、ずっとですか?」 彼女は困惑したように、もう一度桜翁を見上げた。 「本当に?」 「本当。僕も毎年見に来てるけど、桜翁だけはなかなか花を散らさないんだ。だから、写真ならまた今度でも間に合うと思う」 「そう、なのですね……」 月瀬さんの表情が、ほっとしたように緩んだ。 桜は、儚いものだ。 満開になったと思った次の瞬間には、風にさらわれ、雨に打たれ、惜しまれるうちに散っていく。 けれど桜翁は、普通の桜では考えられないほど長いあいだ、その花を咲かせ続ける。 理由は、誰も知らない。 ただ、この町では昔からそうだった。 まるで――。 いつかここへ来る誰かを、ずっと待ち続けているかのように。 ──────────────── 春の風に 名もなき縁は解けて 二つの影 まだ知らぬまま 交わりぬ 大いなる災いは 目を覚まし 記されし因果、誰が断ちきるものぞ されど 祈りは結ばれん──櫻井悠斗──「……あ」 止まっていた呼吸を思い出したように、僕は大きく息を吸った。 鼻の奥に、古い埃と湿った壁の匂いが戻ってくる。 白く清潔だった病室は消え、代わりに見えたのは、ひび割れと黒い染みに覆われた院長室の天井だった。 誠也くんの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。 隣へ顔を向けると、月瀬さんは声もなく泣いていた。 伏せられた睫毛から雫が落ち、膝の上で眠る誠也くんの頬を濡らしている。それでも彼女は涙を拭おうとせず、唇を固く結んだまま、その小さな顔を見つめ続けていた。 ……なんだったんだ、今のは。 誠也くんの過去が理解できなかったわけじゃない。 むしろ、分かりすぎてしまった。 僕自身が嗅いだはずのないお母さんの匂いも、触れたはずのない木彫りの犬の凹凸も、思い出そうとすれば鮮明によみがえる。 ただ映像を見せられたんじゃない。 まるで僕自身が彼の人生の一部を生きたかのように、その寂しさも、苦しさも、この身に――いや、魂にまで刻み込まれている。 僕が理解できなかったのは、そんなものを他人へ見せた月瀬さんの力だ。 霊能力者。 巫女。 それを聞いてなお、今起きた出来事が現実だとは信じきれなかった。 幽霊が見える僕でさえ、他人の過去を、その痛みごと追体験するなんてあり得ないと思う。 それでも、この胸に残る痛みだけは偽物じゃない。 僕はもう、誠也くんがどれほど家族に会いたかったのかを知ってしまった。「月瀬さん……今のは……」 沈んだ声で尋ねると、月瀬さんは濡れた睫毛を伏せた。「先輩。お話は、すべてが終わったあとで」 わずかに震えていた声が、次の言葉では静かに整えられる。「今はまず、誠也くんを送り届けなければなりません」「送り届ける……?」「私たちが彼の過去を見届け、その想いを受け取ったことで、誠也くんをこの場所へ縛っていた未練は完全に解けました」 月瀬さんは誠也くんをそっと抱き上げると、膝の隣――古びたソファの上へ優しく寝かせた。「彼がここで生きていたことを、私たちは知りました。もう、ひとりで記憶を抱えて、この場所に留まり続ける必要はありません」 それから、傍らに置いていた鞄を開く。「これより、誠也くんの御魂を、在るべき場所へとお還しします」 鞄から取り出されたのは、細い柄に金色の鈴が幾つも連なったものだっ
「誠也っ!」 病室の外から、聞き間違えるはずのない声が響いた。「お母さん……?」 答える間もなく、扉が勢いよく開く。 お母さんは転びそうなほど慌てて僕のところまで走ってくると、ベッドに横たわる僕を軽々と抱き上げた。「わぁ……っ!」 そのまま、ぎゅうっと胸の中へ閉じ込められる。 身体が潰れちゃうんじゃないかと思うくらい、強く、強く。 久しぶりに嗅いだ、お母さんの匂いだった。 ずっと会いたかった。忘れるはずなんてなかった。胸の奥まで温かくなる、僕がいちばん安心できる匂いだ。 僕の身体は思うように動かなかったけれど、どうにか指先を持ち上げ、お母さんの服を掴んだ。「ごめんね……誠也。長い間ひとりにして、本当にごめんね……」 耳元で、お母さんが何度も謝ってくる。「大丈夫だよ、お母さん。誠也は大丈夫だから。それより、お仕事は?」 そう尋ねても、お母さんは答えてくれなかった。 ただ、僕を抱きしめる力が、もっと強くなる。「お、お母さん……誠也、潰れちゃうよ」 困ったように言ってみた。 いつもなら、きっと笑いながら腕を緩めてくれるはずなのに、お母さんは何も言わない。 僕を抱いたまま、小さく震えていた。「どうしたの? 何か、悲しいことがあったの?」 お母さんがゆっくりと顔を上げる。 その顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。「お母さん……どうして泣いてるの? 誠也のせい?」「ううん、違うの。誠也は何も悪くないわ。ただ……悲しいの」 そのとき、もう一度、病室の扉が開いた。「お父さん! お兄ちゃん!」 嬉しくて、いつもよりずっと大きな声が出た。 お父さんはどこか暗い顔をしていた。それでも僕と目が合うと、いつものように優しく笑ってくれた。 お兄ちゃんは――どうしてだろう。 僕に会えたはずなのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。「誠也、お見舞いに来たんだ。それでさ、渡したいものがあるんだよ」「渡したいもの? なあに?」 お兄ちゃんが僕の前へ差し出したのは、小さな木
「ゲホッ、げほっ……」 胸の奥を引っかかれるような咳が続いて、僕は口元を押さえた。 白い布に、小さな赤い染みがついていた。 まただ。 誰かに見つかる前に、僕は布を小さく折り畳み、枕の下へ隠した。 僕がこの病院へ入院してから、もうすぐ二か月になる。 お母さんとお父さんは、ときどき病室へ来てくれる。来るたびに「もう少しだからね」と言ってくれるけれど、僕はまだ退院できないみたいだった。 咳は、前よりもひどくなっている。 夜になると何度も目が覚めるし、咳き込みすぎて息ができなくなることもあった。最近は、口から赤いものが出てくる回数も増えている。 けれど、そのことはなるべく誰にも言わないようにしていた。 扉を叩く音がして、白衣を着たおじいさんが病室へ入ってきた。「誠也くん、おはよう。今朝の具合はどうかな」「じいちゃん先生、おはよう!」 僕はすぐに身体を起こそうとした。 けれど腕に力が入らなくて、途中で背中がベッドへ戻ってしまう。それでも、何もなかったように笑ってみせた。「誠也はね、元気だよ!」「そうかい」 じいちゃん先生は、いつもの優しい顔で笑った。 それから僕のそばまで来ると、冷たい聴診器を胸に当てた。「少しだけ、じっとしていておくれ」「うん」 息を大きく吸おうとすると、すぐに胸が苦しくなった。 我慢しようとしたけれど、喉の奥がむずむずして、また小さな咳が出てしまう。 じいちゃん先生は聴診器を外すと、僕の顔を静かに見た。「誠也くん。私はね、お医者さんなんだ」「うん。知ってるよ」「具合の悪いところを隠されてしまうと、誠也くんを治してあげられなくなってしまう。苦しいときは、苦しいと言っていいんだよ」 声はいつもと同じように優しかった。 だから、すぐにはわからなかったけれど――たぶん、僕は怒られたのだと思う。「……ごめんなさい」「謝らなくていい。ただ、私には本当のことを教えてほしいんだ」「うん」 僕は頷いた。 けれど、本当のことは言えなかった。
──山口誠也── 僕は、車の後ろの席に座っていた。 手には、緑色のロボットのおもちゃ。 窓の外では、家や電柱が後ろへどんどん流れていく。僕はロボットを膝の上に立たせながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。「誠也……」 前の席から、お母さんの声が聞こえた。「強い身体に産んであげられなくて……ごめんね」 また、悲しそうな声だった。 だから僕は、お母さんに聞こえるように、いつもより大きな声で答えた。「誠也なら大丈夫だよ! お医者さんが言ってたんだ。誠也は強い子だね、って!」「……誠也」「そうだな」 車を運転していたお父さんも、前を見たまま頷いた。「誠也は強い子だ。病気なんかに負けないよな」「うん!」 僕は大きく頷いて、お母さんの返事を待った。 笑ってくれるかな、と思ったから。 だって、お母さんはいつも悲しそうなんだ。 僕が病院から帰ってくると、ケーキを作ってくれる。僕が食べたいと言ったものを、何でも作ってくれる。 おもちゃだって、前よりたくさん買ってくれるようになった。 嬉しいはずなのに、お母さんは僕が喜ぶたび、今にも泣きそうな顔をする。 どうしてなんだろう。 僕のかかった病気は、そんなに――。「げほっ、げほっ……!」 いきなり胸の奥がぎゅっと縮んだ。「げほっ……ごほっ、ごほっ!」 熱い何かが喉までせり上がってくる。 息を吸いたいのに、咳ばかりが出て、うまく息を吸えない。「誠也!?」 お父さんが急いで車を道の端へ止めた。 お母さんは前の席から身体をひねり、僕の口元へ白いハンカチを当ててくれる。「大丈夫よ、誠也。ゆっくり息をして。大丈夫だからね」 お母さんの手が、何度も背中を撫でてくれた。 しばらくすると、少しずつ咳が治まっていく。 けれど、僕の口を拭いてくれた白いハンカチは、赤く染まっていた。 その赤いところが怖くて、僕は見なかったことにした。 僕は、けっかくという病気になってしまったらしい。 咳がた
院長室の扉を押し開けると、蝶番が小さく軋んだ。 室内は暗かった。 けれど、割れた窓から差し込む月明かりが、朽ちかけた家具の輪郭を淡く浮かび上がらせている。 その奥に置かれた、黒い革張りのソファ。 ひび割れ、ところどころ中綿の飛び出したそのソファに、月瀬さんが腰掛けていた。 そして、その膝の上には――。 「誠也くん……」 木彫りの犬を胸に抱いた誠也くんが、月瀬さんへ甘えるように身体を丸め、静かな寝息を立てていた。 「先輩」 こちらに気づいた月瀬さんが、唇を柔らかく綻ばせる。 「誠也くん、見つけましたよ」 月明かりが、彼女の頬を白く照らしていた。 微笑む口元も、伏せられた睫毛も、すべてが淡い銀色に縁取られている。 荒れ果てた院長室の中で、彼女だけがこの世から切り離された存在のように見えた。 あまりにも現実離れした美しさに、僕は思わず息を呑む。 「……先輩?」 何も言わない僕を不思議に思ったのか、月瀬さんが僅かに首を傾げた。 「どうかしましたか?」 「えっ? あ、いや……」 我に返り、慌てて視線を逸らす。 「ご、ごめん。誠也くん、見つかったんだね」 「はい。私が見つけたら、よほど嬉しかったのでしょうね」 月瀬さんは膝の上へ視線を戻し、誠也くんの髪を優しく撫でた。 「しばらくはしゃいでいたのですが、安心した途端、こうして眠ってしまいました」 誠也くんの寝顔は、どこか満足そうだった。 ……あ。 よく見ると、その口元から涎が垂れている。 淡く光る雫が月瀬さんの制服へ落ち、膝の辺りに薄い染みを作っていた。 もっとも、霊の涎に実体なんてほとんどないのだろう。染みは生まれたそばから、霧のように薄れていく。 「ふふっ。可愛いですよね」 月瀬さんは涎など少しも気にしていない様子で、変わらず誠也くんの頭を撫でていた。 その表情は慈しみに満ちていて、本当の姉が弟を見守っているようにも見える。 「……そうだね」 僕が答えると、月瀬さんは空いている隣の席を、ぽんぽんと軽く叩いた。 「先輩も、ずっと歩き回ってお疲れでしょう? よろしければ座ってください」 「ありがとう。それじゃあ、少しだけ」 彼女の隣へ腰を下ろす。 古びたソファが、ぎしりと低い音を立てて沈み込んだ。 『お兄
その後、僕たちは誠也くんを見つけるため、二手に分かれて病院内を捜すことになった。 月瀬さんは一階から、僕は上の階から。「何かあったら、すぐに私を呼んでくださいね」 別れる直前、月瀬さんにはそう念を押された。 そして僕は今、二階のナースステーションを捜している。「誠也くーん。どこにいるのかなぁ……?」 わざとらしく声を響かせながら、机と机の間を歩いていく。 隠れている誠也くんへ、僕が近くまで来ていることを知らせるためだ。 ……まさか、こんなふうに霊と遊ぶ日が来るなんて思いもしなかった。 僕にとって、霊とは危険な存在だった。 いや――今でも、その考えが完全に変わったわけではない。 強い恨みや悪意を持った霊は、人を簡単に傷つける。つい先ほどだって、僕は誠也くんに吹き飛ばされ、扉へ叩きつけられたばかりだ。 ただ、それだけが霊のすべてではないことも、今日初めて知った。 あれほど恐ろしく見えた誠也くんも、本当は家族を待ち続けていた、寂しがり屋の七歳の男の子だったのだから。 それでも僕は、母さんのように霊へ手を差し伸べることができない。 僕が、霊を恐れない母さんとは正反対の考えを持つようになった理由。 それは、十年前にまで遡る。 ――僕と母さんは、何かに襲われた。 あの日の記憶は、今も途切れ途切れにしか残っていない。 僕へ迫ってきた、得体の知れない何か。 咄嗟に僕を抱き寄せた母さんの腕。 そして、僕を庇うように立ちはだかった背中。 次に覚えているのは、白い病室の天井だった。 母さんは僕を守った代わりに、その日から一度も目を覚ましていない。 十年間、ずっと。 鼻に残る消毒液の匂い。 冷たく、どこまでも続くように思えた病院の廊下。 そして枕元から聞こえてくる、 ピッ、ピッ、という無機質な機械音。 何度呼びかけても、母さんの瞼が開くことはなかった。 手を握っても、握り返してくれない。 あの日以来、病院も霊も、僕にとっては母さんを奪った記憶と切り離せないものになった。 だから僕は、今でも霊が怖い。 誠也くんのような子もいると分かっていても、その恐怖だけは簡単に消えてくれそうになかった。「……って、今は捜すことに集中しないと」 僕は小さく頭を振り、過去の記憶を追い払った。 * 机の下。 倒れた棚の隙間。