ANMELDEN昼休み。
僕は校舎の屋上で、焼きそばパンを頬張っていた。 甘辛いソースの匂いはしている。口の中には確かに麺もパンもあるはずなのに、どういうわけか、ほとんど味がしなかった。 噛んでも、飲み込んでも、湿った紙を口に詰め込んでいるような感覚しかない。 原因は分かっていた。 今朝、翔太たちが帰ってきていないと聞かされたあと、学校では急遽、全校朝礼が開かれた。 壇上に立った教師や校長から、昨夜起きたことについて説明があった。とはいえ、学校側も事態のすべてを把握しているわけではないらしい。 桜織旧病院へ向かった生徒が四人。 昨夜から連絡が取れず、今朝になっても誰一人、自宅へ戻っていないこと。 今日中に帰宅が確認できなければ、警察が旧病院の管理者と連絡を取り、敷地内の捜索を検討していること。 そんな話が、重苦しい声で告げられた。 ただちに捜索へ入る、ではない。 まず管理者へ連絡し、立ち入りの手続きを済ませたうえで、ようやく検討する。 行方不明になったのが高校生だというのに、それほど慎重にならなければならない場所なのだ。 ――桜織旧病院は。 さらに、今回の一件をきっかけに、学校側は例の裏サイトの存在も把握したらしい。 匿名で生徒の噂や個人情報が書き込まれていたこと。過去には、似たようなサイトがいじめや誹謗中傷の温床となった事例もあること。 そうした理由から、関係機関へ連絡し、サイトを閉鎖する方針だと説明された。 そして最後に、校長は何度も念を押した。 興味本位で心霊スポットへ近づかないこと。 危険な廃墟へ無断で立ち入れば、建物の管理者や周辺住民へ迷惑をかけるだけではない。崩落や転落といった事故にもつながりかねない、と。 それはもっともな話だった。 けれど、僕にはその言葉が、単なる事故への警告だけには聞こえなかった。 そもそも、桜織市は生者と死者の距離が近い町だ。 この町には、亡くなった人々を悼み、その魂へ想いを届けるための祭事がいくつも残っている。 中でも有名なのが、毎年春に行われる桜祭りだ。 名前だけを聞けば、満開の桜を楽しむ華やかな催しを想像するだろう。実際、町には屋台が並び、多くの観光客が訪れる。 けれど、その祭りの始まりは、もっと静かなものだったという。 亡くなった人へ伝えられなかった言葉を灯籠に託し、川へ流す。 水面を進む明かりが迷わず彼らのもとへ届くことを。 満開の桜が、残された者と旅立った者、その両方の心を癒やしてくれることを祈る。 だから、桜祭り。 桜の美しさだけを祝う祭りではない。 死者を忘れず、それでも生きる者が前へ進むために続けられてきた祭りなのだ。 そんな風習が千年近く残るほど、この町の人々は、昔から死者の存在を身近に感じてきた。 その桜織市でさえ、捜索に入ることを躊躇うほど恐れられている。 それが、桜織旧病院という場所だった。 どれほど異質な場所なのかは、それだけでも十分に分かる。 そして、そんな場所へ翔太は行った。 どうして。 なぜ、何も言ってくれなかった。 朝から何度も、同じ疑問が頭の中を巡っている。 翔太は、僕にこの世ならざるものが見えることを知っている、唯一の人間だった。 幼い頃から近くにいた彼は、僕が誰もいない場所を見て立ち止まることも、何もないはずの暗がりを避けることも知っている。 だから僕は、翔太に何度も話してきた。 噂になっている場所へ、面白半分で近づくべきではない。 すべての心霊スポットに本物がいるわけではない。けれど、絶対にいないとも言い切れない。 見えないことは、存在しないこととは違う。 僕が口を酸っぱくしてそう伝えるたび、翔太は分かったような顔で頷いていた。 それなのに。 今朝、僕が聞かされたのは、その翔太が旧病院へ向かい、一晩経っても帰ってこないという事実だけだった。 「一体、何をしてるんだ……」 責めるような言葉が、勝手に口からこぼれた。 怒っているのか、心配しているのか、自分でも分からない。 たぶん、その両方だろう。 そのとき、背後で錆びついた蝶番が軋んだ。 ぎぃ、と鈍い音を立て、屋上へ続く扉が開く。 振り返ると、一人の女子生徒が立っていた。 翔太の彼女――木崎優花だった。 いつもならきちんと整えられている髪が、今日はわずかに乱れている。顔色もよくない。扉の取っ手を握ったまま、木崎さんは僕の姿を見つけると、ためらうように唇を開いた。 「あの……櫻井君」 声が、ひどく弱々しかった。 「木崎さん……」 彼女は何かを言おうとして、いったん視線を落とした。制服の裾を指先でつまみ、かすかに握り締める。 「その……しょ――」 一瞬、何かを言いかけたあと、彼女は言葉を選び直した。 「不動君のこと、何か知らないかな……?」 震えを隠そうとしているのか、最後には無理に笑おうとしていた。 けれど、口元はうまく持ち上がっていなかった。 翔太のことが心配で、ここまで僕を探しに来たのだろう。 当然だ。 あの病院へ向かったまま帰ってこない四人の中に、自分にとって大切な人がいる。 何もせずに待っているだけで、平静でいられるはずがない。 けれど、僕には彼女が求めている答えを差し出せなかった。 「ごめん。僕も今朝、初めて知ったんだ」 木崎さんの顔をまっすぐ見ることができず、僕は手元の焼きそばパンへ視線を落とした。 「だから……木崎さんが知りたいことは、何も答えられそうにない」 「そ、そうだよね」 木崎さんは小さく息を吐き、力なく笑った。 「ごめんね。変なこと聞いて」 「ううん。気にしないで。僕のほうこそ、ごめん」 「櫻井君が謝ることじゃないよ……」 それきり、言葉が途切れた。 風が吹き抜け、屋上を囲む金網がかすかに鳴る。 木崎さんはしばらくその場に立っていたが、やがて小さく頭を下げ、扉へ手をかけた。 「もし、何か分かったら」 去ろうとする背中へ、僕は声をかけた。 「すぐに木崎さんへ知らせるよ」 彼女は足を止め、肩越しにこちらを見る。 「……ありがとう」 その声を残して、木崎さんは屋上を出ていった。 扉が閉まる。 重い金属音が響いたあと、屋上には風の音だけが残った。 僕は再び、眼下に広がる町並みへ目を向ける。 古い瓦屋根の連なり。その間を縫うように流れる川。川沿いには、満開の桜が淡い帯を作っている。 どこを見ても、昨日までと変わらない桜織市だった。 その景色のどこかに、翔太がいる。 そう思っても、今の僕には居場所を知る術がない。 手の中に残っていた焼きそばパンの袋を、ぐしゃりと握り潰す。 乾いた音が、やけに大きく聞こえた。 顔を上げると、春の空は腹が立つほど穏やかだった。 ただ待っているだけで、本当にいいのだろうか。 その問いだけが、胸の奥に重く沈んでいた。──櫻井悠斗── 「……あ」 止まっていた呼吸を思い出したように、僕は大きく息を吸った。 鼻の奥に、古い埃と湿った壁の匂いが戻ってくる。 白く清潔だった病室は消え、代わりに見えたのは、ひび割れと黒い染みに覆われた院長室の天井だった。 誠也くんの泣き声が、まだ耳の奥に残っている。 隣へ顔を向けると、月瀬さんは声もなく泣いていた。 伏せられた睫毛から雫が落ち、膝の上で眠る誠也くんの頬を濡らしている。それでも彼女は涙を拭おうとせず、唇を固く結んだまま、その小さな顔を見つめ続けていた。 ……なんだったんだ、今のは。 誠也くんの過去が理解できなかったわけじゃない。 むしろ、分かりすぎてしまった。 僕自身が嗅いだはずのないお母さんの匂いも、触れたはずのない木彫りの犬の凹凸も、思い出そうとすれば鮮明によみがえる。 ただ映像を見せられたんじゃない。 まるで僕自身が彼の人生の一部を生きたかのように、その寂しさも、苦しさも、この身に――いや、魂にまで刻み込まれている。 僕が理解できなかったのは、そんなものを他人へ見せた月瀬さんの力だ。 霊能力者。 巫女。 それを聞いてなお、今起きた出来事が現実だとは信じきれなかった。 幽霊が見える僕でさえ、他人の過去を、その痛みごと追体験するなんてあり得ないと思う。 それでも、この胸に残る痛みだけは偽物じゃない。 僕はもう、誠也くんがどれほど家族に会いたかったのかを知ってしまった。 「月瀬さん……今のは……」 沈んだ声で尋ねると、月瀬さんは濡れた睫毛を伏せた。 「先輩。お話は、すべてが終わったあとで」 わずかに震えていた声が、次の言葉では静かに整えられる。 「今はまず、誠也くんを送り届けなければなりません」 「送り届ける……?」 「私たちが彼の過去を見届け、その想いを受け取ったことで、誠也くんをこの場所へ縛っていた未練は完全に解けました」 月瀬さんは誠也くんをそっと抱き上げると、膝の隣――古びたソファの上へ優しく寝かせた。 「彼がここで生きていたことを、私たちは知りました。もう、ひとりで記憶を抱えて、この場所に留まり続ける必要はありません」 それから、傍らに置いていた鞄を開く。 「これより、誠也くんの御魂を、在るべき場所へとお還しします」 鞄
「誠也っ!」 病室の外から、聞き間違えるはずのない声が響いた。「お母さん……?」 答える間もなく、扉が勢いよく開く。 お母さんは転びそうなほど慌てて僕のところまで走ってくると、ベッドに横たわる僕を軽々と抱き上げた。「わぁ……っ!」 そのまま、ぎゅうっと胸の中へ閉じ込められる。 身体が潰れちゃうんじゃないかと思うくらい、強く、強く。 久しぶりに嗅いだ、お母さんの匂いだった。 ずっと会いたかった。忘れるはずなんてなかった。胸の奥まで温かくなる、僕がいちばん安心できる匂いだ。 僕の身体は思うように動かなかったけれど、どうにか指先を持ち上げ、お母さんの服を掴んだ。「ごめんね……誠也。長い間ひとりにして、本当にごめんね……」 耳元で、お母さんが何度も謝ってくる。「大丈夫だよ、お母さん。誠也は大丈夫だから。それより、お仕事は?」 そう尋ねても、お母さんは答えてくれなかった。 ただ、僕を抱きしめる力が、もっと強くなる。「お、お母さん……誠也、潰れちゃうよ」 困ったように言ってみた。 いつもなら、きっと笑いながら腕を緩めてくれるはずなのに、お母さんは何も言わない。 僕を抱いたまま、小さく震えていた。「どうしたの? 何か、悲しいことがあったの?」 お母さんがゆっくりと顔を上げる。 その顔は、涙でぐしょぐしょになっていた。「お母さん……どうして泣いてるの? 誠也のせい?」「ううん、違うの。誠也は何も悪くないわ。ただ……悲しいの」 そのとき、もう一度、病室の扉が開いた。「お父さん! お兄ちゃん!」 嬉しくて、いつもよりずっと大きな声が出た。 お父さんはどこか暗い顔をしていた。それでも僕と目が合うと、いつものように優しく笑ってくれた。 お兄ちゃんは――どうしてだろう。 僕に会えたはずなのに、今にも泣き出しそうな顔をしていた。「誠也、お見舞いに来たんだ。それでさ、渡したいものがあるんだよ」「渡したいもの? なあに?」 お兄ちゃんが僕の前へ差し出したのは、小さな木
「ゲホッ、げほっ……」 胸の奥を引っかかれるような咳が続いて、僕は口元を押さえた。 白い布に、小さな赤い染みがついていた。 まただ。 誰かに見つかる前に、僕は布を小さく折り畳み、枕の下へ隠した。 僕がこの病院へ入院してから、もうすぐ二か月になる。 お母さんとお父さんは、ときどき病室へ来てくれる。来るたびに「もう少しだからね」と言ってくれるけれど、僕はまだ退院できないみたいだった。 咳は、前よりもひどくなっている。 夜になると何度も目が覚めるし、咳き込みすぎて息ができなくなることもあった。最近は、口から赤いものが出てくる回数も増えている。 けれど、そのことはなるべく誰にも言わないようにしていた。 扉を叩く音がして、白衣を着たおじいさんが病室へ入ってきた。「誠也くん、おはよう。今朝の具合はどうかな」「じいちゃん先生、おはよう!」 僕はすぐに身体を起こそうとした。 けれど腕に力が入らなくて、途中で背中がベッドへ戻ってしまう。それでも、何もなかったように笑ってみせた。「誠也はね、元気だよ!」「そうかい」 じいちゃん先生は、いつもの優しい顔で笑った。 それから僕のそばまで来ると、冷たい聴診器を胸に当てた。「少しだけ、じっとしていておくれ」「うん」 息を大きく吸おうとすると、すぐに胸が苦しくなった。 我慢しようとしたけれど、喉の奥がむずむずして、また小さな咳が出てしまう。 じいちゃん先生は聴診器を外すと、僕の顔を静かに見た。「誠也くん。私はね、お医者さんなんだ」「うん。知ってるよ」「具合の悪いところを隠されてしまうと、誠也くんを治してあげられなくなってしまう。苦しいときは、苦しいと言っていいんだよ」 声はいつもと同じように優しかった。 だから、すぐにはわからなかったけれど――たぶん、僕は怒られたのだと思う。「……ごめんなさい」「謝らなくていい。ただ、私には本当のことを教えてほしいんだ」「うん」 僕は頷いた。 けれど、本当のことは言えなかった。
──山口誠也── 僕は、車の後ろの席に座っていた。 手には、緑色のロボットのおもちゃ。 窓の外では、家や電柱が後ろへどんどん流れていく。僕はロボットを膝の上に立たせながら、ぼんやりとその景色を眺めていた。「誠也……」 前の席から、お母さんの声が聞こえた。「強い身体に産んであげられなくて……ごめんね」 また、悲しそうな声だった。 だから僕は、お母さんに聞こえるように、いつもより大きな声で答えた。「誠也なら大丈夫だよ! お医者さんが言ってたんだ。誠也は強い子だね、って!」「……誠也」「そうだな」 車を運転していたお父さんも、前を見たまま頷いた。「誠也は強い子だ。病気なんかに負けないよな」「うん!」 僕は大きく頷いて、お母さんの返事を待った。 笑ってくれるかな、と思ったから。 だって、お母さんはいつも悲しそうなんだ。 僕が病院から帰ってくると、ケーキを作ってくれる。僕が食べたいと言ったものを、何でも作ってくれる。 おもちゃだって、前よりたくさん買ってくれるようになった。 嬉しいはずなのに、お母さんは僕が喜ぶたび、今にも泣きそうな顔をする。 どうしてなんだろう。 僕のかかった病気は、そんなに――。「げほっ、げほっ……!」 いきなり胸の奥がぎゅっと縮んだ。「げほっ……ごほっ、ごほっ!」 熱い何かが喉までせり上がってくる。 息を吸いたいのに、咳ばかりが出て、うまく息を吸えない。「誠也!?」 お父さんが急いで車を道の端へ止めた。 お母さんは前の席から身体をひねり、僕の口元へ白いハンカチを当ててくれる。「大丈夫よ、誠也。ゆっくり息をして。大丈夫だからね」 お母さんの手が、何度も背中を撫でてくれた。 しばらくすると、少しずつ咳が治まっていく。 けれど、僕の口を拭いてくれた白いハンカチは、赤く染まっていた。 その赤いところが怖くて、僕は見なかったことにした。 僕は、けっかくという病気になってしまったらしい。 咳がた
院長室の扉を押し開けると、蝶番が小さく軋んだ。 室内は暗かった。 けれど、割れた窓から差し込む月明かりが、朽ちかけた家具の輪郭を淡く浮かび上がらせている。 その奥に置かれた、黒い革張りのソファ。 ひび割れ、ところどころ中綿の飛び出したそのソファに、月瀬さんが腰掛けていた。 そして、その膝の上には――。 「誠也くん……」 木彫りの犬を胸に抱いた誠也くんが、月瀬さんへ甘えるように身体を丸め、静かな寝息を立てていた。 「先輩」 こちらに気づいた月瀬さんが、唇を柔らかく綻ばせる。 「誠也くん、見つけましたよ」 月明かりが、彼女の頬を白く照らしていた。 微笑む口元も、伏せられた睫毛も、すべてが淡い銀色に縁取られている。 荒れ果てた院長室の中で、彼女だけがこの世から切り離された存在のように見えた。 あまりにも現実離れした美しさに、僕は思わず息を呑む。 「……先輩?」 何も言わない僕を不思議に思ったのか、月瀬さんが僅かに首を傾げた。 「どうかしましたか?」 「えっ? あ、いや……」 我に返り、慌てて視線を逸らす。 「ご、ごめん。誠也くん、見つかったんだね」 「はい。私が見つけたら、よほど嬉しかったのでしょうね」 月瀬さんは膝の上へ視線を戻し、誠也くんの髪を優しく撫でた。 「しばらくはしゃいでいたのですが、安心した途端、こうして眠ってしまいました」 誠也くんの寝顔は、どこか満足そうだった。 ……あ。 よく見ると、その口元から涎が垂れている。 淡く光る雫が月瀬さんの制服へ落ち、膝の辺りに薄い染みを作っていた。 もっとも、霊の涎に実体なんてほとんどないのだろう。染みは生まれたそばから、霧のように薄れていく。 「ふふっ。可愛いですよね」 月瀬さんは涎など少しも気にしていない様子で、変わらず誠也くんの頭を撫でていた。 その表情は慈しみに満ちていて、本当の姉が弟を見守っているようにも見える。 「……そうだね」 僕が答えると、月瀬さんは空いている隣の席を、ぽんぽんと軽く叩いた。 「先輩も、ずっと歩き回ってお疲れでしょう? よろしければ座ってください」 「ありがとう。それじゃあ、少しだけ」 彼女の隣へ腰を下ろす。 古びたソファが、ぎしりと低い音を立てて沈み込んだ。 『お兄
その後、僕たちは誠也くんを見つけるため、二手に分かれて病院内を捜すことになった。 月瀬さんは一階から、僕は上の階から。「何かあったら、すぐに私を呼んでくださいね」 別れる直前、月瀬さんにはそう念を押された。 そして僕は今、二階のナースステーションを捜している。「誠也くーん。どこにいるのかなぁ……?」 わざとらしく声を響かせながら、机と机の間を歩いていく。 隠れている誠也くんへ、僕が近くまで来ていることを知らせるためだ。 ……まさか、こんなふうに霊と遊ぶ日が来るなんて思いもしなかった。 僕にとって、霊とは危険な存在だった。 いや――今でも、その考えが完全に変わったわけではない。 強い恨みや悪意を持った霊は、人を簡単に傷つける。つい先ほどだって、僕は誠也くんに吹き飛ばされ、扉へ叩きつけられたばかりだ。 ただ、それだけが霊のすべてではないことも、今日初めて知った。 あれほど恐ろしく見えた誠也くんも、本当は家族を待ち続けていた、寂しがり屋の七歳の男の子だったのだから。 それでも僕は、母さんのように霊へ手を差し伸べることができない。 僕が、霊を恐れない母さんとは正反対の考えを持つようになった理由。 それは、十年前にまで遡る。 ――僕と母さんは、何かに襲われた。 あの日の記憶は、今も途切れ途切れにしか残っていない。 僕へ迫ってきた、得体の知れない何か。 咄嗟に僕を抱き寄せた母さんの腕。 そして、僕を庇うように立ちはだかった背中。 次に覚えているのは、白い病室の天井だった。 母さんは僕を守った代わりに、その日から一度も目を覚ましていない。 十年間、ずっと。 鼻に残る消毒液の匂い。 冷たく、どこまでも続くように思えた病院の廊下。 そして枕元から聞こえてくる、 ピッ、ピッ、という無機質な機械音。 何度呼びかけても、母さんの瞼が開くことはなかった。 手を握っても、握り返してくれない。 あの日以来、病院も霊も、僕にとっては母さんを奪った記憶と切り離せないものになった。 だから僕は、今でも霊が怖い。 誠也くんのような子もいると分かっていても、その恐怖だけは簡単に消えてくれそうになかった。「……って、今は捜すことに集中しないと」 僕は小さく頭を振り、過去の記憶を追い払った。 * 机の下。 倒れた棚の隙間。