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6.桜織旧病院での捜索:林の中の不気味な影

Author: 渡瀬藍兵
last update publish date: 2026-07-17 12:29:41

 そして今、僕は桜織旧病院の前に立っていた。

 ……一体、どうしてこんなことになったのだろう。

 昼休みには、ただ翔太の無事を願いながら、屋上から町を眺めていたはずだった。

 それなのに日が沈んだ今、僕の目の前には、懐中電灯の光に照らされた白い建物が、不気味な影を地面へ落としている。

 戦後間もなく建てられたという、かつての総合病院。

 外壁の至るところに亀裂が走り、雨水が染み込んだ跡が、黒ずんだ筋となって壁を伝っている。窓ガラスの大半は曇っているか割れていて、残ったものも内側に溜まった闇を映すばかりだった。

 遠目からでも分かるほど、大きな建物だ。

 横に長い造りで、見上げれば三階まであるらしい。戦後すぐの病院とは思えないほど立派だったのだろう。

 少なくとも、かつては。

 今では、年月に食い荒らされた巨大な骸にしか見えない。

 屋根はところどころ崩れ、外壁からは蔦が伸びている。建物の周囲に生えた雑草も、長いあいだ誰の手も入っていないことを物語っていた。

 そして何より――。

 僕の目には、病院全体を覆うように、黒く淀んだ何かが渦巻いているように見えた。

 霧にも、煙にも似ている。

 けれど、夜の闇とは明らかに違う。

 建物の内側から滲み出し、病院を包み込みながら、ゆっくりと蠢いている。

「っ……」

 息を呑んだ途端、喉の奥がひどく乾いた。

 膝が震えている。

 止めようとしても、力がうまく入らなかった。

 僕には、確かに霊が見える。

 だからといって、怖くないわけではない。

 むしろ、逆だ。

 霊が見えるのに怖がるのか、と言う人もいるかもしれない。

 けれど、見えない人が暗闇の中で感じる恐怖は、想像によって作り出されたものだ。

 細枝のように痩せた腕。

 濁った瞳。

 不自然に曲がった首。

 何もないはずの場所から、こちらを覗き込む青白い顔。

 すべてが想像でしかないのなら、どれほどよかっただろう。

 振り返って何もいなければ、気のせいだったと笑うことができる。

 けれど、僕の目には映ってしまう。

 そこにいるものが。

 見てはいけない姿が。

 こちらを見返す、その視線まで。

 だから僕は、ずっと避けてきた。

 見えても気づかないふりをして、関わらないようにしてきた。

 それなのに今、自分からこんな場所へ足を運んでいる。

 理由は一つしかない。

 翔太が心配だった。

「はぁ……。翔太にはあとで、きっちり何か返してもらわないと割に合わないよ」

 少しでも今の状況を軽くしたくて、冗談めかして呟く。

 けれど、声はみっともないほど震えていた。

 そもそも、それは僕も翔太も無事にここから帰れるという前提でしか口にできない言葉だ。

 この病院へ入ることが、どれほど危険なのか。

 僕にだって分かっている。

 それでも。

「……行かなくちゃ」

 乾いた喉を鳴らし、溜まった唾を飲み込む。

 懐中電灯を握り直して、僕は病院へ向かって歩き始めた。

 一歩進むたび、靴の下で枯れ草が潰れる。

 暗闇の中へ浮かび上がる病院は、近づくほど大きさを増していった。窓の一つひとつが、空っぽの眼窩のように僕を見下ろしている。

 正面玄関へたどり着き、ライトを向ける。

 両開きの扉には何重もの鎖が巻きつけられ、その中央には大きな南京錠が掛けられていた。

 隣にある来客用の出入口も同じだ。扉の取っ手から柱まで、頑丈な鎖で固く縛られている。

 少なくとも、ここから入るのは無理そうだった。

「翔太たちも、ここから入ったわけじゃないのか……」

 あの四人が病院内へ入ったことは、配信から分かっている。

 なら、ほかに入口があるはずだ。

 僕は正面玄関を離れ、建物の裏手へ回ることにした。

 病院の外壁に沿って歩く。

 片側には建物。

 もう片側には、鬱蒼とした林が広がっている。

 それにしても――。

 この場所は、あまりにも静かだった。

 風は吹いている。

 春の夜だというのに、その風は妙に湿っていて、じっとりと肌にまとわりついてきた。

 首筋を撫でていく感触に、思わず肩をすくめる。

 まるで、冷たい指先で触れられたようだった。

 気味が悪い。

 それだけではない。

 これだけ風が吹いているのに、木の葉が擦れ合う音が聞こえなかった。

 枝が揺れる音もない。

 虫の声も、鳥の羽音も、獣が草を踏む音さえもしない。

 これほど深い林があるのなら、生き物の気配が一つくらいあってもいいはずなのに。

 聞こえるのは、自分の足音と呼吸だけだった。

 まるで、この場所から僕以外の生き物がすべて消えてしまったような――。

 そんな錯覚に陥る。

 ふと。

 林の奥で、白い何かが動いた。

「ッ……!」

 心臓が跳ね上がる。

 僕は足を止め、懐中電灯を林へ向けた。

 光が木々の幹をなぞる。

 一本。

 その奥に、もう一本。

 さらに奥には、光の届かない闇だけが広がっている。

 息を殺し、目を凝らした。

 けれど、何もいない。

 白いものなど、どこにも見当たらなかった。

「気のせい……か」

 強張っていた肩から、わずかに力を抜く。

「情けないな……。まだ中にも入ってないのに、こんなに怯えて」

 自嘲するように呟き、再び歩き始めた。

 けれど、背中に視線が突き刺さっているような感覚は消えなかった。

 振り返る勇気はなかった。

 病院の角を曲がり、裏手へ回る。

 そこで僕は、足を止めた。

 裏口の近くにある窓が、大きく割られていた。

 何か硬い物を叩きつけたのだろう。窓枠には鋭いガラス片が残り、その下にも無数の破片が散らばっている。

 割れたのは、そう昔ではないように見えた。

 長く放置されていたにしては、地面のガラスに汚れが少ない。

 僕は息を呑む。

「ここから入ったのか……」

 翔太たちは、おそらくこの窓を使った。

 誰が割ったのかまでは分からない。

 けれど、ほかに侵入できそうな場所は見当たらなかった。

 窓の向こうへライトを向ける。

 室内には、ただ濃い闇が溜まっていた。

 外から照らしているはずなのに、光が途中で吸い込まれているように、その先が見えない。

「……よ、よし」

 自分を奮い立たせるように、声を絞り出す。

「行くぞ……」

 割れ残ったガラスに触れないよう、慎重に窓枠へ足をかける。

 手を置く場所にも気を配り、身体を傷つけないように持ち上げた。

 靴底が窓枠を越える。

 次の瞬間、僕の身体は病院の内側へ入っていた。

 床へ降り立つと、かすかな埃が舞い上がる。

 鼻をつく黴の臭い。

 湿った木材と、錆びた金属の臭い。

 その奥に、何かが腐ったような、わずかな生臭さが混じっている。

 僕は口元を手で覆いながら、懐中電灯を前方へ向けた。

 細い光の筋が闇を切り裂く。

 けれど、その光は数メートル先で途切れた。

 廊下がどこまで続いているのかさえ分からない。

 壁も、床も、天井も。

 何もかもが闇に呑み込まれていた。

「……前が、見えない」

 自分の声が、暗い廊下の奥へ吸い込まれていく。

 返事はない。

 代わりに、どこかから水音が聞こえた。

 ぴとっ。

 少し間を空けて。

 ぴと……ぴとっ。

 天井から漏れた水が、床へ落ちているのだろうか。

 不規則な音が、静まり返った院内に響いている。

 外にいたときの、耳が痛くなるほどの無音よりはましかもしれない。

 けれど、一滴落ちるたびに身体が強張り、心臓が早鐘を打った。

 こんな場所で、闇雲に歩き回るのは危険だ。

 建物は広い。

 目的もなく進めば、翔太たちを捜すどころか、自分まで迷ってしまう。

「ひとまず、館内図を探そう」

 口に出して、これからすべきことを確認する。

 自分の声を聞いていなければ、足が動かなくなりそうだった。

 懐中電灯を握る手に力を込める。

 そして僕は、病院の奥へと続く暗闇の中へ、ゆっくり足を踏み出した。

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