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第二章:禁断の夜

Author: 佐薙真琴
last update Last Updated: 2025-12-08 07:32:37

 アフターパーティーの会場は、セーヌ川沿いの歴史的な邸宅だった。シャンデリアの煌めき、弦楽四重奏の優雅な調べ、シャンパンの泡がグラスで弾ける音。パリの社交界が集う、華やかで排他的な空間。

 レオンはマリアンヌの隣に座り、完璧な笑顔で会話を続けた。彼女は楽しそうに笑い、頻繁にレオンの腕に触れてくる。

「ねえレオン、今度の週末、私の別荘に来ない? プロヴァンスよ。静かで素敵なところなの」

「素晴らしい提案だね。でも残念ながら、週末は東京で撮影があるんだ」

「あら、残念」

 マリアンヌは少し不満げだったが、すぐに笑顔を取り戻した。

 時計を見る。まだ十時だ。このペースだと、パーティーは深夜まで続くだろう。そして最後には、マリアンヌがホテルの部屋に誘ってくる。それを上手く断る理由を考えなければならない。

 レオンは頭痛を感じ始めていた。

「すまない、少し空気を吸ってくる」

 マリアンヌに断りを入れ、レオンはテラスに出た。夜風が冷たく頬を撫でる。セーヌ川の水面が月光を反射してきらめいていた。

 携帯を取り出し、連絡先を眺める。誰かに電話をしたい衝動に駆られたが、話せる相手がいない。友人たちは皆、レオンの「完璧な人生」を羨んでいる。この苦しみを理解してくれる者など、誰もいない。

「つまらなそうな顔してますね、スター様」

 背後から声がかかった。振り向くと、若い男が立っていた。二十代半ば、カジュアルなシャツとジーンズという、このパーティーには不釣り合いな格好。

「君は?」

「ただのカメラマンですよ。今日のショーを撮影してました。でも、こういうパーティーは性に合わなくて。あなたも同じでは?」

 男は人懐っこく笑った。

「そんなことはない。楽しんでいるよ」

「嘘がお上手だ。さすがトップモデル」

 男は煙草に火をつけ、煙を吐き出した。

「説教するつもりはないですけどね。ただ、無理して楽しむ必要なんてないんじゃないですか? たまには、本当の自分で過ごせる場所に行ってみたらどうです?」

「本当の自分……?」

「ええ。例えば」

 男はポケットから小さなカードを取り出し、レオンに渡した。

「ここ。今夜、行ってみては? 完璧な仮面を外せる場所ですよ」

 カードには、住所とシンプルなロゴだけが印刷されていた。店の名前はない。

「……これは?」

「秘密のラウンジです。招待制で、表には出てない。でも、あなたみたいな人にこそ必要な場所かもしれない」

 男はそう言い残すと、パーティー会場に戻っていった。

 レオンはカードを眺めた。怪しい。明らかに怪しい。

 だが――本当の自分で過ごせる場所、という言葉が胸に引っかかった。

 マリアンヌには適当な理由をつけて、早めに失礼することにした。「明日の撮影のために早く休みたい」と。彼女は残念そうだったが、レオンの仕事への姿勢を尊重してくれた。

 タクシーに乗り込み、カードの住所を運転手に見せる。

「ああ、この辺りね。でも何もない地区だよ」

「構わない。行ってくれ」

 三十分ほど車を走らせ、セーヌ川左岸の古い地区に到着した。確かに、店らしきものは見当たらない。

 だが、薄暗い路地の奥に、小さな赤いランプが灯っているのが見えた。

 レオンは車を降り、その光に向かって歩いた。

 重厚な木製のドアの前に立つ。ノックをすると、小窓が開き、誰かの目がレオンを見た。

 無言でカードを見せる。

 カチャリ、という音とともにドアが開いた。

「ようこそ」

 黒いスーツの男が、静かに迎え入れた。

 階段を降りていく。地下だ。低い音楽が響いている。ジャズだろうか。いや、もっと退廃的で、どこか催眠的なリズム。

 ドアを開けると、そこには別世界が広がっていた。

 薄暗い照明。ベルベットのソファ。壁には抽象的なアートが飾られている。客は多くないが、それぞれが自由な雰囲気で過ごしていた。

 ここには、パリの社交界のような堅苦しさがない。誰もがリラックスし、本当の自分でいられる空間。

 レオンはバーカウンターに座り、ウイスキーを注文した。

「ストレート、ダブルで」

 バーテンダーは黙って注いでくれた。琥珀色の液体が、グラスに満たされる。

 一口飲む。強い酒が喉を焼き、身体の芯まで染み渡った。

 ああ、これだ。

 これが欲しかった。

 完璧な笑顔も、気の利いた会話も、紳士的な振る舞いも、何もかも必要ない場所。

「一人で飲むには、もったいない夜ですね」

 隣の席に、誰かが座った。

 低く、どこか甘い響きを持つ声。

 レオンは顔を上げた――そして、息を呑んだ。

 そこにいたのは、驚くほど美しい「女性」だった。

 長い黒髪が、肩から流れ落ちている。切れ長の瞳は東洋的で、どこかミステリアスな光を宿していた。高い鼻筋、薄い唇、白い肌。黒いシルクのドレスが、しなやかな身体のラインを強調している。

 だが、何かが違う。

 声が、少し低い。喉仏は見えないが、骨格が女性のそれよりも……。

「……君は?」

「通りすがりの客です。有名人を見かけたので、つい声をかけてしまいました」

 その人物は、レオンを見上げた。琥珀色の瞳――いや、よく見れば金色に近い、不思議な色の瞳。

「俺を知っているのか?」

「ええ。レオン・ヴァルガス。パリのランウェイを歩く完璧な男。誰もが憧れる存在」

 その言葉には、どこか皮肉めいた響きがあった。

「でも、今夜のあなたは違う。完璧な仮面を外している」

「……何が言いたい?」

「ただの観察です。私、人を見るのが好きなんです。特に、仮面の下の本当の顔を」

 レオンは警戒しながらも、不思議と目が離せなかった。

 この人物は、男なのか女なのか。

 だが、そんなことはどうでもよく思えた。ただ、その存在が放つ妖艶な雰囲気に、レオンは引き込まれていた。

「一緒に、飲まないか?」

 気づけば、そう口にしていた。

 相手は微笑んだ。挑発的で、どこか危険な笑み。

「光栄です」


 数時間後。

 レオンは高級ホテルのスイートルームにいた。いつの間にかこうなったのか、記憶が曖昧だった。酒のせいか、それとも――。

「綺麗な部屋ですね」

 黒髪の人物が、窓の外を眺めながら言った。パリの夜景が、ガラス越しに広がっている。

 レオンは、ソファに座ったまま動けなかった。心臓が激しく鳴っている。

 何をしているんだ、俺は。

 だが、身体が熱い。

 こんなの、初めてだ。

 黒髪の人物が、ゆっくりとレオンに近づいてくる。シルクのドレスが、歩くたびに揺れた。

「緊張してるんですか?」

「……いや」

「嘘」

 その人物は、レオンの前にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。

「あなた、本当は何も経験してないでしょう?」

「っ……」

 図星を突かれ、レオンは言葉を失った。

「大丈夫。私が、優しく教えてあげます」

 そう言って、黒髪の人物はレオンの唇に、自分の唇を重ねた。

 電流が走った。

 頭の中が真っ白になる。

 身体が、熱い。

 こんなに感じるなんて――。

 レオンは思わず相手を抱き寄せた。もっと、もっと深く。

 ベッドに倒れ込む。

 黒髪の人物が、レオンの上に乗った。

「可愛い反応ですね、レオン」

 その声が、甘く耳元で響く。

 シャツのボタンが外される。肌が露わになる。

 相手の指が、レオンの胸を撫でた。

「っ……」

 声が漏れる。こんな声、初めて出した。

「ふふ、もっと聞かせてください。あなたの本当の声」

 もう、何も考えられなかった。

 身体が、初めて本当に生きていると実感していた。

 この人は誰なのか。

 男なのか、女なのか。

 そんなことは、どうでもよかった。

 ただ、この感覚を、この温もりを、もっと欲しかった。

 朦朧とした意識の中、レオンは相手の身体に手を伸ばした――。

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