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むかしむかし。
膝を痛め、自力では立ち上がれない。
そのときだった。
中から降り立ったのは、高潔な王子だった。
温かな手が触れた、その瞬間。
老婆の姿は眩い光に包まれ、白い髪は艶やかな黒髪へと変わっていく。
老婆の正体は、悪い魔女に呪いをかけられた公爵家の令嬢。
令嬢はすぐに王子に恋をした。
それは、『老婆姫』という物語だった。
本を開くたび、彼女は主人公の令嬢に自分を重ねていた。
その容姿ゆえに、老婆令嬢と蔑まれる。
だが、その日常はある日を境に一変する。
婚約者が決まったのだ。
相手は、その美貌と薄紫の髪から“藤の貴公子”と呼ばれ、社交界の中心に立つ男。
あまりにも釣り合わない相手だった。
ついに王子様が迎えに来てくれたのだ、と。
――あのときまでは。
愛に裏切られ、彼女が殺されてしまう、その瞬間までは。
結婚式を終え、いよいよ新婚旅行へ向かう日がやって来た。
山間に抱かれた小さな観光地。
新婚旅行と聞けば、誰もが幸福に満ちた旅路を思い浮かべるだろう。
胸の奥には、冷えた石のようなものが沈んでいる。
愛情の欠片もないまま、夫婦として旅をする。
その理由は、結婚式の披露宴――ダンスパーティの最中にまでさかのぼる。
豪奢なシャンデリアが光を砕き、きらびやかな輝きが会場全体を包み込んでいた。
腰を抱かれ、彼の導きに合わせて一歩ずつステップを踏む。
婚約の儀式では、夫が妻に口づけを捧げる。
勇気を振り絞り、マーガレットは問うた。
「あなたは口づけを避けた。私を愛する気などなかったのですね」
返ってきたのは、あまりにも軽い言葉だった。
――なんだ、そんなことを気にしていたのか。僕らは夫婦になったんだ。これから何度でもすることになるじゃないか。
こんなに近くに立っているのに。
その瞬間、悟ってしまったのだ。
そこまで思い返せば、ため息が漏れるのも無理はなかった。
屋敷は驚くほど静かだった。
「……気が重い」
小さく漏れた声は、広い室内に吸い込まれるように消えていった。
屋敷の使用人たちは、皆休暇を与えられていた。
だが、いまの彼女にとって、その風習に有り難みなど微塵もなかった。
さらに追い打ちをかけるように、義母には急ぎの重要な仕事が入り、一人では対処できないため義父も同行することになったという。
朝早く、馬車へ乗り込む二人を見送った。
それで、屋敷にはキルエンと二人きりが残された。
まるで廃屋に迷い込んだようだった。
「さて……準備を始めましょうか」
マーガレットは鏡の前に立ち、旅支度を整えていく。
黒いプリーツスカート。
首元には黒いスカーフをふんわりと巻き、口元を隠した。
それは、普段の彼女とはまるで違う装いだった。
藤の貴公子が結婚したことで、噂は平民にまで広がり、王都は大騒ぎになっている。
その言葉を受けて、メイドのサーシャが慌てて揃えてくれた服である。
鏡に映る自分は、見慣れたマーガレットではない。
そして――彼女が覚えているのは、そこまでだった。
このあたりの記憶は、どれもひどく曖昧だ。
マーガレットは、その新婚旅行の日に殺された。
これは、失われた記憶をたどる物語。
――それから五年後。 バロンブルグ王国は、かつてないほどの活気に満ちていた。 王都の大通りには新しい店が並び、地方と王都を繋ぐ街道はよく整えられ、人と物の流れは以前とは比べものにならないほど滑らかになっている。各地の騎士団詰所には改良された通信装置が置かれ、緊急時の連携も早くなった。職人たちは新たな仕事に恵まれ、商人たちは国の未来を語り、平民も貴族も、この国はこれからもっと豊かになるのだと信じていた。 その繁栄の中心に立つのは、アスリー・レイ・ギルフォード国王だった。 即位から二年。 あの方は、口にした通りの王になった。 民を見下ろすのではなく、近くで見ようとする王。必要とあれば泥のつく仕事も引き受けるくせに、その手でちゃんと明日を示してくれる王。 バロンブルグ王国はいま、愛によって治められている――そう言えば大袈裟かもしれない。けれど、少なくともマーガレットには、それ以外にうまく表す言葉が見つからなかった。 その国政を支える柱の一つとして、いまやファーブリック公爵家の名も広く知られている。 事件の後、ダグルドは第二王子派を支え抜いた功績と、その後の王政改革への尽力を認められ、公爵へと陞爵した。さらに、エンヴィが再び立ち上げた工房と機械開発、それを支えるファーブリック家の後ろ盾は、国の経済を大きく押し上げることとなった。 そしてその流れの中で、マーガレットもまた、自分の立場を確かなものにしていた。 表向きの肩書きは公爵家夫人。 けれど実際の彼女は、それだけではない。 人と人、家と家、商会と貴族、王城と地方。表に見えるものと、まだ表に出ていないもの。その間にある流れを見極め、繋ぎ、時には危険の芽を先に摘む。 女だからと軽んじられたことも一度や二度ではないが、それでも今では、困り事を抱えた者が「まずはマーガレット様に」と口にすることも増えていた。 彼女はもう、守られるだけの令嬢ではなかった。 自分で選び、自分で立ち、自分の名で生きる人間になっていた。 そんな日々の中でも、今日ばかりは仕事のことを考える余裕はない。 ファーブリック公爵家の私室。陽だまりの落ちる広い部屋で、マーガレットは深く息を吐きながら、ゆったりとした椅子に腰掛けていた。丸みを帯びた腹にそっと手を当てる。出産を間近に控えた体は重
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ノブルス家との再会を終えた夜。 平民街の小さな家には、久しぶりに穏やかな静けさが満ちていた。 窓の外では、夜風に揺れた木の葉がささやくような音を立てている。遠くで犬が一度だけ吠え、また静寂に戻った。戦いの最中には気にも留めなかった、ありふれた夜の気配だ。 マーガレットは二階の自室で、姿見の前に座っていた。 今日の涙の跡はもう消えている。けれど、胸の奥にはまだ、家族に抱きしめられたときの温かさが残っていた。死んだと思われていた娘が戻ってきたのだ。喜びも、戸惑いも、悲しみの余韻も、全部が入り混じっていた。 そしてそのどれもが、今の自分を確かに“生きている者”にしてくれている。 鏡の中の自分を見つめていると、控えめなノックの音がした。「マーガレット。起きてる?」 エンヴィの声だ。「ええ」「少しだけ、話してもいい?」 少しだけ、という言い方が妙に彼らしい。 マーガレットは小さく息を吐き、立ち上がって扉を開けた。
第一王子カイセルの失脚が公にされると、王都の空気は一変した。 それまで水面下で繋がっていた夫人会の残党は、潮が引くように静かになった。もっとも、静かになったからといって罪が消えるわけではない。ダグルド侯爵家の一室では、その後処理が着々と進められていた。 大きな机の上には、夫人会に属していた女たちの名と、ヴェルン商会との接点を書き出した紙が並んでいる。モルガン夫人が捕らえられたあとも残っていた緩い繋がりは、思った以上に広かった。 ただ、その性質はさまざまだ。 深く関わり、実際に細工や連絡役を担っていた者。 名だけを貸し、流れに乗っていただけの者。 何かおかしいと感じながら、立場を失うのが怖くて目を逸らしていた者。 全てを同じ重さで裁くべきではない。そう判断したのは、ダグルドだった。「罪の軽重を見誤れば、また同じことが起きる」 青い瞳を細め、彼は紙の束を前にそう言った。「恐れから沈黙した者と、積極的に手を汚した者を同列に並べるのは違う。見せしめだけで終わらせれば、残るのはまた怯えた沈黙だ」 その言葉に、マーガレットは静かに頷いた。
第一王子カイセルの微笑が、ついに消えた。 小謁見の間に満ちていた空気は、もはや社交の場のものではない。誰もが息を潜め、ただ次の言葉を待っている。 拘束されたグラウス、ヤーサック男爵夫人、ベルトラン。彼らの視線は泳ぎ、主の顔色をうかがっていた。だが、今この場で彼らを救える者は、もはや誰もいない。 アスリーは一歩前へ出たまま、兄を見据えていた。「兄上。まだ続けるか?」 カイセルは返事をしなかった。 代わりに、ゆっくりと周囲を見回す。ダグルド侯爵。クリス。エンヴィ。リシェラ。最後に、マーガレット。 その視線が彼女に止まった瞬間、かすかな憎悪が滲んだ。「……死んだ女が、よくもまあ」 低く零れた言葉に、部屋の温度がさらに下がる。 だが、マーガレットは怯まなかった。「死んだ女だからこそ、見えるものがあります」 静かに返すと、カイセルは鼻で笑った。「見える? お前に?」
その場にいた三人の身柄が押さえられても、小謁見の間の空気は緩まなかった。 ヴェルン商会の番頭グラウスは騎士に腕を取られたまま、脂汗を浮かべている。ヤーサック男爵夫人は顔色をなくし、今にも椅子へ崩れ落ちそうだった。第一王子近習ベルトランだけは、なおも平静を装っていたが、その唇はわずかに引きつっていた。 アスリーは立ったまま、冷えた目で三人を見下ろす。「まだ兄上のお名前は出てこないか」 その問いに、誰も答えない。 だが、マーガレットには分かっていた。ここから先が本番だと。 慈善会の細工を示し、商会と夫人会と近習の線を並べた。だがそれだけでは、第一王子本人へまでは届かない。向こうはきっと、配下が勝手にやったことだと言い逃れるだろう。 だからこそ、ここから先は一段深く刺さなければならない。「殿下」 マーガレットがアスリーを見た。「兄君をお呼びください」 小謁見の間が静まり返る。 ダグルドが、低く息を吐いた。
気づけば、二人はすっかり時間を忘れて語り合っていた。 空はいつしか茜色に染まり、庭園を照らす光もやわらかく傾いている。話し上手とは到底言えない自分が、よくもこれほど長く話せたものだと、マーガレットは内心で驚いていた。 もしかすると、自分とキルエンは相性がいいのかもしれない――そ
御者が手綱を引くと、馬が低く嘶いた。 十日に及ぶ長旅の末、ノブルス家の馬車はファーブリック侯爵家の屋敷、その門前に到着する。窓越しに広がる庭園は、王都近郊に領地を持つ上位貴族らしい、洗練された趣を湛えていた。 緩やかに描かれた花壇の曲線、絶え間なく水を湛える噴水の流れ――その
「キルエン、明日にはノブルス家が到着する予定だ。マーガレット嬢、あれは優秀だ。この家のためにも、絶対に逃がすんじゃないぞ。……よいな?」ファーブリック侯爵家当主、ダグルド・ファーブリックの私室。 呼びつけられたキルエンは、またかと内心で小さく嘆息した。婚約が決ま
これは、こうなる以前――彼女がまだ別の人生を生きていた頃の記憶である。 過去と呼ぶには、それほど遠い出来事ではない。マーガレット・ノブルスとして生きていた頃。 幸福な未来を疑いもなく信じていた、あの短い時間。 婚約が決まり、そして――死に至るまでの、かすかに色褪せつつある記憶の断片。まずは、彼女が十八歳になったばかりの日のことから語ろう。 父が楽しげに、婚約者候補の写真を抱えて現れた、あの日の記憶から――。*******夕食を終えるや否や、椅子から飛び降りるようにして駆け出していったのは、五歳年下の弟ルアンだった。「ごちそうさまでした! ボク、部屋に戻って勉強してく







