おばあちゃんが亡くなる一ヶ月前のことだ。その日も僕はバイトの前に、おばあちゃんのお見舞いのために病院に寄った。
「拓海、いつもありがとうねえ」
「ううん、気にしないで。今日は具合どう?」
「昨日よりはいいよ。体を起こしていても、そんなに辛くないしねえ」
おばあちゃんは入院してから体重が落ちたみたいだった。元々細かった手は更にやせ細り、まるで枯れ木のようだ。
死が確実に忍び寄ってきているように感じ怖くなって、ギュッと手を握るとひんやりとした体温を感じた。
「おばあちゃん、今日は水ようかんを持ってきたんだ」
「おや、嬉しいねえ。後で食べるから、そこに置いておいてくれる?」
床頭台の上に手土産を置くと、おばあちゃんに引き出しを開けるように言われる。
「拓海、そこにペンダントが入ってると思うんだけど」
「ああ、これ?」
「そうそう、それ。拓海にあげるわ」
「え? おばあちゃん、これって大事な物なんじゃないの? いつも持ち歩いてたよね」
「いいのよ。拓海に持っていてほしいの。私が死んでも、そのペンダントがきっと、拓海のことを守ってくれるからねえ」
「そんな縁起でもないこと言わないでよ」
大事にしている物を譲るなんて、自分の死を受け入れているみたいで嫌だ。
いくらいらないと言っても、おばあちゃんは頑なに僕にペンダントを渡そうとしたから、僕は根負けしてそれを受け取ったんだ。
その後は元気に話ができる日がほとんどなくて、結局なぜ僕にペンダントを託したのか聞けず終いだった。
その謎は意外な形で解けることとなる。
おばあちゃんの葬儀の時、もらったペンダントを握りしめている僕を見て、母が言ったのだ。
「あなたそれ、お母さんのペンダントじゃない。拓海が生まれる前に、お守りを作るんだって張り切ってたけど、生まれた後も渡した様子がなかったからなんなのかしらって思ってたのよね。死ぬ間際になってやっとあなたに手渡したの」
「これ、もともと僕のためのお守りなの?」
「そうよ。おばあちゃんの形見だと思って、大事にしなさい」
僕は改めてペンダントを見下ろした。三センチ大の懐中時計には、花の模様がたくさん彫られている。おばあちゃんの大好きなネモフィラの花だ。
花園柄の懐中時計を開けてみると、小さなしおりが一枚入っていた。これもネモフィラだ。
しおりにするため板のように押しつぶされたネモフィラは、組織が潰れているとは思えないほど瑞々しく、まだ生命が宿っているかのように見えた。
……あの懐中時計は、どこにいったんだろう。首から下げて、大事に大事に持ち歩いていたのに。最後の記憶の日にだって、持っていった覚えがある。
そうだ。海に出かけた日は、おばあちゃんの四十九日法要の前日だった。
母はおばあちゃんが死んでから悲しんではいたけれど、もう立ち直って普通に仕事をしている。父だってそうだ。
僕が、僕だけがまだ悲しみの中にいて、おばあちゃんの死を受け入れられずにいたんだ。
絵を、描かなければいけないと思った。気持ちの区切りになるような絵を。
いつまでも悲しんでいたら、天国にいるおばあちゃんが安心できないと思ったから。
それであの日は、台風が来ていて危険だったにも関わらず、海に出かけたんだ。
本当はネモフィラの花畑を描く方が、おばあちゃんは喜んだのかもしれないけれど。
その時の僕の心境としては、荒々しい海を描くのが一番しっくりきたんだ。
絵を描いて、区切りをつけて。ちゃんとおばあちゃんを見送ろうと思った……でも。
あの時、突風が吹いたんだ。
それで、それでその後は……ダメだ、頭が重い、ズキズキする。これ以上は考えられない。
僕は一気に思い出した記憶の重さに、押しつ潰されるかのように深い眠りについた。
*
次の日の朝。目が覚めるとカエンはいなかった。
こんなことははじめてだ。いつだってカエンは僕を抱きしめて寝ていて、僕が起きるとチュッと鼻先にキスを贈るのだ。視線に溢れんばかりの愛を込めながら。
ベッドから起き上がる。隣は冷たかった。もうずいぶん前に起きて出ていったらしい。
「カエン?」
居間をのぞいてみるけれど、やはりいない。寝室と居間しかない小屋をくまなく回って探したけれど、カエンの姿はなかった。
「……外かな」
外に繋がる扉を開けると、ぴゅうっと風が吹きこんでくる。いつもより風が強い。胸騒ぎがする。
「カエン! カエン、どこにいる?」
家の周りを一周してみたけれど、やはり見当たらない。途方もない心細さが胸一杯に満ちる。
この不可思議で奇妙な箱庭世界で、平常心でいられたのはカエンがいたからだったのに。
なにかにすがりたくて胸元をギュッと握りこんでみたけれど、大事なペンダントはそこにはない。そうだ。ペンダントはどこにあるんだろう。
寝室……いや、納屋かもしれない。納屋を探してみよう。
カエンを探してあてどなく森をさまようと、もう二度とここに帰ってこれないような危機感を感じたので、とにかくまずはペンダントを捜索することにする。
納屋の中を探すと、海の絵が目につく。この絵は、そうか……僕が描いた絵だ。
あの切り立った崖の上で、風が吹きすさぶ荒々しい海を見ながら。どうか雨よ降らないでと懸命に祈りながら、荒々しい心の内側をさらけ出すようにして描いたんだった。
いや、絵のことはいったん脇に置いておこう。
パッと見てわかる場所には、懐中時計は見当たらなかった。納屋の中にある棚や机の引き出し、箱を片っ端から開けていく。
納屋の一番奥の、見覚えのある一番立派な文机の引き出しの奥に、小さな箱が隠されていた。
木でできた宝箱のような見た目のそれを手にとる。蝶番を外すと簡単に開いた。
「あ……あった……」
たっぷりと花の模様が彫られたそれは、おばあちゃんの形見の懐中時計で間違いない。
そっと模様を指先でなぞる。
そして僕は思い出した。カエンの正体を。今まで何度も何度も忘れてきた記憶のことを。
カエンは花の精、とでも言えばいいのだろうか。それとも付喪神? とにかく、この懐中時計はカエンの本体で間違いない。 昨日の夜、眠る直前に思い出した記憶の続きを辿る。 僕は突風に煽られて、崖から海へ向かって落ちた。そして、ペンダントから声がしたんだ。 切羽詰まった、僕を心から案じる声。今では聞きなれたカエンの声だ。 そして気がついたら、あのネモフィラの花畑にいた。カエンの世界の中に。 その時の僕も記憶を失っていて、初対面のカエン相手にかなり警戒していた。僕はもともと、そんなに人づきあいが得意な方じゃない。 今回初めてカエンに会った時のように、あんなにも慕わしさを感じることの方が異常事態だ。 ……記憶はカエンの体液に触れたり、ペンダントを手にすることで戻るようになっている。 なぜなら僕の記憶を奪ったのは、カエンだから。カエンの残滓から記憶が流れこむことによって、僕は真実を知った。
おばあちゃんが亡くなる一ヶ月前のことだ。その日も僕はバイトの前に、おばあちゃんのお見舞いのために病院に寄った。「拓海、いつもありがとうねえ」「ううん、気にしないで。今日は具合どう?」「昨日よりはいいよ。体を起こしていても、そんなに辛くないしねえ」 おばあちゃんは入院してから体重が落ちたみたいだった。元々細かった手は更にやせ細り、まるで枯れ木のようだ。 死が確実に忍び寄ってきているように感じ怖くなって、ギュッと手を握るとひんやりとした体温を感じた。「おばあちゃん、今日は水ようかんを持ってきたんだ」「おや、嬉しいねえ。後で食べるから、そこに置いておいてくれる?」 床頭台の上に手土産を置くと、おばあちゃんに引き出しを開けるように言われる。「拓海、そこにペンダントが入ってると思うんだけど」「ああ、これ?」「そうそう、それ。拓
丘の上はびゅうびゅうと大風が吹いていた。まだ日も高いのに、ずいぶんと風が吹き荒れている。まるでカエンの心の内を表しているかのようだ。 丘を下ると風の勢いはいくらかましになり、カエンの青褪めた顔に血の色が戻りはじめる。「本当に気分が悪そうだけど、大丈夫?」「大丈夫だ、だいぶましになってきた」 カエンは無理して笑ってみせた。そういう笑顔はあんまり好きじゃない。 丘を降りる途中、大きな木の影で一度休憩をとることになった。僕のお腹が空腹を訴えたせいだ。 お腹が鳴ったのを聞くと、カエンはハッと気を取りなおしたみたいだった。昼食を食べようと提案して、テキパキと用意をしはじめる。「悪かったな、腹が減ってたのに気づかなくて。たんと食えよ」「ありがとう、いただきます」 バケットサンドにはソーセージとチーズ、それからレタスが挟まっている。僕好みの味つけのそれを味わって食べた。
朝の光が差し込む室内で、朝食を用意しているカエンの後ろ姿をぽけっと眺める。 幻想的な水色の髪、広い肩幅、骨ばった男らしい手……あの手が昨日も僕の大事なところを触って、乱して……「できた。今日は拓海が言ってたナンってやつを作ってみたぞ」 声をかけられて我に返り、淫らな妄想を振り払う。食卓に置かれたナンは、豆の煮物っぽいなにかと一緒に食べるみたいだ。「う、うん。いただきます」 僕は朝っぱらからなにを考えていたんだ。毎晩触られているうちに、頭の中までえっちになってきちゃったのかもしれない。 気を取り直して、ナンを豆の煮物に浸して口に入れる。昔インドカレー屋で食べたみたいな、スパイスが効いたカレーの味がした。「わあ、美味しい。カエンってなんでも作れるんだ」「別にそんなことないって。知ってるやつしか作れない」 それにしても、朝からカレーを作るとは思わなかった。基本的に料理はカエンに任せているから、文句
カエンが僕を高める時に、違和感を覚えるようになった。 あの湖に出かけた日の夜からだ。いや、思えばその前から変だった。 彼は僕を責めたてることには熱心だけれど、自分が責められることをよしとしない。 それに、僕に挿れようともしない。男同士のセックスってお尻の孔を使うんだよね? 曖昧な知識だけど、挿入に至らないゲイカップルというのも世間一般にいた気がする。 けれど僕は興味があった。カエンのあの、太くて長いのが僕の気持ちのいいところに当たったら、一体どうなってしまうのか。 僕はカエンのことが好きだ。 笑った顔が一番好きだけれど、下手くそな嘘も優しい声も、僕を追い詰める時の意地悪な顔も、僕の言動に一喜一憂するところも、全部好ましいと思う。 恋に落ちたという感じはしない、気がついたら好きだった。 いや、もしかしたら記憶を失う前の僕はもともとカエンのことが大好きで、恋人だったのかもしれない。残念ながら覚えていないけど。
そこは切り立った崖の上だった。眼下に広がる一面の海の上で、僕は絵筆を持ってキャンパスに色を乗せたところだった。 とても風が強い日だったけれど、あの日の僕はどうしても海が描きたかった。 台風が来るらしいし別の日にすればって、たった一人僕を気にかけてくれる友達に呆れられたけれど、絶対に今日描きたい。そう思って海に来たんだ。 だって、そうしないと……間に合わないんだ。……何に? 残念ながら、その内容までは思い出せはしなかったけれど。 僕はこの場所に来る直前に、海に来ていたことを思い出した。「……また、思い出したんだな?」 カエンが確信を持って聞いてくる。僕は息を乱しながら頷いた。「そっか……なあ、俺もうこんななんだけど。拓海から仕掛けたんだから、責任とってくれよな?」 カエンは僕を膝の上に乗せると、わざと尻に当たるように硬くなった雄を擦りつけた。うわ……僕は慄いた。