朝の光が差し込む室内で、朝食を用意しているカエンの後ろ姿をぽけっと眺める。
幻想的な水色の髪、広い肩幅、骨ばった男らしい手……あの手が昨日も僕の大事なところを触って、乱して……
「できた。今日は拓海が言ってたナンってやつを作ってみたぞ」
声をかけられて我に返り、淫らな妄想を振り払う。食卓に置かれたナンは、豆の煮物っぽいなにかと一緒に食べるみたいだ。
「う、うん。いただきます」
僕は朝っぱらからなにを考えていたんだ。毎晩触られているうちに、頭の中までえっちになってきちゃったのかもしれない。
気を取り直して、ナンを豆の煮物に浸して口に入れる。昔インドカレー屋で食べたみたいな、スパイスが効いたカレーの味がした。
「わあ、美味しい。カエンってなんでも作れるんだ」
「別にそんなことないって。知ってるやつしか作れない」
それにしても、朝からカレーを作るとは思わなかった。基本的に料理はカエンに任せているから、文句なんてないけれど。
カエンはいつものように、僕が一口食べた後に料理を口に運ぶ。青の瞳が驚いたように見開かれた。
「うわ、辛い」
「辛いの苦手だったら、もうちょっとマイルドでもよかったのに」
「次からそうするよ」
拓海って辛いの好きなんだ、なんて言いながら、カエンは驚いた拍子に唇についた汁を舐めとる。
舌が妙にいやらしく見えて、僕は慌てて目を伏せた。心臓がドクドクいってる、どうしてこんなにカエンのことを気にしてしまうのだろう。
このまま家にいたら、昨日みたいに昼間から襲ってしまいそうな気がした。
食べ終わった食器を下げようとするカエンの後ろ姿に声をかける。
「あのさ、今日は遠出をしようよ。湖とかどう?」
「湖か、いいな。お弁当を作っていこうぜ」
「今日はおにぎりがいい」
「よしきた」
もはやどこから米が出てくるなんてツッコまない。便利でいいよね、それだけだ。
このぬるま湯のような世界はカエンの存在で成り立っているということを、おぼろげながら僕は理解しはじめていた。
あまり原理を追求すると、ろくなことにならないと思う。最初に米が出てきて驚きカエンを問い詰めた時、たいそう困った顔をしてごまかされたから。
僕がカエンにべったり寄りかかるような生活を、彼は気に入っているみたいだった。
甘えても、多少わがままを言っても、性的に襲ってみても嫌な顔一つしない。ただ僕のやることを受け入れて、楽しそうにしている。
「カエンってさ、記憶を失う前から僕のことが好きだった?」
「なにを今更。あんたのことは、物心ついた時からずっと好きだ」
うわあ、好きだって。カエンが僕のこと好きって。嬉しい。
だけど、物心ついた時から好きってどういう意味だろう。
「……カエンって何歳?」
「さあ? いくつに見える?」
肌のきめ細かさや無邪気なところは十代でも通じそうだ。
だけどこうやってはぐらかすところや、いろいろと手慣れた様子を見ていると、実は三十代でしたと言われても驚かない。
カエンは現実離れしていて、あまり年齢を感じさせない男だった。
「わかんない」
「ならひとつだけヒントをあげよう。俺は拓海より年上なんだ」
「もう一声」
「ええー……あんたのおばあちゃんよりは年下だな」
「そんなの見ればわかる」
実りのない会話をしながら湖への道を歩いた。湖に行くのは初めてだから、未知の場所に出かける高揚感で心も弾んだ。
土が剥き出しになった遊歩道を歩いている間も、隣を行くカエンの横顔をチラチラと見つめてしまう。なんかもう、我ながら恋する乙女な状態だ。
でも仕方がないとも思う。だってカエンは僕の理想そのものな姿をしているし、夜はとことん気持ちよくしてくれて、昼もずっと一緒にいて僕のことを気にかけてくれる。
そんなの、好きにならないほうがおかしい。
だけど、なぜこんなにもカエンが僕によくしてくれるのかが謎すぎて、浮かれてばかりもいられなかった。
周囲を一通り散策すれば、なにかわかるかもしれない。そういう意味でも、湖に行くのは楽しみだ。
湖は森の中にひっそりと存在していた。知っていないとたどり着けないくらいに森の奥深い場所にあり、湖の周りだけぽっかりと空が見える。
湖水は藻が繁殖していて、底まで見通すことができない。藻の間を、赤や銀色の魚がスイスイと泳ぎ回っている。
「へえ、こんなところなんだ。雰囲気いいね」
それにしても、初めて来たはずなのに妙に既視感を感じる。掘り下げようとした疑問は、カエンの楽しげなあいづちの前にかき消えた。
「だろ? それで、今日は何を描くんだ?」
絵のモチーフはここに来るまでに決めていた。
どう頑張ってもカエンのことが気になってしまうなら、いっそのこと堂々と見つめられる口実を作ってしまえばいいんだ。
「カエンを」
下手でもいいから、心を込めて描いてみたくなった。
僕は腰を下ろすのによさそうな倒木を見つけると、露を払って尻を落ち着ける。画材とイーゼルをセッティングしていると、妙に静かなことに気づいた。
カエンに目を向けると、彼は目を見張ったまま立ち尽くしている。
「なに?」
「へ? いや……め、珍しいこともあるもんだなって」
「普段は風景ばかり描いてるからね。でも今日はカエンを描きたくなったんだ。モデルになってよ」
お願いすれば、カエンはたいてい断らない。この時もそうだった。彼は落ち着きなく視線を彷徨わせながらも、僕の願いを受け入れた。
「わかった。どうすればいい?」
「そうだね、もうちょっと右にずれて……で、あっちに視線を向けて。そう。そのまま動かないで」
ピタリとカエンが静止したのを確認して、僕は絵筆に色を乗せた。
カエンの上半身……大体腰あたりまでを描こうと考えて構図を決めた。
背景にちょうど光が差しこんでいるから、それと一緒に光る水面が描きこめるような、絵的に映える場所を選んだ。
自分の中にあるカエンへの気持ちを浮き彫りにするみたいに、目に見える形にしてみたい。
森の木々を見つめるカエンの青い瞳には、一層丁寧に絵筆を走らせる。
乱れた髪は無造作に整っていて、その奇跡的なバランスをキャンバスの上に余さず描き起こしたくて、夢中で手を動かした。
ラフなシャツはざかざかと、背景の一部みたいにぼかして描く。彼の顔の美しさを際立たせるために、陶器のようにきめ細かい肌はより一層、繊細な筆使いで仕上げた。
僕が集中している間、カエンは一切動かなかった。時々、思い出したように瞬きをする。魚が跳ねる水音がする以外、とても静かな時間が過ぎた。
日の角度が変わる前になんとか背景まで描き終えると、僕は絵筆をパレットの上に置いた。
「……もう動いていいよ」
「もういいのか? 完成?」
「うん、後でもう少し修正するかもしれないけど」
彫像のように動かなかったカエンは、命を吹きこまれたようにパッと表情を綻ばせると、僕の目の前にあるキャンバスをのぞきこんだ。
「わお。これが俺?」
「うん。どう?」
「めっちゃいいじゃん。人を描くのは苦手って嘘だろ? めちゃくちゃ上手い」
カエンは熱心に絵を眺めた後、恥ずかしそうにポリポリと頬を掻いた。
「それに、色合いがすげー幻想的っていうか……拓海には俺がこう見えてるんだ?」
影と背景に赤色を混ぜた分、カエンの持つ青の色彩が際立ち、まるで光り輝いているかのように見える。神秘的で、神の使いかなにかのようだ。
「ああ、まあ……ちょっと盛ったかも」
「盛った?」
恋心の分、現実よりも神々しさを盛っちゃってるなんて伝える気になれなくて、曖昧に誤魔化した。
「カエンは確かに現実離れしてるけど、見た目よりは親しみやすいと思うよ」
「ははっ、そっか」
カエンはパッと花が咲いたように笑うと、僕の隣に腰かけた。
「俺さ、拓海がここにいてくれて本当に嬉しいんだ。ずっとこうやって暮らしていけたらいいよな」
「僕がカエンにおんぶに抱っこされながら?」
「あんたのことおんぶなんてしたか?」
「そうじゃない、比喩だよ」
カエンはわからないという顔をしている。衣食住プラス夜の世話まで、どっぷりと僕に依存される生活をしているというのに、なんとも思っていないのか。
「ここは快適だけど、さすがにずっとこのままってわけにはいかないよ。家族だって心配しているだろうし、友達……は、あんまいないけど一応いるし……とにかく、無事な姿を見せないと」
「……ああ、うん。そうだよな」
カエンはきまり悪そうな顔をして目を逸らした。
誤魔化される前に、もう一歩だけ踏みこんでみる。
「これは僕の勝手な想像なんだけど。ここは夢の世界で、カエンは夢の中ではなんでもできるんだ。僕は大きな怪我とかで意識を無くして、カエンの夢の中に連れ去られて、長い夢をみている……どう? 面白くない?」
「笑えない冗談だ」
カエンは低い声で呟いて、下手くそな笑顔を作った。
「ところで、この近くにメロンが群生してる場所があるんだ。拓海はメロン好きだろ? 寄っていこうぜ」
「……行く」
僕はカエンの下手な話題転換に乗せられることにした。僕はカエンを悲しませたいわけではないのだ。
僕が返事をすると、カエンはホッとしたようにくしゃりと笑う。僕も微笑み返した。差し出された手と手を繋ぐ。
こんなにカエンに嫌がられているけれど、それでも僕は記憶を思い出したい。
あの海に着いた後、僕はどうなったのだろう。それに、なぜあんな荒れた天候の日に、海に出かけたのだろう。
カエンに聞いてもきっと、悲しそうな顔をするだけだ。
思い出したい、けれど悲しませたくない……板挟みの間で気持ちは揺れ動いたけれど、今日のところはカエンの下手くそな笑顔に免じて追求をやめた。
カエンは花の精、とでも言えばいいのだろうか。それとも付喪神? とにかく、この懐中時計はカエンの本体で間違いない。 昨日の夜、眠る直前に思い出した記憶の続きを辿る。 僕は突風に煽られて、崖から海へ向かって落ちた。そして、ペンダントから声がしたんだ。 切羽詰まった、僕を心から案じる声。今では聞きなれたカエンの声だ。 そして気がついたら、あのネモフィラの花畑にいた。カエンの世界の中に。 その時の僕も記憶を失っていて、初対面のカエン相手にかなり警戒していた。僕はもともと、そんなに人づきあいが得意な方じゃない。 今回初めてカエンに会った時のように、あんなにも慕わしさを感じることの方が異常事態だ。 ……記憶はカエンの体液に触れたり、ペンダントを手にすることで戻るようになっている。 なぜなら僕の記憶を奪ったのは、カエンだから。カエンの残滓から記憶が流れこむことによって、僕は真実を知った。
おばあちゃんが亡くなる一ヶ月前のことだ。その日も僕はバイトの前に、おばあちゃんのお見舞いのために病院に寄った。「拓海、いつもありがとうねえ」「ううん、気にしないで。今日は具合どう?」「昨日よりはいいよ。体を起こしていても、そんなに辛くないしねえ」 おばあちゃんは入院してから体重が落ちたみたいだった。元々細かった手は更にやせ細り、まるで枯れ木のようだ。 死が確実に忍び寄ってきているように感じ怖くなって、ギュッと手を握るとひんやりとした体温を感じた。「おばあちゃん、今日は水ようかんを持ってきたんだ」「おや、嬉しいねえ。後で食べるから、そこに置いておいてくれる?」 床頭台の上に手土産を置くと、おばあちゃんに引き出しを開けるように言われる。「拓海、そこにペンダントが入ってると思うんだけど」「ああ、これ?」「そうそう、それ。拓
丘の上はびゅうびゅうと大風が吹いていた。まだ日も高いのに、ずいぶんと風が吹き荒れている。まるでカエンの心の内を表しているかのようだ。 丘を下ると風の勢いはいくらかましになり、カエンの青褪めた顔に血の色が戻りはじめる。「本当に気分が悪そうだけど、大丈夫?」「大丈夫だ、だいぶましになってきた」 カエンは無理して笑ってみせた。そういう笑顔はあんまり好きじゃない。 丘を降りる途中、大きな木の影で一度休憩をとることになった。僕のお腹が空腹を訴えたせいだ。 お腹が鳴ったのを聞くと、カエンはハッと気を取りなおしたみたいだった。昼食を食べようと提案して、テキパキと用意をしはじめる。「悪かったな、腹が減ってたのに気づかなくて。たんと食えよ」「ありがとう、いただきます」 バケットサンドにはソーセージとチーズ、それからレタスが挟まっている。僕好みの味つけのそれを味わって食べた。
朝の光が差し込む室内で、朝食を用意しているカエンの後ろ姿をぽけっと眺める。 幻想的な水色の髪、広い肩幅、骨ばった男らしい手……あの手が昨日も僕の大事なところを触って、乱して……「できた。今日は拓海が言ってたナンってやつを作ってみたぞ」 声をかけられて我に返り、淫らな妄想を振り払う。食卓に置かれたナンは、豆の煮物っぽいなにかと一緒に食べるみたいだ。「う、うん。いただきます」 僕は朝っぱらからなにを考えていたんだ。毎晩触られているうちに、頭の中までえっちになってきちゃったのかもしれない。 気を取り直して、ナンを豆の煮物に浸して口に入れる。昔インドカレー屋で食べたみたいな、スパイスが効いたカレーの味がした。「わあ、美味しい。カエンってなんでも作れるんだ」「別にそんなことないって。知ってるやつしか作れない」 それにしても、朝からカレーを作るとは思わなかった。基本的に料理はカエンに任せているから、文句
カエンが僕を高める時に、違和感を覚えるようになった。 あの湖に出かけた日の夜からだ。いや、思えばその前から変だった。 彼は僕を責めたてることには熱心だけれど、自分が責められることをよしとしない。 それに、僕に挿れようともしない。男同士のセックスってお尻の孔を使うんだよね? 曖昧な知識だけど、挿入に至らないゲイカップルというのも世間一般にいた気がする。 けれど僕は興味があった。カエンのあの、太くて長いのが僕の気持ちのいいところに当たったら、一体どうなってしまうのか。 僕はカエンのことが好きだ。 笑った顔が一番好きだけれど、下手くそな嘘も優しい声も、僕を追い詰める時の意地悪な顔も、僕の言動に一喜一憂するところも、全部好ましいと思う。 恋に落ちたという感じはしない、気がついたら好きだった。 いや、もしかしたら記憶を失う前の僕はもともとカエンのことが大好きで、恋人だったのかもしれない。残念ながら覚えていないけど。
そこは切り立った崖の上だった。眼下に広がる一面の海の上で、僕は絵筆を持ってキャンパスに色を乗せたところだった。 とても風が強い日だったけれど、あの日の僕はどうしても海が描きたかった。 台風が来るらしいし別の日にすればって、たった一人僕を気にかけてくれる友達に呆れられたけれど、絶対に今日描きたい。そう思って海に来たんだ。 だって、そうしないと……間に合わないんだ。……何に? 残念ながら、その内容までは思い出せはしなかったけれど。 僕はこの場所に来る直前に、海に来ていたことを思い出した。「……また、思い出したんだな?」 カエンが確信を持って聞いてくる。僕は息を乱しながら頷いた。「そっか……なあ、俺もうこんななんだけど。拓海から仕掛けたんだから、責任とってくれよな?」 カエンは僕を膝の上に乗せると、わざと尻に当たるように硬くなった雄を擦りつけた。うわ……僕は慄いた。