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黒頁の牙

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-08-07 15:09:13

詩の獣は、音もなく空間を満たしていく。

最初に感じたのは、言葉の匂いだった。

古びた紙の香りではない。

燃え残った詩文と、湿った墨の気配が混じり合い、嗅いだだけで胸の奥にざらつきが残るような、そんな気配。

ユウリが一歩踏み出した瞬間、獣の体が揺れた。

その皮膚にはびっしりと詩文が刻まれている。

まるで、誰かが何百、何千という詩を“書き捨てていった”かのように。

目も口も持たないその顔の中心には、黒い円——未詩の花が、開きかけたまま凍りついていた。

「……あれが、“咲かなかった詩”の成れの果て」

セリアが呆然とつぶやいた。

それは魔法というより、呪いだった。

魔導書の構造すら無視して咲き続ける、“読み手を持たなかった詩”。

詩の獣は、腕のような触手を伸ばすと、空気にひとつの詩を放った。

目に見える文字列が、空間に焼き付けられる。

まるで天に浮かぶ黒い書。

それを読んだ——いや、見ただけで、ユウリの頭が揺れた。

「うっ……!」

意味が、勝手に流れ込んでくる。

言葉の意味、構文、詩の解釈。

それらが一斉に脳へと押し寄せ、思考の回路を塗りつぶしていく。

「読むな! 見るなユウリ!」

セリアが叫んだ。

だが、すでに視界には詩の痕跡が焼きついていた。

“読む”ことが本能であるこの世界において、

“読むな”という行為は、目を閉じても避けられない。

次の瞬間、地面が裂けた。

詩が“咲いた”。

まるで爆発のように、花弁にも似た文字が空間に拡がる。

壁を穿ち、空気を裂き、風を沈黙させる黒い花。

ユウリが身を引こうとしたそのとき、トアが彼を抱き寄せて転倒した。

直後、彼らの背後をかすめて、詩の花が咲き砕いた岩が吹き飛んだ。

「……っ、ありがとう」

「読むと、喰われる……わたし、あれ、知ってる」

トアの声は震えていた。

彼女の記憶に、あの獣が刻まれている。

けれど思い出せない。

過去が、読めない詩文のように心の奥に封じられている。

「また、来た……」

その言葉の意味を、ユウリはまだ知らなかった。

詩の獣が咲かせるのは、言葉の罠だった。

目に映るだけで、意味が流れ込んでくる。

詠唱も、魔導構造も超えた、“読む”という衝動そのものに干渉する暴力。

「意味が……脳に、勝手に……っ!」

ユウリが額を押さえ、膝をついた。

彼の魔導書がページを開いたまま震えている。

そこに刻まれた詩文が、読み取れな
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