INICIAR SESIÓN星見の丘の前施設長――榊原慧一郎。 彼が、紫苑医科大学附属病院に何度も出入りしていたらしい。 奏人先輩からその話を聞いたあと、私は家へ戻り、玲司の帰りを待っていた。 榊原元施設長と、紫苑医科大学附属病院。 別々だったはずの点が、少しずつ一本の線で繋がり始めているような気がする。 だからこそ、確かめたかったけれど、私一人で病院へ行ったところで、まともに話を聞いてもらえるとは思えなかった。 以前、黒崎看護師長がお母さんを病院から追い出そうとしたときのことを思い出す。 あのとき、玲司が現れた途端に周囲の空気が変わった。 医師も職員も、玲司の言葉を無視できない様子だった。 久我家の力なのか。それとも、玲司自身が病院と何かしら深い繋がりを持っているのか。 私にはわからない。 玲司に頼めば、榊原元施設長が病院で誰と会っていたのか、何のために出入りしていたのかを調べられるかもしれない。 そう考えたところで、不意に胸の奥がじくりと痛んだ。 玲司が、どんな仕事をしているのか。 会社でどんな立場にいるのか。 普段、どんな人間たちと関わり、何を背負って生きているのか。 私はほとんど何も知らない。 曲がりなりにも、私は彼の妻なのに。「……私、何も知らないんだ」 口に出した途端、その事実が急に重みを増した。 だからといって、玲司が私にしてきたことが許されるわけじゃない。 母への憎しみを私にぶつけたことも。 私を侮辱したことも。 妊娠していた私を冷遇して、結果として子どもを失ったことも。 全部許せない。 たぶん、この先も簡単に許すことなんてできない。 だけど――。 それとは別に私は本当に、玲司の妻として彼を見ていただろうか。 妻として家にいて。 求められることをこなして。 玲司が帰ってくれば食事を用意して、隣で笑って。 それで夫婦をやれているつもりになっていなかっただろうか。 玲司が何に悩み、何を怖がっているのか。 どうして時折、あんなにも苦しそうな顔をしていたのか。 私は、一度でもちゃんと知ろうとしただろうか。「……全然、駄目だったな」 ぽつりと声が零れた。 自嘲するように笑おうとして、できなかった。 きっと私たちは、もうやり直せない。 一度壊れ
【玲司side】 さすがに、これ以上仕事を放置するわけにはいかなかった。 ここ数日、私用で会社を空けることが多かった。そのしわ寄せが、当然のように俺のデスクへ積み上がっている。 決裁を待つ書類。確認が必要な契約書。各部署から上がってきた報告。 朝からそれらを片っ端から処理しているというのに、頭の中から離れないものがあった。 ――千影と、紗良が双子だった。 書類をめくる手が、わずかに止まる。 星見の丘で聞かされた話。 幼い頃、千影と紗良は二人揃って施設へ預けられていた。 残されていた記録によれば、二人は同じ日に生まれた双子の姉妹。 まだ完全に信じたわけじゃない。 施設に残されていた資料だけでなく、こちらでも改めて調べる必要がある。 俺自身が納得できるだけの証拠を集めるつもりだった。 だがあの野上という職員、わざわざそんな嘘をつく理由があるとも思えない。 おそらく、本当なのだろう。 胸の奥に重たいものが沈んでいく。 星見の丘から帰る車の中。 隣に座っていた千影は、泣いていた。 声を上げるわけでもなく、ただ静かに。 自分でもなぜ涙が出るのかわからないとでもいうように、頬を伝う涙を何度も拭っていた。 その姿が、頭から離れない。 俺はずっと千影を、朝霧美玲の娘として見てきた。 紗良を見殺しにし、俺から家族を奪った女。 その娘として生まれ、何も知らずに幸福を享受してきた人間。 だから憎み傷つけても構わないと思った。 紗良が奪われた苦しみを、少しでも味わえばいいと。 だが――もし。 千影自身もまた、俺と同じだったとしたら。 血を分けた家族を知らぬ間に奪われて。 大人たちの事情に振り回され、自分とは何の関係もないところで人生を歪められていたのだとしたら。 俺は――。 「……くそ」 無意識に漏れた声に気づき、眉間を押さえる。 考えるな今は仕事中だ。 目の前のことに集中しろ。 そう言い聞かせ、再び資料へ目を落とす。 数字を確認し、修正箇所を指摘する。 次の案件へ移り、契約内容を読み込む。 部下から上がってきた企画書にも短時間で目を通し、判断を下していく。 仕事そのものは、いつも通りこなせてしまう。 こんなときばかりは、自分の業
嫌な予感がする。「黒い噂って……?」「児童相談所を通さない非正規の養子縁組。子供を引き取る見返りに、多額の寄付金が動いていたんじゃないかって話だ」「それって……」「言い方を選ばなければ、人身売買だ」「――っ」 背筋に冷たいものが走った。 奏人先輩はすぐに続ける。「もちろん、噂のすべてが事実だと決まったわけじゃない。警察も動いたが、決定的な証拠は出なかった。金の流れも追い切れず、事件として立件されたものもない」「じゃあ、榊原さんは……」「施設長だった以上、当然事情聴取は受けている」「罪には問われていないんですよね?」「ああ。榊原慧一郎本人が子供を売ったとか、金を受け取ったとか、そういう証拠は出てない。むしろ当時の記事を見る限り、本人は不正への関与を一貫して否定してる」「それなら……」「だが、気になることがある」 奏人先輩の指が、記事の一部分を叩く。「不自然な記録の欠落が多すぎる」「記録……?」「星見の丘に入所した児童のうち、何人かについて入所時の資料や退所理由が極端に少ない。誰が連れてきたのか。どういう経緯で引き取られたのか。そういう重要な部分だけが抜け落ちている」 心臓が嫌な音を立てる。「まさか……私と紗良も?」「まだ確認はできてない」 奏人先輩は慎重に答えた。「だが、話を聞く限り可能性はある」 この子たちは里親には出さない。 野上さんから聞いた言葉が蘇る。 そう言われて預けられたはずなのに、私はほどなくして母に引き取られた。 しかも、双子の紗良を残して。「でも……榊原さん自身が悪い人だったとは限らないんですよね?」「そこがややこしい」 奏人先輩は腕を組んだ。「調べれば調べるほど、榊原慧一郎という人物がどちら側にいたのかわからなくなる」「どちら側……?」「不正に関与していた人間なのか。それとも、不正を止めようとしていた人間なのか」「……どういうことですか?」「行政調査が入る少し前、彼が施設内部の記録を大量にコピーしていたという証言がある。その直後から、一部の職員と揉めるようになったらしい」「じゃあ、不正を調べていた……?」「可能性はある」 そこで奏人先輩は言葉を切った。「ただ、俺が気になっているのはもっと昔だ」「昔?」 新しい資料を一枚取り出す。「白峰紗良が亡くなった時のこ
「なんで……」 自分でもわからない。 悲しいわけじゃない。 妹がいたことを知った。 けれど、その妹とはもう二度と会えない。 一緒に育つこともなかった。 姉妹だと知ることさえないまま、紗良さんは死んだ。「わからない……」 声が震えた。「私にも、わからないの」 止めようとした途端、涙はさらに溢れてきた。 ぎゅっと唇を噛む。 紗良さんとは、物心がついてから一度しか会っていない。 しかも、その時は姉妹だなんて知らなかった。 星見の丘で、玲司と一緒に私のヴァイオリンを聴いていた少女。 その記憶だって遥か昔のものだ。 今となっては顔も、声も、はっきりとは思い出せない。 だから今さら、玲司が妹のように大切にしていた紗良さんが、実は私の双子の妹でしたと言われたところで、何も思わないし何も感じない。 そのはずなのに。「…………」 どうして、こんなにも涙が出るのだろう。 もし、もっと早く知っていたら。 もし、私たちが引き離されていなかったら。 そんな『もしも』を考えたところで、どうしようもないことくらいわかっている。 それなのに次から次へと浮かんでくる。 同じ家で育っていたら。 一緒に学校へ通っていたら。 喧嘩をしたり、くだらないことで笑ったり。 双子なんだから、服を交換したりなんかもしたのだろうか。 想像したことすらなかった人生が、頭の中に勝手に形を作っていく。 そしてそのすべてが、もう絶対に手に入らないものなのだと気づくたびに、胸の奥が締めつけられた。「……っ」 手の甲で必死に涙を拭う。 こんなところを玲司に見られたくない。 そう思うのに、どうしても止まってくれない。 その時だった。 ぽすっ、と。 太腿の上に、何か軽いものが落ちた。「……え?」 視線を落とす。 そこにあったのは、紺色のハンカチだった。 見覚えがある。いや――見間違えるはずがない。 まだ玲司と婚約する前。 誕生日でも記念日でもない日に、仕事ばかりしている彼へ私が何となく贈ったものだった。『ハンカチくらいちゃんと持ちなさいよ』『余計なお世話だ』 そんなやり取りまで、不意に蘇ってくる。 もうとっくに捨てられていると思っていた。「……まだ、持ってたの?」 思わ
「あなたたちが双子の姉妹だということを示す、出生時の母子手帳もね。わざわざ丁寧に添えて、ここへ預けられたそうよ」 鷹宮麗華から聞かされた話が、頭の中でずっと繰り返されていた。 信じていいのかわからなかった。 あの人が私に真実を話している保証なんて、どこにもなかったから。 けれど今、その話がまったく別の人間の口から重ねられた。 白峰紗良は――。 玲司が家族として愛した少女は――。 本当に、私の双子の妹だった。 何か言わなければと思うのに、喉がひどく乾いて声が出ない。 野上さんはそんな私を気遣うように見つめていたが、やがて躊躇いがちに口を開いた。「ただ……」 野上さんの顔から、それまで浮かんでいた穏やかな表情が消える。「あなたたち二人がここへ預けられた時のことで、一つ……今でも妙だと思っていることがあるの」「妙なこと?」 ようやく声を絞り出すと、野上さんはゆっくりとうなずいた。「当時の施設長だった榊原さんがね、二人を預かった時にはっきり言っていたそうなのよ。この子たちは里親には出さない、って」「……え?」「普通なら、家庭で暮らせる可能性がある子については里親や養子縁組の話が出ることもあるでしょう? もちろん事情によって違うけれど。でも、あなたたちについては最初からその選択肢を外すように言われていたらしいの」「誰にですか?」 玲司が間髪入れずに尋ねた。 野上さんは首を横に振る。「そこまでは私も知らないの。私が聞いていたのは、榊原さんがそう話していたということだけ」 胸の奥に、新たな疑問が生まれる。 里親には出さない。 それなのに――。「だから、千景さん。あなたが朝霧院長……美玲さんに引き取られると聞いた時は、私も驚いたわ」「……最初は、引き取らせるつもりがなかったのに?」「ええ。それも、あなた一人だけだったから」 ずきり、と胸の奥が痛んだ。 双子なのに私だけが星見の丘を出て、紗良さんはここに残された。「預けた人は……」 自分でも驚くほど掠れた声が出た。「私たちをここへ連れてきた人は、どんな人だったんですか? 私の本当の両親は……なんと言って、私たちをここに?」 もしかしたら。 本当の両親について、何か分かるかもしれない。 僅かな期待を込めて尋ねたけれど、野上さんは申し訳なさそうに眉
星見の丘へ到着すると、私たちは待たされることもなく、すぐに応接室へと通された。 「そ、それで……本日は、いったいどのようなご用件でしょうか」 向かいのソファに腰を下ろした高坂施設長は、ひどく落ち着かない様子でそう切り出した。 額には薄っすらと汗が滲み、膝の上で組んだ指もせわしなく動いている。 この前ここを訪れた時、私を邪険に扱い、まともに話も聞かず追い返そうとした人物と同じだとは思えない。 理由は考えるまでもなかった。 ちらりと隣へ目を向ける。 玲司は足を組み、無表情のまま高坂施設長を見据えていた。 ただ座っているだけなのに、妙な威圧感がある。 久我家の人間が直接ここまで来たというだけで、高坂施設長にとっては十分すぎるほどの重圧なのだろう。 やがて玲司が、私へ視線を向けた。 話せ、ということらしい。 私は小さく息を吸う。 「ここにいた、白峰紗良さんについて聞きたいんです」 「白峰……紗良さん、ですか?」 「はい」 その名前を口にするだけで、胸の奥がざわついた。 玲司が妹のように大切にしていた少女。 そして私の双子の妹かもしれない人。 「紗良さんがこの施設へ来た時のこと。それから……」 一度言葉を切る。 自分の口で問いかけようとすると、急に現実味が増してきた。 「彼女と私が、本当に姉妹だったのかどうか。それを知りたいんです」 高坂施設長の眉がぴくりと動いた。 「あなたと……うちにいた児童が、姉妹だったかどうか?」 「はい。私も幼い頃、この星見の丘にいたそうなんです」 「そう……ですか」 高坂施設長は顎へ手を添え、何かを考えるように視線を落とした。 ほんの数秒の沈黙。 やがて顔を上げると、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。 「大変申し訳ありませんが、私がこちらに勤め始めたのは数年前なんです。ですから、それほど昔のこととなると、私にもわからないんですよ」 「記録はないのか?」 玲司が低い声で尋ねる。 「き、記録ですか……」 「ああ。施設へ預けられた時の記録くらい残っているだろう」 「さすがに何十年も前のものですからね……。ましてや、もうここを退所している方でしょう? 残っている可能性は低いかと」 曖昧な返答だった。 ない、とは断言しない。 けれど、
面会を終えてICUの外へ出ると、今度は事務員が私を待っていた。「久我様、入院手続きと費用についてご説明があります」「……費用?」「集中治療室での管理になりますので、通常の入院より費用が高額になる可能性があります。また、今後の治療内容によっては、保険適用外の費用や差額室料、保証金なども発生いたします」 事務員はそう言って、差し出してき書類を受けとる。 私はそこに記載された金額を見て、息が止まった。「……こんなに?」 私の貯金をすべて使っても、到底足りない額だ。「まずは入院保証金として、こちらの金額をお願いしております」「今日中に、ですか?」「原則としては二十四時間以内です
聞き間違えるはずがない、香澄の声だ。 頭が真っ白になりかけながらも、必死に言葉を絞り出した。「お願い……少しだけでも来て……!」『千景』 低く、面倒くさそうな声だった。『自分の母親のことだろ? それぐらい自分で対応しろ』「……え?」『病院なら医者がいる。俺が行ったところで何ができる』「でも……」『明日の朝には家に帰る。その時なら話を聞いてやる』 プツッ、と一方的に通話が切れた。 耳元で鳴り続ける無機質な電子音だけが聞こえるスマホを握ったまま動けなかった。 微かに感じた希望は、そもそも私の気のせいだった。 窓の外では、イルミネーションが流れていく。今日はクリスマス
息ができない。 視界が滲む。 潰れた車体と瓦礫の隙間から、かろうじて外の光だけが見えていた。 遠くで、誰かの声がする。「香澄! 大丈夫か!?」 切迫した玲司の声で、意識が引き戻された。 私は必死に顔を上げる。 けれど、玲司が真っ先に駆け寄ったのは、私ではなかった。 助手席側にいた香澄だった。「やだ……っ、痛い……!」「大丈夫だ。今助けるからな!」 香澄は泣いていた。 腕から血を流していたけれど、意識ははっきりしている。身体も動いている。 それなのに玲司は、瓦礫に押し潰された私ではなく、真っ先に彼女の方へ駆け寄った。 私は……? 声を出そうとしても、喉が震える
「申し上げにくいのですが……久我さんに残された時間は、このままだともうあまり多くありません」 「え……?」 真っ白な診察室で、私は医師の言葉を聞き返すことしかできなかった。 久我千景(くが ちかげ)。 それが、私の名前だ。 数年前の事故で負った怪我の経過を見るため、いつものように病院へ来ただけだった。 今日も、形式ばかりの説明を受けて終わる。 そう思っていた。 けれど、医師の口から告げられたのは、あまりにも予想外の言葉だった。 「先日の血液検査と追加検査の結果、久我さんは血液を作る骨髄そのものが壊れていく病気だと分かりました」 「血液を作る骨髄が壊れる病気…







