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第10話(7)

Author: 北川とも
last update publish date: 2025-12-24 08:00:03

 開けたドアから心地いい風が入り、待合室を吹き抜けていく。空気の入れ替えも兼ねて、待合室に面している部屋のドアや窓はすべて開け放っているので、風の通りは抜群だ。

 髪を掻き上げた和彦は、ページの端を折った医療用品のカタログをテーブルに置き、周囲にぐるりと視線を向ける。運び込まれた備品から小物に至るまで、一応、収まるべきところに収まり、照明器具も設置した。おかげで、ぐっとクリニックの待合室らしくなった。

 医療機器を入れるまで人が出入りすることもないため、当分の間、和彦はここを一人で自由に使える。部屋に閉じこもっていても不健康なので、昼間は毎日通ってくるのもいいと、実は考えていた。外で護衛をしている組員には申し訳ないが、人形でもない限り、生活空間以外で、一人で気楽に過ごす時間は必要なのだ。

 そう、一人で気楽に――。

 和彦はソファの背もたれに頭を預け、ぼんやりと天井を見上げる。すると、前触れもなく声をかけられた。

「――寛いでるね、先生」

 ビクリと
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  • 血と束縛と   第22話(5)

     あえて、千尋と引き離されたのだろうか――。和彦はふっとそんなことを考えてしまう。『先生?』「あっ……、聞いている」『いい機会だから、じいちゃんにたっぷり甘えて、いろいろ買ってもらうといいよ。なんといっても総和会会長は、太っ腹だから』「……返事がしにくいことを言うな」 守光に代わろうかと聞いてみたが、あっさりと千尋に断られた。 和彦が携帯電話をポケットに仕舞うと、守光が楽しそうに話しかけてきた。「薄情な孫だな。わしの声は聞きたくないと言ったんだろ?」「そこまでは……。お腹が空いているらしくて、これからラーメン屋に行くそうです」「だったら千尋の分まで、しっかり料理を味わっておこう」 守光の言葉に、座椅子に座り直した和彦はぎこちなく微笑んで頷いた。** 夕食後すぐに、部屋の露天風呂にゆっくりと浸かった和彦は、板の間の籐椅子に腰掛けて、体の火照りを鎮めていた。 外はすでに闇に覆われており、窓から見えるのは、微かな月明かりが生み出す木々の影ぐらいだ。街中で生活していると、これほど人工的な明かりのない夜というのも珍しい。 和彦は改めて、ここは旅先なのだと実感していた。総和会の人間と行動をともにしながら、ずっと肩に力が入っていたが、そのおかげというのも変な表現だが、抱えた問題について考える余裕はなかった。 一人になって落ち着いた今になって、里見と英俊が一緒にいた光景が脳裏に蘇る。見かけたときの衝撃は少しずつ薄まりつつあるが、嫉妬してしまったという事実は、胸の奥で重みを増しているようだ。 首筋を伝い落ちる汗をタオルで拭い、ペットボトルの水を飲む。 いくら昼間は春らしい気候だったとはいえ、夜の山間はさすがに少し冷える。湯冷めする前に、ベッドの上に置いた茶羽織を取ってこようと和彦が立ち上がりかけたとき、前触れもなく部屋の電気が消えて暗くなった。「えっ……」 反射的に洋間のほうを振り返った和彦が見たのは、こちらに近づいてく

  • 血と束縛と   第22話(4)

     そう言う南郷の表情に、一瞬の嘲りが浮かんだのを見逃さなかった。南郷は、虚勢であるにせよ和彦の強気の理由を知っている。長嶺の男たちによる庇護だ。しかもそれを、医者としての腕ではなく、体によって得ているのだ。 和彦は何も言わず背を向け、部屋に戻ろうとする。その背に向けて南郷が声をかけてきた。「あとで、部屋にコーヒーでも運ばせる。俺はあまり気が利く男じゃないが、オヤジさんが戻ってくるまで、しっかり面倒を見させてもらおう」 仕方なく振り返った和彦は、最低限の礼儀として小さく頭を下げた。** 緊張して夕食が喉を通らないのではないかと危惧していた和彦だが、食前酒のワインを飲んでから、生湯葉に箸をつけると、驚くほど食欲が湧いた。 鴨肉のソテーを口に運ぶ頃には気分も和らぎ、つい顔を綻ばせる。すると、正面に座っている守光が口元に笑みを湛えた。「どうやら、口に合ったようだ」 守光の言葉に、そんなに素直に顔に出ていたのだろうかと思いながら和彦は頷く。「美味しいです、すごく……」 この旅館は、食事は各自の部屋に運ばれるのではなく、別棟にある食事処に客が出向き、個室でとる形をとっている。総和会の人間たちも同席するのかと思ったが、現在、個室には和彦と守光の二人だけだ。個室の外に数人の人間が控えており、相変わらず守光の護衛についている。「――南郷から、何か礼を欠いたことでも言われたかね」 豆腐を掬った守光にさりげなく問われ、一瞬動きを止めてしまう。肯定したようなものだった。思わず和彦が苦い顔をすると、守光は声を洩らして笑った。「許してやってくれ。あれは、礼儀作法はしっかりとしているんだが、気になる相手にはどうしても突っかかるような言動を取る。そうやって、相手を見定める――いや、もっと露骨だな。値踏みする」「値踏み、ですか?」「あんたのことが、気になって仕方ないんだ。なんといっても、長嶺の男〈たち〉を骨抜きにしている人だ」 守光から静かな眼差しを向けられ、瞬間的に和彦の体は熱くなる。この場から逃げ出したくなったが、そんな無礼なことができるはずもなく、

  • 血と束縛と   第22話(3)

    「今日の会合は、その花見会の打ち合わせのためだ。いろいろと準備しておきたいものもあるしな。せっかくここまで足を伸ばしたんだから、いつもとは違う人間と一緒に歩きたかった。まあ、あんたにしてみれば、強面のでかい男たちに囲まれて、多少息苦しいだろうが」 ここで頷くわけにもいかず、和彦は曖昧な表情を浮かべる。逃げ場を探すように視線をさまよわせ、再び桜の木を見上げていた。「この世界のことをほとんど知らないぼくが、あなたの隣を歩いていていいのか、という気もします……」「知らないから、いいんだ。わしは話し好きだ。いままでは千尋がいたんだが、あれもすっかりこの世界のことを知った気になって、今ではわしの長い話を聞きたがらん」「千尋らしいです」「これからは、実地でいろいろと覚えさせる時期だ。わしが元気なうちにな」 ここで守光が前方を指さす。茶屋が出ており、すでに総和会の人間が席を取っていた。「少し座って休憩しよう」 守光の言葉に、和彦は素直に頷いた。** 板の間の窓を開け放った和彦は、手すりを掴んで思いきり身を乗り出す。山間にある旅館だけあって周囲を木々に覆われ、自然のカーテンとなっている。 フロントで部屋の鍵を受け取って、きれいに手入れされた庭の小道を歩き、そこから階段を上がり、離れに続く渡り廊下を通るという、少し手間のかかる移動を経て、この部屋に辿り着いた。手入れの行き届いた和洋室で、洋間に置かれたベッドはダブルだ。周囲の環境もあって、落ち着いてゆっくりと過ごせそうだ。 ちなみに、庭を挟んだ向かいに、守光が宿泊する部屋がある。 露天風呂がついているという贅沢な離れの部屋を、すべて総和会で押さえてしまったのは、やはり安全のためだろう。旅館を貸切にしたようなものだ。呼ばない限り旅館のスタッフも離れには近寄らないそうで、渡り廊下を歩く人間は、ほぼ総和会の人間ということになる。 守光はささやかな観光のあと会合に出かけ、先に旅館に戻ったのは、和彦と、護衛としてつけられた男一人だけだ。旅館を出ないでくださいと言われたが、言い換えるなら、旅館内は自由に歩き回れるということだ

  • 血と束縛と   第22話(2)

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  • 血と束縛と   第22話(1)

     かぶっていた帽子を取った和彦は、髪を掻き上げる。気候のよさのせいだけではなく、春が近づいてきている証拠か、思いがけず気温が高い。歩いているうちにすっかり汗ばんでしまった。 石畳の通りを歩く人たちに目を向ければ、地元住民と観光客の違いが服装に出ているようだ。観光客は持て余し気味にコートやジャケットを腕にかけているが、地元の人たちはすでに春らしい軽装だ。 春が近づいているどころか、ここはもう春が訪れているのだ。 和彦は改めて、ここが旅先なのだと実感する。柔らかな風も、空気の匂いも、見渡せる風景も、何もかもが今暮らしている地域とは違う。 これが一人旅なら、どれだけ肩の力を抜いて楽しめただろうか――。 和彦は深刻なため息をつくと、帽子をかぶり直して歩き出す。有名な寺が近くにあるという場所柄か、通りに並ぶ土産物屋も落ち着いた雰囲気を醸し出しており、店先に出ている商品も、渋いものが多い。 特に何か買うつもりはなかった和彦だが、藍染め商品を扱う店が目につき、ついふらふらと中に入る。サングラスを外してざっと店内を見て回る。 ブックカバーが気に入り、数種類の柄を選んでから、次に扇子に目移りする。いままで扇子など使ったことはないのだが、賢吾がせっかく春に合わせて着物を一揃いあつらえてくれたこともあり、何か一つぐらい、着物に合いそうな小物を自分で揃えてみようかと思ったのだ。 和彦が扇子の一本を手に取ろうとしたとき、隣にスッと誰かが立つ気配がした。「――それは、自分で使うのかね?」 いきなり話しかけられ、飛び上がりそうなほど驚く。隣を見ると、守光が身を乗り出すようにして扇子を眺めていた。さきほどまで、和彦よりずいぶん先を歩いていたはずだが、わざわざ引き返してきたようだ。 店の入り口のほうに目をやると、スーツ姿の男たちがこちらをうかがいつつ、外で待っていた。「あっ、すみません。勝手に動き回って……」「かまわんよ。なんといってもわしは、あんたを〈観光旅行〉に連れてきたんだ。こういうところで買い物をしないと、旅行の醍醐味がないだろう」 守光から悪戯っぽく笑みを向けられ、和彦はぎこちなく応じる。

  • 血と束縛と   第21話(28)

     車が、里見の勤務先が入っている大きなビルの前を通るとき、和彦は意識して他へと視線を向けていた。出勤ラッシュの時間帯にはまだ少し早いが、歩道を歩く人の姿は次第に増えてきている。歩く人の中に里見の姿はないか、つい探してしまう。たまたま車で通りかかり、出勤している里見の姿を見ることなど、ほぼ不可能に近いだろう。それは承知のうえだ。 そして当然のように、里見の姿を見出すことはできなかった。 失望はなかった。むしろ当然のことだと受け止めたし、心のどこかで和彦は安堵もしていた。 朝早い時間から開いているというパン屋に着くと、和彦一人が店内に入る。手ぶらで車に戻るわけにもいかず、トレーとトングを手に、並んでいるパンを選ぶ。 どうせなので、本宅の組員たちの分も買っておこうと思い、目につくパンを片っ端からトレーにのせていて、ふと顔を上げる。店は通りに面しているため、ガラスの向こうを歩く人の姿が見えるのだ。「えっ……」 和彦は小さく声を洩らし、硬直する。通りを歩く、自分そっくりの顔立ちをした男が視界に飛び込んできた。その男は銀縁の眼鏡をかけており、怜悧な雰囲気に拍車をかけている。 見間違うはずもなく、それは和彦の兄――英俊だった。 あまりに予想外の人物を見かけ、心臓が止まりそうな衝撃を受けた和彦だが、数瞬あとには激しく鼓動が打ち始める。動揺から、足が小刻みに震えていた。 英俊に見つかるかもしれないという本能的な恐れから、棚の陰に身を隠す。 なぜこんな場所に英俊がいるのかという疑問は、すぐに氷解した。 英俊に続いて和彦の視界に入ってきたのは、里見だった。小走りで英俊に追いついて何事か話しかけ、英俊が歩調を緩める。二人は並んで歩いていった。たったそれだけともいえるが、和彦にとっては強烈な光景だった。 里見と英俊はかつて、同じ省庁の課内で働く上司と部下だったが、里見は現在、民間企業に勤めている。なのに朝から二人が一緒にいる理由が、和彦には思いつかなかった。 里見と佐伯家は現在もつき合いがある。それは事実として受け止められる。里見が、和彦たちの父親の命令に逆らえないという立場も、理解できる。なのに、里見と

  • 血と束縛と   第5話(23)

    ** 三田村がいたなら、こんな場所に和彦が一人で出向くことを、絶対阻止していただろう。だが、その三田村は側にいない。  あんたが悪いのだと、和彦はグラスに口をつけながら、ひっそりと心の中で呟く。同時に、大きな窓の向こうで花火が打ち上がり、店内で歓声が上がる。男らしい歓声が。 「――先生、楽しんでますか?」  和彦が腰掛けているソファの背もたれに腕をかけ、中嶋がひょいっと背後から身を乗り出してくる。和彦は、手にしたグラスを軽く掲げて見せた。  当然のように中嶋が隣に座ったので、ここぞとばかりに疑問をぶつける。

    last updateLast Updated : 2026-03-20
  • 血と束縛と   第4話(33)

    「……ダイニングには、誰かいるのか?」 「人目が煩わしいなら、朝メシはここに運ばせる。先生が過ごしやすいようにしてやれと、組長に言われているからな」  三田村が立ち上がろうとしたので、和彦は咄嗟にジャケットを掴んで引き止めた。驚いた様子もなく三田村は、和彦の顔と、ジャケットを掴む手を見てから、畳の上に座り込んだ。 「どうかしたか、先生」 「確かめたいことがある」  和彦は体にかけていた布団をめくると、寝ている間にはだけた浴衣を直しもせず、三田村の手を取って自分の胸元に押し当てさせた。三田村は表情を変えなかったが、胸元に触れる手はピクリと震

    last updateLast Updated : 2026-03-20
  • 血と束縛と   第5話(27)

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    last updateLast Updated : 2026-03-20
  • 血と束縛と   第5話(24)

     和彦が何を見ているのか気づいたのか、中嶋が顔を綻ばせた。 「いかにも、でしょう?」  そう声をかけられ、思わず和彦は頷く。見るからに水商売風の男たちが、一つのテーブルについて談笑していた。そこだけ見ると、ここがクラブとはいっても、ホストクラブの光景を切り取ったようだ。 「同じビルの中にあるホストクラブのホストたちですよ。と、一人は経営者ですけどね。――俺の先輩です」  パスタを食べながら首を傾げると、中嶋は照れたような表情を浮かべる。 「大きな声じゃ言えませんけど、俺、十代の頃から、ホストクラブで働いていたんですよ。そして、その店を仕切

    last updateLast Updated : 2026-03-20
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