LOGINヤクザの実態も謎が多いが、この男もまた、謎が多い。気にはなるが、うっかり踏み込むつもりはなかった。
「その道を左に曲がってくれ」 和彦の指示通りに車が左に曲がり、すぐに、懐かしい建物が視界に飛び込んでくる。「ここですか?」「ああ。来客用のスペースが空いているから、そこに車を停めたらいい」 駐車場に車が入り、エンジンが切られる。秦はすぐに車を降りようとしたが、シートベルトを外した和彦は、すぐには動けなかった。「先生、大丈夫ですか。顔色が少し悪いですよ」 シートに座り直した秦が身を乗り出し、顔を覗き込んでくる。和彦はゆっくりと息を吐き出して頷くと、途中で買った手土産を持って車を降りた。「ここがどういった場所なのか、聞いてもいいですか?」 駐車場を歩きながら秦に問われ、和彦は小さく声を洩らす。秦に『頼みごと』をしたものの、ある場所に一緒に来てくれとしか言わなかったのだ。「……ここは、ぼくが半年ぐらい前まで住んでいたマンションだ。気に入ってい「それと、旅先でおもしろい話をしてやると言われていたんだ。あんたと千尋も知らない話を……」 ほお、と賢吾は声を洩らす。どんな話かと聞かれなかったが、隠すほどのことではないので、和彦は端的に告げた。「昔会長は、ぼくの父親が抱えた揉め事を解決したんだそうだ。会ったのはほんの数回らしくて、ぼくのことを調べたときに、父親のことを思い出したと言っていた」 守光が言っていたことは本当だったようだ。賢吾は驚きを隠そうともしなかった。しかしすぐに、意味ありげに目を眇めた。「本当に、食えないジジイだ。千尋が先生とつき合い始めて、それで俺が先生に目をつけたときも、オヤジは何も言わなかったんだが、そのときにはいろいろと企んでいたんだろうな」 どんな企みなのか気にはなったが、尋ねることはできなかった。なんとなく、毒気が強そうな話を聞かされそうだと思ったからだ。 自覚もないまま和彦が軽く眉をひそめていると、揶揄するように賢吾が問いかけてきた。「父親のことを聞いて、長嶺との見えない縁を感じたか?」「……ああ、嫌になるほど物騒な縁を」「気分転換がしたいからという理由で、総和会会長との旅行について行った先生が、物騒なんて言葉を言うのか?」 賢吾の物言いは柔らかだが、和彦の神経をチクチクと刺激してくる。愚鈍ではないつもりの和彦は、賢吾が言外に含んだ皮肉を感じ取っているし、自身の罪悪感の痛みであることも知っているのだ。「もし、ぼくが事前に旅行のことを相談したら、あんたは引き止めたか?」 上半身裸のまま賢吾が目の前を通り過ぎる。惜しげもなく晒された大蛇の刺青に和彦の目は釘付けになったが、じっくりと眺める前に隣の部屋へと行き、姿が見えなくなる。ただ、賢吾の声だけは耳に届いた。「しっかりオヤジを骨抜きにしてこいと言って、送り出しただろうな」 和彦は苦笑しつつも、賢吾らしい――いや、長嶺の男らしい発言だと思った。長嶺の男は、三人とも見事に食えない。 賢吾が再び姿を見せたとき、すでにセーターを着込んでおり、大蛇の刺青を見ることは叶わない。それを残念だと思った和彦は、次の瞬間
**** 長嶺の本宅に足を踏み入れたとき、和彦は奇妙な違和感を覚えて一瞬戸惑っていた。玄関の風景も、出迎えてくれる組員たちの顔ぶれも変わっていない。だが、何かが変わっていると感じた。 持っていたコートとアタッシェケースを組員に預けて靴を脱ぐ。廊下を歩きながら中庭に目を向けると、きれいに手入れされた庭木たちが、ずいぶん成長しているように感じた。春が近づきつつある証か、色づき始めている。 ほんの何日か本宅へ立ち寄らなかっただけなのだが、こうして中庭の様子を目にすると、ずいぶん足が遠のいていたように思えてくるから不思議だ。 そこで和彦は、自分が感じた違和感の正体をわかった気がした。 総和会会長の〈オンナ〉という立場になって初めて、この家を訪れたのだ。後ろめたさと羞恥が、和彦の心をざわざわと落ち着かなくさせる。覚悟を決めてきたはずだが、それでも、冷静ではいられない。 夕食の準備で慌しいダイニングを素通りして、まっすぐ賢吾の部屋へと向かう。 今日は、賢吾から呼ばれて本宅に立ち寄ったわけではない。クリニックからの帰りに、和彦が言い出したのだ。自分なりに気持ちが落ち着いたと判断し、これ以上、賢吾と顔を合わせない不自然さに耐えられなくなったためだ。 賢吾は、ただ和彦からの反応を待っていた。大蛇の化身のような男らしく、じっと身を潜め、しかし獲物から目を離すことなく――。 冷たい蛇の目が脳裏に浮かび、和彦は小さく身震いする。たまらなく賢吾が怖いくせに、同時に胸の奥では、無視できない妖しい衝動がうねっていた。 賢吾の部屋の前まで行き、呼吸を整えてから声をかける。中からの返事を待って障子を開けると、賢吾はちょうどジャケットを脱いだところだった。反射的に歩み寄った和彦は、賢吾の手からジャケットを受け取る。「帰ったばかりなのか?」「いや、三時頃には戻っていたんだが、客と会ったりしていたら、なんとなく着替えるタイミングをなくしてな」 賢吾と自然な会話を交わせるだろうかと、頭であれこれ考えていたのだが、いざとなると身構えるまでもない。いつも通りの会話を交わせていた。和彦はほっと息をつくと
『だけど、君が佐伯家に生まれなければ、わたしは知り合うことはできなかったし、近い存在になることもできなかった。君が佐伯家の中で抱えた人恋しさに、わたしがつけ込んだとも言えるが』「見かけによらず、悪い大人だったよ、里見さんは」 受話器を通して里見の笑い声が聞こえ、つられるように和彦も口元に笑みを浮かべる。それだけで、塞ぎ込んでいた気持ちがわずかだが軽くなった気がした。里見と話すことで、やはり気持ちは舞い上がり、正直、嬉しいとも思ってしまう。この気持ちはどうしようもなかった。 すると、今しかないというタイミングで里見が切り出した。『――少しだけでも、佐伯家に顔を出す気はないのか?』「ぼくが身を隠しながらも、きちんと仕事をして生活していると、澤村やあなたを通して知っても、それでも佐伯家がぼくに会おうとしている理由がわかるまで、顔を出す気はない。少なくとも、ぼくから手の内を晒すマネはしない」『だったら、わたしとは?』「そう言われると、なんだか怖いな。のこのこと出かけていったら、そこに兄さんがいたりして――」『わたしは、騙まし討ちのようなことはしないよ。君からの信頼をなくすのは、何より怖い』「……口が上手いな」『英俊くんとは今、官民共同のプロジェクトを手がけていて、よく顔を合わせるんだが、そのたびに君のことを聞かれるんだ。電話で話しただけだからと誤魔化すんだが、それが気に食わないみたいでね。早く和彦と会って、首に縄をつけてでも佐伯家に連れて来い、と言われている』 見た目も内面もクールな英俊だが、ときおり底知れない激しさを見せることがある。和彦は、その英俊の激しさの一番の被害者だと自負していた。どうやら、相変わらずのようだ。 それより和彦が気になったのは、里見が英俊と今も顔を合わせているという発言だ。つまり、二人が一緒に歩いていた姿には納得できる理由があったということだ。「兄さんが、里見さんの職場に出向くことはあるのかな?」『あるよ。特に今は、仕事の引継ぎのこともあるから』「引継ぎって……」『国選出馬の本格的な準備に入る前に、プ
かつて守光は、総和会会長の立場では、長嶺組の〈身内〉の処遇について命令はできないと言った。今ならこれが、言葉のうえだけの建前でしかないと理解できる。命令はしなくとも、和彦が選択するよう仕向ければいいだけの話なのだ。そして和彦は、選んだ。 男たちの思惑に搦め取られていくうちに、果たして自分はどこに行き着くのか。 考えたところでわかるはずもなく、それがまた和彦の気分を沈み込ませる。何か、しっかりとした支えに掴まっていなければ、今度こそ気持ちを立て直せない危惧すら抱いてしまう。 一度は横になりながらも眠れる心境ではなく、結局和彦は寝室を出る。コーヒーでも入れようかとキッチンに行きはしたものの、カップを出そうとしたところで動きを止める。 一瞬にして芽生えた衝動を必死に抑えようとしたが、できなかった。手早く服を着替えると、財布と部屋の鍵を掴んで玄関を出た。 部屋に引き返したほうがいいと、頭の片隅で弱々しく理性の声がする。しかしそんな声で足を止められるはずもなく、和彦はエレベーターに乗り込む。 マンションを出たときには、これが最初で最後だからと、自分自身に言い訳をしていた。 周囲をうかがいながら小走りで向かったのは、近くのコンビニだった。正確には、コンビニの外に設置された公衆電話に用がある。家から電話をかけると、盗聴器を通して会話を聞かれる恐れがあった。 つまり、組の人間に聞かれたくない電話をかけたいのだ。 慎重に辺りを見回してから受話器を取り上げる。電話番号は、携帯電話に登録したり、メモを手元に残しておくわけにもいかず、頭に叩き込んであった。 番号を押し、呼び出し音を五回聞いたところで受話器を置こうと、心の中で決める。これで、もう縁は切れたのだと諦められると、和彦は思った。 しかし決意とは裏腹に、〈彼〉との縁はそう脆いものではなかったようだ。 三回目の呼び出し音が鳴る前に、あっさりと彼が――里見が電話に出た。『もしもし?』 電話越しに里見の声を聞いた瞬間、和彦の胸は切なく締め付けられる。自分が高校生だった頃の感覚に引き戻されるが、その一方で、自分の今の生活が脳裏を過ぎる。先日里見と会ってから、さほど日は
肩にかかった守光の手に、力が加わる。抱き寄せられた和彦は、抗うこともできず守光におずおずともたれかかった。 守光のもう片方の手があごにかかり、持ち上げられる。初めてこんなに近くから、守光の顔を見ることになる。 端整な容貌の老紳士が、総和会という巨大な組織の頂点に君臨するには、相応の理由がある。見た目がいかに穏やかであろうが、守光の内面がそうであるとは限らない。 守光は、じわじわと本性を露わにしていき、和彦を呑み込んでいく。「あんたは、自分が逆らえない力に敏感だ。そして、その力に対して巧く身を委ねられる。わしに対してもそうであると、考えていいかね?」 目隠しの布一枚分の理屈が、剥ぎ取られる瞬間だった。もう必要ないと守光は確信しているのだ。そして和彦は――。 守光の目を見つめたまま、ゆっくりと唇を塞がれた。 昨夜知ったばかりの唇の感触に、他の男たちには感じない緊張を強いられる。口づけの感覚を分かち合うというより、自分の身を差し出す感覚に近い。一方的に貪られるのだ。 唇を吸われてから、歯列をこじ開けるようにして舌が口腔に入り込む。その間も和彦は、守光の目を見つめ続けていた。賢吾は目に大蛇を潜ませているが、守光の場合は何も捉えられない。冷たい檻が存在していて、その奥に怪物が棲んでいるのだろうかと想像してしまう。守光の怖さは、正体の掴めなさにあるのだ。「んっ……」 口腔の粘膜をじっくりと舐め回されたとき、和彦はゾクゾクするような疼きが背筋を駆け抜ける。 顔を見つめ合いながら唇を重ねて、ようやく和彦は実感していた。守光もまた、長嶺の男なのだと。堪らなく怖い存在である守光に、心と体のどこかで強烈に惹かれるものがあるのだ。もしかすると、そう思い込むことで、この世界での自分の身を守ろうとしているのかもしれないが――。 促されるまま舌を差し出し、守光に吸われる。そうしているうちに緩やかに舌を絡めながら、守光の唾液を受け入れる。守光は目を細めて一度唇を離し、この行為の意味を囁いてきた。「――あんたは今から、長嶺守光の〈オンナ〉だ。いいな?」 まるで暗示にかけられたように和彦は頷く。頭の中
「おはよう。まだ横になっていてもかまわんよ。わしはこれから外を散歩して、露天風呂に入ってくる。朝食はそれからだ」 そうは言われても、起き抜けに強烈なものを見てしまい、眠気など一気に吹き飛んでしまった。 いままで守光を畏怖していたが、それは総和会会長という肩書きに対するものだったのだと実感する。九尾の狐の刺青を目にして、長嶺守光という男の一端に触れ、改めて畏怖していた。その一方で、人間としての輪郭が見えてきて、心惹かれるものがあった。 守光はかつて和彦を、抗えない力に対して逆らわず、巧く身を委ねると表現したことがある。自覚がないまま、この本能を発揮した結果が、この心境の変化なのかもしれない。「ぼくも――」 声を発した自分自身に驚きつつも、和彦は言葉を続ける。「ぼくも、散歩にご一緒していいですか?」 守光は口元に薄い笑みを浮かべて頷いた。「大歓迎だ、先生」** シートに体を預けた和彦は、ウィンドーの外の景色をぼんやりと眺めていた。駅からの景色は見慣れたもので、陽射しが降り注いではいるが、通りを歩く人はまだ厚着が多い。ほんの数時間前まで滞在していた場所とは明らかに気温が違う。 ただ、見慣れた景色に和彦はほっとしていた。帰ってきたのだと実感もしていた。 状況に流されるように守光に同行した一泊旅行に、最初はどうなることかと危惧を抱いていたが、もうすぐ終わるのかと思うと、少しだけ名残惜しさがあった。 緊張はしたし、終始人目を気にして居心地の悪い思いもしたが、その分、総和会の男たちに丁寧に接してもらい、気遣ってもらった。特に、守光には。 懐柔されつつあると、頭の片隅で冷静に分析はしているのだ。和彦など、裏の世界では小さな存在だ。それでも大事にされるのは、組織に対して協力的な医者であることと、長嶺の男たちと関係を持っているからだ。 そんな和彦を男たちは容赦なく、裏の世界の深みへと引きずり込み、逃すまいとしている。 怖くはあるが、嫌ではないと感じている時点で、この世界にしっかりと染まっている証だ。「――さすがに疲れただろう」 外に目を遣ったま
「秦との間に、何があったのか聞いていいか? もしかして、鷹津と手を組んでいるなんてことは――」「多分、それはない。だけど、ぼくと秦が少し面倒なことになっているのは確かだ。……油断したぼくの責任だ」「その先生を護衛するのが、俺たちの仕事だ」 やっと顔を上げられた和彦は、生まじめに応じる三田村にそっと笑いかけてから、柔らかく唇を啄ばむ。三田村は鋭い眼差しのまま、優しい手つきで髪を撫でてくれた。「困っているなら、正直に言ってくれ。そうなると、組長の耳にも入ることになると思うが、確実に厄介事は片付く。総和会の中嶋に話を通
ぐうっと内奥深くにまで欲望を埋め込んだ千尋が、一度律動を止め、和彦の両足の間に手を差し込んでくる。中からの刺激によって和彦のものは、はしたなく透明なしずくを滴らせながら、反り返って震えていた。 もっと反応しろといわんばかりに扱かれ、和彦は懸命に嬌声を堪える。和彦のその反応に、千尋はひどく興奮したようだった。緩やかに腰が動かされ、狙い澄ましたように最奥を突かれる。 室内に、二人の妖しい息遣いと、湿った淫靡な音が響いていた。 そこに突然、障子の向こうから声がかけられた。「――先生、起きているか」 三田村だった。ビクリと体を震わせた
「こういうとき、見舞いに何を持ってきたらいいかわからないんだ」「だから、ワインなのか?」「気に入らないなら、違うものを買い直して――」 三田村が立ち去ろうとしたので、慌てて和彦は玄関に引き込む。すかさず三田村に片腕でしっかり抱き締められた。「これでよかったか?」「ちょうど今、一人でワインを飲んでたんだ。だけど――こうして会いにきてくれただけで、嬉しい」 和彦がそう言うと、背にかかっていた三田村の手が後頭部に移動し、優しい男には似つかわしくない動作で後ろ髪を掴まれる。それが三田村の激しさを物語っているようで、妙な表現だ
** 障子を通して、朱色を帯びた陽射しが部屋に差し込んでいるのを、薄目を開いた和彦は初めて知る。眠り込んでいるうちに、夕方になったのだ。 もうそろそろ体を起こせそうだと思った次の瞬間、ある気配を感じて体を強張らせる。部屋にいるのは、和彦だけではなかった。いつの間にか足元に、人の姿があったのだ。 反射的に体を起こそうとした和彦だが、獣のように飛びかかられるほうが早かった。布団の上に押さえつけられながら、覆い被さってきた相手の顔を見上げる。 和彦としては、安堵の吐息を洩らせばいいのか、呆れてため息をつけばいいのか、微妙な相手







