Masuk首を傾げて返事を待つ賢吾の顔をまじまじと見つめてから、とうとう和彦は笑ってしまう。実家を見せられ、なんの嫌がらせかと思ったが、そうではないとわかった。
賢吾は、和彦の心の内を見たかったのだ。今の生活をどう感じているか、和彦が本当に佐伯家を忌避しているかどうか。もちろん、それだけではないだろう。受け取り方によっては、これは恫喝にもなりうる。ヤクザの組長に、実家の場所と状況を把握されているというのは、ある意味で恐怖だ。 賢吾が声をかけ、車が走り出す。実家前を通り過ぎるとき、スモークフィルムの貼られたウィンドー越しに眺めてはみたが、和彦の中で懐かしいという感情が込み上げることはなかった。それどころか、門扉を開けて家族の誰かが姿を現すのではないかと、少し緊張する。 すぐに実家は見えなくなり、肩から力を抜いた和彦はシートに体を預ける。賢吾は何も言わず、再び手を握り締めてくれた。*
*
賢吾にとって、〈仕事で出かけるついで〉に和彦をドライブに誘うというのは、単なる口実だったのだろう。
書類に目を通「言葉でいくら、先生は大事で可愛いオンナだと言っても、こちらの気持ちのすべてを伝えきることはできないだろう。言葉は、偽ることもできるし、取り繕うこともできる。だったら、それ以外の方法が必要だ。先生の欲しがるものを与えて、先生が逃げ出せないよう立場や情で雁字搦めにもして……、だが、それでもまだ足りない」 賢吾の手が肩にかかり、呼応するように千尋が片手を差し出してくる。この場の空気に呑まれてしまった和彦は、何も考えられないままその手を取り、軽く引っ張られてその場に座り込んだ。「先生は冗談だと思っただろうが、前に、俺の養子になるかと言ったのは、本気だ。――どうやら同じ口説き文句を、別の男も言ったようだが」 賢吾のやや皮肉交じりの言葉に応じるように、守光が口元に淡い笑みを湛える。「そういう形式的なことはあとで考えるとして、まずは先生に、自分がどれだけ特別な存在なのか、体で実感してもらわないと」 いつになく興奮した様子で、両目に強い光を宿した千尋がのっそりと和彦に迫ってくる。反射的に身を引きそうになったが、背後から賢吾に抱き締められて捕われる。「先生は、俺たちにとって、長嶺組にとって、俺個人としてはあまり嬉しくないが、総和会にとっても特別だ。特別な、大事で可愛いオンナだ。誰も先生の代わりにはならない。先生は無力なんじゃない。優しいから、与えられた力を振るえないだけだ。だがそれすら、俺たちにとっては愛しい」 耳元で賢吾に囁かれながら、千尋に唇を吸われる。和彦は、賢吾がどうしてこんなことを言うのか、薄々とながら理由が推測できた。もともと賢吾なりに、和彦を気遣ってはいたが、御堂の復帰によって、その気遣いの目的は、より明確なものとなったようだ。 オンナという〈立場〉ではなく、〈生き方〉として受け入れろと、傲慢な男たちは強引に、しかしそれ以上に淫らに迫ってくる。「んっ……う」 千尋にあごを持ち上げられ、唇が一層深く重なる。熱い舌が性急に口腔に押し込まれると、和彦は拒めない。眩暈がするほど間近に千尋の両目があり、覗き込んでいるうちに、狂おしいほどの欲情に呑まれてしまいそうな危惧を覚える。千尋だけではない。視界
「今、広間のほうで、みんな集まって宴会してるんだ。さすがに先生にも顔を出せなんて言わないから、ここに晩メシを運ばせようか? 俺、つき合うから」「何言ってるんだ。長嶺組の跡目を独占するわけにはいかないだろ。ぼくは、一人でゆっくり過ごさせてもらうから、お前は行ってこい」 一緒にいてほしいという言葉でも期待していたのか、不服そうに唇を尖らせた千尋だが、和彦のほうから唇を吸ってやると、ちらりと笑みをこぼす。「先生、機嫌よくなったみたい」「今なら、お前の多少のわがままでも、笑って受け流せそうだ」「受け止めるんじゃなくて、受け流すんだ……」 離れがたい様子の千尋だったが、和彦が促すと、渋々といった顔で立ち上がる。「オヤジたちには伝えておくから、ゆっくり晩メシ食ったら、風呂に入るといいよ。大浴場からだと、もっとよく海が見えるらしいし」 そう言い置いて千尋が部屋を出て行く。再び一人となった和彦は立ち上がると、窓を開け、海と夕日という贅沢な組み合わせに見入る。そうしていると、千尋が伝えてくれたらしく、食事が運ばれてきた。 一人での食事というのは久しぶりだった。本部だろうがクリニックだろうが、食事のときには、常に誰かが側にいる状態だ。そのことを疎ましいと感じることはなかったが、たまには完全に一人というのも気楽でいいと、刺身の美味しさに感心しつつ和彦は思う。 食事を終え、膳を下げてもらってから、テレビのニュース番組を漫然とチェックしていたが、大事なことを思い出し、慌てて浴衣に着替えて大浴場に向かう。部屋に露天風呂は付いているが、こういうときでもなければ広い風呂に入る機会はない。 予想した通り、和彦以外に人の姿はなく、おかげでゆっくりと、湯と、大浴場の窓からの景色を堪能することができた。堪能しすぎて、危うく湯あたりを起こしそうになったぐらいだ。 急いで部屋に戻る必要もないため、和彦は大浴場を出たその足で、今度はラウンジに向かう。 オレンジジュースを飲みながら、体の火照りを冷ます頃には、外はすっかり暗くなっていた。空には星が輝いているが、海には漆黒の闇が広がり、その闇に見入ってしまう。「――部
何より和彦には、鷹津に関して、誰にも言えない後ろめたさがある。 ぎこちなく息を吐き出し、どうにか動揺を静める。「押しかけたというより、張り込んでいたところを、見咎められたようだ」「それって、先生が心配で?」 そう言った千尋の声には、わずかな嘲笑の響きがあった。子供のような無邪気さを装っていても、こういうところは賢吾や守光にそっくりだと感じる。「ぼくの姿がマンションや本宅から見えなくなって、様子が気になったみたいだ。一応、ぼくの番犬としてつけられているからな。仕事のつもりだったんだろう」「すごい勢いで、鷹津と第二遊撃隊隊長の間に割って入ったらしいね。先生、荒事は苦手なのに」「――……腹が立ったんだ。勝手なことをした鷹津に」 千尋がようやく顔を上げ、心の奥底まで突き通してくるかのような強い眼差しを向けてきた。「優しいよね、先生」 どういう意味なのかと、和彦は首を傾げる。千尋は答えをはぐらかすようににんまりと笑った。「でもさ、前から気になってるんだけど、先生と鷹津って、会ったらどんなこと話すの?」 和彦は、これまでの鷹津とのやり取りを思い返してから、顔をしかめた。「皮肉と嫌味を言い合っている……」 予想はできたが、千尋は呆れたように和彦を見る。「そんな奴と会っていて楽しい?」「仕方ないだろ。あの男の性格は捩くれ曲がってるんだから」「まあ、鷹津の性格が難ありなのはわかる。俺、あいつ嫌いだし。でも先生は――気が合ってる感じ」 そんなわけないと答える声は、我ながら不自然なほど硬かった。足元に視線を落とし、揺れる海面を見つめる。千尋に表情を観察されたくなかった。「先生と鷹津のこと、今は我慢してるけど、もし、あの男のせいで先生が危険に晒されるようなら、俺は自分の意見を、オヤジやじいちゃんにぶつけるし、呑んでもらうから」 千尋の淡々とした口調から、これ以上ない本気を感じ取る。視線を上げた和彦は、真摯で鋭い眼差しを正面から受け止める。賢吾や守光のように、得体の知れない怪物が潜む目だ。
駐車場に停まっているのは長嶺組と総和会の車だけで、警護する者たちにとっても、動きやすい環境かもしれない。 部屋に案内された和彦はすぐにダークスーツから着替える。楽なポロシャツ姿になって一心地ついていると、隣の部屋で着替えを済ませた千尋が戻ってくる。今日はもう長嶺組の跡目としての仕事はないのか、Tシャツにハーフパンツという、和彦以上にラフな格好となっている。「先生、砂浜に行こうよ」「そういえば、散歩すると言ってたな。あまり歩くようなら、ちょっと遠慮したいんだが……」 ニヤリと笑った千尋が柔らかく陽射しを通す障子を開けると、海が視界に飛び込んでくる。さらに窓を開け放つと、潮の匂いを含んだ爽やかな風が室内に吹き込む。その風に誘われるように和彦は立ち上がり、窓に歩み寄る。意外なほど近くに砂浜があった。 ここから見ているから一人で行ってこいと言いたかったが、散歩を待ちわびている犬のような眼差しで千尋に見つめられると、車中で約束していたこともあり、頷くしかなかった。 護衛もついてくるかと思ったが、意外なことに千尋と二人で悠々と宿を出ることができた。その理由は簡単で、宿の外を長嶺組と総和会の人間が見張っており、関係者以外は迂闊に近づくことできないのだ。「護衛にぴったり張り付かれるより、ずっと気楽じゃない?」 ビーチサンダルをペタペタと音をさせて歩きながら、こともなげに千尋が言う。「まあ……。でも大変だな、この暑い中」「俺とオヤジが動くだけならそうでもないけど、じいちゃんがいるからね。嫌でもピリピリする」 次の瞬間、千尋が歓声を上げて駆け出す。砂浜に出ると、ビーチサンダルを脱ぎ捨て、さっそく波打ち際に近づいた。「本当に犬みたいだな……」 千尋のはしゃぎっぷりについ呟いた和彦だが、無意識のうちに笑みをこぼす。千尋のビーチサンダルを拾い上げて砂の上に腰を下ろす。 海水に足を浸してご機嫌の千尋を眺めていて、ふと気になって周囲を見回すと、木や岩の陰に身を潜めるようにしてこちらを見ている男たちの姿があった。「…
おかげで、次に目を開けたとき、すぐには状況が認識できなかったぐらいだ。 笑っている千尋に間近から顔を覗き込まれ、優しく頬を撫でられる。「もうすぐ着くよ」「……どれぐらい眠ってた?」「一時間も目を閉じてなかった。本当はとっくに着いてるはずなんだけど、渋滞に捕まったからね」 まだ夢うつつの状態で説明を聞きながら身じろいだ拍子に、千尋の肩に頭をのせていることに気づく。「すぐに起こしてよかったのに。重かっただろ……」「先生が疲れてるの、俺とオヤジのせいだから、これぐらい大したことないよ」 また昨夜の行為が蘇ってしまい、羞恥のため和彦は何も言えない。千尋も刺激されるものがあったのか、和彦の唇を軽く啄ばんできた。 和彦はシートに座り直し、外の景色に目を向ける。海沿いの道を走っていたはずが、いつの間にか木々が生い茂った風景へと変わっている。和彦ががっかりしたように見えたのか、笑いながら千尋が教えてくれた。「次の宿も、海のすぐ側なんだ。小さな砂浜があるんだけど、きれいで静かだよ。もちろん、遊泳OK」「お前は、海で泳ぐのはもちろん、日光に背中を晒すのも厳禁だからな」「……わかってるよ」 露骨に千尋が残念そうな声を出すので、条件反射のように和彦はフォローしてしまう。「散歩ぐらいならつき合うから」 途端に千尋が目を輝かせ、和彦の手をきつく握り締めてきた。 千尋が言っていた通り、五分もしないうちに車は駐車場――というより、単なる空き地に入った。車を降りた和彦は周囲を見回して戸惑う。建物らしきものが何も見えなかったからだ。あるのは、木々ばかりだ。森林浴にはうってつけの場所だなと思ったが、もちろんそんなことをするために、男たちもダークスーツに着替えたわけではないだろう。「――先生」 賢吾の声に呼ばれて振り返ると、守光と並び立ってこちらを見ていた。守光も痩身をダークスーツで包んでおり、和服姿を見慣れた目には新鮮に映る。 二人とも黒がよく似合った。禍々しさを感じさせるほどに。
**** 翌朝、和彦の心情としては心ゆくまで惰眠を貪りたいところだったが、神経が高ぶったまま眠りについた弊害か、外が明るくなり始めた頃にはすっかり目が覚めてしまった。 まだ眠っている賢吾と千尋に恨みがましい視線を向けてから、洗面所でさっさと身支度を整えると、静かに部屋を出る。二度寝するには目が冴えすぎてしまい、だったらせめて、早朝の外の空気をたっぷり吸い込んでおこうと思ったのだ。 感心なことに、賢吾の部屋の側には長嶺組の組員が待機しており、和彦の姿を見るなり足早に歩み寄ってきた。「どうかしましたか、先生?」「目が覚めたから、朝の散歩をしようかと思って」「でしたら、護衛の者を呼びますから、少しお待ちください」 そこまでしてもらうようなことではないと、和彦は慌てて制止する。しかし組員の立場としては、和彦を一人で外に出すわけにはいかないだろう。どうしても散歩に行きたくて仕方ない、というわけでもないため、和彦は希望を変えた。 宿の別フロアにある展望室へと移動し、コーヒーを飲みつつ、海を眺める。散歩に出たところで、昨夜の行為のせいもあって、どうせ宿の周囲を歩くのが精一杯だっただろう。それを思えば、こうしてゆったりと過ごすのも悪くない。当然、この状況にあっても、組員が側に控えているのだが。 朝刊を読み終えた頃に、朝食の準備ができたと言われ、守光が宿泊しているという部屋に案内される。 すでに膳が並べられ、守光だけではなく、賢吾と千尋も席についている。長嶺の三世代の男たちが揃っているわけだが、ここに自分が加わることに、いまさらながら和彦は強い違和感を覚える。「どうした、先生」 和彦の逡巡を素早く感じ取ったのか、賢吾に声をかけられる。なんでもないと首を横に振り、急いで千尋の隣に座った。 朝食の席の雰囲気は、和やかの一言だった。 三世代の男たちが穏やかな表情と口調で、他愛ない世間話をしており、たまに話を振られる和彦も、自然に受け答えることができる。 こうして見ると、ごくありふれた家族の一場面なのだが――。
察するものがあり、和彦は反射的に立ち上がろうとしたが、遅かった。中嶋に腕を掴まれて引っ張られる。「おいっ……」「先生は、俺を慰めるのが得意でしょう」「いつ、そうなった」「先日、先生に慰めてもらったときに」 悪びれた様子もない中嶋を睨みつけた和彦だが、本気で怒るつもりはない。こういう甘さを、中嶋に――ヤクザに見透かされてしまっているのだから、勝ち目があるはずもなかった。 空になったペットボトルを傍らに置くと、待っていたように中嶋に抱き寄せられる。和彦はおとなしく中嶋の両腕の中に閉じ込められ
「先生?」 ふいに唇を離した中嶋に呼ばれた和彦は、自分の中の疼きを自覚して、うろたえる。思わず視線を伏せると、そんな和彦に何かを刺激されたように、中嶋がまた唇を寄せてくる。和彦は顔を背けようとしたが、簡単に唇を塞がれていた。 熱心に唇を吸われているうちに、和彦の脳裏に秦の言葉が蘇る。伏せていた視線を上げると、中嶋と目が合い、そのまま視線が逸らせなくなった。 和彦は、中嶋の首の後ろに手をかけると、秦にされたキスを忠実に再現する。今度は中嶋がうろたえた素振りを見せたが、それも一瞬だ。次の瞬間には、和彦のキスに応え始めていた。「んっ&hellip
リビングのテーブルには、真っ赤なリボンが結ばれた箱が置いてあった。どうやら、クリスマスプレゼントらしい。 一度はテーブルの前を素通りして、コートとマフラーを置いてこようかとも思った和彦だが、コロンの残り香に搦め捕られたように足が止まり、結局、テーブルに引き返す。「……開けるのが怖いな」 じっと箱を見下ろしながら、ぼそりと呟く。 プレゼントの贈り主は、箱の上にしっかりとカードを残していた。『先生へ』という短い一言と、贈り主である男の名が記されている。 長嶺組組長という物騒すぎる肩書きを持ったサンタクロ
それでも今は、優しい錯覚に浸っていたい。 三田村に促され、サンドイッチを手に取る。和彦が眠っている間に、近くのファストフード店まで三田村が買いに行ってくれたものだ。具がたっぷりの大きなサンドイッチとスープは、和彦の普段の朝食としては十分すぎる量だ。「昼まで一緒にいられるんだろ?」 サンドイッチを頬張る合間に問いかけると、和彦を安心させるように三田村は目元を和らげる。「ああ。もうそんなに時間はないが、先生の行きたいところがあればつき合う」「別に今日、どうしても行きたいってところは……ないな。あんたこそ