Masuk目の前に里見がいるということが、いまだに信じられなかった。
和彦の記憶の中にある里見は、活力に溢れた二十代の青年で、当時から人好きのする魅力的な外見の持ち主だった。今は、年齢を重ねた分、包容力と知性がさらに増したように見える。まさに、紳士という表現がしっくりくる。 優しげな眼差しで和彦を見つめる癖がまったく変わっていないことに、安堵する反面、気恥ずかしいものを感じ、和彦はカップを覗き込むように顔を伏せる。「――なんだか不思議だ」 里見の言葉に、ハッとした和彦はすぐに顔を上げる。目が合うと、里見特有の優しい雰囲気に搦め捕られたようになっていた。「何、が……?」「君が、先生と呼ばれる職業に就いているなんて。わたしが知っている君は、高校の制服を着ている姿までだからな。そしてわたしは、そんな君に勉強を教えている〈先生〉だった」「里見さんのおかげだよ。ぼくが優等生でいられたのは」 昔のことを思い出したのか、里見は短く声を洩らして笑う。その拍子に前髪が額にかかり、自然念を押すように賢吾に問われ、顔を背けながら和彦は頷く。ここで一旦賢吾が体を起こし、ベッドに沈められそうな圧迫感から解放される。だが、ほっとはできなかった。顔を背けたままの和彦の耳には、しっかりと衣擦れの音が届いていたからだ。 再びのしかかられ、今度はしっかりと素肌同士が重なる。全身で感じる賢吾の体の重みと熱さに和彦は、一気に高まった高揚感から眩暈に襲われる。その間にも膝を掴まれて両足を広げられると、逞しい腰が割り込まされる。擦りつけられた賢吾の欲望は、すでに猛っていた。「先生、俺を見ろ」 傲慢に命令され、和彦はおずおずと従う。見上げた先で、賢吾は唇に薄い笑みを浮かべていた。かつては酷薄そうに見えていた笑みだが、今は違う。ひどく官能を刺激される魅力的な表情だと思った。「あっ……」 こちらの求めがわかったように、賢吾に唇を吸われる。和彦は箍が外れたように賢吾の唇を吸い返しながら、夢中で両腕を広い背へと回し、てのひらで存分に大蛇を撫で回す。口づけの合間に賢吾に問われた。「――こいつが愛しいか?」 和彦は息を喘がせながら、賢吾の目を覗き込む。背だけではなく、この男は身の内にも大蛇を棲まわせている。残酷で獰猛なくせに、蕩かしそうなほどオンナを甘やかしながら、底知れない強い執着心と独占欲を持つ生き物だ。だからこそ、己の手から離れると知ったとき、この生き物は容赦なく、オンナの首をへし折ってしまうだろう。他人の手に渡るぐらいなら、と。「そんなわけ……ない。こんな、怖いもの……」「だが、欲しいだろ?」 甘く優しい声で囁かれ、和彦は賢吾を睨みつける。しかし賢吾の唇が瞼に押し当てられると、もう抗えなかった。「……欲し、い」 指にたっぷりの唾液を絡めた賢吾が身じろぐ。予期したとおり、濡れた指が内奥の入り口をまさぐり始め、和彦は反射的に腰を揺らしていた。内奥をこじ開けるようにして指を挿入され、堪えきれず呻き声を洩らしていたが、賢吾は冷静に和彦の内を探る。 きつい収縮を繰り返す内奥から指を出し入れし、確実に入り口を解してい
反論は唇に吸い取られ、そのまま舌を絡め合う。賢吾の指が器用に動き、ネクタイを解かれ、ワイシャツのボタンを外されていく。賢吾の指がわずかに肌を掠めるだけで、鳥肌が立ちそうなほど感じてしまい、浅ましく愛撫をねだってしまいそうになる自分が忌々しい。「……そんな、気分じゃ、ない……」 ほんの一時間ほど前に会った南郷の顔がちらつき、情欲のうねりとは裏腹に、拒否感がチクリと胸の奥を刺激する。嫌でも、あの男に触れられたときのことを思い出していた。 そして、賢吾に申し訳ないと感じてしまうのだ。「生憎だが、俺は、そんな気分だ。――他の男の毒気にあてられたオンナを、さっさと正気に戻してやらねーとな」 大蛇が潜む目でじっと見据えられ、危うく息が止まりそうになる。一見、普段と変わらない――むしろ機嫌がよさそうにすら見えた賢吾だが、胸の内では激しいものが吹き荒れているのだと、この瞬間、思い知らされた。 怯えた和彦が何も言えなくなった間に、賢吾にワイシャツのボタンをすべて外され、ベルトも緩められる。「うっ……」 賢吾の熱い体が覆い被さってきて、首筋に唇が押し当てられる。所有の証を刻み付けるように、強く肌を吸い上げられた。さらに舌で舐め上げられ、このとき和彦は、首筋に牙を突き立てる大蛇の姿を想像し、恐怖で竦み上がる。 和彦の体の強張りを感じ取ったのだろう。皮肉げな口調で指摘される。「俺が怖いか?」「……ぼくはいつでも、あんたが怖い」「あんたじゃない。賢吾さんだろ。今は」 再び首筋に唇を這わされながらワイシャツを脱がされ、腹部から胸元へとてのひらが這わされる。愛しげに丹念に肌を撫で回されているうちに、寸前の会話を忘れ、簡単に身を任せてしまいそうになっていた。 期待と興奮で硬く凝った胸の突起を、焦らすように指の腹でくすぐられてから、摘まみ上げられる。小さく声を洩らした和彦は、無意識のうちに賢吾の頭に手をかけていた。 和彦の求めがわかったらしく、賢吾の唇が首筋から移動し、胸元に押し当てられる。「
「そうだったな。俺は先生から堅気の生活を奪った。挙げ句が、長嶺の男三人の〈オンナ〉という立場……いや、役目を押し付けている。とっくに腹を刺されていても、不思議じゃない。なのに、こうして俺がピンピンしているのは――どうしてだ?」 賢吾に顔を覗き込まれ、和彦はスッと視線を逸らす。長嶺の男は、いつも和彦から欲しい答えをもぎ取ろうとするのだ。 低く喉を鳴らして笑った賢吾の指に、あごの下をくすぐられる。「先生は俺にとって、大事で可愛い、特別なオンナだ。逃がさないために、何重にも鎖を巻きつけて、この世界に留めておきたくなる。先生にどれだけつらい思いをさせようがな」「まだ……、そこまで、つらい思いはしていない。それどころか、ひどく甘やかされているようだ」「甘い地獄だ。品がよくて優しい一方で、したたかで多淫な先生は、繊細だ。壊さないように大事にしながら、抜け出せないよう深い場所にまで引きずり込む」「……ぼくがそこまで堕ちたら、本性を見せるんだろ」「もう見せているとは、考えないのか?」 返事に詰まった和彦の反応をおもしろがるように、賢吾は目元を和らげ、そして、額に唇を押し当ててきた。 暴発寸前だった怒りが消えてなくなっていくようで、そんな自分の現金さに和彦はうろたえ、視線をさまよわせる。「――ぼくの機嫌を取っているつもりなのか?」 こめかみに唇を這わせる賢吾の息遣いが笑った。「取ってほしいか?」 カッとした和彦は賢吾の肩を押し上げようとしたが、簡単にあしらわれ、強引に唇を塞がれる。喉の奥から呻き声を洩らした和彦は、なんとか賢吾の顔を押しのけようとするが、反対にがっちりと頭を押さえ込まれていた。 食らいつくような勢いで唇を吸われたかと思うと、熱い舌を口腔深くまでねじ込まれ、犯される。あまりの口づけの激しさに息苦しくなり、必死に身を捩ろうとするが、覆い被さっている体はびくともしない。 このまま窒息させられるのではないかと、本気で怯え、動揺した和彦の抵抗をすべて受け止めながら、賢吾は口づけを続ける。 ようやく一度
ジャケットのボタンを外しながら移動する和彦に、揶揄するように賢吾が話しかけてくる。和彦は素っ気なく応じた。「そんなひどいことは思わないが、否定はしない」「ふむ。機嫌が悪そうだ」「……あんなものを見せられて、機嫌がいいわけないだろう」「総和会と縁がありながら、南郷の土下座を『あんなもの』呼ばわりできるのは、多分先生ぐらいのものだろうな」 いつもであれば、苦々しく感じながらも受け流せるのであろうが、事実今の和彦は機嫌が悪かった。ついカッとして、脱いだジャケットを賢吾に投げつける。「手打ち式ってなんだ? まるでぼくが、ヤクザになったみたいだ。長嶺の男に大事にされている立場を利用して、大層な詫びを求めたと思われたはずだ」「傲慢なオンナだと思われるのは嫌か?」 澄ました顔で賢吾に問われ、返事に詰まった和彦は、きつい眼差しを向ける。ささやかに持っているプライドや恥というものを嘲笑われた気がしたのだ。「もう、いい……。今日は誰とも話したくない」 賢吾の足元に落ちたジャケットを拾い上げ、傍らを通り過ぎようとする。次の瞬間、腰に賢吾の片腕が回される。何事かと思ったときには和彦の体は浮き上がり、爪先が廊下から離れていた。「おいっ……」 反射的に身を捩ろうとしたが、まるで荷物のように賢吾の肩に担ぎ上げられる。バランスを崩しかけて、咄嗟に賢吾の着ているワイシャツを握り締める。わけがわからないまま、もう一度身を捩ろうとして、賢吾に尻を叩かれた。「おとなしくしてろ。落とすぞ」「だったら下ろしてくれっ。一体なんのつもりだ」 賢吾の背を逆さまに見ているうちに頭に血がのぼり、さらに声を荒らげると、眩暈までしてくる。たまらず和彦は、広い背を拳で殴りつけたが、まったく堪えていないらしく、賢吾の足取りが乱れることはない。 寝室に入ってから、和彦の体はベッドに転がされる。すぐに起き上がって抗議をしようとしたが、素っ気なく賢吾に肩を押され、また仰向けで転がった。「怒りを露わにしている先生は、艶やかだな。この世界の男たち
こういう表現は変なのだろうが、南郷の土下座は美しかった。 ダークスーツに包まれた大きな体を畳に擦りつけるように折り曲げ、これ以上なく深く頭を下げるという屈辱的な姿勢を取っていながら、どこか誇らしげにさえ見え、そんな南郷の姿に和彦は、ただ圧倒されていた。 初めて目の当たりにした土下座が、よりにもよってヤクザによるものなのだ。しかも、ただのヤクザではない。十一の組で成り立っている総和会の、その頂点に立つ人物の側近だ。 自分は、そんな男を跪かせてしまったのかと、座布団の上に正座をした和彦は、空恐ろしさに小さく身を震わせる。 あくまで和彦と南郷の間に生じた〈些細な諍い〉は、南郷がこうして土下座をすることで、一応の和解となる。正確には、そう公言できるだけの手順を踏んだということだ。 和彦の気持ちとしては、そもそも事を大げさにするつもりはなかったし、頭を下げている南郷にしても、腹の内は煮えくり返っているかもしれない。それでも、和解は和解だ。「――……もう、頭を上げてもらえませんか? 十分ですから……」 こちらから声をかけなければ、南郷の行為を制止する人間はいない。なんといっても、和解のために用意された和室には、和彦と南郷の二人しかいないのだ。総和会と長嶺組双方からの立会い人の同席を求められたが、和彦自身が断ったためだ。その代わり、部屋の外で待機してもらっている。 本当はそれすら断りたかったが、さすがに二つの組織の面子のためにと言われると、無碍にもできなかった。 守光の居城ともいうべき総和会本部の中にいて、何かあるはずもないのだが――。 ようやく南郷がわずかに頭を上げ、鋭い上目遣いで和彦を見つめてくる。「この場に、俺とあんたの二人しかいないが、これでも立派な手打ち式だ。俺が頭を下げて終わりじゃない。あんたが、終わらせるんだ」「……ぼくに、どうしろと?」「簡単だ。ただ一言、許す、と」 ニヤリと南郷に笑いかけられ、数秒の間を置いて和彦は、敵意を込めた眼差しを向けていた。『許す』という言葉が、どれだけの行為に対してのも
ここで和彦は、この寝室にはまだ盗聴器は仕掛けられているのだろうかと思い至り、布団に頭まで潜り込む。いつでも意識するのは、賢吾の存在だ。「少し引っかかっている。穏便に済ませたいという気持ちは、確かにあるんだ。だけど、当事者のぼくに相談する前に、穏便に済ませるためのお膳立てが、会長と組長の間ですでにできていているようだった。ぼくは、上手く誘導されて頷いただけのようで――違うな。そうじゃない。こういうやり方で回っている世界だと知っているし、理解もしているんだ」 そもそも、自分のことで揉めないでほしいと望んでいたのは、和彦だ。長嶺の男たちの行動は、組織同士の無用な対立を避けるためであるだろうが、和彦の望みも叶えてくれている。それでも釈然としないのは、きっと自分のわがままなのだろう。「組長が何を考えているか、まったくわからない。南郷さんのことで、ぼくのことを迂闊だとか、隙がありすぎるとか、そんなふうに責められてもないんだ。……仕事の一つとして、南郷さんとのことを淡々と処理されたように感じる」 ここまで話したところで三田村は、和彦自身ですら輪郭を掴みかねている気持ちを、しっかりと言葉で掬い上げてくれた。『――先生は、組長の感情的な姿を見たかったんだな』「えっ」『俺の〈オンナ〉に何をしやがる、と言ってほしかったと、今の先生の言葉を聞いていたら、そんな心の声も聞こえてきた。……もしかして俺は、自分が思っているより酔っているのかもしれないから、そんなことと、笑ってくれてもいい』 真っ暗な布団の中で、和彦はゆっくりと目を瞬く。三田村の指摘に、自分でも驚くほど納得していた。「……そう、なんだろうな。ぼくは、自分でも呆れるほど、図太い神経をしているかもしれない。人を脅迫して、職場どころか、普通の生活まで奪った男に、そういうことを望むなんて」『組長は本当は、激情家なんじゃないかと、感じるときがある。背負うものがあって、危険な立場に身を置いているから、常に感情を律しているが。先生に直接意見を求めなかったのは、組長なりに危惧したからじゃないか』「危惧?」『先生が怯
「だから考える必要がある。俺たちの大事な先生の面子を守る方法を。俺たちは、オンナになったからと卑屈になる先生を見たくはないしな」 「……ぼくを拉致してあんなことしておいて、勝手な言い分だな……」 本気か演技か、いつにない賢吾の真摯さに半ば圧倒されながら、和彦は応じる。すると賢吾は、楽しそうに目を細めた。 「ヤクザだからな。自分勝手なのは、得意だ」 「便利な言葉だな、ヤクザってのは。なんでもかんでも、それで無理が通ると思ってるだろ」 「少なくとも先生相手には」 賢吾を睨みつけると、なぜかキスで返された。 賢吾の調教
** すっかり不精が身につき、最近の和彦はバスローブをパジャマ代わりにして寝ている。寝返りを打っているうちにはだけて、脱げてしまうことが大半だが、広いベッドで手足を思いきり伸ばせる心地よさに裸という解放感も加わり、到底パジャマを着る気にはなれない。 もっとも、このベッドを選んだ相手は、和彦が一人寝で満足することにいい顔はしないだろう。 熟睡というほどではなく、だが目を開けられるほど意識が覚醒しているわけではない、非常に曖昧で、だが、いつまでもこの状態でいたくなるようなまどろみに、和彦はどっぷりと浸っていた。 そこに、さら
「――先生」 呼ばれて、おずおずと振り返ると、そこに真剣な賢吾の顔がある。何か言われたわけでもないのに、和彦は小さく喘いでから賢吾の唇にそっと自分の唇を重ねた。すると、賢吾のもう片方の手に、和彦の柔らかな膨らみは包み込まれる。 「ひっ、あぁっ」 泡で滑る手に柔らかく揉みしだかれ、たまらず和彦は、ビクッ、ビクッと腰を震わせ、背をしならせる。下肢が、甘く溶けてしまいそうだった。 「あとでたっぷり、ここを揉んで悦ばせてやる。最近、弄られるのがよくなってきたみたいだからな。今は、洗うだけだ」 賢吾の的確に動く指は貪欲に、和彦の官能を刺激する
また指で呼ばれ、和彦は賢吾のあとについていく。工事後は待合室となるホールでは、施工業者の人間が集まって持ち込む機材について話し合っている。その様子を一瞥した賢吾は、奥の部屋へと向かう。 「……護衛の人間は?」 ホールを見て、賢吾が一人でこのフロアにやってきたのは確認した。 「物騒なツラした人間を、一般の業者がいる場所に連れてくるわけにはいかないだろ。設計士は前からの馴染みだが、業者のほうはそうじゃないんだ。クリニックを始める前に、妙な噂は立てたくない」 「自分は物騒なツラじゃない、と言いたいんだな」 皮肉でもなんでもなく、思ったまま