LOGIN『それでもお前は、わたしの弟だ。これは、わたしにはどうしようもない。だったら、せいぜい利用させてもらう』
英俊が向けてくる冷たい悪意は、電話越しでもしっかりと伝わってくる。どれだけの言葉を費やそうが、気持ちは決して交わることはなく、ただ一方的に搦め取られそうになる。「ぼくに何ができる? 兄さんが言うとおり、おぞましい画像を撮られて、いつスキャンダル沙汰になってもおかしくない人間だ。そんなぼくが佐伯家にできることと言ったら、存在を隠すことだけだ」『そんなお前でも、利用価値はある。佐伯の血を引いているという一点でな』 ゾクリとするような感覚が、全身を駆け抜けた。 和彦は、〈血〉の怖さと重さを知っている。長嶺の男たちによって教えられたのだ。切り捨てることも、逃げ出すこともできないものであるということも。『父さんは、お前を外で自由にはさせていたが、手放す気は一切ないぞ。……わたしにとっては忌々しいがな』 不穏な空気を感じ取った――わけではないだろうが、なんの前触れもなく、書斎の** 今日買ってきた目覚まし時計を箱から取り出したものの、ついぼんやりとしてしまう。 ふと和彦は、自分の頬が火照っていることに気づき、てのひらを押し当てた。入浴してからもうしばらく経っているし、体調が悪いというわけでもない。 体の内で得体の知れない感情がのたうち回り、興奮に近い状態なのかもしれない。そう無理やり、自分を納得させておく。 起床時間をセットしておこうと、もたつきながら操作をしていると、こちらに近づいてくる足音が耳に入る。大きな歩幅で、荒々しい足取りだ。初めて聞く足音ではあったが、誰であるかはすぐにわかった。「――入るぞ」 和彦が応じる間もなく障子が開き、賢吾が姿を現す。帰宅したばかりらしく、ワイシャツ姿だ。 忙しいのだなと思ったあと、なぜ忙しいのかと考えて、ゾクリとした。吾川から言われた言葉が耳元に蘇る。 後ろ手に障子を閉めた賢吾はじっとこちらを見つめたあと、和彦の手元に視線を向けた。「今日買ってきたのか」「……ああ」「スマホも興味津々で眺めていたと聞いたぞ」 やはり、しっかり観察されていたらしい。和彦は苦笑いで返すと、目覚まし時計を置く。「宮森さんの甥っ子から、買ったらどうだと勧められているんだ」「欲しいなら、いつでも準備してやる」 和彦は首を横に振ってから、賢吾に問いかけた。「ぼくに何か用か?」「もう寝ているかと思ってな」「それなのに、あんな、あんたらしくない足音を立ててやって来たのか」 賢吾は一瞬、決まり悪そうな顔をしたあと、すでに延べられている布団に目を遣る。「まだ寝ないのか?」「もう、布団に入るつもりだった。目覚ましをセットしたら……」「そうか。暖かくして寝ろ」 ここで不自然な沈黙が訪れる。珍しく、賢吾が何か言い淀んでいるのだ。その理由には、薄々見当がついていた。 和彦は、吾川から電話があったことを、誰にも知らせていない。帰りの車で一緒だった組員たちは、電話をきっかけに和彦の様子が
「外で話したいから、どこでもいいから車を停めてくれないか」 顔を強張らせている和彦に対して何か言うでもなく、車は速やかに目に入ったコンビニの駐車場へと滑り込む。すかさずシートベルトを外すと、携帯電話を耳に当てたまま車を降りた。吾川との会話を、長嶺組の組員たちに聞かせたくなかったのだ。 数分の間があったにもかかわらず、ようやく応じた和彦に、吾川は気を悪くした様子もなかった。淡々とも穏やかとも言える語り口で、何事もなかったように続けた。『お疲れのところ申し訳ありません。すでにもう帰宅されているとばかり思っていましたが、もしかして、今は外に?』「え、ええ……。でも大丈夫です。何かご用ですか?」 問いかけて、自分の迂闊さを罵りそうになった。守光の側に仕えている吾川からの電話となれば、用件は限られているようなものだ。「本部に来るよう言われている件でしたら――」『本日、本部に長嶺組長が……いえ、賢吾さんが見えられました』 どうしてそんなことをわざわざ電話で、と戸惑ったのは一瞬だった。「ぼくのことで、賢吾さんが何か?」『最初は冷静に話をされていましたが、途中からずいぶん激昂なさっているようでした。それに……長嶺会長だけでなく、総和会全体が憂慮すべき発言もされていたそうです』「あの人が、激昂、ですか? それに、憂慮すべき発言というのは……」 車内からこちらを見ている組員の視線を意識して、和彦は体の向きを変える。『ここのところ続く総和会の傍若無人ぶりが、腹に据えかねていらっしゃるとのことです。対応を改めないのであれば、長嶺組は、総和会での活動を当面休止する考えがあると――……」 それが具体的にどのような行動となるのか、和彦には想像がつかない。一つはっきりしているのは、賢吾の発言が事実だとすれば、一大事になるだろうということだ。 しかし、吾川の言葉はそれだけでは終わらなかった。『長嶺会長の代で、総和会が分裂する事態も念頭に置いていると、そう賢吾さんは仄め
結局、和彦が個人で使うために買ったのは、目覚まし時計だった。これぐらいなら、本宅の客間に置いていても何も言われないだろう。 買い物を済ませてフロアを移動していた和彦は、途中で、我ながら恥ずかしくなるような芝居がかった声を上げた。「あー、そうだ」 エスカレーターの先に立つ組員が振り返る。「どうしました、先生?」「えっと……、もうちょっと見ておきたいものがあるんだ。だから、一階で待っていてくれないかな。そこの休憩コーナーで」「気にしないでください。おつき合いしますから」「いやっ、ついてきてもらうほどのものじゃ、ない、んだ。ただ見るだけで、買うつもりはないから、荷物持ちはいらないし……」 話しながら次第に声が小さくなる和彦の様子から、察するものがあったらしい。組員は、自分の職務を忠実に果たすべきか、和彦の希望を叶えるべきかと悩むように、頭を掻く。和彦はすかさず畳みかけた。「ウロウロするわけじゃないから。地下の売り場に用があるんだ」「……必死ですね。先生」 仕方ないと組員が納得してくれたのと、エスカレーターで一階に着いたのは同時だった。その場で再び別れた和彦は、さっそく地下一階の売り場へと向かう。 実は、宮森とケーキを一緒に食べた月曜日の夜から、毎日優也とメールをやり取りしている。前触れもなく、本当はあんたと話すことなんてないけど――と、優也が憎まれ口をメールで送ってきたのだ。 和彦との連絡を楽しみにしていると宮森は言っていたが、とてもそんなふうには読み取れないと苦笑しつつ、和彦は返信したのだが、そこから、なんとなくメールが続いている。 ただ、毎回優也から言われるのは、メールのやり取りは面倒くさいということだ。つまり、チャットアプリでやり取りしたいらしい。 和彦としては意地を張っているつもりはなく、何かと多忙なこの時期、たかが連絡ツールのために、新しい電子機器の使い方を覚える余裕はない。 しかし、気になっているのは確かなのだ。このあたりの心情を、優也や千尋という青年たちに見透かされている気がする
**** 午前中の患者の施術がすべて終わり、手を洗って仮眠室に入った和彦は、窓から外を眺める。灰色の雲で覆われた空は、今にも何かが降ってきそうで、どうせなら雪がいいなと、子供じみたことを考えた。 和彦はダッフルコートを羽織り、財布をポケットに突っ込むと、待合室へと向かう。電話番のスタッフがにこにこしながらメモ用紙を出してきた。寒いとどうしても、昼食をとりに外へ出るのが億劫になるもので、それは和彦も例外ではない。ただ今日はジャンケンで負けてしまい、買い出し担当となったのだ。 メモ用紙にざっと目を通していると、どこからかスタッフの咳き込む声が聞こえてくる。「風邪かな……」 思わず和彦は呟いていた。美容外科クリニックであるため、風邪を引いて駆け込んでくる患者はまずいないのだが、和彦やスタッフから風邪が移ってしまっては大変だ。全員、インフルエンザの予防接種を打ってはいるものの、だからといって完全に防げるものではない。 職業柄、あれこれ心配して眉をひそめていると、スタッフが苦笑しながら教えてくれた。「風邪じゃないんですよ。最近、乾燥がひどいから、喉を痛めたらしくて」「なるほど……」「でも、明日の〈あれ〉は絶対行くって、はりきってましたよ。多少の喉の痛みぐらい平気だって」 クリニックのスタッフたちとの、ささやかな忘年会を兼ねた食事会のことを言っているのだ。「でも確かに、乾燥は気になるな。日に何度も静電気の直撃を受けてるから……」 待合室や診察室、施術室には加湿器を置いてあるのだが、効果は限定的だ。クリニックは部屋数も多いうえに、ドアや扉で仕切っており、空気の流れは期待できない。ときどき換気はしているのだが、肝心の外気が乾燥しきっているのだ。 今年、年が明けてからクリニックを開業したときはどうだっただろうと、和彦は記憶を辿る。慣れない立場にあって、日々の仕事をこなすのに精一杯で、患者には気を配っても、スタッフの労働環境に対しては意識がおざなりだったかもしれないと、今になって反省する。
和彦は、苦しげな息の下で優也が言っていたことを思い出す。宮森は、賢吾への義理立てのために、自分を病院に連れて行くことなく、和彦に診察を頼んだのだと。 どうやら優也の叔父は、そこまで打算的ではなかったようだ。 そう和彦が結論を出そうとしたとき、当の叔父がニヤリと笑った。凡庸な容貌の男は、たったそれだけで、鳥肌が立つほど物騒な空気をまとう。無意識に和彦は背筋を伸ばしていた。「優也はずいぶんと、捻くれたことを言っていただろう?」「……えっ、あの、まあ……」「頭の回転は悪くない子だ。何より、数字に強い。今はまだ、積極的に外に出るというわけにはいかないが、リハビリがてら、部屋に人を招いたり、在宅仕事をしてみるのはどうかと、あれこれと考えている」「そうなんですか」「実は、そのことを長嶺組長に相談してみた」 意味ありげに見つめられ、和彦は急にソワソワとしてくる。漠然とながら、これが今日の本題なのではないかと思った。「甘えついでに、うちの先生に頼んでみたらどうだと言われた」「何を、ですか……?」「優也の話し相手になってもらうことを。その代わりといってはなんだが、あの子を、面倒な帳簿付けでもなんでも使ってもらってかまわない」「あっ、いえ、そういう仕事は全部、ぼくも人にやってもらっているので――……」 そうか、と残念そうに宮森が呟く。芝居がかっていると見えなくもなかったが、賢吾と長いつき合いがあり、信頼も得ている人物の頼みを断るのは良心が咎める。何より和彦自身、いくら優也の風邪が完治したとはいえ、それで縁が切れてしまうのも寂しいという思いが多少はあるのだ。 勝手にこちらの気持ちを見透かさないでほしいと、心の中で控えめに賢吾を詰ってから、和彦はおずおずと切り出す。「……今月は忙しいので、部屋を訪ねるのは難しいですが、電話やメールでやり取りをするぐらいなら、大丈夫です。その、優也くんさえよければ」「それは大丈夫。優也も、楽しみにしていると言っていた」
初めて、宮森の声音に感情が混じる。「本宅にうかがうつもりだったが、堅苦しいことはやめておけと長嶺組長に言われて、こうしてお膳立てをしてもらうことになった」 賢吾に対してずいぶん砕けた物言いをしているなと思っていると、宮森が手短に説明してくれた。 年齢が近いこともあり、昔から側で仕事をさせてもらっていたこと。かつては賢吾の護衛も務めていたこと。宮森本人は口にしなかったが、つまり賢吾と親しい間柄なのだろう。「昨日も、わたしの甥――優也を診てくれたと聞いた。ひどかった咳も完全に治まって、もう大丈夫だと……」「ええ。一時はどうなるかと思いましたが、ぼくも安心しました。城東会の組員の方が、よくお世話をされていたようですね。初日以外は、部屋がきれいで、冷蔵庫の中にはいろいろ入ってて」「うちの者が部屋に入っても、優也は何も言わなくなったんだ。格段の進歩だ。前は、怒鳴りまくって、部屋にも入れてもらえなかったから」 玄関のドアのチェーンも、そろそろ直して大丈夫ではないかと、和彦は控えめに進言しておく。優也の部屋を訪ねるたびに、恨み節を聞かされていたのだ。 宮森が口元を緩め、感心したように洩らした。「長嶺組長から聞かされていた通りだ。人間嫌いの相手に、うちの先生はちょうどいいだろうと言っていた」「そんな、ことを……」「冷めている部分と、どうしようもなく甘い部分を持ち合わせているから、お前の甥っ子に何かしら刺さるはずだと」 宮森は人さし指で、自分の心臓の真上辺りを指し示す。「三田村にも刺さったんだろう。〈あれ〉は元は、執着というものを持たない男だった。ひどい言い方だが、だからこそ使い勝手がよかった」 ヒヤリとするようなことを言った宮森が、ようやくチョコレートケーキを口に運ぶ。一方の和彦は急に口中の渇きを意識して、紅茶を一口飲んだ。「正直、いままでの優也の扱いが正しいのかどうか、わたしはずっと悩んでいた。部屋に閉じ込めておくのは簡単だが、さて、こんな仕事をしている身で、わたしは一生、優也の面倒を見てやれるのか。いっそのこと、無理やりでも外に引きずり出
さすがの賢吾も、和彦の心を煩わせるものすべてを見通すことは不可能らしい。「……最初にぼくを狙って、あんなことをした人間が、どんな顔をして、そんなことを言うんだ」「俺はいい。俺は、許されるんだ」 さすがに図々しい発言だと思って和彦が顔を上げると、待っていたようなタイミングで唇を軽く吸われた。「先生を狙って自分のものにして――見事に、骨抜きにされたんだ。そんな哀れなヤクザを、愛情深い先生なら、たっぷり甘やかしてくれるだろ?」 本当に図々しいと思いながらも、和彦はつい笑みをこぼしてしまう。 自
「不愉快どころか、やけに楽しそうでしたよ、秦さん。いい店を先生に紹介しないと、と張り切ってもいましたし」「ならいいんだ。あの人、職業柄なのか知らないけど、よく気をつかってくれるから。ぼくみたいな人間につき合って、迷惑をかけても悪いしな」 和彦が、長嶺父子のオンナであることは、すでに知られている事実だ。いまさら千尋と甘い会話とキスを交わしていたからといって、他人に喜んで報告するような悪趣味なまねを、秦がする必要もない。 和彦が心配していたのは、そんなことではなく、純粋に今言った通りのことだった。 大きく息を吐き出しながら、中島がマシンをゆっく
「――先生」 呼ばれて、おずおずと振り返ると、そこに真剣な賢吾の顔がある。何か言われたわけでもないのに、和彦は小さく喘いでから賢吾の唇にそっと自分の唇を重ねた。すると、賢吾のもう片方の手に、和彦の柔らかな膨らみは包み込まれる。 「ひっ、あぁっ」 泡で滑る手に柔らかく揉みしだかれ、たまらず和彦は、ビクッ、ビクッと腰を震わせ、背をしならせる。下肢が、甘く溶けてしまいそうだった。 「あとでたっぷり、ここを揉んで悦ばせてやる。最近、弄られるのがよくなってきたみたいだからな。今は、洗うだけだ」 賢吾の的確に動く指は貪欲に、和彦の官能を刺激する
外から男二人のにぎやかな話し声が聞こえてくる状況で、求められるまま、やむをえず舌を絡め合い、唾液を交わす。引き出された舌を痛いほど吸われると、たまらず和彦は鷹津の肩にすがりついていた。 ますます鷹津の腕の力が強くなり、和彦の中で奇妙な変化が起こっていた。鷹津のことがどうしようもなく嫌いで、嫌悪しているのに、そんな男にねじ伏せられるように口づけを交わしていると、高揚感に襲われ、体の奥深くから強引に官能を引き出される。 官能に形を借りた、サソリの毒かもしれないと、ふとそんな考えが脳裏を過る。鷹津の毒を注入され、体も心も侵されていくのだ。 思わず身じろごう