Mag-log in「……開業の準備に関しては、毎日組に報告しているはずだ。わざわざこの部屋に来ることはないだろう」
うんざりしながら和彦が言うと、わざと聞こえないふりをしているのか、賢吾はリビングを見回した。この部屋を訪れたのは今日が初めてのため、賢吾は玄関に入ったときから、他の部屋はおろか、トイレやバスルームまでこうやってチェックしていた。 「まだ、殺風景だな。引っ越しの荷物は解いたんだろう?」 「あまりごちゃごちゃと飾るのは好きじゃない。それに、こんな広い部屋にたっぷり置けるほどの家具なんて、もともと持ってなかった」 一人暮らしなのに広い4LDKの部屋を与えられ、和彦はスペースを持て余していた。どの部屋にいても落ち着かないため、自分の荷物をどっさり運び込んだ書斎で大半の時間を過ごしている。 ふん、と思案するように声を洩らした賢吾が、こう言った。 「もっと家具を買ってやる」 「ああ、好きなものを買って、どんどん運び込んでくれ」 いらないと答えたところで賢吾が聞き入れるとも思えないので、和彦はそう答える。ニッと危機感が足りないと言いたげに賢吾が微苦笑を浮かべる。和彦は慌てて言い募った。「心配してくれているのはわかってるんだ。でも、決定的なことが起こったわけじゃない。見られてただけで――」「お前がいくら色男でも、あとをつけるような奴はまともじゃねーんだ。お前も薄々、相手の種類は察してるんだろ」 賢吾に示され、和彦はやっと正面に腰を下ろす。いつの間にか部屋の外で待機していたらしく、一声かけて笠野が障子を開ける。和彦の前にお茶の入ったカップを置くと、すぐに部屋を出て行く。 数秒待ってから和彦は口を開いた。「たぶん、今日の男たちは堅気じゃなかった」「それで?」「意地が悪いな。ぼくにわかるのは、それぐらいだ」 軽く鼻を鳴らした賢吾は、たけのこの和え物を口に運ぶ、小気味いい咀嚼音を聞きながら、和彦は座卓の隅に置かれたタブレット端末に気づく。「――舐めたまねをしやがる」 ふいに地を這うような低い声がした。ゾクリと身震いをして反射的に賢吾を見る。忌々しいほど魅力的なバリトンの本来の使い方を、唐突に教えられた。この男の声は、物騒な武器でもあるのだ。 硬直する和彦に対して、賢吾は安心させるようにふっと笑いかけてくる。「おっとりしたお前はともかく、周囲がどれだけ警戒しているか、探りたかったのかもな。しばらく行方をくらませていた人間が、突然またふらふらし始めたら、まあ、気になる連中はいるだろう」 ここで障子が開き、今度は千尋がするりと部屋に入り込んでくる。手には缶ビールを持っており、何食わぬ顔で当然のように和彦の隣に座った。 一旦会話が止まったのをきっかけに、三人はそれぞれ飲み物に口をつける。笠野が淹れてくれたのはほうじ茶で、香ばしい香りにほっと息が洩れる。賢吾のグラスは焼酎のお湯割りだそうだ。飲むかと問われたが、遠慮しておいた。「……しばらく、ぼくは本宅に近づかないほうがいいかもしれない」 ぽつりと和彦が呟くと、千尋が大仰に目を剥く。「何言ってんのっ」「いや、いままではぼくが一番弱い立場だったから、当然のようにここで庇護されてたわけだけど、近いう
** 帰宅した賢吾は、見るからに機嫌が悪かった。一足先に帰宅した千尋は気色ばんで和彦に駆け寄ってきたので、この辺りの反応の違いは、潜り抜けてきた修羅場の違いによるものかもしれない。 誰かが大蛇の尾を踏んだせいだと、和彦は苦々しく思いながら、ロールケーキを一口食べる。春の期間限定ということで、生地も生クリームもほんのりとピンク色で、桜の風味が口内に広がる。組員の奥さんが差し入れてくれたものだそうで、食後のデザートにと笠野が勧めてくれたのだ。紅茶との組み合わせは最適だったと、自分の飲み物の選択に満足していた最中だった。 和彦が寛いでいるように見えたのだろう。ダイニングにやってきた賢吾はほんのわずかに目元を和らげた。「――美味いか?」「ご飯も喉を通らないという状態じゃなくて申し訳ないが、美味しい」「お前にやつれられると、あちこちから俺が責められるからな。それでいい」 そう言って賢吾の手が、さりげなく髪を撫でてくる。「よく似合ってる」 礼を言うのも照れ臭くて、いつもと同じ髪型だともごもごと応じていると、ちょうど風呂から上がってきた千尋もダイニングにやってくる。ふらふらと和彦に近づいてくると、背後から抱きついてきて甘えるように肩に額をすり寄せる。 いきなり長嶺の男二人に絡まれて、和彦としては苦笑するしかない。とりあえず、心配されていたことはよく伝わってくる。 賢吾はあごに手をやり、何か考える素振りを見せたあと、こう宣言した。「よし、一時間後に俺の部屋で家族会議を開くぞ」「家族会議って……」「もちろん、お前も同席しろ。今日のことで話を聞きたい」 風呂の前に野暮用を片付けると言って、ジャケットを脱いで組員に預けた賢吾がどっかとイスに腰掛ける。心得たもので組員が、手帳を開いて仕事の打ち合わせを始める。この様子だと、いろいろと用事を放り出して帰宅したようだ。和彦を心配して――。 千尋は、髪を乾かしてくると言い置いて自分の部屋に戻り、和彦としては、この状況で優雅にデザートを味わうのは気をつかう。せっかくのロールケーキを気忙しく紅茶で流し込むと、
前回の診察時に橘には、実家に里帰りをすることは告げていたため、和彦はそれから何があったのか大まかに説明した。母方の実家にまで出向き、母親の墓の前でフラッシュバックを起こした結果、幼少時に欠落した記憶が戻ったことも。 しばらく人を避け、山奥でひっそり療養していたと告げたとき、橘はなんとも複雑そうな表情となり、ボールペンの尻で頭を掻いていたのが印象的だった。 長い期間記憶を失っていたことがPTSDに起因したものだとしたら、正常に戻った現在は、すでに快癒したといえるのではないかという和彦の質問に、あっさりと橘は首を振った。むしろ、記憶が戻ったことによって新たな症状が起こるかもしれないと指摘され、咄嗟に頭に浮かんだのは、綾香と対面したときの光景だった。〈母親〉という存在に怖さを感じていると吐露していた。思わず出た言葉だったが、口にして和彦は、正直な気持ちであると認めた。ぼんやりとした思慕の一方で抱えてしまった、後ろ暗い気持ちだ。 橘から、フラッシュバックを起こしたときの呼吸法やリラックス方法を教えられた。不安感を和らげる薬はこれまでと同じものを処方して、様子を見るとも言われた。「時間をかけていくしかない。時間薬というやつだが、もし体の異変が現れるというなら、PTSDを専門にしている先生を紹介してやれる」「それはいい。今のところ、たまに不安感のせいで眠れなくなるぐらいだから。それに、橘さんだから、診てもらおうという気になるんだ。他の先生だったら、たぶん病院から足が遠のく」「あのなあ……」 呆れたように呟いた橘が、もう書くことはないとばかりにボールペンをデスクに置いた。「自分を追い込むような状況に身を置くなよ。なんの拍子で精神のバランスが崩れるかわからないし、それに体が耐えきれないということもありうる」「ぼくは楽なほうに流れる性質だから、そこまでマゾじゃないよ」「環境や状況にじわじわと慣れていって、気がついたときには取り返しがつかないことに――なんて、お前がそうならないよう、友人として願ってるよ」 別れる間際、今度来るときは家族のことをもっと話してくれと橘に言われ、和彦は困惑した。詳細な説明まではしな
**** 久しぶりに髪を切ったせいか、首筋を撫でていく風の感触が新鮮だった。施術中は、バサバサと落ちていく髪を惜しむ気持ちもあったが、美容室の外に出てしまえば現金なものだ。やはり切ってよかったと思える。 和彦はさっぱりとした後ろ髪を一撫でして、歩き出す。背後を振り返るまでもなく、長嶺組の護衛はついているのだが、傍からは同行者だとわからない程度に、距離は空けてもらっている。これは和彦から言い出したことではなく、賢吾の指示によるものだ。 和彦はまた、長嶺の本宅に滞在している。綾香と会って動揺したことで、ほんの少しだけ体調を崩したのだが、それを見逃す長嶺父子ではない。もっともらしい言葉で丸め込まれてしまった。どうせ塞ぎ込むなら、側に人がいたほうが安心だろうと言われては、逆らえるはずもない。 ただ自分でも意外だったのは、和彦が客間に閉じこもっていたのはわずか一日ほどで、その翌日には、気分転換がしたいと外出できたことだ。外出のために服を選び、馴染みの美容室に予約を入れ、あれこれと予定を立てる一方で、これから先の家族との向き合い方や距離感を思索していたが、その最中に自覚したのは、決して自分が苦悩しているわけではないということだ。 実家について多少俯瞰して見られるようになっていた。佐伯家は、自分の人生におけるすべてではないと薄々わかっていながら、俊哉に望まれるままに身を委ねて生きていくつもりだったが、いつの間にかその感覚は希薄になっている。まるで真水に晒されて、毒が抜けたように。それとも、より強い毒によって染められたのか。 無意識に苦々しい表情になっているのに気づき、ほっと息を吐く。答えの出ない自問に疲れたというのもあるが――。 和彦は頭上を見上げて目を細める。今日は春というより初夏めいて陽射しが強く、気温が高い。この陽気で一気に桜は開花するだろう。自分の中にある硬い蕾めいた陰鬱も、花開いたあとに散ってくれないだろうかと益体もないことを思ってしまう。 もっと陽射しを浴びるためにふらふらと散歩したいところだが、次の行き先の予約時間が迫っている。コインパーキングで待機していた車に、護衛についていた組員と共に乗り込むと、さっそく出発す
どちらにしても、和彦の存在は、綾香の心に刃を突き立てる存在にしかなりえない。そう思いながらもこうして向き合うと、やはり自然と出てしまうのだ。『母さん』と。 皮肉でもなんでもなく、和彦は心の底から綾香に同情していた。幼少時からの綾香の自分に対する態度は、すべてを知った今では理解と許容ができる。「何も……、悪くないでしょう。あなたは。家と大人の勝手な都合に巻き込まれただけで――」 ここまで言って綾香が呻き声を洩らした。「そんな環境が、あなたを追い込んでしまった。だから、あんな連中のところに……」 和彦はハッとして顔を強張らせる。綾香の言う『あんな連中』がなんであるか、即座に理解した。「母さん、ぼくは――」 行き場がなくて長嶺の男たちの庇護下にあるわけではない。そう訴えようとしたが、綾香が続けた悲痛な告白に声が出なかった。「あなたを見ていると、どうしても紗香のことを思い出していた。……妹から取り上げてしまったという罪悪感が、ずっと消えなかったの。でも、また子供を持てて嬉しいと思ってしまう自分もいて、英俊にしていたように素直に大事にはしてあげられなかった。そうしているうちに、あんな事件があって、紗香の母親としての執念を見せつけられて……」 和彦が、側にいるのに触れられない存在になってしまったのだと、綾香は続けた。 歯止めを失ったように心情を吐露し続ける綾香に、ただ和彦は気圧される。綾香が語れば語るほど、母親という殻が剥がれ落ち、その下からおぞましいものが姿を見せそうだ。 今の綾香と重なるのは、幼い和彦の前で壊れていった紗香の姿だった。 込み上げてくるものがあり、口元を押さえる。そんな〈息子〉の異変に気づかず、綾香がぎこちなく微笑みかけてきた。「ああ、ごめんなさい、立たせたままで。さあ、早く上がって」 そう言って綾香が手を伸ばしてきたが、腕に触れられる寸前で本能的に和彦は身を引く。愕然としたように綾香が顔を強張らせた。「ごめん、母さん。今日は帰るよ……」
罵倒されるぐらいで済むだろうかと、和彦は無意識にネクタイの結び目に指をかける。綾香と会うのにどんな服装がいいだろうかと悩む時間もなく、無難にスーツを着込んできた。 ネクタイを緩めかけて寸前で止める。とうとう実家が見えてきたせいだが、車はスピードを落としながら一旦通り過ぎた。監視している者がいないか確認したのだと今の和彦ならわかる。 実家近くで和彦と助手席の組員が車を降りる。もちろん中に入るのは和彦だけで、組員は外の目立たない場所で待機しているという。 インターホンを押すと、今回はすぐに応答があった。淡々とした綾香の声を聞いた途端、心臓が締め付けられたように胸苦しくなる。和彦は一拍置いてから名乗り、門扉を押し開けた。 玄関前に辿り着くまでに、どんどん鼓動が速くなり、手足が冷たくなってくる。それでもなんとかドアを開けると、珍しくワンピース姿の綾香が出迎えてくれた。その姿を見て、和彦は仰け反るほどの衝撃を受ける。脳裏を過ったのは、記憶にある紗香の姿だった。「……おかえりなさい」 顔を強張らせたまま立ち尽くす和彦に、逡巡を見せたあと綾香が声をかけくる。ハッとして、なんとか言葉を絞り出した。「ただ、いま……」 上がるよう言われて和彦は靴を脱ごうとしたが、どうしても先に言っておきたいことがあった。「ごめん、か、さん……。もっと早くに、こちらから連絡するべきだったのに……」「――わたしの存在なんて、頭になかったでしょう」 底冷えするような冷たい声の響きに、和彦は総毛立つ。「そんな、こと……」「昔から、この家のことはなんでもわたし抜きで決まってきたから、仕方ないんでしょうね」 困惑して立ち尽くす和彦に、綾香は初めて見せる自虐気味な笑みを向けた。「あなたの連絡先がわからなくて、俊哉さんの携帯を盗み見てようやく知ったのよ」「それは……、母さんを面倒なことに巻き込みたくないと、父さんなりに考えたんだと思う」「あの人