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第31話(7)

作者: 北川とも
last update publish date: 2026-05-19 20:00:37

 礼を言って車に乗り込むと、途端に疲労感に襲われる。それと同時に、こめかみがズキリと痛んだ。明け方まで何度も守光の様子をうかがっていたため、睡眠不足気味だということもあるが、外の曇天具合を見るに、気圧のせいかもしれない。

 もしくは悪い前触れか、と考えたところで和彦は、これは不吉すぎるなと、ブルッと身震いをしていた。

 午前中の最後の患者の施術を終え、手を洗いながら和彦は一声唸る。すぐに治るかと思われた頭痛に、まだ苛まれていた。我慢できないほど痛いというわけではないが、神経に障る。

 鎮痛剤を飲む前に、何か食べておいたほうがいいのだろうと思いながらも、外に出るのが億劫だ。なんといっても、クリニックの外で待機しているのは、総和会の護衛なのだ。男たちの視線を気にかけつつ食事をするのは気が進まない。仕方なく和彦は、近くのコンビニに弁当を買いに行くというスタッフに、自分の分も頼む。

 平日は、自分の足で歩くといえばクリニック内がほとんどのため、昼食時は数少ない外の空気を吸う機会なのだが、そうもいっていられない
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  • 血と束縛と   第31話(10)

     長嶺組から連絡が入るかもしれないと、携帯電話を枕元に置いた和彦は、今夜はもう休むことにする。 万が一を考えて窓を開けるわけにもいかず、仕方なくエアコンはつけたままにしておく。月明かりは今夜は期待できないため、部屋の電気を消したあと、布団の傍らにあるライトの明かりを最小限に絞ってつけておく。そうすると、横になっても、床の間の掛け軸をぼんやりとながら眺めることができるのだ。 蒸し暑い日に、どこか池のほとりを散歩してみるのもいいなと、取り留めのないことを考えていた。子供の頃、少しだけ憧れていた、大きな水槽に金魚を飼ってみるのもいいな、とも。 肌掛け布団に包まって、心地のよい夢想に浸っているうちに、抗いきれない眠気がすぐに押し寄せてきて、和彦の意識を搦め捕る。 どれぐらいウトウトしていたか、唐突に、不快感にじわじわと眠りを侵食されていることに気づいた。 頭の片隅で、これは一体なんだろうかと思った和彦だが、その頭が痛かった。鎮痛剤の効き目が切れたのだと、鈍い思考でようやく結論を出したとき、頬に微かな風が触れる。エアコンの風ではないと、本能的に判断していた。 和彦は目を開けると同時に飛び起き、這うようにして逃げようとしたが、すかさず腰を掴まれた。「離せっ」 身を捩り、尚も抵抗しようとしたが、それ以上の力で引き戻され、南郷に顔を覗き込まれると、一瞬にして動けなくなった。 このとき、ズキリと頭が痛み、記憶がフラッシュバックした。頭痛と南郷という組み合わせは、総和会の隠れ家での出来事を思い出させるには十分で、ここで和彦は理解した。 朝から感じていた悪い前触れとは、英俊からの電話などではなく、今この瞬間のことだったのだと。「――あんたは本当に、躾がいい。こちらが凄むまでもなく、一瞬にして抵抗の無益さを理解する。可愛がられるオンナの条件というやつか。まあ、このきれいな顔を、喜んで殴る悪趣味な奴なんて、そうそういないだろうが」 南郷のこの言葉は、決定的だった。体はすでに竦んで動かないが、抵抗しようとする気力すら、呆気なく粉砕される。 和彦が逃げないと確認したのだろう。腰に回した腕を離した南郷は、悠然と布団の上にあぐらをかいて座っ

  • 血と束縛と   第31話(9)

    「父さんが失いたくないのは、〈佐伯和彦〉だ。手に入れるために、あの父さんが奔走したぐらいだそうだし」『どうして――』 英俊が何か言いかけたが、和彦のペースに巻き込まれていることに気づいたのだろう。一呼吸間に、いつもの落ち着きを取り戻していた。『今、お前の面倒を見ているのが、どれだけ頼りになる人間かは知らないが、ずいぶん強気だな。だが――父さんは甘くはないぞ。わたしと違ってな』 さきほどの英俊の宣言めいた言葉も相まって、不穏な影に足首を掴まれたような感覚に襲われる。英俊は、苦し紛れのこけおどしなどしない。こうも俊哉の存在を仄めかすということは、何かが、あるのだ。『お前の発言は、しっかりと父さんに伝えておく』「……携帯の番号は、替えるから」『別に、替えなくていいぞ。わたしはもう、かけるつもりはない』 唐突に電話が切られる。和彦は、耳元から引き剥がすように携帯電話を離すと、そのまま少しの間、ぼうっとしてしまう。我に返ったのは、運転手の男に呼ばれたからだ。「――佐伯先生」 ハッとした和彦は、前方を見る。「到着しました」 車は、総和会本部の前に停まっていた。 朝の時点で和彦は、漠然とした不安は感じていたのだ。総和会は、自分を自宅マンションに送り届けるつもりはないのではないか、と。その不安は的中したというわけだ。 和彦は手にしていた携帯電話の電源を切ると、アタッシェケースを持って車を降りる。ここで抗議をするほどの気力は、和彦には残っていなかった。** 身の置き場がないとは、まさに今の自分の状況を指すのだろう。 ダイニングのイスに腰掛けた和彦は、手持ち無沙汰から鎮痛剤の箱を手の中で弄ぶ。夕食後に飲んだ鎮痛剤はとっくに効き目が表れ、今のところ頭痛は治まっている。英俊と話して興奮したせいか、一時は吐き気がするほどひどかったのだ。 風邪の症状が出ているわけでもないので、たっぷり睡眠を取れば、さほど気にするほどでもないはずだ。そう、考えていたのだが――。 本来であれば、自宅マンションで一人、ゆっくりと落ち着

  • 血と束縛と   第31話(8)

    ** 昼間飲んだ鎮痛剤が切れたのか、ふいにズキリと頭が痛む。疲れと眠気の両方から、後部座席のシートにぐったりと身を預けていた和彦は、沈鬱なため息をついた。 自宅マンションに帰り着いたら、さっさと鎮痛剤を口に放り込み、ベッドに潜り込みたかった。少し休まないと、思考が正常に働きそうにない。 さらに深くシートにもたれかかろうとした和彦だが、車が本来曲がるはずの道をまっすぐ進んだことで、目を見開く。まさか、と思って口を開きかけた瞬間、間が悪いことに携帯電話が鳴った。反射的にジャケットのポケットに手を突っ込もうとして、携帯電話の着信音が違うことに気づく。 微妙な表情となって和彦は動きを止める。ハンドルを握る男が、バックミラー越しにこちらを一瞥した。早く出ろと急かすように鳴り続ける着信音に我慢できず、仕方なくアタッシェケースを開け、もう一台の携帯電話を取り出す。里見との連絡に使っているものだ。 表示されているのは、里見の携帯電話とは別の番号だった。『感心だな。番号を替えなかったのか』 電話に出ると、前置きもなしに皮肉に満ちた口調で言われた。ここでまた頭が痛み、和彦はなんとなく理解した。朝から悩まされていた頭痛は、確かに悪い前触れだったのだ。 総和会の車に乗っている最中に、英俊から電話がかかってきたのだ。組み合わせとしては、最悪だ。「替えたところで、里見さんに迷惑がかかるだけだと思ったからね。だけど、こうして声を聞くと、やっぱり替えておけばよかった」『プリペイド携帯だと、いくらでも替えがきくだろ。――携帯の番号から、少しは何かわかるかと期待したこともあったんだがな。お前にあれこれアドバイスしている人間は、慎重だ』 そんなことまでしていたのかと和彦は絶句すると、気配から察したのか、楽しげに囁くような声で英俊が言った。『――お前、自分の父親が、どの省庁で権力を振るっているのか、忘れたわけじゃないだろ。今は、わたしがお前を追っている。しかしわたしも、暇ではないんだ。いい加減、厄介事を片付けたいと思っている』「つまり、これまでは本気でなかったと言いたいのか」『兄弟で平和的な話し合いがケリがつくなら

  • 血と束縛と   第31話(7)

     礼を言って車に乗り込むと、途端に疲労感に襲われる。それと同時に、こめかみがズキリと痛んだ。明け方まで何度も守光の様子をうかがっていたため、睡眠不足気味だということもあるが、外の曇天具合を見るに、気圧のせいかもしれない。 もしくは悪い前触れか、と考えたところで和彦は、これは不吉すぎるなと、ブルッと身震いをしていた。** 午前中の最後の患者の施術を終え、手を洗いながら和彦は一声唸る。すぐに治るかと思われた頭痛に、まだ苛まれていた。我慢できないほど痛いというわけではないが、神経に障る。 鎮痛剤を飲む前に、何か食べておいたほうがいいのだろうと思いながらも、外に出るのが億劫だ。なんといっても、クリニックの外で待機しているのは、総和会の護衛なのだ。男たちの視線を気にかけつつ食事をするのは気が進まない。仕方なく和彦は、近くのコンビニに弁当を買いに行くというスタッフに、自分の分も頼む。 平日は、自分の足で歩くといえばクリニック内がほとんどのため、昼食時は数少ない外の空気を吸う機会なのだが、そうもいっていられない。「……ああ」 デスクの引き出しに入れておいた携帯電話の電源を入れて、小さく声を洩らす。千尋からの留守電を聞いた和彦は、仮眠室に入ってから電話をかける。待ちかねていたように、千尋はすぐに電話に出た。「今、話して大丈夫なのか?」『うん。じいちゃんが使っている個室にいるから、平気。そのじいちゃんは、検査に行ってるよ。先生から説明受けたけど、心電図をとる機械をつけたまま、明日まで過ごすんだって』「それで、会長の様子は?」 一度はベッドに腰掛けた和彦だが、外が気になって窓を開けてみる。相変わらず天気は悪いが、雨は降っていない。午後から天候が荒れるのではないかと、ふと考える。昨日から今日まで気忙しく過ごしていたため、天気予報を見ていないのだ。『心配ないよ。調子が悪そうって感じでもないし、泰然自若としてる。むしろ俺のほうが、何かあるんじゃないかって、緊張で胃がキリキリしてさ』「怖いことを言うなよ。ぼくまで胃がどうにかなるだろ」『――心配してくれてる? じいちゃんと

  • 血と束縛と   第31話(6)

    **** 翌朝、病院に向かう守光を見送った和彦は、慌しく出勤の準備を整える。 長嶺の本宅から出勤することは、すでにもう珍しくもなく、図々しい話だが、もう一つの自宅のような感覚さえある。だがさすがに、総和会本部からの出勤となると、勝手がまったく違う。 一挙手一投足を観察されているようでもあるし、主がいなくなった住居を、自分が自由に使える状況にあるというのも、なんだか居心地が悪い。そもそもこの特権は、和彦が守光のオンナであることで、得られているのだ。 いまさら、他人からどう思われようが、気にかける時期は過ぎているのであろうが――。 アタッシェケースを持って玄関を出た和彦を出迎えてくれたのは、守光の身の回りの世話をしている男だった。守光に同行するのかと思っていたが、あくまで男の仕事は、守光の住居空間を守ることにあり、この建物を一歩出てからのことは、護衛担当の者たちに任せるのだそうだ。「そうはいっても、病院は完全看護なので、護衛ができることは病院の外を張って、人の出入りを確認するだけです。検査の間は、千尋さんが付き添ってくださるそうですが」 エレベーターに乗り込みながらそう説明を受けた和彦は、総和会だけではなく、長嶺組も大変だなと思う。総和会にとっては会長である守光が、長嶺組にとっては跡目である千尋が気がかりだろう。この二人がともに行動するとなれば、普段であれば大勢の護衛が周囲を囲むのに、病院では二人だけなのだ。しかも夜は、守光は一人で病室で過ごすことになる。「それは心配ですね……」「長嶺会長の代になってから、総和会という組織そのものは融和を謳って、対外的には穏やかな姿勢を取っています。そのおかげで、敵対行動を取られることはずいぶん減りました。ただ、総和会を今の形に作り上げるために、長嶺会長自らは、厳しい姿勢を見せることがありました。我々が危惧しているのは、組織の外よりも――」 男はここで言葉を呑み込む。しかし和彦は、続きの言葉を察することはできた。これまで、守光本人だけではなく、賢吾や千尋もそれとなく匂わせてきたことだ。「今、長嶺会長に何かあれば、総和会内は

  • 血と束縛と   第31話(5)

     低く抑えた声が空気を微かに震わせる。和彦の肩も。「会長の……、様子が気になったものですから……」「そうか。だったら部屋に入ってくれ」「……いいんですか?」「いいも何も、あんたは医者だろ」 歯を剥き出すようにして南郷が笑う。バカにされたように感じたが、単なる被害妄想かもしれない。考え過ぎということにして、わずかに開いた襖の隙間から、守光の部屋を覗く。スタンド照明のほのかな明かりのおかげで、休んでいる守光の様子を見ることができた。 さらに襖を開けた和彦は、身を滑り込ませるようにして部屋に入る。逡巡したが、結局、襖を完全に閉めてから、守光が横たわっている布団に静かに歩み寄った。 傍らに座ると、眠っているとばかり思っていた守光が目を開ける。驚いて咄嗟に言葉が出ない和彦に、守光が話しかけてきた。「様子を見に来てくれたのか、先生」「……すみません。脈だけ測らせてもらおうと思ったんですが、起こしてしまいましたね」「気にしないでくれ。目を閉じてはいたが、眠っていたわけじゃない」 布団の下から守光が片手を出したので、さっそく和彦は脈拍を測る。呼吸も安定しているので、急を要する状態にはなっていないようだ。守光の手を布団の中に戻そうとして、軽く指を掴まれた。ハッとして守光を見ると、もう目を閉じている。和彦は、守光の手を握った。なんだか、不思議な感覚だった。「――……ぼくは、家族の看病というものをしたことがないんです。それどころか、誰かが体調を崩しても、心配して枕元に近寄ることもできなかった。ぼく以外の家族間で心配して、看病をしていました。だから正直、家族の体調を気遣うという感覚が、よくわからない。医者として患者を気遣うのと、どう違うのだろうかと、大学に通っていた頃や、医者になったばかりの頃は、不思議でした」 迷惑だろうかと思いつつ話しかけると、目を閉じたまま守光は笑った。「今は、わかるのかね?」「今も、正直不思議な感覚です。他人のぼくが、こうしてあなたの側にいるのは

  • 血と束縛と   第14話(39)

    「呆れた。そんなことまで調べたのか」「大事なオンナのことは、なんでも知りたい性質なんだ」 そう言いながら賢吾の手が柔らかな膨らみにかかり、残酷なほど優しい手つきで揉みしだかれる。たまらず甲高い嬌声を上げた和彦は、両足を開いたまま仰け反る。腰が震えるほどの強烈な快感だった。「捜さないでくれと先生が言い張ったら、佐伯家は引き下がると思うか?」「あの家の人間は……、ぼくの意見になんて耳を貸さない。ぼくを、好きに扱える人形ぐらいに、思っている……」「憎まれ口を叩くくせに、いやらしく

    last update最後更新 : 2026-03-30
  • 血と束縛と   第14話(21)

    「前に先生に飲ませた薬です。先生が服用している安定剤より、少し効き目が強いですが……それはご存知ですよね?」 どうしてそんなものを飲ませたのかと、秦を睨みつける。体は確かに眠りたがっているが、悪夢を見たくなくて、和彦は自分に処方された安定剤すら飲んでいなかったのだ。 秦は、和彦のきつい眼差しを平然と受け止め、愛撫を再開する。胸元に唇を押し当てながら、熱くなって震えているものを再び扱き始めた。もちろん内奥では、ローターが小刻みに、激しく振動している。「嫌な夢を見て憂鬱になるというなら、誰かに側にいてもらえばいいんですよ、先生」

    last update最後更新 : 2026-03-30
  • 血と束縛と   第13話(32)

     急に引き返したい気分になったが、それはできない。嫌になるほどヤクザの思考に染まっていると思うが、和彦は、賢吾だけでなく、鷹津の面子のことも考えていた。面子を潰された男は――怖い獣になる。 長嶺組が取ったという部屋は、男二人が寝ても持て余しそうな広いベッドがある、ダブルルームだった。大きな窓から見渡せる風景は感嘆するほどで、この眺望込みで、部屋の料金は安くないだろう。すでにワインまで準備されていた。 この部屋は、鷹津のためというより、和彦のために用意されたようだった。部屋を見回して感じるのは、和彦を安く扱う気はないという意思だ。「俺は、ホテルの部屋を取

    last update最後更新 : 2026-03-29
  • 血と束縛と   第13話(11)

    ****「――俺との約束を忘れたのかと思ったぞ」 春巻を一口食べて、味に納得したように頷いてから、唐突に澤村が切り出す。和彦は苦笑を洩らしながら、酢豚を堪能する。値段が手頃なランチメニューなのだが、値段以上の価値がある味だ。 先日、中嶋に連れてきてもらってディナーを食べた中華料理店に、ぜひもう一度訪れたいと思っていたところだったので、澤村とランチを一緒に、という約束を果たすには、うってつけの店だろう。 店はホテル内にあるため、常にさまざまな人が行き交っている。そのため、護衛をホテルの駐車場

    last update最後更新 : 2026-03-29
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