LOGIN「まったくだ。おかげで、俺もオヤジも妻帯はしたが失敗した。長嶺の家のやり方を、とことん嫌悪されてな。それでも、自分たちの血を継ぐものを残すことはできた。だが、それだけじゃ満足できないんだ。少なくとも俺は、先生の存在を知ってから、先生込みの将来を、夢見ている」
甘い毒を含んだ台詞に、少なからず和彦の気持ちはくすぐられるが、のぼせ上がるほど無邪気でもなかった。長嶺の男たちの毒を、これまでもたっぷり吸い込んできて、免疫ができつつあった。「利用する気たっぷりのくせに。あんたが最初にどんな手を使って、ぼくの行き場をなくしたのか、よく覚えているからな。それに、逃げられないよう、何をしたのかも」 強い眼差しを向けながら、淡々とした口調で告げると、賢吾は悪びれることなくニヤリと笑った。「先生は、甘い地獄に落としたほうが、本性が露わになると思ったんだ。優しげで品のある風情のまま、淫奔に男を咥え込んで、骨抜きにしていく。――今いる世界のほうが性に合っていると、心のどこかで感じているんじゃないか?」「否定したところで、聞く耳なんて持たないくせ「なんだか先生、すっかり心配性になりましたね。俺のことは心配しなくても大丈夫ですよ。少なくとも先生のせいで、俺の立場が悪くなることはありませんから」「……感覚がよく掴めないんだ。ぼくの言動が、周囲にどういう影響を与えるか。長嶺組とだけ関わっているときは、まだ平気だったんだ。だけど……」「総和会――というより、長嶺会長と関わると、自分の存在の大きさがわからなくなりますか」「実体や実力以上の影響力を得たようで、怖くなる。ぼくにその気がなくても、誰かを傷つけるかもしれない」 エレベーターが最上階に到着し、先に降りた中嶋が慎重に辺りをうかがってから、こちらに向かって頷く。 秦の部屋は、前回訪れたときからあまり様子は変わっていないように見えた。秦自身が、仕事で出張の多い生活を送っているせいもあるだろうが、中嶋が主に代わってきちんと管理しているのかもしれない。「きれいなままだな」「隣の部屋は覗かないでくださいね。秦さんが、雑貨の商品サンプルを溜め込んでいるんで」 和彦は思わず噴き出してしまう。「すっかり雑貨屋の経営者だな」「こまごまとした商品を扱うと手間がかかると、よくぼやいていますよ。でも、利益はけっこう出しているようです。――どんな雑貨を扱っているんだか」 中嶋から意味ありげな流し目を向けられ、和彦は苦笑で返す。「ぼくは何も知らないからな。秘密主義の男たちが顔寄せ合って相談したんだろうから、探ろうという気にもならない」「先生、隠し事に向かないタイプですから、それでいいかもしれませんね」 いろいろと身に覚えがある和彦は、あえて返事は避けておく。 中嶋を手伝い、買ってきたものをさっそく温め直したり、皿に盛り付けたりして、ラグの上に並べていく。 ハンバーガーにかぶりつく和彦を、中嶋はいくぶん呆れた様子で眺めながら、フライドポテトを口に放り込む。「こういうもので喜んでくれるなら、俺に言ってくれれば、いつでも買ってきて、配達しますよ」「……会長の部屋で、ハンバーガーの匂いをプンプンさ
恨みがましいことを洩らすと、宿での出来事を思い出したのか、中嶋は軽く眉をひそめた。「俺たちは、遊撃隊と名がついているだけあって、本来は自由に動いて、状況に応じて必要な任務にあたるのが役目です。会長には専従の護衛もいますから、そもそも南郷さんが常に会長についている必要もなかったはず。だから本当の目的は別にあったんじゃないかと言われています」「別?」「総和会の中での、南郷さんの存在をアピールするため、と。今の隊に入って、よくわかりますよ。会長は、南郷さんを特別扱いしています。お気に入りという表現では足りないぐらい。先生には申し訳ないですが、宿での、お二人のやり取りを見て、俺は実感しましたよ。会長にとって南郷さんは、本当に特別なんだと。あの南郷さんが、なんの考えもなく、先生にあんなことをするはずがありません」 中嶋の言う通りだった。南郷は、守光から何かしらの許可を得たうえで、和彦に意図を持って触れているのだ。先日の二人がかりでの仕置きは、ある意味答えになっていると言えた。 守光は、南郷と和彦を共有することさえ厭わないのではないか――。 直視を避けていた可能性が、ふとした瞬間に眼前に突きつけられ、ゾッとする。当然こんな恐ろしいことを守光に確認はできなかった。「先生、大丈夫ですか?」 よほど顔が強張っていたのか、信号待ちで車が停まると、中嶋に顔を覗き込まれる。和彦は緩慢な動作で中嶋を見やり、いまさらなことを尋ねた。「宿の件でのことで、南郷さんから何か言われなかったか? 君は事故に出くわしたようなものなのに、もし立場が悪くなったりしたら申し訳ない……」「先生が心配するようなことはありませんよ。少なくとも俺は、こうして先生の遊び相手として呼ばれているわけですから。まあ、先生のご機嫌のために俺は必要と思われているんでしょう」「……だとしたら、ぼくがわがままだと思われるのは、少しは利点があるということか」 苦々しく呟いた和彦は、もう一度背後を振り返る。やはり、それらしい車を見つけることはできなかった。「護衛がついてきているんだとしたら、店の中までついてくるんだろうな&
**** ひたすら慌しかった盆休みが終わり、和彦にとっての日常が訪れた。 クリニックに出勤しているほうが人心地つけるというのも妙な話だが、盆休みの間、長嶺組や総和会の事情に振り回され、極道の空気というものを堪能した身としては、スタッフや患者たちに囲まれていると、身に溜まった〈毒〉が薄まっていく気がするのだ。「毒、か――……」 遠慮ない表現が自分でおかしくて、車の後部座席で笑いを噛み殺す。だがすぐに、あることを思い出し、今度は苦虫を噛み潰したような顔となってしまう。 自分の中に何度となく注ぎ込まれている毒が、ドロリと蠢いたようだった。守光は〈血〉だと言ったが、きっと毒気を帯びている。 こんなことを考えて暗澹たる気分になるのは、きっと気分転換をしていないせいだ。宿に泊まり、海で泳いだではないかと言われるかもしれないが、それでも気は抜けなかったのだ。身近に守光や賢吾がいるということは、心強い反面、息苦しさもある。 これはわがままなのだろうかと思ったが、すぐに、これぐらいのわがままは許されてもいいではないかと、心の中で強弁する。 とにかく、息抜きがしたかった。 そう結論を出した和彦は、ふっと息を吐き出す。機微に聡い守光と向き合って夕食をとるのは、こういう心理状態のときには負担になる。心の奥底までさらわれているような気になるのだ。 本部に帰宅した和彦は、出迎えてくれた吾川から思いがけないことを聞かされた。「会長は今晩は、戻られないんですか……?」「予定より会合が長引いたということで、現地で一泊されることにしたそうです。相手方は、長嶺会長とも旧知の仲で信頼のおける方ですし、何より、日が落ちてからの移動は、やむをえない事情以外では避けたいものです」「……そうですか」 車中で考えたこともあり、和彦の表情はつい複雑なものになる。「本日は、佐伯先生に合わせて夕食もご用意させていただきますので、何か要望がございましたら――」「だったら今晩は、外で食事を済ませた
** 南郷から、和彦が夏バテ気味だと進言があったのか、その日の夕食には、和彦の分だけ料理の品数が多かった。しかも、精がつくと言われる食材を使ったものばかり。 あの男なりに、和彦のことに気をつかっているというのは本当なのだろう。だが、あまりに無遠慮で、無神経すぎる。わざと和彦の反感を煽り、その反応を楽しんでいるのだ。 意識しないまま箸を持つ手を止めていたらしく、正面の席につく守光に声をかけられた。「何か嫌いなものでも出ているかね」 ハッとした和彦は慌てて首を横に振る。「いえ、大丈夫です。……食事にずいぶん気をつかってもらっているなと思ったものですから」「あんたには何より体を大事にしてもらわんといけないからな。食べたいものがあれば、遠慮なく吾川に言うといい」「体は平気です。今日はたまたま車に酔っただけなので」 ここで新しいクリニックについて守光から触れるかと内心身構えたが、意外なほどあっさりと受け流された。 守光が目を細めるようにして、じっと和彦を見つめる。「わしらが連れ回したせいで、この何日かで、すっかり日に焼けたな、先生」 和彦は思わず自分の腕を眺める。言われてみればという程度だが、例年に比べれば、確かに少し日焼けした。「いつになく夏を堪能した気がします。海でも泳げましたし」「千尋も、泳げはしなかったが、ずいぶん楽しかったようだ。あんたと一緒だったというのが、何よりだったんだろう」「かなりはしゃいでいて、海で水遊びをしているときは、ヒヤヒヤしました」 楽しげに声を上げて守光が笑う。 こうして向き合って食事をしていると、不思議な感覚に襲われる。ほんの数日前、和彦は長嶺の男たちと交わり、最後に精を注ぎ込んできたのが守光だった。淫靡で背徳的な行為だったはずなのに、一方で厳粛な雰囲気が漂っていたのは、守光の存在があったからだ。 総和会の頂点に立つ男が加わったことで、あの行為は儀式として成り立った。和彦と長嶺の男たちの関係をより深く、濃密に結びつけた。 目の前の人物との関係が、また変わってしまったの
南郷に言われると妙な言葉だと思ったが、顔には出さないでおく。 和彦はさりげなく距離を取ろうとしたが、当然のように南郷はついてきて、駐車場の隅に置かれたベンチに並んで腰掛けることになる。二人きりなら、いくらでも素っ気ない態度が取れるが、今日はそうではない。南郷の部下たちの前で、南郷本人の面子を潰すマネはしたくなかった。「夏バテじゃないのか。今ですら、忙しいと思っているかもしれないが、これからますます忙しくなるぞ、あんた。しっかり食って、体力をつけておかないと」「……新しいクリニックのことを言っているのなら、ぼくはまだ引き受けると決めたわけじゃないので……」 断れると思っているのかと言いたげに、南郷は薄笑いを浮かべた。一瞬ムキになりかけた和彦だが、ギリギリのところで堪える。「総和会から大事にされる代わりに、思い通りにいかなくなることが、いくつか出てくるだろう。こうやって、休みの日に外に引っ張り出されるとか」「それは、長嶺組でも似たような状況なので……」「――大事な男と引き離されるなんてことも、あるかもな」 和彦は、弾かれたように立ち上がり、南郷を睨みつける。誰のことを指しているのか、即座にわかったのだ。南郷は憎たらしいほど落ち着いていた。「あんたと三田村さんがどれだけ熱い仲かってのは、俺もよく知ってる。オヤジさんも一応容認はしているようだが、それは、これまでの話だ。あんたは、長嶺の男たちだけじゃなく、総和会にとって大事な人になりつつある。あんたのために、総和会の人間が命を張るようになるんだ」 背もたれに腕をかけ、南郷がじっと見上げてくる。立っている和彦のほうが目線の位置は高いのに、向けられる眼差しの迫力に、見えない手で頭を押さえつけられそうだった。「そんなあんたと、長嶺組傘下の城東会若頭補佐という肩書きを持っているとはいえ一介の組員とじゃ、釣り合いが取れない――と考える奴も出てくるだろう。総和会ってのは、とにかくプライドの高い連中が揃っているんだ。総和会が一番、その中で、うちの組が一番、とな。オヤジさんは、あくまで総和会の人だ。そんな人がオンナにして
急に南郷が振り返り、藤倉に向かって首を横に振る。藤倉は、あっ、と声を上げたあと、苦笑いを浮かべた。「ああ、まだお伝えしていないんですか」「会長なりにタイミングを見計らっているんでしょう」「なるほど。わたしなどが余計なことを言うべきじゃありませんでしたね」 意味ありげな二人のやり取りを聞いて、和彦はまたシートから体を起こすことになる。明らかに和彦に関わりのあることなのに、どうやら教えてはくれないらしい。 南郷がこちらを見て、唇の端に笑みらしきものを刻んだ。「隠し事ばかりするな、と言いたげな顔だ、先生」「……いえ」「心配しなくても、これから先、あんたが知りたがることはたいていのことは教えてやれる。さしあたりまずは、このドライブの目的だな」 車は一時間近く走り続けたあと、あるショッピングセンターの駐車場へと入る。まさか、この面子でのんびりショッピングということは考えられないので、ここでドライブの目的が判明するのだろう。和彦は、藤倉と並んで歩き、南郷と隊員たちは、少し距離を空けてついてくる。 駐車場を出て数分ほど歩いたところで、藤倉はあるビルの前で足を止めた。正面玄関の閉じた自動ドアの前に不動産屋の札がかかっており、中はガランとしている。「――ここがまず、見学する物件の一つ目になります。ショッピングセンターの近くということで、人や車の通りが多いですね。前は、代々続く整形外科医院だったそうで、確かに建物は少し古い。ただ、場所はいいので、デベロッパーも早めの契約を望んでいます」 淀みなく説明を始めた藤倉に面食らう。一体何事かと思ったが、少し考えれば、嫌でも答えは見えてきた。和彦はおそるおそる空き地を眺めてから、藤倉に確認をする。「もしかしてここに、総和会のクリニックを……?」「あくまで候補の一つですが。それと、総和会のクリニックというより、佐伯先生のためのクリニックと考えてください。もっとも、長嶺組のクリニック同様、名義上の経営者は別人となりますし、院長も同様です。何があっても、佐伯先生の名が表に出ることはありません」 陽射しの強さもあっ
長嶺組という看板に守られている和彦は、エレベーターの中で南郷に話しかけられたとき、ひどく不安だった。その理由が、今ならわかる。 長嶺組を恐れない男の前では、自分があまりに無防備で、危険を避けようとする本能が働いたのだ。 力があるのは長嶺組の男たちで、和彦自身ではない。頭ではわかっていても、あまりに周囲の男たちから大事にされ、少し浮かれていたのかもしれない。 「――……やっぱり、ヤクザは怖いな……」 声に出して呟いて、苦々しく唇を歪める。 カーテンを開けたままの窓から夕日が差し込む。眠るには明るすぎる気もするが、もう起き上がるのも
ハッとして顔を上げると、大きく分厚い手が眼前に迫っていた。何が起こっているのか理解できず、ただ本能的に危険を感じて体が硬直する。それをいいことに、南郷が和彦の髪を撫でてきた。 和彦の運転手を兼ねている総和会の組員は、扉の前に立ってこちらに背を向けているため、何が起こっているか気づいていないようだ。仮に何か感じていても、南郷のような男が背後に立っていては気をつかい、振り返るのをためらうだろう。 たった一声上げればいいはずなのに、和彦は唇を動かすことすらできなかった。南郷の手つきが無造作で、次の瞬間には髪を鷲掴まれ、引き抜かれそうで怖かったのだ。このときになって和彦
ヤクザなんて食えない男たちばかりだと思っていたが、自分も立派にその一員だ。半ば自嘲気味にそう思った和彦だが、このしたたかさは賢吾によって磨かれたものだと感じ、感慨深さも覚える。 賢吾はきっと、中嶋と関係を持つことを許してくれると、確信があった。あの男は、和彦の淫奔さとしたたかさを愛でている。「――それで手を打とう」 和彦が答えると、まるで契約を交わすように中嶋がそっと唇を重ねてきた。** ジムでシャワーを浴びるたびに、中嶋の体は見ていた。細身だがしなやかな筋肉に覆われて、いかにも機能的に鍛えており、鑑賞
『脇腹を刺されたということです。刺された本人が、自分で車を運転して事務所に戻ってきたということなんですが……』 事情を聞く前に刺された本人は気を失い、傷口もひどい有り様だということで、和彦を呼ぶことになったらしい。 患者の様子を聞きながら和彦は、治療に必要なものを組員に告げる。 自分のクリニックだからといって、納入された薬や医療用品を自由に持ち出せるわけではない。むしろ、すべての在庫を管理して、常に詳細な数を把握しておく必要がある。表向きは健全なクリニックとしては、これは当然の処理だ。一方で、組関係の仕事のために、帳簿に載ら