LOGIN「今さっき言ったばかりなのに、君はまだ、おれを高潔な男だと思っているんだね」
ようやく肩から手が離れたかと思うと、スッと頬を撫でられる。和彦が顔を上げると、里見は、今度は頬を包み込むようにてのひらを押し当ててきた。冷たくなった頬に、じんわりと里見の体温が伝わってくる。 和彦は自分から、ふらりと里見に身を寄せていた。「おれは十三年前に君と離れてからも、一度だって君を想わない日はなかった。君の姿が、記憶から薄れていくのが嫌で、最低なこともした。いや、している」「何? 最低なことって……」 それは、と洩らして唇を引き結んだ里見だが、和彦が向ける眼差しに決意を促されたように、再び口を開いた。「おれは、君の――」 次の瞬間、里見の言葉を遮るものがあった。まるで獣が唸ったような、獰猛な声が割って入ったのだ。「これから駆け落ちでもしようかって雰囲気だな、お二人さん」 和彦と里見は、声がしたほうを同時に見る。いつからいたのか、坂を下った先に南郷が立っていた。威嚇** ざっとシャワーを浴びて出た和彦は、借りたTシャツと七分丈パンツのサイズの大きさを気にしながら、二階へと上がる。勝手知ったるというわけではないが、いまさら遠慮しても仕方がない。前回、自分が宿泊に使った部屋に入ると、ずいぶん片付いていた。子供用のテーブルやイス、絵本が埃を被っていた棚などがなくなって、使えるスペースが広がっている。なぜかオルガンやロッカーはそのまま。どんな心境の変化があったのか、折り畳みベッドに代わって、大きなベッドが窓の近くに置いてある。 サイドテーブルの代用らしく、ひっくり返したプラスチック製のコンテナがベッドの傍らにあり、その上にタブレットと、一週間近く前のスポーツ新聞が。一応寝泊まりに使っているようだ。〈寮〉の立派な私室とはあまりに様子が違うが、これもまた南郷の一面だろう。部屋の主の姿が見えないのをいいことに、広くなった室内を歩き回る。殺風景にもほどがあり、庭の手入れに対する熱意を、もう少し室内のほうにも向けたらどうかと、余計なお世話ながら考えていた。 開け放たれた窓から爽やかな風が吹き込んでくる。陽射しもたっぷり降り注いでおり、これなら庭に干した服もすぐに乾くはずだ。そっと目を細めた和彦は、辺りを見回しイスを探してから、仕方なくベッドの端に腰を下ろす。 首にかけたタオルで濡れた髪を雑に拭いていて、スマートフォンを手元に持ってきていないことを思い出した。庭での作業中に邪魔になり、下駄箱の上に置いたのだ。一緒にプールに落ちなくて済んだので、結果としてよかった。「――先生、何か飲むか?」 ブラックコーヒーの缶を手に、南郷も部屋にやってくる。和彦は露骨に顔を背けた。「帰るまで話しかけないでください。……さっきプールに突き落とされたこと、怒ってるんですからね」「怒ってる、か。お可愛いことだな」 反省してくださいと呟くと、まったく悪びれることなく南郷が、コンテナに缶コーヒーを置きながら応じる。「あんたが鈍臭いのが悪い」「というか、プールを出すのが早いんですよ。まだ5月ですよ」「そこは怒るところじゃないだろ」 前触れもなかった。和彦は
変な話なのだ。賢吾自身は総和会という組織を忌避したがっていながら、他者によって排除される形は望ましくない。本人の望むと望まざるとに関わらず、賢吾は総和会に必要不可欠な存在であり続けなければならない。「それは、長嶺組長に直接言うべきことじゃないですか。ぼくが決めることでは――」「この場でカマトトぶるのはやめようぜ。あんたが総和会の人質という形を取り続ける限り、長嶺組長は総和会の中で力を持ち続けないといけない。オヤジさんの引退後を見据えてな。あんたもそれをわかっている。力のある存在に寄り添うことで、安全が図られると。あんたが長嶺の男と縁を切らない限り、これは絶対だ」 南郷がプールの縁からゆらりと立ち上がり、一歩を踏み出す。大きな獣のような男が放つ凄みに圧されて和彦は後退ったが、ビーチチェアに当たってよろめく。さきほどと同じく、南郷に腕を掴まれ支えられた。「あんたは本当に危なっかしい。側に付き添う男は多ければ多いほどいいな」 自分もそこに加えろと南郷は言っていた。長嶺の男を――賢吾を守るために。「一言、長嶺組長を守れと、俺に頼めばいい。これは、長嶺組長の意思は関係ない。あんたが頼めば、俺は従うことができる。大蛇の化身のような男に、俺の命が使える」「……死にたいんですか?」 南郷は鼻先で笑った。「言ったろ、これが俺の性癖だと。惚れた男にボロ雑巾のように使い潰されたい。だが、命を安売りするつもりもない。俺の長寿のために、長嶺組長にはしっかり長生きしてもらわないとな」 皮肉げに唇を歪める南郷を見ていてふと、守光が語っていた言葉を思い出す。『――そして賢吾は知るだろう。ある男の、人生を賭けた献身をな』 あのときすでに、和彦はぼんやりと南郷であろうと予測はしていたが、同時に、なぜとも思っていた。 今、南郷自身が、理由を口にしたのだ。「要は……マゾなんですね、南郷さん。長嶺組長限定で」 これまでされたことへの意趣返しのつもりはなかったが、口を突いて出た言葉に、南郷は苦笑いに近い表情を浮かべた。ただし一瞬だ。次の瞬間には、獲物を狙う狡猾な光が両目
趣味が悪いと言えたジャージから着替えた南郷は、Tシャツに膝までのハーフパンツ姿となっている。すでに初夏ともいえる陽気では、こちらの格好のほうが相応しいし、妙に似合っていた。「――……密談がしたくて、ここに連れてきたんですよね?」 和彦から切り出すと、南郷は皮肉っぽく唇を歪めて笑う。「俺は、あんたの後見人だ。あくまで総和会の中での呼称ということで、法的根拠なんてまったくない肩書きだが、この世界ではけっこうな力を持つ――と、俺とオヤジさんは考えた」「ぼくを総和会という組織に雁字搦めにしたいんですよね」「いい表現ではないな。あんたを守ろうとしているのに。ただこれは、誰にとってもわかりやすい話ではあるんだ。佐伯和彦の立場は、俺がいる限り守られると」「……長嶺会長ではなく?」「もちろん、オヤジさんが会長の座にいる限りは、そのとおりだ。しかしそれも、長くて数年だ。俺たちは、そのあとを気にかけている。誰があんたを守る?」 妙なことを言うと、和彦はため息をつく。「だったらぼくは、総和会と距離を置くだけです。長嶺組長の姿勢に倣います」「総和会は、長嶺組長を離さんよ。互助会というのは、そういうものだ。組同士の話じゃない。総和会という組織が生きるために、十一の組を必要としている。長嶺組は特に、総和会の中心部に据えられている。そういう組織に、オヤジさんが造り替えた。なのに、長嶺組長自身は今のところ、総和会の運営に積極的に加わっていない。ちぐはぐな状況だと思わないか?」「そこでぼくが必要になる。人質のようなものですよね」 和彦も賢吾も、それは理解しているのだ。現状、受け入れるしかない。「そのあたりのことに気づいて、あんたを利用しようとする人間がいるかもしれない。害しようとする人間がいるかもしれない。だから俺という後見人が必要になる。もっとわかりやすく言うなら、弾除けだな」 ゆっくりと目を見開く和彦の前で、南郷は手慰みのようにプールの水に指先を浸す。 和彦はそっと目を細めて、南郷の様子を観察しつつ、ここまでのやり取りを頭の中で反芻する。今南郷に言われたこ
南郷は、いかに熱心に作業に打ち込んでいたか物語るように、ジャージが泥だらけだった。用具を片付けてから和彦が外水道で手を洗っていると、南郷は縁側に腰掛けて長靴を脱ぎ始める。「先生、シャワーを浴びてくる。適当に休んでいてくれ」「……ごゆっくりどうぞ」 素っ気なく応じた和彦に、南郷が薄い笑みを浮かべる。「ここの屋上に、ちょっとおもしろいものがある。気が向いたら見てきたらどうだ」 そんな言葉を残して南郷が行ってしまう。気は向きませんと心の中で応じて一旦は縁側に腰を下ろした和彦だが、屋上まで上がってちらりと見るくらいなら、数分ほどで済むのではないかとふと思ってしまう。 結局、自分の好奇心の強さを咎めながらも、速やかに行動に移す。子供の足に合わせた低い階段を一段飛ばしで三階に上がって屋上に出ると、途端に強い光の反射に目が眩む。「これ……」 何かと思えば、プールに張られた水が陽射しを受けてきらめいていた。組立式のプールだが、幼児なら十人は余裕で遊べそうな大きさで、水はきれいに澄んでいる。雨水が溜まったものではないのは明らかで、つまり、南郷が準備したということになる。プールの傍らには斜めに差したパラソルとビーチチェアがあり、ずいぶんとここで過ごす時間を楽しんでいるようだ。「何やってるんだ、あの人」 ぽつりと呟いた和彦は、ビーチチェアに腰掛ける。座り心地は悪くなかった。プールを眺めていると、かつてここで遊んでいたであろう子供たちの姿がありありと想像できる。 すぐに庭に戻るつもりだったはずが、疲れもあってすっかり腰に根が生えたように動けなくなっていた。「――ここを買い取ったときに、倉庫に押し込んであったんだ」 パラソル越しにふいに南郷に話しかけられる。「プールを出すには早くないですか?」「入りはしない。ただ、眺めているだけだ。いろいろ考えながら。例えば……、俺ももういい歳で、庭の広い家を建てて、こんなふうにプールを出して我が子に水遊びをさせていた人生もあったかもしれない、とかな」「…&hell
要領が悪い自分ではなく、その人に植え付けの手伝いも頼めばよかったのでは、と和彦の頭に疑問が浮かんだが、口には出さない。あえて虎の尾は踏みたくなかった。南郷の場合、百足だが。 急にうすら寒さを覚えて身震いした和彦は、南郷に指示されるまま長靴に履き替え、軍手をする。外水道に長いホースを取りつけ、ずるずると引っ張りながら、ポットや鉢に植えられた苗木に水をかけていく。一方の南郷は地面に穴を掘り始める。 二人は黙々と作業を続ける。着ているものが汚れそうな作業は基本的に南郷がこなし、和彦は水を撒くか、苗木を運ぶ程度の軽作業だ。 南郷は掘った穴に、腐葉土と堆肥を景気よく入れて混ぜる。腰の入ったシャベル使いに、つい和彦は声をかけていた。「ほぼ素人とか言ってたわりに、慣れてますよね」「穴を掘るのは、な。何も植物を植えるためだけじゃないからな」 すぐに不穏な想像をしてしまい、うっ、と声を洩らす。すると南郷が小馬鹿にするような一瞥を寄越してきた。「想像力が豊かだな、先生」「……ぼく、何も言ってませんよ」「言ってるようなものだ」 もう少し人の神経を逆撫でしない会話ができないものだろうかと、心の中で抗議する。「――あんた相手なら、偉そうに踏ん反り返るふりも、格好をつける必要もないから、作業に没頭できていい。隊の連中が一緒だと、隊長の手を汚させるわけにはいかない。自分たちがやるからと言って、シャベルを取り上げられるからな」「それ遠回しに、ぼくは気が利かないと言ってます?」「あんたは、それでいいだろ。周りの男たちに甲斐甲斐しく世話されるのが似合ってる。男たちのほうも、そのほうが安心できる。あんたは天性のタラシという役割を、俺は偉そうな隊長という役割を務めてるってだけだ」 水を含んで土が柔らかくなった苗木をポットから丁寧に抜き出し、根を切らないよう解していく。「そっちの鉢のほうは、そのままでいい。鉢でしばらく育てて様子を見る」「はいはい」 和彦のおぼつかない手つきに待てなくなったのか、土にシャベルを突き立ててから、南郷もポットから苗木を抜き取っていく。
ひとまず長嶺組には状況と現在地を知らせておこうと、スマートフォンで素早くメッセージを打ち込んで送信する。そこに、大きな足音を立てて南郷が一階に下りてきて、サンダルに履き替えて庭に出てくる。和彦を探すように辺りを見回してから、縁側に目をとめる。なぜか、ニヤリと笑いかけられた。 作業に入る前に昼食をとると言われ、ここに来る途中の弁当屋で購入した弁当を、縁側に並んで腰かけて食べる。大きな体を維持するのにエネルギーが必要なのか、南郷は焼肉弁当二つに手をつけている。ちなみに和彦は幕の内弁当だ。 南郷の隣では食事が喉を通らないのではと危惧したが、朝早くから呼び出されて一仕事を終えたあとのため非常に空腹で、問題はなかった。自分の神経の図太さへの呆れは、ペットボトルのお茶と共に飲み下す。 食後のデザートだと、弁当屋のレジ横で売っていたという小さな大福も勧められるまま食べながら、和彦はぼんやりと庭を眺める。この庭で人が亡くなったという話を唐突に思い出して、無理やり頭から追い払う。「――もっと萎れているのかと思ったが、案外平気そうだな」 食後のたばこを吸いながら南郷に言われる。なんのことかと和彦は眉をひそめてから、やっと察した。「祖父のことでは、いろいろとお気遣いいただいて――」「ああ、いい。そんなつもりで言ったんじゃない。ただ、葬式から戻ってきて早々に仕事に引っ張り出されて、あんたも大変だと思ったんだ」 大変、と口中で反芻する。南郷から心労を慮られるというのも、正直なところ妙な感覚だ。これまで、誰よりも和彦に心的にも肉体的にも負担をかけてきたのは、間違いなくこの男なのだ。「理由があって、母方の実家とぼく個人はつき合いが希薄でしたから……。険悪だったというわけじゃないです。実際、年始に顔を合わせたときは、わだかまりもなかったですし。だから、ショックではあるんです。これからもっと親密につき合っていけると思っていたところだったので」「そうやって別れを惜しむ気持ちが持てたということは、あんたの祖父君は人格者だったんだろう……。っと、そうなると初七日も向こうに?」「いえ、連休明けにクリニックを再開しま