LOGIN「――今、先生の周りにいる男の中で、平気で甘えられる立場にいるのは自分しかいないとわかってるんだ、あいつは。その立場に優越感を持っていて、堪能している。可愛い外見に騙されるなよ。なんといってもあいつは、俺の息子だ」
「……念を押されなくてもわかっている」 いまさら意外でもないが、賢吾は、千尋をよく見て、把握していた。 少し外を出歩いてこようかと考えながら、窓を叩く雨を漫然と目で追っていた和彦だが、背後に気配を感じてハッとする。窓ガラスには、和彦のすぐ側に這い寄ってきた賢吾の姿が映っていた。まるで、獲物に忍び寄る獣の所作だ。 和彦が慌てて立ち上がろうとしたときには、伸ばされた両腕の中に捕えられ、背後から賢吾にしっかりと抱きすくめられていた。 反射的に抵抗しようとしたが、首筋に歯が立てられると、それだけで全身が痺れたようになり、動けない。和彦は、浴衣を割って入ってきた賢吾の手を、おとなしく両足の間に受け入れた。「うっ……」 無遠慮な手つきで下着を下「別荘を訪れた当初は、総和会から他に人は来ないのかと、やけに気にしている様子でしたが、すぐに警戒を解いたようです。三田村さんは……どうでしょう。あの人のポーカーフェイスから何かを読み取るのは、俺には無理です。もしかすると、先生とは違って、俺の存在を警戒していたかもしれません」 中嶋が話す内容を聞く限り、電話の相手に和彦たちの動向を報告しているようだった。そのことが自分でも意外なほど、ショックだった。 和彦の〈お守り〉という仕事のため、中嶋はこの別荘に滞在している。それは理解しているつもりだったが、夜中に人目を避けるように報告している現場に出くわすと、やはり思うことはある。ここでの言動は、すべて総和会に筒抜けだったかもしれないということで、和彦の中で湧き起こるのは、恥じらいや怒りという感情だった。 そんな和彦に追い討ちをかけるように、さらに中嶋が続ける。「しかし、こんな夜更けにまさか、南郷さんが電話に出るとは思いませんでした」『南郷』と聞いた途端、和彦はビクリと体を震わせる。このとき、心臓の鼓動も大きく跳ね上がった。わずかな空気の震えを感じ取ったのか、なんの前触れもなく中嶋が扉のほうを見て、軽く目を見開いた。が、動揺した素振りも見せずに電話を続ける。「とにかく、事件も事故も起こらなかったと報告できて、ほっとしています。もちろん、明日先生たちを見送るまで、気を抜くつもりはありませんが」 それから二、三言話してから、中嶋は電話を切った。意識しないまま息を詰めて立ち尽くしていた和彦は、この瞬間、ふっと糸が切れたように体から力を抜く。中嶋が悪びれた様子もなく笑いかけてきたので、今さら立ち去るわけにもいかず、リビングに足を踏み入れた。「いつもこの時間、隊に連絡を入れていたんです。せっかく先生がのんびりと過ごしているのに、目の前で無粋な話なんてできませんから」 こういうとき、中嶋の気質というのは得なのかもしれない。悪びれたふうもなく説明をされると、和彦としてはそうなのかと頷くしかない。立ち去るタイミングを失い、中嶋に手で示されたこともあり、スリッパを脱いでラグの上に座る。「――南郷さん、先生のことを気にしていましたよ」
思いがけない三田村の言葉に、きつい眼差しを向ける。「どうしてだ?」「……明日、長時間車に乗るんだ。体に負担がかかる」「いまさらだな。ぼくがそんなに柔じゃないのは、知ってるだろ」 和彦の眼差しを避けるように、三田村がわずかに顔を伏せる。その反応で薄々とながら、実は三田村が何を気にかけているか推測できた。夕方かかってきた賢吾からの電話だ。「もしかして、あんたにも、組長から電話がかかってきたのか?」「いや……」「でも、組長のことを気にしているだろ」 三田村は少し困ったような笑みを浮かべ、和彦の額に唇を押し当てた。「先生は鋭い」「鋭くなくてもわかる」 和彦を抱き締めたままじっとしていた三田村だが、深く息を吐き出したのをきっかけに、ぽつりと洩らした。「――……俺の〈痕跡〉をつけた先生を、組長の元に返すことが、いまさらながら怖くなった」 和彦は、三田村の頭を撫でながら応じる。「ここに来てから、あんたの本音をいくつも聞けた気がする。嫉妬したり、怖がったり……。ずっと、三田村将成という男は、寛容で優しくて、強いと思っていた」「がっかりしたか?」 まさか、と答えて和彦は笑う。「俺は、先生に嫌われたくない。そう思えば思うほど、自分のみっともないところを先生に見せていないことを痛感するんだ。先生を騙しているみたいで……」「ぼくなんて、あんたに初めて会ったときからずっと、みっともない姿を晒し続けている。そのうえ今じゃ、厄介で複雑な立場だ。それでもあんたは、こうして側にいるし、ぼくに触れてくれる」「……俺にとって、先生は特別だ。どんな姿だろうが、しっかりと目に焼き付けておきたいぐらい、貴重なんだ」「『どんな姿』でも?」 和彦の声に滲む猜疑心を感じ取ったのか、三田村は怖いほど真剣な顔となって応じた。「ああ」「だったら、信じる。その代わりあんたも、ぼく
『先生は薄情だ。離れてしまうと、もう目の前にいる男以外、どうでもよくなるんだろ』 ドキリとするようなことを言う賢吾だが、口調はあくまで楽しげだ。電話越しの和彦の反応をおもしろがっているのだろう。『四日間、のんびりできたようだな。その辺りは、自然だけはたっぷりあるが、言い換えるなら、それぐらいしかないような場所だ。退屈はしなかったか?』「いや……。三田村や中嶋くんに、ずいぶん気をつかってもらったから、楽しかった。連休中だから、車で少し出かければ、あちこちで何かしらイベントもやっていたし」『なんだったら、連休が終わるギリギリまでそこに滞在してもいいぞ』「その口ぶりだと、もしかして部屋の工事は終わったのか?」『とっくに。千尋だけじゃなく、俺もそろそろ先生の顔が見たくなった』 こういう場合、なんと答えればいいのだろうかと考えている間に、タイミングを失ってしまう。結局黙り込んでしまうと、電話の向こうで賢吾が低く笑い声を洩らした。『先生はそうでもないだろうが、やっぱり、側にいないと落ち着かないもんだ。――明日、戻ってこい』「……ああ」 電話を切った和彦は、いつの間にか自分にとって、長嶺の男の側が〈戻る場所〉になったのだと、唐突に実感していた。 連休が終わるまで別荘に滞在していいと言ったすぐあとに、当然のように、明日戻って来いと命令する賢吾の傲慢さに、ちらりと苦い表情を浮かべる。「ぼくの反応を、試したな……」 ギリギリまで滞在したいと和彦が言ったとしたら、賢吾はどう返事をしたのか、興味がある。もちろん、大蛇の化身のような男の反応を試す度胸は、和彦にはないが。 携帯電話をパンツのポケットに突っ込んだところで、気配を感じる。デッキチェアから身を乗り出して窓のほうを見ると、三田村が立っていた。窓は開けていたため、和彦が電話で話している声は聞こえていただろう。「――明日帰ってこいと言われた」 和彦が話しかけると、三田村もテラスに出て、側にやってくる。「先生のおかげで、のんびりと過ごせた」
連休中はどこかに出かけるのかと尋ねられ、まさか今のような状況になるとは思ってもいなかった和彦は、自宅でのんびりと過ごすと返信したのだ。一方の里見は、仕事が忙しくて休みどころではないらしい。 のんびり過ごすと返信した手前、いつ里見から連絡がきても応対できるようにと、こうして携帯電話を持ってきたのだが、三田村もともに過ごしているこの場所で、果たしてこれは正しい行動だったのだろうかと思わなくもない。「本当にぼくの生き方は、そういうことで成り立っているな。厄介で物騒な男たちの事情に雁字搦めになって、受け入れて、身を委ねて……」「そんなふうに言われると、俺の目の前にいる人は、自分の意思がなくて、弱いのかと思えますが、違いますよね。先生は、したたかでタフだ」「昔から、鍛えられているからな」 自分でもわかるほど素っ気なく応じて、携帯電話をナイトテーブルの上に戻すと、仰向けで再びベッドに横になり、窓の外に目を向ける。「……今は、甘やかされていると思っている。それに、いろいろと不便で窮屈なところもあるが、少なくとも、佐伯和彦という存在は認識されているし、必要ともされている」「その言い方だと、認識すらされていないときがあったみたいだ。――総和会も長嶺組も、徹底して先生のことは調べ上げているはずなのに、先生には秘密があるんじゃないか、なんてことを考えてしまいますよ」「そうだ。ぼくには、大きな秘密がある」 軽い口調で応じた和彦は、ニヤリと中嶋に笑いかける。虚をつかれたように目を丸くした中嶋だが、同じような笑みを返してきた。「聞いたところで、教えてくれないんでしょう。その様子だと」「冗談だ。本気にしないでくれ。ぼくは、長嶺の男に目をつけられるまでは、普通の暮らしをしていた、遊び好きの美容外科医だった。それだけだ……」 ふうん、と意味ありげに声を洩らして、中嶋が和彦の隣に横になる。ごろりと転がってうつ伏せになると、やはり窓のほうを見て目を細めた。「昼寝するには最高の陽気ですね。午前中は体を動かしたし、昼メシも食ったあとだし。俺も、釣ってきた魚の下処理
今回の別荘の滞在で、中嶋は世話係として本当にうってつけの人材だと、改めて感心する。一応、一人暮らし歴は長かったため、料理以外のことはソツなくこなせる和彦だが、三田村も中嶋も、器用さとマメさのレベルが違う。「君と三田村が側にいると、ぼくは一人暮らしでなんの経験を積んできたのか、という気になる……」 和彦の言葉に、中嶋は楽しげに声を上げて笑いながら、針に餌をつける。釣り竿を差し出されたので仕方なく受け取ると、無様な姿勢で湖に向けて仕掛けを投げた。「――先生は、それでいいんですよ。てきぱきと患者を治療して、クリニックの切り盛りまでして、そのうえ家事まで完璧にこなされると、世話を焼く人間がつまらない。少しぐらい隙があるほうが、かえって周囲から愛されるものです」 だったら自分は隙だらけだなと言いかけた和彦だが、それがとんでもなく自惚れた発言になることに気づく。寸前のところで別の言葉に言い換えた。「周囲にいるのがデキる男ばかりで、たっぷり甘やかされてるよ」 和彦の背後で中嶋が、クスッと笑い声を洩らした。もしかすると三田村も、唇を緩めるぐらいはしたかもしれないが、浮きの動きに集中する和彦には、そこまで確かめる余裕はなかった。** 開けた窓から入ってくる風があまりに心地よくて、スリッパを脱いだ和彦はベッドに転がる。そこで視界に飛び込んできたのは、ゆっくりと雲が流れていく青空と、緑豊かな山々だ。 ぼんやりと眺めていると、日ごろの多忙さや、自分の厄介な立場すらも遠いことのように思えてくる。今こうしてのんびりできるのは、その多忙さや、厄介な立場があってこそのものなのだが。 マンションの部屋の工事は進んでいるだろうかと、ふと気になった和彦は、寝返りを打った勢いで起き上がり、ナイトテーブルに置いた携帯電話に手を伸ばそうとする。このとき、部屋の前に立っている中嶋に気づいた。一方の中嶋も、驚いたように目を丸くしている。「……すみません。ドアが開いていたので」「風通しがよくなるから、開けておいたんだ。さすがに知らない人間がウロウロしているなら気をつかうが、そうじゃないし
**** 男三人が、静かな別荘地で何をして過ごすか――。 密かに和彦は、この問題をどうするべきなのかと心配していたのだが、意外なほどあっさりと解決した。主に、中嶋の働きによって。 垂らしていた糸がピンと張り詰め、両手でしっかりと持った釣り竿がしなる。和彦は半ば反射的に、隣で同じく釣り糸を垂らしている中嶋を見る。「先生、魚がかかるたびに、そう動揺しないでください。適当にリールを巻いて、魚の引きが弱ったら、釣り上げるだけです」「適当ってなんだっ……。その適当の加減がわからないんだ」 和彦が反論する間にも、掛かった魚が激しく暴れる。慣れない手つきで慌ててリールを巻き、竿を立てようと奮闘していると、背後で苦しげな息遣いが聞こえてきた。振り返ると、顔を伏せた三田村が肩を震わせている。「三田村、笑っているんなら、交代してくれ」「ダメですよ、先生。掛かった魚は、責任を持って本人が釣り上げないと」 和彦はじろりと、横目で中嶋を見る。言っていることはもっともだが、明らかに中嶋も笑っている。「……ぼくがオロオロしているのを見て、二人とも楽しんでいるだろ」「普段マイペースの先生が、おっかなびっくりで釣りをしている姿が、なんだか可愛くて。つい、からかってしまうんです。三田村さんも同じ気持ちですよね?」 中嶋に問われ、三田村は曖昧な返事をする。さらに言い合うのも大人げないので、まずは掛かった魚を釣り上げることに専念する。初心者ながら、さきほどから意外に釣果は悪くないのだ。 やや物騒な理由から、総和会が所有する別荘で連休を過ごすことになったが、別に和彦個人が狙われているわけではなく、身を隠しておく必要はない。賢吾からも、護衛をつけておく限り、自由にしていいと言われている。 では、自由に何をするか、という話題になったとき、朝食の後片付けを終えた中嶋が、別荘近くの湖で釣りをしないかと提案してきたのだ。道具一式は揃っており、冷蔵庫には餌になりそうなものものが入っていると言われれば、断る理由はなかった。「先生は、
「前から、この手の合成麻薬ってのは、ガキの間で流行っていたんだが、こいつは、特に性質が悪い。お菓子みたいな見た目で、手軽に気持ちよくなれる薬だと思って手を出したら、取り返しがつかなくなる」「麻薬は麻薬だろ。どれも性質が悪い」「この小さな粒が、一ついくらするかわかるか、先生?」 和彦が首を横に振ると、三田村はティッシュペーパーを数枚取って、錠剤を包んでしまう。「今の相場だと、一万円以上。合成麻薬の値段としては、なかなかの高さだ。だが、よく効く。含まれている〈砂糖〉の量が多いからな。一粒を飲むのはもったいないからと言って、砕いて分けて使う人間も
「何かあれば、すぐに知らせてくれ。こういう言い方は卑怯かもしれないし、そもそも効き目があるのかわからないが――、俺のためにも、先生は組の連中に素直に守られてくれ。そして、頼ってくれ」 和彦は目を丸くしたあと、わずかに視線を伏せた三田村に笑いかける。「……効き目十分だな、その台詞は」「だとしたら、らしくないことを言った甲斐があった」 三田村を煩わせたくなかった。和彦個人の事情に巻き込んで、組の中でさらに複雑な立場に追いやりたくない。 だからこそ、やはり秦のことは言えなかった。自分の甘さが引き起こした問題
**** ヤクザの世界に引きずり込まれてから、異常な環境で毎日を忙しく過ごし、気がつけば、それが和彦の日常になってしまった。周囲にいるのは堅気という定義から大きく外れた人間ばかりで、遭遇する出来事も物騒なことが多い。 しかし、そんな日々の中でも和彦なりに気持ちのバランスを取り、そうすることに慣れ始めていた。 だからこそ和彦は、ここ最近の異変を確実に感じ取っていた。なんだか空気が落ち着かず、ざわついている。それともヤクザの世界では、この状況が普通なのだろうか。 こんな仕事も普通なのだろうか―
「……悪いが、さすがに今日は、遊んでやれないぞ。お前と一緒にできることと言ったら、せいぜい同じベッドで、仲良く並んで寝ることぐらいだ」「うん、それでもいいよ」 本当に嬉しそうな顔で返事をするから、千尋は怖い。和彦は大きくため息をつくと、千尋の髪をくしゃくしゃと掻き乱す。「昼食にはまだ早いから、コーヒーぐらいならつき合える」「コーヒーはいいから、マンションに帰る前にちょっとだけ俺につき合ってよ。すぐに済むから」 何事かと、露骨に訝しむ視線を和彦が向けると、苦笑しながら千尋に腕を取られて引っ張られる。