ログイン「んあっ、あっ、あっ、あうっ……」
ハンカチ越しに秦の手に扱かれ、和彦は精を迸らせていた。 スッと体を離した秦によって、半ば強引にローターが引き抜かれる。激しく息を喘がせ、体を震わせる和彦に対して、秦は愉悦を含んだ声でこう言った。「先生との最初の秘密としては、上出来ですね。先生の奥を味わえないのは残念ですが、焦ることもないでしょう。これからも仲良くできるでしょうから」 和彦はすでにもう、怒りも羞恥も戸惑いも感じることはできなかった。わずかに残る意識で、秦が自分が思っていたような男でなかったことと、迎えにくる三田村に、こんな姿は見られたくないということを考えるので、精一杯だ。 秦に格好を整えられ、抱きかかえられるようにして体を起こされても、その腕から逃れることすらできない。 そんな和彦を、秦は両腕でしっかりと抱き締めてきた。「――先生みたいな人でなかったら、わたしもこんな手段は取らなかったんですけどね。なんとなくわかるんです。先生に対して、この手段は有効だと。これで先生は「現にぼくがそうだった。大学に入ってからは、実家に顔を出す必要もなくなったし、向こうからもそれを求められなかった。ごくたまに、大事な行事には出席して、佐伯家の一員として振る舞っていたぐらいだ。それ以外では、連絡すら取り合っていなかった。……兄さんの出馬の件で、事情が変わったんだ。それがなければ、ぼくがどんな相手と寝ていようが、知らん顔をしていたはずだ」 話すべきことを話し終え、ここまで張り詰めていたものがふっと切れる。和彦はしばらく黙り込むが、その間、賢吾もまた口を開かなかった。和彦に対して助言どころか、命令することすら可能なはずだが、そうしないということは、こちらが出す答えを待っているのだろう。 自分はどうすべきなのか、まだ結論が出せない和彦は、心に溜まる澱を取り留めない言葉として吐き出した。「……あんたたちと知り合ってなかったら、ぼくは今ごろ、どうしていただろうな。とっくに佐伯家と縁を切っていたか――いや、そんなことはしないな。抗えない力に逆らわず、子供の頃から変わらない、無害な存在として家族とつき合っていたはずだ。そして、兄さんにいいように使われて……」 自分で言って、和彦は自己嫌悪に陥る。物騒な男たちに囲まれて生活している、今の信じられないような状況にあっても、自分と佐伯家との関係は何一つ変わっていないと痛感したのだ。 和彦の気持ちを掬い上げるようなタイミングで、賢吾が切り出した。「先生は今、〈力〉を持っている。物騒で危険きわまりないが、先生を守るためにある力だ。そのうえで、自分がどうしたいか考えるといい」「ぼくは――……」「先生のためなら、どんな汚い仕事でもしてやる」 そう言った賢吾の表情は穏やかだった。だからこそ、本心を読み取ることはできない。和彦を怖がらせないための配慮なのかもしれないが、それすら知ることはできない。 このとき和彦は、自分はすっかりこの物騒な世界に染まってしまったのだろうかと、つい考えていた。 賢吾の怖い台詞を聞いて、胸の奥がじわりと熱くなったからだ。**
「落ち着いている。――兄さんのことを考えたくなくて、あんたに八つ当たりしているんだ」「八つ当たりどころか、先生には俺を責める真っ当な権利があると思うが」 本当にそうしようと思えば、いくら時間があっても足りない。心の中で応じた和彦は、賢吾を睨みつける。そんな和彦の視線を受け、平然とした顔で賢吾が問いかけてきた。「――家族が恋しくなったか?」 一瞬うろたえた和彦だが、すぐに首を横に振る。「それは……、ない。ぼくにとっての家族は、一緒にいて心安らげる存在じゃなかった。一人暮らしを始めたときは、ほっとしたぐらいだ」「先生がそう感じていることと、過剰なぐらい痛みを苦手にしていることは、関係あるのか? 誰だって痛い思いはしたくないだろうが、先生の場合は様子が違う」 確信を得ているような賢吾の口調だった。これまでの和彦の言動から、感じるものがあったのだろう。 これは佐伯家に対するささやかな報復だと思いながら、和彦は口を開いた。「……物心ついた頃から、ぼくは痛みを与えられていた」「虐待か?」 わずかに眉をひそめた和彦は曖昧に頭を振る。「そういうものとは違う……とぼく自身は思っていた。兄さんも、弟を虐待しているなんて意識はなかっただろうな。そうする権利が自分にはあると、信じていたんだ。多分、今も」「その口ぶりだと、先生を痛めつけていたのは、兄貴だけなのか」「親には手を上げられたことはない。そんなことをするほど、ぼくに興味がなかったんだ」 腕組みをした賢吾が、じっと和彦の顔を見つめてくる。和彦は静かに見つめ返していた。賢吾を見つめながら、その内に潜んでいる大蛇の姿を捉えようとしていたのかもしれない。反対に賢吾のほうは、和彦の内に何かを感じたようだった。「――……前にも似たようなことを言ったはずだが、先生は身の内に、冷たい体温の生き物を飼っているようだ。誰も捕まえられない、触れさせることすらしない、大蛇よりも硬い鱗で体を守りながら、とんでもなく臆病で神経質な、そんな生き物だ」
** 憔悴しきった自分の姿を取り繕う余裕すら、和彦にはなかった。そんな和彦を、座卓についた賢吾がじっと見つめてくる。「――……千尋からの電話で聞いてはいたが、ひどい顔色だ、先生。できることなら、さっさと休ませてやりたいが、その前に、何があったのかを知っておかねーとな」 わかっていると、和彦は浅く頷く。話し始めようと一度は唇を開いたが、震えを帯びた吐息が洩れ、声が出なかった。 賢吾は急かすことなく、ただ見つめてくる。過度の優しさも気遣いもうかがわせることのない、だからこそこちらに精神的負担を与えてこない、不思議な眼差しだ。マンションから本宅に向かう車中、動揺して震える和彦の肩を抱きながら、千尋も同じような眼差しを向けてくれたのだ。 和彦はぎこちなく深呼吸をしてから、やっと言葉を発した。「あんたが、里見さんとの連絡用に持たせてくれている携帯に、兄さんから電話がかかってきた。里見さんの携帯を盗み見して、そこにあった怪しい番号にかけたら、ぼくが出たんだそうだ」「と、言われたか?」 揶揄するような賢吾の口調が気になり、ちらりと視線を上げる。賢吾は、口元に柔らかな微苦笑を浮かべていた。「……どういう意味だ」「震え上がるほど苦手にしている兄貴から言われたことを、すんなり信じるなんて、先生は人がいい」 数十秒近くかけて、賢吾の言葉を頭の中で反芻する。そして和彦は、あっ、と声を洩らした。目を見開き、賢吾を凝視する。「俺は悪党だから、まずはこう考えるんだ。先生の兄貴と、先生の初めての男が手を組んだんじゃないかってな。先生が信用した頃を見計らって――」「里見さんはそんなことはしないっ」 感情的に声を荒らげた和彦だが、次の瞬間には、自分が今誰と向き合い、話しているのかを思い出し、我に返る。 賢吾の口元にはすでにもう笑みはなかった。無表情となり、大蛇を潜ませた目でまっすぐこちらを見据えてくる。戦慄した和彦は、自分の失言を噛み締める。しかし賢吾は怒りや不快さを表には出さなかった。「いまだに信頼しているんだな、里見を。やっぱり
『それでもお前は、わたしの弟だ。これは、わたしにはどうしようもない。だったら、せいぜい利用させてもらう』 英俊が向けてくる冷たい悪意は、電話越しでもしっかりと伝わってくる。どれだけの言葉を費やそうが、気持ちは決して交わることはなく、ただ一方的に搦め取られそうになる。「ぼくに何ができる? 兄さんが言うとおり、おぞましい画像を撮られて、いつスキャンダル沙汰になってもおかしくない人間だ。そんなぼくが佐伯家にできることと言ったら、存在を隠すことだけだ」『そんなお前でも、利用価値はある。佐伯の血を引いているという一点でな』 ゾクリとするような感覚が、全身を駆け抜けた。 和彦は、〈血〉の怖さと重さを知っている。長嶺の男たちによって教えられたのだ。切り捨てることも、逃げ出すこともできないものであるということも。『父さんは、お前を外で自由にはさせていたが、手放す気は一切ないぞ。……わたしにとっては忌々しいがな』 不穏な空気を感じ取った――わけではないだろうが、なんの前触れもなく、書斎のドアが開いた。「あっ、先生、ここにいたんだ」 ピンと張り詰めた空気を壊すように、上半身裸の千尋が緊張感のない声を発する。即座には状況が呑み込めなかった和彦だが、対照的に、英俊の反応は早かった。『誰かいるのか?』 ハッと我に返った和彦は、慌てて千尋に駆け寄ると、片手で口を塞ぐ。大きく目を見開いた千尋が何か言おうとしたが、和彦の異変に気づいたのだろう。すぐに険しい表情となって目を眇めた。「……兄さんには関係ない」『若い声だったな。先生、と呼んでいたということは、患者か? お前がまだ医者をしているようだと里見さんは言っていたが、どうやら本当だったようだな』 このままでは英俊のペースに巻き込まれると思い、和彦は早口に告げた。「もうかけてこないでくれ。あなたと話すことは……ない」『ああ、電話はかけない。だが、お前はわたしと、直接会うことになる』「その気はない。悪いけど……」『お前が意
ここで英俊が低く笑い声を洩らす。和彦に向けて毒を放つとき、英俊はよくこんな笑い方をするのだ。そして案の定、英俊が吐き捨てるように言った。『バカがっ。何が危ない目だ。あんなおぞましい画像を撮られて、みっともなくて父さんの前に顔を出せないだけだろ。あんなものが外に出回るんじゃないかと、うちの人間がどれだけ危惧したと思っているんだ。そのくせお前からは一切説明はないし、連絡すら取れない。肝心の里見さんも、お前に丸め込まれているようだし』「里見さんはっ――」『お前の性癖についてとやかく言うつもりはない。こちらに迷惑をかけない限りはな。どうせ、佐伯家の跡継ぎを期待される立場でもない。女だろうが男だろうが、好きなほうと、好きなだけ寝ればいい』 相変わらず、自分を傷つけるための言葉を心得ている人だと思い、和彦は唇を引き結ぶ。どれだけ佐伯家と距離を取り、関わるまいとしようが、電話で少し会話を交わすだけで、和彦の意識は過去へと簡単に引き戻される。自分という存在がまったく尊重されず、必要ともされていなかった、佐伯家で生活していた頃に。 自分を守るために身につけた術だが、和彦は心を凍りつかせる。動揺すらもあっという間に鎮まり、英俊と同じような淡々とした口調で応じた。「だったら、ぼくに連絡をしてくる必要はなかっただろ。ぼくは今、好きなように生きている。兄さんたちが関わってこないなら、ぼくからも関わる気はない」『それがそうできないから、お前と連絡を取ろうとしていたんだ。里見さんから聞いたが、お前も少しは、こちらの動向を把握しているんじゃないのか』「――……兄さんが出馬するという話なら」『それだ。珍しくはないだろ。官僚から政治家へ転身という話は。父さんも、すでにあちこちに根回しをしていて、とにかく忙しい。そんな状況で、〈身内〉に足を引っ張られたくない』 佐伯家は相変わらずだと、そっと和彦は嘆息する。かつて父親は、省内の権力争いに血道をあげて勝利し、絶対的な支配力を誇っていたが、定年が間近に迫り、すでに天下り先も決めている。だからといって、そこがゴールではない。父親と酷似した道を歩んできた英俊は、ここにきて新たな権力の道を見出し、進もうとしてい
** 和彦はTシャツを着込むと、濡れた髪を掻き上げてから大きく息を吐き出す。そして、ドアを開けたままのバスルームにちらりと視線を向けた。 バスタブの縁にあごをのせた千尋が、目が合った途端に笑いかけてくる。締まりのない顔だが、これが長嶺の男だと思うと、可愛いと感じられるから不思議だ。いや、単に和彦が、千尋に対して甘いだけかもしれない。「先生、もっとゆっくり湯に浸かればいいのに」「……お前がまとわりついてくるから、湯あたりしそうになるんだ」「俺が介抱するけど?」「そんなこと言って、何されるかわかったものじゃないから、遠慮する」 連休の間、どれだけ千尋に我慢を強いていたのか、和彦は今日、身をもって知った気がする。とにかく普段以上に、千尋のスキンシップが激しい。ベッドに移動して、さんざん快感を貪り合ったあとも、しばらく離してもらえなかったうえに、風呂まで一緒に入ることになったぐらいだ。 この様子だと、今夜は泊まっていくつもりだろう。長嶺の男たちの〈オンナ〉である和彦には、そのことで文句を言うつもりはないが、多少心配にもなってくるのだ。自分は、長嶺組の跡目を甘やかしすぎているのではないか、と。「夕飯は外に食べに行くんだろ? まだ時間はあるから、お前はのんびり湯に浸かっていていいぞ。その間ぼくは――」 寝室の片付けをする、という言葉を寸前のところで呑み込む。首を傾げた千尋を一瞥して、逃げるように脱衣所を出た。 和彦は、情交の痕跡が生々しく残る寝室に入ると、シーツを剥ぎ取るだけではなく、汚れた床も手早く掃除する。千尋が場所を選ばず行為に及んだせいで、と責めるつもりはない。結局のところ、受け入れてしまった和彦も同罪なのだ。 寝室の空気を入れ替えるため、窓を開ける。入り込んできた風が、風呂上がりなのと、それ以外の理由で火照った体には気持ちいい。 すっかり見慣れたマンションから見渡せる街中の景色を眺めていると、ほんの数日前まで、自然に囲まれた別荘でのんびり過ごしていたことが、ずいぶん懐かしく感じられる。そのくせ、ともに過ごした三田村のぬくもりや感触などは、今でも鮮やかに思い返せる
**** 神事に使うというだけあって、テーブルに並べられた漆器は、どれも華美な細工は施されてはいないが、だからこそ漆の塗りの美しさが際立っている。 和彦は、手にした紙に書かれている漆器の種類と、テーブルに並んでいる現物を一つ一つ確認すると、さっそく梱包に取り掛かってもらう。そして次に、正月用の#屠蘇__とそ__#飾りを選び、特注だという祝箸の箸袋の数を確認する。 大勢の人間が集まるというだけでなく、ヤクザの組長の本宅での年末年始ともなると儀式めいた行事もあるらしく、事前の準備だけでも大変だ。
肉まんを食べ終え、しっかりとお茶も飲んでから、一呼吸置いて切り出した。「――その後、彼とはどうなんだ」「秦さんですか?」「他にないだろ。君がなかなか本題を切り出さないってことは」「先生はすっかり、俺の恋愛カウンセラーになりましたね」 ピクリと肩を震わせた和彦は、もう一口お茶を飲んでから、しっかりと口を湿らせる。そして、さりげなく指摘した。「恋愛、か」「おっと、口が滑りましたね。言葉のアヤなので、あまり突っ込まないでください」 芝居がかった中嶋の口調すら、なんだか健気に思えてくるから困る。言っ
察するものがあり、和彦は反射的に立ち上がろうとしたが、遅かった。中嶋に腕を掴まれて引っ張られる。「おいっ……」「先生は、俺を慰めるのが得意でしょう」「いつ、そうなった」「先日、先生に慰めてもらったときに」 悪びれた様子もない中嶋を睨みつけた和彦だが、本気で怒るつもりはない。こういう甘さを、中嶋に――ヤクザに見透かされてしまっているのだから、勝ち目があるはずもなかった。 空になったペットボトルを傍らに置くと、待っていたように中嶋に抱き寄せられる。和彦はおとなしく中嶋の両腕の中に閉じ込められ
「先生?」 ふいに唇を離した中嶋に呼ばれた和彦は、自分の中の疼きを自覚して、うろたえる。思わず視線を伏せると、そんな和彦に何かを刺激されたように、中嶋がまた唇を寄せてくる。和彦は顔を背けようとしたが、簡単に唇を塞がれていた。 熱心に唇を吸われているうちに、和彦の脳裏に秦の言葉が蘇る。伏せていた視線を上げると、中嶋と目が合い、そのまま視線が逸らせなくなった。 和彦は、中嶋の首の後ろに手をかけると、秦にされたキスを忠実に再現する。今度は中嶋がうろたえた素振りを見せたが、それも一瞬だ。次の瞬間には、和彦のキスに応え始めていた。「んっ&hellip