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和彦は十日ほど、自宅に戻れない日々が続いた。一時も目が離せない患者に付き添い、容態が落ち着くのを待ってから、早急に二度目の手術を行う必要があったからだ。
ヤクザのオンナなどになってから、もっとも禁欲的な日々だったかもしれない。患者の傍らにいる間、とてもそんな気分にはならなかったし、何より、医療行為以外に使う体力が残っていなかった。 賢吾と千尋、それに三田村が部屋を訪れなかったのは、幸いといえるだろう。 床に敷いたマットの上で寝返りを打った和彦は、少しも疲れが取れていないのを自覚しつつ、仕方なく体を起こす。最初から仮眠程度のつもりで横になったのだ。 部屋を出ると、組員二人がダイニングで雑魚寝をしていた。和彦が外に出られないため、ここでの生活や治療に必要なものを彼らに頼んで運び込んでもらっているが、本来の仕事は、護衛だ。マンションの周囲でも、長嶺組の組員たちが交代で見張っているらしい。 恐れているのは他の組の襲撃などではなく、警察――というより、鷹津だいくらでもコピーができる動画が目の前で消去されたところで、確認することに意味はない。そう考えたことが顔に出たのだろう。南郷はこう続けた。「まあ、俺を信用してくれとしか言えない。それに――長嶺組長のオンナに悪さをした証拠を、いつまでも手元に残しておいたところで、俺に益があると思うか?」 和彦はスマートフォンを南郷に返す。「……二度と、こんなことをしないでください」「騙して呼び出したことか。それとも、あんたの特別な場所に触れたことか――」 前触れもなく南郷に肩を抱き寄せられ、耳元に獣の息遣いがかかる。続いて、耳朶に鈍い痛みが走った。食われる、と本能的な怯えを感じた和彦は短く悲鳴を上げ、身を捩って南郷の腕の中から逃れた。 全身の血が沸騰しているようで、心臓が痛いほど強く鼓動を打っている。南郷の様子をうかがいながら慎重に立ち上がった和彦だが、眩暈に襲われて足元がふらついていた。「大丈夫か、先生。顔が真っ青だ」「こんなぼくを見られて、満足しましたか……?」 和彦が睨みつけると、悪びれたふうもなく南郷は大仰に肩をすくめる。「必死に虚勢を張っているあんたの姿は、なかなかいい。こういうところでも、育ちが出るんだろうな。感情的になっていても、品がある」「そんな……いいものじゃないです。怖いんです。この世界の男を怒らせるのは」「オンナらしい配慮だ。何をされても、相手を怒らせないよう気遣わないといけねーなんて。つまり今晩のことも、長嶺組長には〈告げ口〉しないということか」 南郷が向けてきた冷笑を、和彦は見ないふりをする。挑発しようとしている意図が、露骨に透けて見えるのだ。和彦のささやかな反撃を、きっとこの男は、楽しげに受け流すはずだ。 なんとか大きく息を吐き出すと、ドアに向かおうとする。本当は駆け出したいところを、ぐっと気持ちを堪えて。「――俺は、あんたのことが知りたかった」 ドアを開けようとしたところで、背後からそんな言葉が投げつけられる。動きを止めた時点で、和彦の負けだ。聞こえなかったふりもできず、仕方な
その和彦にのしかかり、布の上から唇を貪っている荒々しい獣のような男は――南郷だ。 「――長嶺組長のやり方に倣ってみた」 怒りで全身が熱くなっていくのに、胸の内は凍りつきそうなほど冷たくなっていく。頭は混乱しながらも、南郷に対する表現しがたい嫌悪感や拒否感だけは認識できた。 払い除けるようにしてスマートフォンを南郷に押し返す。視線を逸らす和彦を多少は気遣うつもりがあるのか、南郷はすぐに動画の再生を停めた。 「長嶺組長とメシを食いながら話していてわかったが、あんたは肝心なことを、長嶺組長に打ち明けてないんだな」 「肝心なことって……」 「自分に悪さをした相手が、総和会の南郷――俺だということを。顔は見ていなくても、あんたならわかっていたはずだ。あんなことをしでかすのは、俺しかいないということは。あんたと長嶺組長の間でも、あえて言葉にしないまま、互いにそれを汲み取ったわけだ」 「……ぼくはあのとき、相手の顔を見ることはできませんでしたから、迂闊なことは言えません」 「できた〈オンナ〉だ」 皮肉っぽい口調で洩らした南郷が、ふいに立ち上がる。驚いた和彦は反射的に体を強張らせたが、それ以上の反応ができないうちに、隣に南郷が座った。荒々しい威圧感に頬を撫でられた気がして、体が竦む。 「自分が原因で、総和会と長嶺組に波風が立つのを避けたかったんだな」 自惚れるなと、南郷に鼻先で笑われるのが嫌で、和彦は返事を避けた。しかし南郷は一人で納得した様子で頷く。 「さすが、オヤジさんが見込んだだけはある。――どの男にもいい顔をして、揉め事は避ける。この世界での、あんたの処世術だ」 南郷の声に侮蔑の響きを感じ取り、それが何より我慢ならなくて和彦は立ち上がろうとする。すかさず大きな手に肩を掴まれ、腰を浮かせることすら叶わなかった。 「どうにも、生まじめに反応するあんたが新鮮で、つい煽るようなことを言っちまう。すまないな、先生」 「……離して、ください」 和彦は顔を強張らせ、肩にかかる南郷の手を押しのけようとする。だが手を退けるどころか、反対に力を込められた。 「そろそろ、聞いたらどうだ。――俺がなぜ、長嶺の男
短い問いかけが、鋭い刃となって喉元に突きつけられる。不安とも恐怖とも取れる感情に襲われ、鳥肌が立っていた。和彦は無意識のうちにジャケットの上から腕をさする。「心細そうだな、先生。目の前にいる今のあんたは、実に普通に見える。普通の、優しげで非力な色男だ。ヤクザの怖い男たちを何人も手玉に取って、骨抜きにしているとは、到底思えない。だが、力のある男の傍らにいるあんたを見ると、納得させられるんだ。妙に妖しさが引き立つ。男だからこその色気ってやつだな」「……そろそろ本題に入ってください」 ここで南郷が組んでいた足を解き、ソファに座り直した。「――この間、長嶺組長に呼ばれて、二人きりでメシを食った。ちょうど連休中で、あんたは総和会の別荘にいた頃だ」「賢……、組長と?」 危うく『賢吾』と口にしそうになった和彦に気づいたのだろう。南郷はちらりと視線を動かしたあと、何事もなかったように話を続ける。「俺と長嶺組長は、外野からはとかくあれこれと言われがちだ。俺が会長に可愛がられているということで、長嶺組長は、南郷の存在をおもしろくないと感じているんじゃないか、とかな。一方の俺も、会長の実子ということで、当然のように何もかもを持っている長嶺組長を妬んでいる――」 和彦は慎重に問いかけた。「本当のところは、どうなんですか」「ズバリと聞くなんて、肝が太いな、先生。俺にとっちゃ、デリケートな話題だというのに」「聞いてほしいから、言ったんじゃないんですか」 南郷の目がこのとき一瞬、鋭い光を宿したように見えたのは、決して気のせいではないだろう。怯みそうになった和彦だが、必死の虚勢で南郷の目を見つめ続ける。 南郷は、薄い笑みを唇の端に刻む。真意の掴めない表情だと和彦は思った。「俺は、長嶺組長にそんな生々しい感情は持っていない。あの人も、そこのところはよくわかっている。あえて言葉にしなくても、互いにそれを汲み取るぐらいはできる」 和彦は相槌すら打たず黙り込むが、南郷は勝手に和彦の心の内を読んでいた。和彦の顔を覗き込む仕草をして、こう言ったのだ。「そんな
改めてビルを見上げれば、カラオケボックス店の派手な看板が掲げられていた。意外すぎる場所の前に降ろされて呆気に取られる和彦の側に、スッと一人の若者が歩み寄ってきた。ジーンズにTシャツ、その上からブルゾンを羽織っており、その辺りを歩いている青年たちと大差ない服装だ。ただ、胸元で揺れるシルバーのペンダントと、耳にいくつも開いたピアスの穴が印象的だった。 前に中嶋が、南郷率いる第二遊撃隊には、面倒を見ている若者が何人もいて、使える人材として鍛えていると話していたが、どうやらウソではないようだ。服装はラフだが、意外なほど礼儀正しい若者の物腰を見て、和彦はそう判断する。「佐伯先生、こちらに」 外見からは想像もつかない落ち着いた声をかけられたかと思うと、有無を言わせない手つきで背を押されてビルに入る。一階のカウンターは客で混み合っているが、若者はスタッフに短く声をかけただけで、奥へと向かう。 エレベーターで移動するわずかな間に、和彦は若者をうかがい見る。一見して堅気のよう、と言い切ってしまうには、鋭い気負いのようなものが感じられた。和彦を出迎えるという仕事に、何かとてつもない意義を見出しているような――。 やはり今日の状況はどこかおかしいと、和彦が確信めいたものを得たとき、エレベーターの扉が開く。いまさら引き返すこともできず、若者のあとをついていく。どの部屋にも客が入っているらしく、あちらこちらから歌声や歓声が漏れ聞こえてくる。 こんな場所に、養生の必要な患者がいるはずがない。また自分は騙されたのだと、和彦はそっとため息をつく。すると、ある部屋の前で若者が立ち止まった。「ここです」 そう短く言い置いて、若者が素早くドアを開ける。心の準備をする間もなく、即座に反応できなかった和彦だが、客やスタッフが通りすぎる廊下にいつまでも突っ立っているわけにもいかず、部屋を覗いた。 視界に飛び込んできた光景に、眩暈にも似た感覚に襲われる。 グループ用の広い部屋にいたのは、男一人だけだった。だが、存在感は圧倒的だ。「部屋に入ってきた早々、そう睨まんでくれ、先生」 ソファに深くもたれかかり、足を組んだ姿で南郷がそう声をかけてくる。軽く指先が動いたかと
**** 和彦が携帯電話への着信に気づいたのは、ジムでシャワーを浴び終えてからだった。 じっくりと丹念に全身の筋肉を動かし、健全な疲労感に満たされて、汗を洗い流してさっぱりとしたところだっただけに、一瞬、魔が差したように、億劫だなと思ってしまう。 着信は、護衛の組員からのものだ。普段であれば、和彦がジムを出るまで待っているのだが、こうして連絡してきたということは、そうするだけの事情があるということだ。その事情は、非常に限られていた。 賢吾からの一方的な呼び出しか、あるいは――。 和彦は服を着込んで手早く髪を乾かしてから、急いでジムを出る。駐車場に向かうと、組員が車の傍らに立って待ち構えていた。「何かあったのか?」 和彦の問いかけに、組員は困惑気味の表情を浮かべる。ひとまず車に乗り込むと、他人の耳を気にする必要がなくなった組員は、すかさずこう切り出した。「総和会から連絡が回ってきました――」 シートに身を預けようとしていた和彦は、半ば反射的に背筋を伸ばす。全身に行き渡っていた心地よい疲労感は、瞬時に緊張感へと変化していた。「仕事か?」「この患者を、先生に診てもらいたいと」 信号待ちで車を停めた間に、組員が車内灯をつけてからメモを差し出してくる。患者の名ではなく、和彦が施した処置について端的に記されているのだが、それで十分だ。ああ、と声を洩らして眉をひそめていた。 組員が言っている『この患者』とは、一か月以上前に半死半生となるほどの全身打撲を負った男だ。腹部の内出血がひどくて開腹手術を行った後、腸閉塞を起こしたりもしたが、それから容態も落ち着いたこともあり、別の医者のもとで養生生活を送っている――と総和会から説明を受けていた。 患者自身は、和彦の言いつけを守るし、治療にも協力的だったこともあったため、悪い印象は持っていない。ただ、この患者を診ているときに、和彦自身が思いがけない出来事に襲われ、どうしてもその記憶が蘇り、苦々しい感情に苛まれる。体に刻みつけられた生々しい感触とともに。「……具体的に、どう調子がよ
「だがまあ、今はお前の事情を優先してやる。忌々しいが、ヤクザに囲まれているお前のオンナっぷりを、俺は気に入っているからな」「――……悪徳刑事らしい、台詞だな」「せいぜい大事にしろよ。俺はお前にとって、数少ない手駒だろ」 喉元にかかった手が退けられ、鷹津の熱い舌にベロリと舐め上げられる。不快さに眉をひそめた和彦だが、覆い被さってきた鷹津の体を受け止め、耳元に荒い息遣いを注ぎ込まれながら、内奥に逞しい欲望を打ち込まれているうちに、甘い陶酔感に襲われていた。「はっ……、あっ、んうっ、うっ、くうぅっ――」 鷹津の欲望がますます膨らみ、内から和彦の官能を刺激してくる。「奥、ひくつきまくってるぞ。……いいか?」 露骨な台詞を囁かれ、瞬間的に感じた羞恥から顔を背けるが、追いかけてきた鷹津の舌が口腔に差し込まれる。所有の証のように唾液を流し込まれ、和彦は喉を鳴らして受け入れながら、自分でもわかるほど内奥を淫らに蠕動させる。体と心の区別を必要としないほど、鷹津を求めていた。 和彦の激しい反応に気づいたのか、体を起こした鷹津に両足を抱え上げられる。打ち付けるように力強く内奥を突き上げられ、その勢いで和彦の頭が肘掛にぶつかる。すかさず鷹津に体を引き戻されたが、すぐにまた突き上げられた。 和彦は鷹津の肩にすがりつきながら、片手で頭を庇ってもらう。「……手っ……、抜糸したばかりで……」「うるせえっ。〈こっち〉に集中しろ」 獣が唸るように声を上げた鷹津に驚き、和彦は目を丸くする。舌打ちした鷹津が、和彦に何も言わせまいとするかのように、唇を塞いできた。 濃厚な口づけを交わしながら、内奥と欲望を擦り合う行為に耽る。鷹津の望み通りに。 和彦が放った精で二人の下腹部が濡れるが、気にかける様子もなく――むしろさらに高ぶった様子で、鷹津の動きが激しくなる。察するものがあり、和彦は鷹津の肩を押し上げようとする。「中は、嫌だ。ここでは――…&hel
「……悪いが、さすがに今日は、遊んでやれないぞ。お前と一緒にできることと言ったら、せいぜい同じベッドで、仲良く並んで寝ることぐらいだ」「うん、それでもいいよ」 本当に嬉しそうな顔で返事をするから、千尋は怖い。和彦は大きくため息をつくと、千尋の髪をくしゃくしゃと掻き乱す。「昼食にはまだ早いから、コーヒーぐらいならつき合える」「コーヒーはいいから、マンションに帰る前にちょっとだけ俺につき合ってよ。すぐに済むから」 何事かと、露骨に訝しむ視線を和彦が向けると、苦笑しながら千尋に腕を取られて引っ張られる。
賢吾にこうされるときの高揚感と快感は異常だ。ヤクザの組長という肩書きを持ち、何人ものヤクザを従わせている男が、たかが若い医者でしかない和彦のものを口腔で愛撫しているのだ。倒錯した興奮が、快感に拍車をかける。「ふっ……、あっ、んあっ、ああっ――。賢、吾さっ……」 熱い舌にねっとりと先端を舐め回され、ビクビクと腰を震わせて感じてしまう。賢吾の名を呼ぶとき、賢吾の愛撫は淫らさと情熱を増すのだ。 賢吾の髪に指を差し込み、掻き乱す。上下に賢吾の頭が動き、締め付けてくる唇に和彦のものは扱かれながら、きつく吸
秦は自分の切り札になるかもしれないと言いながら、普通の青年の顔をして野心をたっぷり抱えたヤクザは、本当はどんな気持ちで、この性質の悪い男の面倒を看ているのか。中嶋の気持ちを想像して、和彦の胸は不穏にざわつく。 愛欲に満ちた和彦自身の今の環境のせいもあるし、何より、秦という男の存在が鮮やかで艶かしく、謎に満ちているせいだ。 自分のような存在と、秦のような存在は、本来は近づくべきではないのだと、なぜかこの瞬間、甘さを伴った危機感が芽生えた。「先生?」 秦に呼ばれ、我に返る。何もなかったふりをして和彦は、コルセットと上着を押し付けた。
** 気が高ぶっているせいで、おとなしく書斎に閉じこもる気にもなれず、冷蔵庫を開ける。食料は大して入っていないのに、飲み物の種類は豊富だ。外食が主の和彦の生活パターンに合わせて、この部屋に通ってくる組員たちがよく飲み物を補充してくれるのだ。 グラスに氷を放り込み、オレンジジュースを注ぐ。しばらくアルコールは自重したかった。 和彦はソファに腰掛け、グラスに口をつけながらテレビのニュース番組をぼんやりと眺める。だが、ある暴力団の幹部が撃たれたというニュースが流れると、無意識に眉をひそめてチャンネルを替えていた。 こんな生活に