ログイン普段以上に甘ったれな犬っころぶりに拍車がかかっており、神経を張り詰めて相手をしていると、かえって異変を悟られそうだ。酔ってはいても、千尋の嗅覚はバカにはできない。
「とにかく上がれ。ここに寄ったということは、泊まっていくんだろ」「……うん。いい?」 首を傾けて問いかけてきた千尋が、次の瞬間には、甘えるように和彦の肩に額をすり寄せてくる。そんな千尋の頭を片腕で抱き締めて、和彦は応じた。「ぼくが追い返すとは思ってないだろ、お前」 悪びれることなく頷いた千尋の頭を、思いきり撫で回してやる。 和彦は、千尋を支えながら寝室に連れて行き、ベッドに横にさせる。とことん和彦に甘えるつもりなのか、千尋は大の字になってしまい自分で何もしようとはしない。仕方なく和彦は、千尋の靴下を脱がせてから、体の上に馬乗りになる。千尋が楽しそうに笑い声を上げた。「すげー。これから先生に犯されそう」「あんまり変なこと言うと、部屋から叩き出すぞ」 ジャケットを脱がそうとして、ポケットに夕方になって突然〈決められた〉のだが、実はこれから、長嶺の本宅に向かわなければならない。賢吾から電話がかかってきて、いつものように夕食に誘われたのだ。クリニックを開業してから何かと多忙な和彦の食生活を、長嶺組として気遣っているらしい。夕食の誘いは頻繁だ。 ただ、今日に限っては間が悪いとしか言いようがない。 エレベーターの中で和彦は、手荒く自分の頬を撫でる。顔の筋肉が強張ってしまい、不自然な表情になりそうなのだ。興奮が鎮まった代わりに、今度は緊張感が肩にのしかかる。 昼間、里見に会ったあと、夕方からは賢吾と顔を合わせるのだ。大蛇を潜ませたあの目に見つめられれば、問われもしないうちに、何もかも話してしまいそうで、怖い。だからといって誘いを断る選択肢は、和彦にはなかった。 ビルを出ると、いつもの手順で迎えの車に乗り込み、長嶺の本宅に向かう。 組員に出迎えられて玄関に入ると、コートとアタッシェケースを預けて、まっすぐ賢吾の部屋へと行く。 緊張のあまり、不自然な態度を取ってしまうのではないかと危惧していたが、寛いだ様子で座卓についた賢吾の姿を見ると、胸の奥がじわりと熱くなった。 自分にとっての日常が、目の前にある。理屈ではなく、本能的にそう思った和彦は、すぐには声が出せず、ただ立ち尽くして賢吾を見つめる。 ニュース番組を観ていた賢吾が、そんな和彦を見てニヤリと笑い、テレビを消した。「――どうかしたのか、先生。いまさら俺の顔なんざ、珍しくもないだろ」 賢吾の言葉に我に返り、和彦は慌てて部屋に入って障子を閉める。「別に……、あんたの顔を見ていたわけじゃない。人を呼びつけておいて、悠然としているなと思ったんだ」「なんだ。俺に玄関まで出迎えてほしかったのか?」 からかってくる賢吾に抗議しようとすると、組員がお茶とおしぼりを運んできたため、和彦も座卓についた。 賢吾が正面からじっと見つめてくる。いつになくその視線を意識しながら、熱いおしぼりで手を拭いた和彦は、さりげなく障子のほうを見る。「千尋は?」「すぐにやってくる。先生に渡したいものがあるそうだ」
「佐伯審議官に相談を持ちかけられたときも、半信半疑だった。だが、写真を見せられて気が変わった。――今の君を放っておくべきじゃないと」 困る、という一言が出てこなかった。思いがけない里見の登場に、明らかに和彦の心は揺れている。ただの元家庭教師というだけでなく、佐伯家で居場所のなかった和彦にとって、里見の存在は特別だった。 里見のおかげで、和彦は〈大人〉になれた。家族と馴染めないからこそ、足りないものを他人とのつき合いで補う術を教えてくれたのだ。 佐伯家の人間とは会いたくない。しかし、里見とは――。 気持ちが掻き乱され、何も考えられない和彦は、危うくすべてを話してしまいそうになったが、寸前で脳裏を過ったのは、今関係を持っている特別な男たちの顔だった。 唇を引き結んだ和彦は、里見の顔をまっすぐ見据える。「……ごめん、里見さん……。もう時間がないんだ。そろそろ戻らないと、患者さんを待たせることになる」 里見は穏やかに微笑んだ。「医者として仕事をしているらしいと、君の友人から話は聞いていたんだが、本当みたいだな」「もちろん」「ならまあ、君の口から情報を一つ引き出せたことに、満足しておこう」 そんなことを言った里見が、名刺入れから一枚の名刺を取り出し、手早く何か書き込む。渡された名刺を受け取った和彦は、それが携帯電話の番号だと知った。「これ……」「連絡先を教えてほしいとは言わない。その代わり、わたしの連絡先を知っておいてくれ」 困惑する和彦に、里見はこう付け加えた。「卑怯な言い方をするなら、佐伯審議官の心象を悪くしないためにもわたしは、君と連絡を取れる立場を確保しておきたい。――君から連絡が欲しい。もっと言うなら、また会いたい」 ズルい大人のようなことを言う里見から、嫌な印象はまったく受けなかった。口調があまりに切実だったからだ。「……実家のことでいろいろと聞きたいことはあるけど、今は本当に時間がないんだ。それに、いつ電話できるか、約束もできない」「
「ただ、わたし自身、君に会いたかったというのもある。大人になった君に、わたしはもう必要とされていないという意識もあったから、どんな理由であれ、会える口実ができたことを素直に喜んでいた」 ここで和彦はメッセージカードを取り出し、里見の前に置く。里見は照れたように笑った。「佐伯審議官から、君と接触を持ってほしいと頼まれたんだ。君の友人は、佐伯家のほうに不信感を持ち始めて、そろそろ協力的ではなくなったからと。その点、わたしはうってつけだ。佐伯家とのつき合いは長いし、かつての君の家庭教師であり、佐伯審議官からの命令に逆らえない立場だからね。――君の誕生日プレゼントにこのカードをつけたのは、わたしの独断だ。自分で選んだプレゼントだから、ちょっとした細工をするのは簡単だった。……君がこの場に来なければ、わたしでは連絡役は務まらないと報告するつもりだった」「つまりぼくは、里見さんの目論見にまんまと釣られたわけだ」「君の気持ちを試した。大人は、ズルいんだよ」「ぼくはもうとっくに、そのズルい大人だよ、里見さん」 和彦の言葉に何かを刺激されたのか、里見が強い眼差しを向けてくる。穏やかで優しいだけではない里見の性質が、わずかに透けて見えたようだ。 綺麗事だけで官僚の世界を生きてきたわけではなく、アクの強い父親の忠実な部下でいるには、それなりのしたたかさや狡猾さが必要なのだ。里見は、子供であった和彦にもそういったことを隠さず教えてくれ、だからこそ和彦は、里見を信頼していた。「佐伯審議官からは、君に実家に顔を出すよう促してくれと頼まれた。いろいろと相談したいことがあるそうだ。それと、君が今どこで暮らし、働いているかを聞き出してくること。どんなトラブルに巻き込まれているかも知りたいそうだ」 かつての家庭教師ぶりを思い出す、歯切れよい里見の話に、和彦は苦笑を浮かべる。まさか、ここまではっきり言うとは思っていなかったのだ。「里見さんとしては、ぼくが実家に顔を出すことをどう考えている?」「早く顔を見せて、家族を安心させたほうがいい――と言うつもりはない。佐伯家は今、英俊くんの国政出馬のことでピリピリしている。その状況で、これまで放任して
目の前に里見がいるということが、いまだに信じられなかった。 和彦の記憶の中にある里見は、活力に溢れた二十代の青年で、当時から人好きのする魅力的な外見の持ち主だった。今は、年齢を重ねた分、包容力と知性がさらに増したように見える。まさに、紳士という表現がしっくりくる。 優しげな眼差しで和彦を見つめる癖がまったく変わっていないことに、安堵する反面、気恥ずかしいものを感じ、和彦はカップを覗き込むように顔を伏せる。「――なんだか不思議だ」 里見の言葉に、ハッとした和彦はすぐに顔を上げる。目が合うと、里見特有の優しい雰囲気に搦め捕られたようになっていた。「何、が……?」「君が、先生と呼ばれる職業に就いているなんて。わたしが知っている君は、高校の制服を着ている姿までだからな。そしてわたしは、そんな君に勉強を教えている〈先生〉だった」「里見さんのおかげだよ。ぼくが優等生でいられたのは」 昔のことを思い出したのか、里見は短く声を洩らして笑う。その拍子に前髪が額にかかり、自然な仕草で掻き上げた里見の左手を、さりげなく和彦はチェックしていた。あって当然だと思っていた結婚指輪は、薬指にはない。 妙なことに気づいた自分に居心地の悪さを覚え、和彦は思わず視線をさまよわせる。「まじめな家庭教師だったのは、君が中学生のときまでだ。あとはもう息抜きと称して、君を連れ回していた」「……やっぱり、里見さんのおかげだよ。ぼくが人並みの子供らしく、外の世界に触れられたのは。そうじゃなかったら、ぼくは陰気な子供のままだった」 和彦が佐伯家のことを口にした途端、里見は表情を曇らせる。こんな表情まで、渋くて魅力的だと思うと、里見がいい形で年齢を重ねてくれたことに、和彦は内心で感謝せずにはいられない。 危機感を持つべき状況だと頭ではわかっているのだが、このときの和彦は、里見に会ったことで舞い上がっていた。里見が少しでも、家庭的なものを匂わせたり、仕事疲れによる陰鬱なものをまとっていればまた違ったのかもしれないが、幸か不幸か、和彦を失望させるものを里見は何も持っていない。「――相変わらず、
一年近く組長のオンナとして、組に協力する医者として、従順に過ごしてきて積み上げてきた信頼を、こんな形で利用することになるとは、和彦自身、思ってもいなかった。 賢吾の恐ろしさを知っているからこそ隠し事はしたくないが、今から和彦が取る行動は、決して賢吾を――関係を持っている男たちを裏切るためのものではない。 そう自分に言い聞かせながら、和彦はもう一度、今度は慎重に背後を観察してからタクシーを停める。 行き先を告げてタクシーが発進すると、プツリと緊張の糸が切れた。奇妙な解放感すら味わいながら、微かな震えを帯びた息を吐き出す。 和彦はコートのポケットをまさぐり、財布に触れる。これは前から使っているもので、誕生日プレゼントとして佐伯家から贈られた財布は、相変わらず書斎のデスクの中だ。ただ、今日はメッセージカードだけは外に持ち出し、財布のカードポケットに納まっている。 二人きりで会いたいと書かれているメッセージカード一枚で、無謀にも護衛をつけず、それどころか行き先すら誰にも告げないまま出向くことの危険性を、和彦はよく理解している。それでも行動を起こしたのは――。 タクシーは、見覚えのあるホテルの前で停まる。昨年、澤村とランチを食べたのが、このホテル内にある中華料理店だった。メッセージカードに書かれた待ち合わせ場所は、同じホテルのガーデンラウンジだ。 和彦がどこで生活し、仕事をしているのか不明なうえ、都合を尋ねることもできないため、無難にこのホテルを選択したのだろう。その配慮のおかげで、こうして仕事の合間に足を運べた。 正面玄関からロビーに足を踏み入れると、和彦は周囲を見回し、露骨に警戒する。トラウマになっているのか、兄の英俊が姿を現しそうで怖かったのだ。もちろん、そんなことはありえないだろう。メッセージカードを書いた人物は、和彦を騙すようなまねはしない。そう信じているのだ。 大きな池と日本庭園を眺められるガーデンラウンジは、眺めのよさや、昼時ということもあってか、けっこうなにぎわいを見せていた。 案内のスタッフに待ち合わせであることを告げて、ホールを見回す。そして、窓際のテーブルにつく、それらしい人物の姿を見出した。仕立てのいい明るいグレーのスーツを見
「先生の誕生日前後に二、三日まとめて休みを取りたかったが、無理だった」「誕生日当日、とは言ってくれないのか?」「俺には、そんな大事な日に先生を独占できる権利はない」 こうして触れ合ってはいても、和彦と三田村の関係は恋人同士ではない。和彦がいくら三田村を、自分の〈オトコ〉だと言っても、それが通じるのは二人の間だけだ。組にとって三田村は、若頭補佐であり、組長のオンナの〈犬〉なのだ。 三田村は、そんな自分の立場をわきまえている。そうであるよう、心身に叩き込んでいるのだろう。 この男らしいと思いながら和彦は、小さくあくびを洩らす。現金なもので、人恋しさを満たしてしまうと、今度は緩やかな眠気が押し寄せてくる。三田村の側だと、いくらでも無防備になれるのだ。「朝、仕事に間に合うよう起こすから、安心して休んでくれ」 三田村の優しい声に頷いたとき、すでに和彦は目を閉じていた。その状態で会話を続ける。「……気をつかってもらうほど、ぼくの誕生日なんて大したものじゃないんだけどな」「だったらせめて、ケーキを買っておこうか?」 三田村のその言葉が冗談か本気か、まったく読めない。和彦は薄く目を開くと、じっと返事を待っている三田村の表情を確認する。どうやら本気で言ったらしい。「誕生日プレゼントは、もういらない。あんたからはもらった。こうしてぼくに会いに来てくれて、それだけで十分だ。記憶にもしっかり残ったしな」「誕生日、誕生日と騒ぎ続けたら、本気で先生に嫌われそうだな……」「ああ、嫌ってやる」 笑いを含んだ柔らかな声で答えた和彦は、ごそごそと身じろいでから、三田村の胸に顔を寄せる。 背に獰猛な動物を背負いながらも、誰よりも優しい男の体温を感じながら考えるのは、誕生日までに自分がすべきことだった。 今いる世界の男たちは、猛々しくて狡猾で、ときには残酷ですらある。必要があれば、何を使ってでも和彦を雁字搦めにして、逃がしはしないだろう。だが、そういった男たちの執着が、和彦には息苦しくある一方で、心地よく、愛しい。 今手放してしまえば、もう二度