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last update Last Updated: 2025-06-11 17:00:17

 コウノトリプロジェクトに参加、という形で生殖医療の治療を受けて妊娠できるようになるためには、実施している病院の窓口に問い合わせをして、定期的に開催されている説明会に一度は必ず参加しなくてはいけない。説明会は大体月一で開かれているようで、夫婦(夫夫・婦婦)ならそのふたりで、シングルであれば本人のみでも参加できるという。説明を受けてカウンセリングなんかも受けた上で、本当に治療に臨むのかを決める。

 治療、特に妊娠~出産は主に母体となる側の負担が大きく、何より命がかかっている。そのため“ふうふ”であろうと、シングルであろうと、他の家族の同意書が必要になるそうだ。その点で言えば俺は天涯孤独ではあるけれど、一応家族同然となっている平川さんと事務所の社長の意向くらいは聞かないといけない。数少ない、ディーヴァの正体を知る存在なんだから。

「社長、案外あっさりオッケーくれたね」

「そうね。社長は唯人には甘いからね」

「ディーヴァだから?」

「そりゃそうよ。プラチナムで一番の稼ぎ頭なんだから。活動に支障がないならいいよって話なのよ」

 事務所からの許可は得られたと思うので、その点は大丈夫だろう。

 治療については、まず妊娠できる体にするために、女性ホルモンの凝縮されたような効果がある薬を毎日飲むことや、時々点滴もしなきゃいけない。

 女性はもともと子どもを宿し育てられる子宮があるので、相手の細胞を採取してそれで精子を作り、母体になる相手の卵子と体外受精させて胎内に着床させればいい。だから妊娠出産の成功例がとても多い。

 しかし、男性はもともと子どもを宿すという機能が備わっていないのに、そこに妊娠をさせて出産をさせるので、高度な危険が伴うと言われている。そもそも着床率が女性に比べて格段に低いんだそうだ。

 基本的治療として行われる、細胞を採取して卵子を作り出すことは比較的容易とされているし、受精卵を作るのも体外受精ならば問題はないはずなのだが――

(でも、男は腹腔ってところに着床させて妊娠に持ってかなきゃだから……負担が大きくて危険だって言うんだろうな……)

 それでも男性も妊娠出来るようになってから二十年弱、これまで国内外合わせて一万例近くの治療実施のケースもあるし、妊娠出産して、子どもが誕生して、家族で暮らしているという報告ケースをいくつもこの前の説明会で聞いた。

 平川さんはまだちょっとだけ心配していたけれど、子育てをしているケースも見たので前よりは理解してくれているんじゃないかと思う。

「コウノトリプロジェクトの話はよく解ったけれど、私が理解したって仕方ないのよ。唯人のパートナーが理解して、賛同してくれるかなんだから」

 病院の帰り道に平川さんからそう言われたこともあり、朋拓に話をしに行くという腹を決めていま彼の部屋に来ている。

 ほぼ連絡なしに訪ねたものだから、朋拓はくたびれたスウェットの部屋着姿で、いつもよりもぼさぼさの髪の、よく言えばリラックスした状態で俺を出迎えてくれた。

「来るなら迎えに行ったのに」

 そう言いながらも、朋拓はすぐにいつもの部屋デートの時に淹れてくれる有機栽培のコーヒー(朋拓のお気に入りで、俺が来た時にしか淹れないと決めているらしいちょっと高いコーヒー)を出してくれる。

「恋人が突然来たらマズいことでもしてた?」

「逆だよ。今日なんか仕事の用事って言ってたから逢えないと思ってたのに唯人から逢いに来てくれたからすげぇ嬉しい」

 そう言いながら、朋拓はコーヒーの香りのする唇で頬に触れてくる。

 ほんのりと甘い空気になりつつも、俺は今日病院で聞いてきた話を彼に告げてそれについての意見を聞きたいと思っている。意見を聞くというのもあるけれど、本音をいれば賛同して協力して欲しいという話でもあるのだけれど。

「あのさ、朋拓、」

 そう俺が口を開きかけた時、つけっぱなしにしていたホログラム画像のテレビニュースが、先日のコウノトリプロジェクトにおける補助金や、補償金の大幅増額の件を伝え始めた。

 タイミング的にちょうどいいな、と思って俺が「増額だって。ゲイでももっと子ども作りやすくなるのかもね」と、朋拓の方を振り返りながらこうも続けてみた。

「ってことはさ、頑張れば俺らでも子ども作れるってことじゃない?」

「あー……まあ、そうだね」

 さっきまでの声とは打って変わって、なんだか気乗りしないような反応なので、朋拓の顔を覗き込むように見ると、朋拓の顔は微笑んではいるが、歓迎している風ではない。

 朋拓ってこんな顔するんだっけ……そんな不安がわずかに過ぎるほどにいつにない表情に、俺は焦りを覚える。

「朋拓、子ども嫌い? 苦手だったりする?」

「いや、すっげー好き。俺、歳の離れた弟と妹いてさ、たまにここに泊まりに来るくらい仲良いんだよ。それなら自分の子どもとかかわいいだろうなーって思うし、出来ることなら自分の子どももいたらなーって考えたこともあったよ。名前とかこういうのつけたいなーとか。自分の家族持ちたいなーっていうのは、あるかな」

 朋拓の言葉に、俺はさっき一瞬過ぎった不安が消えていく。なんだ、それならいまさっき目にした表情は何かの見間違いなんだ。

 付き合い始めてから一年半くらいが経つけれど、朋拓の道で見かける小さな子へ向ける眼差しとか、動画とかに出てくる赤ん坊の姿とかに頬を緩ませているような普段の様子から、子どもが嫌いだとは思えなかったので、返された言葉は俺にとっては安心材料が増えたに過ぎなかった。

 だから、「それじゃあさ、俺らもコウノトリプロジェクトに参加してみない? 俺も家族が欲しいんだ」と、切り出そうと口を開きかけた時、全く思ってもいなかった言葉が返ってきて俺は何も言えなくなった。

「でもさ、コウノトリプロジェクトで男が子ども産むって本当に命懸けなんだってね。子ども産める女のひとでもお産に危険はつきものって聞くけど、そういうのと比じゃないとかっていうし」

「あ、う、うん……でもさ……」

「だからさ、俺が産めるかって言われたら、無理だなって思うし、もちろん唯人に産んでくれっていうの俺は出来ないなぁ……下手したら死んじゃうようなことを、大切な相手に押し付けてまで子どもをどうしても欲しいとは思わないよ」

「…………」

「コウノトリプロジェクトに頼らなくても、子どもなら代理出産もあるし、養子を迎えることだってできる。血の繋がりがすべてじゃないし、何より、命がけな危険なこと、俺はしたくないしさせたくはないな」

 朋拓の口調は穏やかではあったけれど言葉ははっきりとしていて、ただの出まかせでないことが俺にはわかった。だから、俺はそれ以上コウノトリプロジェクトに関する話を、推し進めることができなくてうつむくしかない。

 朋拓のような意見は依然世間でも根強いのは事実で、コウノトリプロジェクトに反対している人たちも一定数いるという。そういうのもあるから、国は治療にかかる費用とか補償とかも手厚くしようというのだろう。

 そうは言っても、環境劣悪になったこの惑星にいまどれほど健康で妊娠出産が可能な母体となる女性がいるというのだろう。そして妊娠出産にはタイムリミットがあっていつでも可能なことではない。それでなくとも、健康な現役世代も、人口そのものが少なくて社会を維持するためにぎりぎりの労力しかないとも言われている。

 それに、俺がこのプロジェクトに参加した理由は人口減問題と関係があるというよりも、むしろ俺の生い立ちに関係していることだから、その話もしなくてはならないんだけれど……そこまで話せる気がしない空気だ。

 朋拓の言葉に言い返したいのに、あらゆる情報が頭の中で錯綜して上手くまとまらない。どう言えばちゃんと朋拓を納得させられるかがわからず、途方に暮れてしまう。

「……なんで、そこまで言うの? コウノトリプロジェクトで男性でも子どもを産めば世界の人口が増えて社会が安定するっていうじゃん」

 ようやくの思いでそれだけを言い返したのだけれど、朋拓は少し考えて苦笑しながらこう更に返してきた。

「そうかもしれないけれどさ、もともと男には出来ないことを、無理やり身体を改造するみたいにしてまでしなきゃいけないのかな、って俺は思う。しかも命の危険を冒してまで、って。それって人口増やすことに矛盾してない? 命増やしたいのに命削るっていうの、余計にマイナスじゃん」

「それは……そうかもしれないけど……でも、」

 でも俺は、朋拓との子どもが欲しいんだよ。人口減の話もだけれど、なにより愛し合っている朋拓との子どもが欲しいし、家族になりたい。他の人たちだってきっとそうなんじゃないかな――そう言いたかったのに、朋拓の言葉を前にそれ以前の話で躓いてしまって、本当に一番伝えたい言葉の前に厚い壁が立ちはだかる。

 口ごもる俺の様子を知ってか知らずか、朋拓はこう畳みかけるように言って俺のうつむく頭を撫でてなだめてきた。

「出来ないことを無理矢理にする、させるっていうのはさ、神様にも反することで罰が当たるんじゃないかなって俺は思うよ。まあ、べつに何か宗教を信じているわけじゃないけど……それでも、人の命に関わることは簡単に扱ったりしちゃいけないと思うし、そういうのに俺は関わりたいと思えないし、唯人にも関わって欲しくない。そんな責任、俺は取れるかわからないし」

 つまりは、コウノトリプロジェクトそのものに賛同できないという事であり、仮に俺が賛同して協力して欲しいなんて言い出しても受け入れられないという事とも言える。

 さっき|抱《いだ》いた希望の光が、たちまちに陰り暗い雲に覆われていく。絶望の色をした心象風景に、俺は目の前が暗くなっていくほどのショックを受けていた。

「……そう、わかった」

 それだけを呟くのが精いっぱいで、俺はそれから特に何を話すでもなく朋拓の寝室のベッドに潜り込んで眠った。普段なら、リビングで他愛ない話をしながらどちらからともなく互いの身体に触れ合って、セックスになだれ込むような夜になるのに、そんな気分にはとてもなれなかったのだ。

 朋拓は心配そうに様子を伺いに何度も俺に声を掛けてきたけれど、俺は背を向けて応えなかった。応えられるほどの余裕さえも、拒まれた悲しみに呑み込まれていったからだ。

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