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監察日誌:山上と新人4

Author: 相沢蒼依
last update Last Updated: 2025-09-08 04:11:13

***

デスクで、昨日の書類の整理をしていたら、いつものようにコーヒーカップを手にした山上が、ひょっこりと現れた。

俺の一睨みもなんのその、何事もなかったように、応接セットの椅子に格好良く腰かける。

「おまえ、昨日忠告したのを忘れたのか?」

声のトーンを落とし、唸るように言った俺の顔を、山上は明らかに眠そうな表情で見る。

「関……想ってるだけじゃ、気持ちは伝わらないんだぞ」

「伝えるだけならいいさ。だがな、おまえのやった行為はなんだ?」

俺は下がってもいない眼鏡をクイッとかけ直し、山上を睨んでやった。

「……だって、水野がかわいかったんだ。しょうがないじゃないか」

「バカかっ! おまえのやったことは犯罪なんだ。セクハラレベルは、越えてるんだからな」

怒り任せに、拳をデスクにガンガン打ちつけてやる。せっかく整理した書類が、めちゃくちゃになってしまった。

「わかってる……。でも抑えきれなかったんだ。水野が好き過ぎて、つい暴走した……」

(暴走するほど人を好きになったことがないから、正直わからん――)

俺は頬杖をついて、山上を見た。首をもたげたまま、床をじっと見ている。

「水野……あんなにキズついた顔して怯えさせたなら、手を出さなきゃ良かった……」

「今更、後悔しても遅いぞ。俺なら配置換えの申請して、おまえとおさらばするわ」

「なっ……!」

「だって、そうだろ。自分を手込めにした相手と、仲良く仕事なんて出来ないね。配置換えを申請するか、転職するかの二択だろう」

ため息をつき眉根を寄せて、後悔しまくりの山上の顔を見ながら両腕を組む。

「水野は、関とは違う……」

「まったく。あのな嫌々捜査一課に無理やり来させられ、おまえの仕事の尻拭いをさせられてるところに、突然蹂躙されたんだ。逃げ出すに決まってるだろう?」

「だんだん、言葉がキツくなってる。僕を苦しませたいのか?」

山上は額に右手を当て、うんざりした表情で俺を凝視する。

「これくらいで弱音を吐くな。水野くんはその倍、苦しんでるんだからな」

「じゃあ聞くけど、関は好きなヤツが出来たら、どうやってアタックするんだよ? まさか原稿用紙に、愛の言葉を書き連ねる、なぁんてことをしないよな?」

糠に釘――俺の言葉に反省の色ナシか。いつも通りだけど……。

「どうしてそこに、原稿用紙が出てくるんだ。そんなモノ使うかバカ」

俺は眼鏡を外して、目頭を押さえた。山上の話は基本おもしろいが、時々ついていけないときがある。

「じゃあ、どうするんだよ?」

立ち上がり俺のデスクに歩み寄ると、両手をついて、じっと顔を見つめた山上。眼鏡を外したまま、少し困った表情をした俺。色恋沙汰の話は、正直なところ得意ではない。

「なにもしない。ただ――」

「ただ?」

山上は不思議そうな顔をして、食い入るように見つめる。

「見てるだけ、だな……」

そう言うと、顔をえらく引きつらせた。

「へぇ。見てるだけなら、なにも始まらないじゃないか」

「そんなことはない。自然と目が合う回数が増えると、向こうが勝手に意識し出して、その内やって来る」

「そんな都合良く、奇跡のようなことが起こるなんて、関のその目はなにか、特殊なモノで出来ているのか?」

強引に俺の顎を掴み、顔を上げさせると息がかかるくらい近くに顔を寄せて、じっと目を見つめてきた。

「近いぞ、山上」

端正な顔が間近にあり、迫力満点である。

「その目を交換して水野を見たら、落とせるのかな……」

独り言のようにポツリと呟く。交換してって、おまえ――。

「でもな水野のヤツってば、超絶鈍いから、きっとわからないだろうなぁ。僕の恋は不毛だ」

「いい加減にしろっ!」

俺は顎を掴んでいる手をバシッと払って、素早く眼鏡をかけた。

「自業自得の結果だ。潔く諦めろ」

「関、僕は諦めが悪い方なんだよ。だから始末に負えない……」

悲壮感漂わせるその姿に、俺はどうしていいかわからない。手助けしてやりたいのは、山々なんだが……。

「しっかし意外だったな。関ってば、超奥手だったとは。てっきり交渉術なんか使ってさ、ズバズバ相手のことを誉め殺しして、愛の言葉を囁いた挙げ句、ヤルことやりそうなタイプだと思ってたのに」

わざと明るく喋り出す。

俺が難しい顔をしてなにかを考える前に、重い空気を払拭すべく、話題転換した山上。いらない気、遣いやがって……。

「予想を裏切るのが、得意なんでね」

「勿体無いヤツ。そういう意外なところが、モテる秘訣なのに」

そう言って、持参したコーヒーをあおるように飲み干す。

「眼鏡を外した関の目って、すごく綺麗だった。綺麗だから尚更、キズつきやすいのかもって、さ」

「山上……?」

「俺はおまえみたいに繊細じゃないから、大丈夫。なんとか頑張るわ……」

以前告げたセリフを何故か口にしてから、寂しげに背を向けて出て行く後ろ姿にむかって、落ち込むなと言葉をかけられなかった。

愛に飢えている山上に、俺はなにもしてやれない。力不足の自分に嫌気がさして、ぎゅっと両手に拳を作ったのだった。

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