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第6話

作者: 緋色の追憶
勇太が出ていくと、梓はベッドサイドのテーブルからスマホを手に取り、弁護士の高田拓也(たかだ たくや)に電話をかけた。

電話はすぐに繋がった。

「もしもし、高田先生、佐野梓です」彼女の声は驚くほど落ち着いていて、まるで自分とは関係のない仕事の話をするようだった。「離婚訴訟を起こすことに決めました」

電話の向こうの拓也は、特に驚いた様子もなく、ただ確認するように尋ねた。「佐野さん、本当によろしいのですね?旦那さんの方は……」

「彼は協議離婚に応じてくれません」梓は拓也の言葉を遮り、きっぱりとした口調で言った。「ですから、訴訟を起こすしかありません。財産分与は法律通りに、私が受け取るべき分だけでいいです。でも……」

彼女は一瞬言葉を切り、その瞳は冷たい光を宿していた。「ひとつ、訴訟内容を追加してほしいことがあります」

拓也は尋ねた。「何ですか?」

「傷害罪です」梓は、はっきりとそう口にした。

「勇太は真実を隠し、私に長期間、不妊になる薬を飲ませていました。これは私の心と体に対する、明確な傷害行為です。診断書を取って、彼に刑事責任を問う権利を主張します」

電話の向こうは、しばらく沈黙した。予期せぬ展開に、驚きを隠せないようだった。

「まず、この方向で準備を進めてください」と梓は言った。「向こうがそう出るなら、私も容赦はしません」

電話を切り、彼女は長いため息をついた。ずっと胸につかえていた重たい空気が、少しだけ晴れた気がした。

傷害罪で訴えるのは、難しいかもしれない。でも、自分はそうしなければならなかった。

これは単なる法的な反撃ではない。この8年間、奪われてきた子供を産む権利と、踏みにじられた尊厳を取り戻すための、厳粛な宣戦布告なのだ。

梓は布団をめくりあげ、背中の刺すような痛みをこらえながら、ベッドから起き上がった。

動きはいつもよりゆっくりだったが、その一挙一動に迷いはなかった。

彼女の荷物は、そう多くはなかった。

この形だけの「家」にある物のほとんどは、勇太が買い与えたものだった。それらはどこか、施しのような雰囲気をまとっていた。

梓はクローゼットの奥から、古いスーツケースを一つ取り出し、荷造りを始めた。

自分で買った普段着を数枚、お気に入りの本を数冊、両親の写真。それに、マイナンバーカードや銀行のカードといった、大事なものだけ。

高価な服やアクセサリーの数々には、目もやらなかった。

責任と罪悪感で塗り固められた品々なんて、ひとつもいらなかった。

荷造りはあっという間に終わり、20分もかからずにスーツケースの蓋を閉じた。

梓は長年住んだこの部屋を見渡した。見慣れているはずなのに、ひどく知らない場所のように感じた。

スマホを取り出し、チケット予約アプリを開いた。

ためらうことなく、この街を出ていくため、一番早い新幹線の切符を選んだ。

行き先は、隣の県にある、一度も行ったことのない街。

どこへ行くかは重要ではなかった。大事なのは、ここから離れることだった。

決済はすぐに完了し、切符の詳細が画面に表示された。

スーツケースのハンドルを引き上げ、梓はドアへと向かった。

最後に一度だけ部屋を振り返ると、もう迷わずにドアを開けて外に出た。

階下は静まり返っていた。勇太は書斎にいるか、また梨花のところへでも行っているのだろう。

梓はがらんとしたリビングをまっすぐに横切り、玄関のドアを開けた。

外はどんよりと曇っていて、冷たい風が顔を打ちつけた。

彼女はコートの前をかき合わせ、冷たい空気を深く吸い込んだ。スーツケースを引き、一度も振り返らずに通りの角まで歩いて、タクシーを一台止めた。

「新幹線の駅までお願いします」

車が走り出すと、窓の外の景色が後ろへ流れ始めた。

梓はシートに深くもたれかかり、目を閉じた。

背中の傷はまだ痛む。でも、不思議と心は落ち着いていた。
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