تسجيل الدخول【振り返る】【あるいは――忘却する】その二行の文字が、夜空に浮かんでいた。真紅の光が、全員の顔を赤く染める。残り時間。三分。風が止んだ。世界が異様な静寂に包まれる。それでも、あの声だけは消えない。「修司……」「航平……」「帰っておいで……」近い。どんどん近付いてくる。あまりにも懐かしく、あまりにも優しい声。振り返れば、もう一度会える気がした。奥田は目を強く閉じる。額に青筋が浮かんでいた。もう何年も、母親の声なんて聞いていない。なのに。忘れたはずの記憶が、次々と蘇ってくる。熱を出した夜。母が額に手を当ててくれたこと。学校から帰った時、キッチンから漂う夕飯の匂い。そして。病室で見た最後の笑顔。「修司」「お母さんはずっと会いたかった」奥田の肩が震える。爪が掌に食い込むほど拳を握った。その時だった。誰かが、そっと手を握った。温かい。力強い手だった。奥田は目を開ける。隣には航平がいた。何も言わない。ただ、強く手を握ってくれていた。その瞬間。耳元で囁いていた声が、少しだけ遠ざかった気がした。奥田は航平を見つめる。そして、小さく笑った。「大丈夫だ」「俺は平気」だが。神谷澪の顔色は悪くなる一方だった。本当に危ないのは、奥田ではない。航平だった。案の定。次の瞬間。神谷の声が聞こえてくる。「航平」優しい声。いつもの声。「言いたいことがあったんじゃないの?」「振り返れよ」「今度は」「俺は消えないから」航平の肩が震える。呼吸が乱れ始めた。神谷が叫ぶ。「聞くな!!」だが声は止まらない。「後悔してるんだろ?」「もっと早く気付けばよかったって」「俺を引き止められなかったって」「最後まで何も言えなかったって」一言一言が、胸の奥を正確に抉ってくる。航平は歯を食いしばる。それでも。身体が少しずつ後ろを向き始めていた。一歩。また一歩。「航平!!」奥田が慌てて腕を掴む。その時だった。一人の人物が、静かに前へ歩き出した。全員が息を呑む。佐伯先生だった。老人はゆっくり振り返る。その顔に恐怖はない。あるのは、長い年月を生きてきた者の疲労だけだった。「そういうことだったのか……」小さく笑う。「十九年か」「やっと、
床が崩れた瞬間だった。航平は反応する暇もなかった。足元が消える。身体がそのまま闇へ落ちていく。「航平!!」奥田が咄嗟に手を伸ばした。指先がかろうじて手首を掴む。だが落下の勢いは凄まじい。二人まとめて引きずり込まれそうになる。亀裂は広がり続けていた。バキッ。ミシッ。木材が砕ける音が絶え間なく響く。まるで時計塔そのものが崩壊しようとしているようだった。「離すな!」奥田は歯を食いしばる。腕が震えていた。航平も必死に握り返す。だがその時。闇の奥から、無数の白い手が現れた。書架の隙間から。ゆっくりと。這い出してくる。一本。二本。十本。百本。何かを探すように。何かを求めるように。航平の背筋を冷たいものが走る。次の瞬間。一本の手が彼の足首を掴んだ。凍り付くほど冷たい。「っ……!」身体がさらに沈む。奥田の顔色が変わった。「放せ!!」だが手は増え続ける。闇を埋め尽くすほどに。その時だった。白い影が闇の中から飛び出した。ドンッ!最前列の手を蹴り飛ばす。そして亀裂の縁へ軽やかに着地した。風が前髪を揺らす。見慣れた笑み。「まったく」「数日見てなかっただけで」「もう死にかけてるのか?」航平の目が大きく見開かれる。「神谷!?」神谷澪だった。神谷はしゃがみ込む。航平のもう片方の手を掴んだ。二人同時に力を込める。そして。航平はようやく引き上げられた。轟音。その直後。床が完全に崩落する。闇が下層を飲み込んだ。三人は床へ倒れ込む。荒い呼吸。鼓動が速い。だが航平が何か言うより先に、神谷が人差し指を口元へ当てた。「シッ」笑みは消えていた。代わりに。これまで見たことのないほど真剣な表情。「これから先」「一つだけ覚えておけ」神谷は低く言った。「何が聞こえても」「絶対に振り返るな」空気が張り詰める。奥田が眉をひそめた。「どういう意味だ?」神谷は答えない。ただ階段の方を見上げる。そこには誰もいなかった。だが数秒後。音がした。コツ。コツ。コツ。ゆっくり。重く。誰かが階段を上がってくる。航平は反射的に視線を向けそうになる。だが神谷の顔色が変わった。「見るな」声はほとんど囁きだった。「絶対に見るな」緊張が走る。足音は近付く。一
翌日。奥田はひどい隈を目の下に浮かべたまま登校してきた。航平は一目で異変に気づく。「寝不足か?」奥田は二秒ほど黙り込んだ。それから、鞄の中から一枚の紙を取り出して差し出す。楽譜の切れ端だった。端は黒く焦げている。まるで火に焼かれたようだった。航平は目を見開く。昨日、旧音楽室で見た楽譜とまったく同じ紙だった。「どこで手に入れた?」奥田は低い声で答える。「夢の中で」航平は反射的に、そんなはずがないと言いかけた。だが。楽譜の裏面を見た瞬間、言葉が止まる。そこには見覚えのある筆跡があった。神谷澪の字だった。【鐘の音が鳴ったら、振り返るな】空気が静まり返る。二人は同時に黙り込んだ。もはや偶然では説明できない。・・・・・・放課後。二人は再び旧音楽室へ向かった。夕陽が窓から差し込む。教室の中は相変わらず無人だった。だが今回は違う。ピアノの音が、彼らを待つように先に鳴り始めた。ポーン――ポーン――ポーン――途切れ途切れの旋律。まるで誰かが意図的に導いているようだった。奥田は音を追う。教室の一番奥まで歩く。そして足を止めた。そこには古いロッカーがあった。普段は鍵が掛かっている。だが今日だけは違った。扉がわずかに開いていた。航平がそっと開く。中には何もない。ただ一つだけ。錆びた真鍮の鍵が置かれていた。鍵には黄ばんだタグが付いている。そこに書かれていた文字は――【旧時計塔】二人は顔を見合わせた。学校の裏山。そこには確かに古い時計塔がある。十年以上前に使用停止となった施設。老朽化が進み、生徒の立ち入りは禁止されていた。・・・・・・午後六時。二人はフェンスを越え、時計塔の前へ辿り着いた。夕陽は完全に沈んでいる。巨大な黒い影のような時計塔が、森の中に静かに立っていた。木々を揺らす風。葉擦れの音。なぜだろう。航平は妙な既視感を覚えた。来たことがある気がする。だがそんなはずはない。ギィ――古い木製の扉が開く。埃が舞い上がった。内部は真っ暗だった。螺旋階段が上へ続いている。二人は懐中電灯を点けた。一段ずつ慎重に登る。三階に差し掛かった時。奥田が突然立ち止まった。「聞こえたか?」航平は首を傾げる。「何が?」奥田は眉をひそめた。「誰
鎖が現れた瞬間。神谷澪はなぜか微笑んだ。「やっぱり、最後は俺か」その声は驚くほど穏やかだった。航平の顔色が変わる。「神谷!」思わず駆け出そうとする。だが神谷は片手を上げた。来るな。そう告げるように。次の瞬間。管理者のページが大きく開く。眩い白光が溢れ出した。轟音。世界が光に呑み込まれる。誰も目を開けていられなかった。そして――航平が再び意識を取り戻した時。彼は図書館の外に立っていた。静かな夜だった。風が吹いている。空には月が浮かんでいる。まるで。先ほどまでの出来事が、最初から存在しなかったかのように。奥田が隣にいた。佐伯先生もいる。だが。神谷澪だけがいなかった。第四書架も。時間の裂け目も。何もかも消えていた。・・・・・・翌日。学校はいつも通りだった。放送は流れない。図書館も平穏そのものだ。だが昼休み。奇妙な噂が校内を駆け巡り始めた。――夜六時を過ぎると、旧音楽室からピアノの音が聞こえる。誰が最初に言い出したのかは分からない。だがその噂は瞬く間に広がった。旧音楽室は何年も前に廃室になっている。ピアノも撤去済みだ。誰も使っていない。それなのに。毎晩。必ず音が聞こえるらしい。しかも日を追うごとに。その音ははっきりしてきていた。放課後。航平と奥田は確かめることにした。夕陽が沈みかける。古い校舎の廊下を進み、旧音楽室の扉を押し開く。ギィ……重たい音が響く。中には誰もいなかった。机も椅子もない。積もった埃だけが、長い年月を物語っている。当然。ピアノも存在しない。航平は周囲を見回した。「何もないな」奥田も頷く。「ただの噂かも――」その時だった。ポーン……高く澄んだ音が響く。二人は同時に振り返る。確かに聞こえた。ピアノの音だ。そして。一音だけでは終わらなかった。ポロン……ポロン……途切れ途切れの旋律。まるで誰かが練習しているような。不完全なメロディ。音は教室の隅から聞こえてくる。航平はゆっくり近づいた。そこで足を止める。息を呑む。いつの間にか。床の上に一枚の楽譜が落ちていた。古びた紙。黄ばんだ端。誰かが大切に保管していたような譜面。航平は震える手で拾い上げる。表紙を開く。そこに記されていた名前を見た
冷たい。骨の髄まで凍りつくような冷たさだった。航平は反射的に腕を振りほどこうとする。だが、手首を掴んでいるその手は、ますます強く締め付けてきた。闇の中。何も見えない。聞こえるのは、無数の声だけだった。泣き声。助けを求める叫び。囁き。聞き取れない呟き。まるで何十年分もの時間が、一度に押し寄せてくるようだった。「航平!」奥田の声が響く。次の瞬間。光が闇を切り裂いた。懐中電灯だった。弱々しい光が周囲を照らす。航平は顔を上げる。そして凍り付いた。自分の手首を掴んでいたのは、怪物ではなかった。一本の白い人間の手だった。書架の隙間から伸びている。その先は見えない。腕の向こうには、果てのない闇だけが続いていた。まるで誰かが、向こう側に閉じ込められたまま、必死に這い出そうとしているようだった。しかも、その手は一つではない。一本。二本。十本。百本。第四書架の奥には、数え切れないほどの手が伸びていた。佐伯先生がその場に崩れ落ちる。顔面は蒼白だった。「あの人たちは……」「全員……失踪者なのか……」空気には、押し潰されそうな絶望が満ちていた。だがその時。最奥の闇が突然裂けた。そこから、一人の少年が歩いてくる。白いシャツ。見覚えのある姿。そして、どこか気だるげな笑み。航平は息を呑んだ。「神谷……」神谷澪だった。記憶の中と何一つ変わらない。まるで最初から、どこにも消えていなかったかのように。風が前髪を揺らす。神谷は全員を見渡し、小さくため息をついた。「やっぱり来ちゃったか」奥田が呆然とする。「神谷澪……?」神谷は軽く手を振った。「説明は後」「今はちょっと状況が悪い」言葉が終わるより早く、空間が再び震えた。轟音。闇の最深部。あの真紅の瞳が、完全に開いた。そして今度こそ、全員がその正体を見た。それは目ではなかった。本だった。巨大な本。大きさなど比較できないほど巨大な、一冊の書物。無限の闇の中心に浮かんでいる。開かれたページは翼のようだった。そこには無数の名前が記されている。そして真紅の光は、背表紙の中央から放たれていた。まるで生きた眼球のように。全員を見つめている。神谷の笑みが消える。「――あれが管理者だ」航平が
【航平】【失踪予定時刻 本日 17:43】その文字が現れた瞬間。航平の心臓は、何かに強く握り潰されたような感覚に襲われた。17:43。今から一分もない。「航平!」奥田が咄嗟に彼の腕を掴む。だが次の瞬間だった。登録簿の文字が突然広がり始めた。黒いインクが生き物のように蠢く。紙の上を這い回り、そして――ページの外へ流れ出した。ポタッ。ポタッ。粘り気のある黒い液体が床へ滴り落ちる。空気の温度が急激に下がった。佐伯先生の顔が真っ青になる。「あれは……何だ……?」誰も答えられない。全員が見ていた。黒い液体は、まっすぐ航平へ向かっていた。徐々に速度を上げながら。まるで獲物を探しているかのように。奥田は反射的に航平の前へ立つ。だがその時。通路の向こう側から声が響いた。「それに触るな!」奥田修一だった。轟音と共に、時間の裂け目が激しく震える。十九年前と十九年後。二つの空間が重なり始めた。奥田修一は教室から飛び出し、初めて彼らの前へ姿を現す。空気が静まり返る。二人の奥田。向かい合う。同じ顔。同じ瞳。驚いた時の表情までそっくりだった。航平は言葉を失う。しかし奥田修一には、感動の再会をしている余裕などなかった。彼は登録簿を奪い取る。そして一気にページを引き裂いた。ビリッ――紙が裂ける。その瞬間。黒い液体はすべて停止した。まるで目的を失ったかのように。「説明してる時間はない」奥田修一が低く言う。「先にここを離れろ」だが。その時だった。登録簿を抱えた少女が、初めて口を開いた。「もう遅い」その表情は、今まで見せたことのないものだった。冷たい微笑みではない。深い悲しみ。「裂け目が広がった」「もうすぐ目覚める」空気が張り詰める。航平が眉をひそめた。「目覚める……?」少女は静かに顔を上げる。そして第四書架の最奥を見つめた。そこには本来、果てしない黒い本棚が並んでいるはずだった。だが今は違う。闇が蠢いている。波のように。生きているように。その奥で、巨大な何かがゆっくり動いていた。本棚が倒れ始める。本が次々と落下する。ゴォン。ゴォン。図書館全体が揺れていた。その時。佐伯先生の顔色がさらに変わる。何かを思い出したようだった。「ま
展示ホールは、少し騒がしかった。ライトが額縁に当たって、白く飛ぶほどに明るい。俺は、自分の絵の横に立っていた。掌だけが、妙に熱い。その一枚は、中央に掛けられている。黒髪の騎士が、わずかに身体を斜めに向けている。正面を向いていない。ちょうど今、振り返ったところ――けれど、まだ完全にはこちらを見ていない。数人が前で足を止めた。「ねえ、これ……」「ちょっと似てない?」声は、抑えているつもりなのかもしれない。でも、十分に聞こえる音量だった。俺は、聞こえていないふりをする。けれど一言一句、はっきり耳に入ってくる。「特にさ、あの雰囲気」「うんうん、あの笑い方」笑い方?
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室は一気に息を吹き返した。机や椅子が床を擦る音があちこちで重なり、ビニール袋を開けるときのかすかな「シャッ」という音が混ざる。空気はすぐに、コンビニ特有の総菜パンや揚げ物の匂いで満たされた。もう待ちきれないとばかりに弁当を広げる者。新作スイーツの話題で盛り上がる者。数人で輪になり、菓子を交換し合う者。その中で、航平だけが席に座ったままだっ
朝の教室には、まだ夜の名残のような冷気がうっすらと漂っていた。窓の隙間から押し込むように風が入り込み、カーテンの裾をかすかに揺らす。その動きに合わせて、誰も座っていない机の間に、寂しげな影が落ちては消える。航平は制服のポケットに手を入れ、スマートフォンを取り出した。画面が点いた瞬間、途切れることのない振動が掌に伝わってくる。ネットワークに接続された通知が一斉に流れ込み、「有名人」の文字が並んでいた。最初は、端末の不具合かと思った。けれど、画面をスクロールする指がふと止まった、その瞬間——見覚えのあるタイトルが、唐突に視界に飛び込んできた。——『存在しない物語、もう一度』昨夜、
家の扉を開けたとき、中にはすでに明かりが灯っていた。廊下は相変わらず静まり返り、予期していた聞き馴染みのある声は聞こえない。今日、彼女は仕事で不在なのだということを、後になって思い出した。制服を脱ぎ、鞄をソファの脇に放り出すと、彼はキッチンへ向かい水を一杯煽った。冷たい水が喉を滑り落ちていく。その一瞬の覚醒感が、今日という一日が確かに終わったのだと告げていた。けれど、心のさざ波は依然としてその場所に留まったままだ。二階の自室に戻り、服を着替え、窓を開けてベランダへと出る。夜風はわずかに冷たく、頬の皮膚をピリリと引き締める。空に雲は少なかったが、完全な晴天というわけでもなく、遠







