LOGIN紬の表情にも、少なからず苦悩の色が浮かんでいた。理玖の瞳の奥にも、深く複雑な感情が揺れている。「まずはメイクルームに戻ろう」紬と理玖がメイクルームへ戻ると、カナが千鶴のそばに付き添い、あれこれと声をかけながら気遣っているところだった。そこへ、コンペ専属の医師も診察のためにやって来る。医師は足首の状態を丁寧に確認した後、残念そうに首を横に振った。「足首の捻挫がかなりひどいですね。怪我をした足には、しばらく体重をかけられません。二日ほど入院して、安静にする必要があります」「そんなの絶対に嫌です!」千鶴は痛みに耐えながら無理やり立ち上がろうとした。その声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。すでにコンペは最後の大詰めを迎えている。これほど多くの人の期待を背負っている以上、ここで諦めるわけにはいかなかった。千鶴は青ざめた小さな顔に、無理やり笑顔を浮かべる。「私なら大丈夫です。ただのプレゼンテーションですし、足に気をつければすぐに終わりますから。皆さん、心配しないでください。本当に大したことじゃありませんから」みんなに信じてもらえないのではないかと不安になったのか、彼女は試すように前へ二歩ほど歩いてみせた。だが、次の瞬間。その体はぐらりと傾き、床へ倒れ込みそうになる。その姿を見た紬は、とっさに手を伸ばして千鶴を支え、どうにか転倒を防いだ。紬が無理をしないよう声をかけようとした、その時だった。千鶴の瞳に、大粒の涙が浮かんでいることに気づいた。その瞬間、紬は思わず言葉を失った。伝えようとしていた言葉がすべて喉につかえ、何も言えなくなってしまう。カナも千鶴の姿を見ていられず、そっと手を伸ばして彼女を抱き寄せた。「千鶴さん、もう無理するのはやめよう?たかがコンペなんだから、本当に気にしなくていいんだよ。一番大事なのは、千鶴さんの体なんだから」雅乃も同じ思いを口にする。「今回のコンペが大切なのは分かっています。でも、仲間を失うわけにはいきませんわ。本末転倒になってしまっては意味がありません」紬は場の空気を少しでも和らげようと、冗談めかして口を開いた。「千鶴、あなたの目には、私が自分の社員をこき使うような冷酷な上司に見えているの?」千鶴は胸の奥で大きく動揺した。そんなこと、思うは
大トリでの登場ともなれば、それはそれでコンペの話題性やアクセス数をさらに押し上げる結果につながるからだ。文人が電話を終えて戻ってくると、ちょうどそのタイミングで、紬と雅乃が痛みに顔を歪める千鶴の両脇を抱えながら、中から出てくるところだった。千鶴の足はひどく引きずられており、とても自力でまともに歩ける状態ではない。理玖の瞳の奥が、深く沈み込む。体の横に下ろされた手は、ゆっくりと強く握り締められていた。――母さん、今回の件もまたあなたの仕業なのか?文人は慌てて駆け寄ると、紬の手から怪我をした千鶴を引き取り、体を支える。「どうしてこんなことになったんですか!」順調にコンペへ臨むはずだった。それなのに、あまりにも災難が続きすぎている。紬と雅乃は肩にかかっていた重みが消え、ようやく文人の問いに答える余裕ができた。紬は険しい表情で眉をひそめた。「何が起きたのか、私にも分からないわ。私と雅乃が中に入った時には、もう千鶴は床に倒れていて、歩けない状態だったの」「他の人はどうだったんですか?誰一人として千鶴さんに気づかなかったとでも?」文人はそう口にしながらも、どうしても納得できない様子だった。化粧室の床に長い時間倒れていたはずなのに、なぜ誰も彼女の異変に気づかなかったのか。雅乃もまた、その点に強い違和感を抱いていた。「私たちが入った時、中には千鶴しかいませんでしたわ。それ以外の人は、誰も気づいていなかったみたいですね」理玖が冷静さを崩さず、落ち着いた声で尋ねる。「千鶴さん、何があったか?」紬と雅乃は、あまりにも気が動転していた。千鶴を連れ出すことだけで精一杯で、詳しい状況を聞く余裕すらなかったのだ。二人は理玖の言葉を聞き、同時に千鶴へ視線を向ける。だが、千鶴は困惑したように小さく首を横に振った。「実は、誰のせいで転んだのか、私にも分からないんです。個室の中にいた時、外で何かの気配は聞こえました。でも、他の選手だろうと思って、特に気に留めなかったんです。それで、外に出た瞬間、床に水たまりができていることに気づかず、足を滑らせて転んでしまいました。その後、不審に思って床の周辺をよく確認したんですけど、水が溢れていたのは、私がいた個室の前だけだったんです。絶対に誰かがわざとやったに決ま
そして衣装についても、紬は千鶴の体型に合わせてすでに調整を済ませていた。だが、一分一秒と時間だけが過ぎていき、コンペ開始まで残り一時間を切っても、千鶴はまだ戻ってこなかった。雅乃の胸の奥に、かすかな不安がよぎる。カナに至っては、落ち着きなくその場を行ったり来たりしながら、両手を合わせて必死に祈っていた。「神様たち、家を出る前にちゃんとお願いしたはずですよね。どうか何事もなく進みますように。絶対にトラブルが起きませんように!」もともと雅乃は、まだ冷静さを保っていた。しかし、時間が経つにつれて、隣でカナが途切れることなく念仏のように祈り続けているせいもあり、彼女の心にも次第に焦りが広がっていった。「紬さん、やっぱり一度お手洗いへ様子を見に行ってみましょう」どうしても嫌な予感が拭えなかったのだ。紬もとっくに同じことを考えていた。ただ、みんなの気持ちを乱したくなくて、あえて口に出さずにいただけだった。彼女はカナへ念を押す。「ええ、二人で見に行ってみましょう。カナ、あなたは衣装をちゃんと見ていてね」「任せてください!絶対に一歩も離れませんから!」カナは自分たち専用のフィッティングルームの前に立ち、誰一人として中へ入れまいと、番をするように見張り始めた。紬と雅乃は、急いでお手洗いへ向かって駆け出した。馨はそんな二人の動きに気づき、瞳の奥に鋭い光を宿した。彼女は伏し目がちになりながら、これまで二度のコンペで起きた出来事を思い返していた。どうやら、紬はいつも何事もなく進むような運命ではないらしい。――どう見ても、紬はずいぶんと人から恨みを買いやすい性質のようだね。でなければ、どうしてこれほど多くの人間が、我先にと彼女へ手を下そうとするのだろうか。馨は思わず、ふっと冷たい笑みを漏らした。その様子を見たモデルは、胸を締め付けられるような緊張を覚えた。「井上さん、私……何か至らないところでもありましたか?」先ほど浮かべた馨の笑みは、どこか背筋が凍るような不気味さを感じさせたのだ。それを聞いた馨は、機嫌よく首を横に振った。「何でもないわ。後でステージに上がったら、最高のパフォーマンスを見せてちょうだい」「お任せください!」モデルの声には、強い決意が込められていた。何しろ彼女は、こ
そう言い終えると、カナは千鶴まで引っ張ってきて、一緒に彫像を拝ませようとした。最初は、千鶴もあまり乗り気ではなかった。だが、カナは至って真剣な表情で言った。「千鶴さん、ここにいらっしゃるのはみんな神様なんだから、不敬な態度を取ったらバチが当たるよ!信じる者は救われるって言うでしょ」それを聞いた千鶴は、すぐに素直になり、小さな彫像たちへ順番に深々と頭を下げていった。カナは満足そうに頷き、千鶴の肩をポンと叩く。「いいよ、千鶴さん。もう私の立派な弟子ね」「はいはい、もう行くわよ」紬は眉間を揉みながら、呆れたように口にした。「いつまでそこにいるつもり?コンペが順調に進むかどうかは分からないけど、このままだと絶対に遅刻することだけは確かよ」「ああっ、早く行かなきゃ!」カナはここでようやく事態の深刻さに気づいたらしく、千鶴の背中を押しながら慌てて部屋を飛び出していった。部屋を出る直前、紬の視線が愛らしい彫像たちへと落ちる。すると、胸の奥がふっと温かくなった。もちろん、彼女には分かっている。これらはすべて、カナなりの優しさなのだと。ほどなくして、一行はコンペの会場へと到着した。紬は千鶴へ視線を向ける。「まずは楽屋へ行きましょう」「はい!」一行は頷き合った。今回のコンペは、さすがに規模が桁違いだった。楽屋のメイクルームでさえ、選手五人につき一室が割り当てられており、さらにフィッティングルームに至っては、一人ひとりに専用の個室が用意されていた。そのため、少しも窮屈さを感じることはない。以前参加したコンペと比べれば、環境は格段に恵まれていた。カナはまるで初めて大都会を訪れた田舎者のように、ひたすら感嘆の声を漏らしていた。「こんなに大きな舞台に立てる日が来るなんて、夢にも思わなかったよ」何しろ、ここは海原市最大のスタジアムなのだ。国際的なイベントでも開催されない限り、普段は一般開放すらされない場所である。「これからも、こんなチャンスはきっとたくさんあります」雅乃が静かに口を挟む。その瑞々しい瞳の奥には、強い野心が宿っていた。「その通りよ!」カナは力強く拳を握り締める。「ここで立ち止まってる場合じゃないよね。どうせやるなら、一番を目指さなきゃ」「はいはい、
紬がスタジオに到着すると、メンバーたちの顔には少なからず疲労の色が浮かんでいることに気づいた。特に雅乃は、目の下のクマが以前よりも濃くなっていた。紬はからかうように笑いかけた。「雅乃、他の人の顔に疲れが出ているのは分かるけど、どうしてあなたまでパンダみたいな目になってるの」「紬さん、からかわないでくださいよ」雅乃はがっくりと肩を落としながら答えた。彼女の頭の中は、昨日、清彦が口にした言葉でいっぱいだった。もともと少し酔っていたはずなのに、シャワーを浴びた途端、すっかり目が冴えてしまったのだ。どうやら、自分の心を石のように冷たく固めて割り切るには、まだ少し時間がかかりそうだった。紬の瞳に一瞬、深い色が宿った。だが、雅乃がこれ以上話したくないと思っていることを察し、それ以上問い詰めることはしなかった。誰にだって、他人には知られたくない一面があるものだ。紬は気持ちを切り替えるように表情を明るくすると、パンパンと手を叩いて、みんなの意識を引き締めた。「午後はいよいよ決勝よ。勝負はこの一戦にかかってる!ここまで本当にたくさんの困難を乗り越えてきたんだから、今日の午後だって絶対に大丈夫。千鶴、午後のランウェイは今まで通り、肩の力を抜いて臨んでね」紬は千鶴が緊張しすぎないよう、優しく声をかけた。「はい、紬さん」千鶴は心の中で、もう一度自分を奮い立たせた。昨夜帰宅した後も、ネットでピラティスのレッスン動画を探して練習していたのだ。すべては、最高の状態で舞台に立つためだった。今回の「刹那」というブランドを、誰もが心から大切に思っている。そして、この日のために、みんなが裏でどれほど努力を重ねてきたのかも痛いほど分かっていた。だからこそ、この最後の舞台で、絶対にみんなの期待を裏切るわけにはいかない。カナは千鶴の肩を抱き寄せた。「千鶴さんも、そんなに緊張しないで、気楽にいこうよ。それに、そのスタイルで舞台を歩いたら、全員を圧倒して圧勝間違いなしだって!」カナの腕が宙で大きく振り回される。その姿はまるで、兵を率いて戦場を駆け抜ける将軍のようだった。そんなカナの中二病じみた明るさが、張り詰めていた空気をあっという間に和らげた。スタジオの仲間たちは、思わず吹き出してしまう。食事を終
温かいハチミツ水を一杯飲み干したところで、紬の耳にドアをノックする音が届いた。扉を開けると、そこにはすらりと背の高い男が立っていた。紬は少し驚いたように問いかける。「どうしてここに来たの?」理玖は手にしていた朝食を掲げて見せた。「起きたばかりで、まだ何も食べていないだろうと思って。買ってきたんだ」紬の表情がぱっと明るくなる。「本当に気が利くわね。それじゃあ、遠慮なくいただくわ」「もともと君のために買ってきたんだから」理玖は手際よく、買ってきた朝食を一つひとつテーブルの上に並べていく。どれも紬が普段から好んで食べているものばかりだった。紬は一口サイズの肉まんを次々と頬張り、至福の表情を浮かべていた。「そういえば、今日は会社に行かなくてよかったの?」「午後はもう決勝だろう。君のそばにいたくてね」理玖はいつだって、紬への深い愛情と気遣いを隠そうとはしなかった。紬はからかうように笑う。「いいわ。それじゃあ、『Nirvana』の特別スタッフとして雇ってあげるよ」二人の間には、和やかで穏やかな会話が流れていた。そんな中、理玖はふと、昨日の二次審査で起きたアクシデントを思い出した。少し迷った末、彼は意を決して口を開く。「紬、昨日のコンペのことだけど……あの生地の件は、一体どういうことだったんだ?」その話題に触れられた瞬間、紬の瞳の奥に影が落ちた。「生地の縫い合わせ部分に、何か特殊な薬剤が吹きかけられていたみたい。だから、私が少し力を込めただけで、裂けてしまったのよ」理玖は手にしていた箸を強く握り締め、この件をどう切り出すべきか迷っていた。そんな彼の様子に気づき、紬は不思議そうに首を傾げる。「どうして急にそんなことを聞いたの?」理玖は我に返ったように答えた。「ああ、いや……なんでもないよ。ただ、あの時君が少しも動じずに対応できて、本当によかったと思ってね。そうでなければ、今回のコンペは終わっていた」紬はふと、理玖をまっすぐ見つめた。「ええ、その通りね。実は、誰がやったのか心当たりがあるの。たぶん、あなたも分かっているでしょ」理玖にも、紬が何を言いたいのか痛いほど分かっていた。胸の奥に、苦いものが込み上げてくる。「紬、少し時間をくれ。俺が必ずきちんと解決するから







