ANMELDEN「その通りだ」征樹は茶器を指先で弄びながら、淡々と続けた。「成哉は目覚めてまだ日が浅く、記憶も混乱している。今は刺激を与えるわけにはいかない。だから、君たちの離婚手続きは一旦保留にしてほしい。君が成哉に対して完全に愛想を尽かしていることは理解しているし、その点については俺も遺憾に思っている。だが、同居する必要はない。ただ、法的な夫婦関係だけは維持してもらいたい。これも悠真が十八歳になるまでの話だ。その時になれば、改めて離婚するかどうかは君たちの意思に任せる」紬の瞳の奥に、冷ややかな色がゆっくりと濃さを増した。やはり、この世の「うまい話」にはすべて値札がついている。「紬、君の意向はどうかな?」「提示していただいた条件は、確かに魅力的です」「ほう、では同意してくれるのか?」悠真も一瞬、安堵の色を浮かべた。ママのそばにいられるのなら、その条件に不都合など何一つない。だが、紬は静かに、そしてきっぱりと言い放った。「いいえ。私は息子を取引の道具にするつもりはありませんし、自分の婚姻関係を切り売りするつもりもありません。お気遣いには感謝いたしますが、そのご提案をお受けすることはできません」言い終えると、紬はバッグを手に取り、そのまま別荘を後にしようとした。悠真の目から、たちまち涙が溢れ出した。「ママ、僕はママと一緒にいたいんだ!お願い、行かないで……!」その声に、紬は足を止めた。彼の頬を伝う涙を指先でそっと拭い、静かに言う。「悠真くん、あなたはいつまでもママのそばにいられるわけじゃないの。これからの人生、多くの道は自分一人で歩かなければならないわ。もう泣かないで……ヒーローになりたいって、あの時言っていたでしょう?」悠真は胸が締めつけられる思いだった。ママは、自分の言葉を何一つ忘れていなかった。好きだったものも、願っていたことも――すべて。別れ際、唯に言われた言葉が脳裏をよぎる。彼は必死に涙を堪えた。「……僕、強くなるよ」――そして、ママから奪われたものを、全部取り返してみせる。「いい子ね」紬は優しく彼の頭を撫で、征樹に軽く会釈をすると、静かに別荘を後にした。――時を同じくして、成哉が空港から戻ってきた。車を降りたその瞬間、別の車に乗り込んで去っていく一人の女
「い、いえ……何でもないよ」悠真は視線を泳がせながら、縋るように紬の裾を引いた。「ママ、本当に僕をパパのところへ送り届けるつもりなの?」「悠真くん、どんなことも、いつかはきちんと向き合わなければならないのよ」紬は小さく溜息をついた。「パパのそばにいれば、天野家はあなたに最高の将来を用意してくれる。あなたが望むものは、大人になればきっとすべて手に入るわ。ママと一緒にいて苦労するより、ずっといい」紬は、残酷で血の滲むような現実のすべてを彼に語ることはしなかった。子どもの価値観は、幼いうちから時間をかけて形づくられていくものだ。何年もかけて二人の子を育ててきた。それでも結局、望美の誘惑には抗えなかった。――自分は、母親に向いていないのかもしれない。悠真の目から、涙があふれ出した。だが今回は声を荒らげることもなく、一言も発せぬまま、紬に連れられて空港を後にした。紬はひとまず悠真をホテルに落ち着かせた。今回の出張はスケジュールが立て込んでいる。すぐさま取引先を訪ねたが、そこで告げられたのは――提携はすでに一週間前に取り消されている、という事実だった。弥生に連絡を入れても、いっこうに応答がない。この状況を直輝に報告すると、電話越しの彼は明らかに動揺していた。「何だって!?契約を反故にするなんてあり得ない!その会社は弥生がずっと担当していたはずだ。彼女とは連絡がついたのか?」「いいえ」「紬さん、少し待ってくれ。こちらから先方の担当者に事情を聞いてみる。分かり次第、すぐ連絡する」通話を終えたあとも、紬の胸のざわめきは収まらなかった。彼の対応自体に落ち度は見当たらない。だが、どこかで――誰かに担がれているような、言いようのない違和感が拭えなかった。さらに一日待っても、状況は何一つ動かなかった。紬は先に悠真を送り届けることを決めた。天野家の海外資産の八割はA国に集中している。成哉と結婚した最初の年、彼女もここに短期間滞在したことがあり、別荘の場所は把握していた。そしてようやく、征樹とも無事に連絡が取れた。別荘の中――並んで座る母子の姿を見て、征樹は深く息を吐いた。「……紬、悠真をここまでよく育ててくれたね」天野家という欲望の渦巻く環境では、清廉であり続けることは難しい。
それどころか、唯からは散々に嘲笑された。「あんた、全然わかってないじゃない!ママがいない子どもがどれだけ悲しい思いをするか!」悠真の心からの嘆きを目の当たりにし、唯はふと考え込むような仕草を見せた。「……本当に反省してるの?」「当たり前だろ!」「望美さんの『黒魔法』も解けたってこと?」「あいつは不倫女だ。パパとママは結婚してたんだぞ!たとえ昔付き合ってたとしても、それはただの元カノだろ。距離感がおかしいんだよ!」「じゃあさ、もしその望美さんときれいなおねえちゃんが同時に水に落ちたら、どっちを助けるの?」「……ママに決まってるだろ!」唯は満足げに頷いた。――教えてあげた甲斐があったわね。そこまでバカじゃなさそう。私って、なんて立派な先生なのかしら!彼女は満面の笑みを浮かべた。その笑顔を見て、悠真の胸にはさらに惨めさが募った。「僕はママに見捨てられそうなんだぞ!よくそんなふうに笑っていられるな!あんた、血も涙もないのかよ!?」「見捨てられるのは自業自得でしょ!前にあんなにママをいじめてたんだから!あんな仕打ちを受けたら、誰だって愛想を尽かすわよ!」唯の声は、悠真のそれよりも一段と高く響いた。悠真は一瞬でしょげ返り、先ほどまでの勢いをすっかり失った。「……自分が悪かったのは分かってる。だから、これからどうすればいいか教えてくれよ」唯は手招きして、悠真を引き寄せた。「きれいなおねえちゃんがA国に連れて行ってくれるのは、悪いことばかりじゃないわ。お父さん、記憶喪失なんでしょ?まずはお父さんのところに戻って、あの望美さんにどれだけ染められてるか探ってきなさい。もし本当に手遅れだったら、そのときまた逃げ出せばいいじゃない。また家出してきても、きれいなおねえちゃんだって見捨てたりしないはずよ」悠真は、かつて紬に会うために一日一食で飢えをしのいだ日々を思い出し、わずかに顔をしかめた。「……お腹が空かない方法って、ないのかな」「あるわよ」唯は彼を上から下まで眺めて言い放つ。「きれいなおねえちゃんに捨てられたら、お腹が空かないね」悠真はあまりの情けなさに、また涙をこぼした。唯は呆れたように肩をすくめる。こんなに泣き虫な男の子は、生まれて初めてだった。A国へ発つ当日。悠真
麻衣の瞳が、きらりと輝いた。そのコンペのことは、すでに耳にしている。紬がここ最近、ずっと準備を進めていた案件だ。カナがあちこちで「紬が独力で入選した」と吹聴していたおかげで、嫌でも情報は入ってきていた。麻衣は探るように問いかける。「……紬さんが参加してる、あのコンペのこと?」「その通りだ。開催時期が変更になってね。もし興味があるなら、途中からでも参加できるよう手配してあげよう」直輝はそう言いながら、彼女の頭を優しく撫でた。「やりたい!」麻衣は歓声を上げた。「やっぱりおじさんは、世界で一番優しいおじさんよ!」「もう怒っていないかい?」直輝は甘やかすように微笑む。「おじさんに怒るわけないじゃない。私、おじさんが一番大好き……」麻衣は彼の胸に身を寄せた。その仕草は、あまりにも親密だった。――三日後、紬は直輝からA国への出張を命じられた。「紬、今回のA国の取引相手は少し厄介でね。弥生が向こうで一人では対応しきれなくなっているんだ。まずは彼女のサポートに行ってほしい。合流したら、現地の要求に合わせて企画を練り直してくれ」直輝は神妙な面持ちで告げた。紬は内心、わずかな意外を覚えた。出張自体は拒む理由もないが、これほど遠方への派遣は初めてだった。だが同時に、行き先がA国であることに、不思議な縁も感じていた。――ちょうどいい。この機会に、悠真を向こうへ送り届けられる。「分かりました。航空券の手配をします」A国行きが決まったと聞かされた時、悠真は唯と「明日は何を作るか」で言い争っている最中だった。その小さな顔から、血の気が一瞬で引いていく。「……ママ、僕の作ったご飯、そんなに不味かった?ちゃんと練習してるんだ。お願い、もう少しだけ時間をちょうだい。もうすぐ、ママの毎日の食事を全部、僕が作れるようになるから」この数日、悠真はずっと怯えていた。紬から「A国へ帰る」と切り出される瞬間を。だからこそ、毎日家事を手伝い、自分なりに導き出した「最も効果的な方法」として料理を選んだのだ。本でも動画でも言っていた――女の心を掴むには、まず胃袋を掴め、と。ママだって女性だ。そう理解したからこそ、彼は必死だった。最初こそ出来は散々だったが、ここ二日でようやくコツを掴み始めている。あ
「もう納品は済ませました。先ほど藤岡様と直接お会いしましたが、大変ご満足いただけたようです」紬は、かすかな微笑みを浮かべながらそう告げた。「何だって!?」直輝は眉をひそめる。「そんな重要なことを、なぜ会社に報告しなかったんだ。もし何か問題が起きたら、どれほど深刻な事態になるか分かっているのか?次からは、せめて事前に一言相談しなさい。それに、麻衣も君の作品に憧れていて、見習って勉強したいと言っていたんだから」紬は淡々と応じた。「申し訳ありません。次回からは必ず善処いたします」直輝の顔からは、いつもの温和な表情が消えていた。さらに言葉を重ねようとした、その時――紬がふと口を開く。「そういえば、藤岡様は今回のデザインを大変気に入ってくださり、追加で一千万円をお支払いくださるとのことでした。それから、こちらにあるものは私が購入したものではなく、藤岡様からの贈り物です」麻衣は、机の上に積まれた高級品の数々を、嫉妬の入り混じった目で見つめた。どれも一流ブランドの品ばかりだ。いくら直輝が自分を甘やかしてくれるとはいえ、ここまでの大盤振る舞いはさすがにない。どうして、いいことばかりあの女に降りかかるの?麻衣はそっと直輝の袖を引き、合図を送った。直輝は軽く咳払いをした。「紬さん、厳密に言えば、それは顧客から贈られたギフトであり、会社の財産に当たる。一緒に努力した他の同僚たちと分かち合うべきものだろう」「ええ、元々そのつもりでした」紬は紙袋を持ち上げ、ちらりと麻衣へ視線を向ける。麻衣は誇らしげに顎を上げた。――やっぱり私はツイてるわ。紬がどれだけ苦労して図面を引いたって、結局そのご褒美は私にも回ってくるんだもの。彼女は先ほどから、LOLOのジュエリーに目をつけていた。あの一粒のダイヤだけでも、数百万円はくだらない。喉から手が出るほど欲しかった。だが――紬はその贈り物を、先ほど自分を気遣って声をかけてくれた同僚へと手渡したのだ。「えっ、これ……私にですか!?」思いがけない幸運に、その同僚は目を見開く。紬は穏やかに頷いた。「ええ、どうぞ受け取ってください」続いて三人目、四人目……次々と紙袋が配られていく。そして最後に残った一つを、紬は迷うことなくカナへ差し出した。カナは慌
その言葉を聞いた瞬間、二人は繋いでいた手に視線を落とし、慌てて弾くように振りほどいた。瑠衣は潔白を示すかのように足早に数歩進み、文人との距離を取る。「私がこいつを好きになるなんて、あるわけないじゃない」文人は引きつった笑みを浮かべた。「紬さん、誤解ですよ。私と夏目さんがどうこうなんて、そんなのあり得ません……」「ちょっと、どういう意味よ。私は理玖さんに相応しくないだけじゃなくて、今度はあんたにも不釣り合いだって言うの!?」瑠衣がむきになって噛みつく。文人は慌てて両手を振った。「いえいえ!夏目さんには私なんて勿体なすぎます!私めには身に余るお方です、はい。私なんかが不釣り合いだと言いたかったんです」そのやり取りに、わざと怒ってみせていた瑠衣も、傍で見ていた紬も、思わず吹き出した。――案外、この二人はお似合いなのかもしれない。紬はそんな感想を胸に、そっと笑みを浮かべた。彼女がその場を離れると、文人はすぐさま理玖へ電話をかけた。あまりにも不気味だった。まさかこの場で、蘭と紬が同時に現れるなど。――おかしい。絶対に、何か裏がある。蘭と瑠衣はどちらも理玖に想いを寄せている。だが、その立ち回りの巧みさは比べものにならない。天然で世間知らずな瑠衣とは違い、蘭は一枚も二枚も上手だった。海外にいた頃、蘭に目をつけられた恋敵がどうなったか――その結末を、文人は知っている。文字通り、死因すら分からぬまま消える。そんな世界だった。瑠衣が今日まで無事でいられたのは、ひとえに彼女が無垢すぎたからに他ならない。先ほど二人が密着していたのも、カフェから出てきた蘭の姿に動揺し、思わず身を寄せてしまっただけのことだ。「早く、理玖さんに電話して!あの恐ろしい女が帰国したんだから、絶対に見つからないように隠れてもらわなきゃ」瑠衣は切迫した声で言った。彼女にとって蘭は恐ろしい存在だった。かつて蘭の正体を知らなかった頃、騙されて「友達」にされていたことがある。文人が間一髪で気づかなければ、瑠衣は海外の鉱山に売られ、挙げ句にはその利益を蘭のために笑顔で数えることになっていたはずだ。それ以来、彼女の中にあるのは、蘭への恐怖と嫌悪だけだった。できる限り距離を取り、関わらないようにしてきたのだ。――会社
芽依は望美の胸に顔を埋め、しゃくり上げながら泣き続けた。望美の言葉の一つ一つが、彼女の心に深く刺さる。――やっぱり、望美さんだけが私のことを分かってくれるんだ。先生の言った毒母の話なんて嘘よ。パパまでママと同じくらい嫌いになっちゃいそう……ううっ……成哉は、娘の悲痛な様子を目にして、それ以上厳しく追及する気になれなかった。「……君は、あの子を甘やかしすぎだ」望美は唇を噛み、小さく笑みを漏らした。「ええ、私のせいね。でも成哉、芽依ちゃんの今の状態は心配だわ。しばらく私の家に連れて行ってもいいかしら?ちょうど今の撮影も終盤で、前ほど忙しくなくなるの。私がそばにいれば、あ
紬は、成哉と望美が重ねている手を、静かに見つめていた。双子を産んだばかりの頃、産後ケアセンターで静養していた日のことが脳裏に蘇る。あるセレブ風の女が突然現れ、何の証拠もないまま「この部屋は私が先に予約していた」と言い張った。十二月の極寒の中、紬は赤ん坊を抱いたまま、スタッフに部屋から追い出された。その女は権力を盾に、紬を廊下に閉じ込め、立ち去ることすら許さなかった。成哉がようやく現れたのは、五時間も経ってからだ。その時、彼は二人の我が子を淡々と一瞥しただけで、紬にこう告げた。「騒ぎを起こすな」結局、別の高級センターに移された、それだけだった。彼女はずっと、成
紬は、レイの目尻に浮かんだ涙をそっと拭った。「もう泣かないで」「うん。泣くとブサイクになっちゃうもんね」レイは泣き笑いのまま顔を上げた。紬は小さく笑って首を振る。「ううん、そんなことないわ。涙に濡れた顔は、もっと美しいものよ」意外な答えだったが、不思議と胸に落ちる響きがあった。レイの涙はすっかり止まり、その笑顔は初春のやわらかな日差しのように、曇りなく輝いた。午後、屋外用のドレスも届いた。レイが袖を通すと、どこにも問題はなく、まさに完璧だった。誰もが、明日の授賞式を心待ちにしていた。一方ネット上では、渚が五百二十個ものダイヤモンドを散りばめ、望美のために仕立てたイブ
男が、空から降ってきた。まったくの想定外――あまりにも唐突な出来事だった。紬は相手の顔を確かめる間もなく、驚愕のあまり足首をひねってしまう。そのまま体勢を崩し、花壇の脇に植えられた、鋭い棘を蓄えたばかりの薔薇の茂みへと倒れ込みそうになった。早春の硬い棘が、今にも肌を貫こうと牙を剥いている。血の気が引き、紬は心の中で「終わった」と叫んだ。抗う術もなく、せめて顔だけは守ろうと両手で覆い、ぎゅっと目を閉じる。一秒、二秒、三秒。覚悟していた痛みは、訪れなかった。代わりに鼻腔をくすぐったのは、どこか聞き覚えのある淡い香り。恐怖で激しく打っていた鼓動が、その馴染み深







