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第11話 凍てつく心 - 1

last update Last Updated: 2025-08-12 20:42:29

 辺境の地に、冬が来た。

 それは、じわじわと忍び寄る死のように、静かに、しかし確実に町を侵食していった。まず、空の色が変わった。これまで町を覆っていた鉛色の雲は、さらに重く、白く濁った色合いを帯び始める。太陽は日に日にその力を失い、昼間でも地上に届く光は弱々しく、何の暖かさももたらさなかった。

 次に、風が変わった。乾いた砂埃を巻き上げていた風は、湿り気と、刃物のような鋭い冷たさを含むようになる。それは壁の隙間や屋根の穴から容赦なく吹き込み、人々の体温を根こそぎ奪っていった。

 そしてある朝、セレスティナが目を覚ますと、世界は音を失っていた。

 彼女が廃屋の扉を押し開けると、そこに広がっていたのは、一面の白だった。夜の間に降った雪が、町の汚れた地面も、崩れた瓦礫の山も、すべてを等しく覆い隠している。それは一見すると美しくさえあったが、この町に住む者にとって、雪は死刑執行を告げる白い布告書に他ならなかった。

 その日から、追放者たちの労働は、地獄の様相を呈し始めた。

 これまでの瓦礫撤去作業に加え、雪かきという新たな苦役が課せられたのだ。粗末な木の板を渡され、凍てつく風雪の中で、積もった雪を道脇へと押しやる。手袋などない。手枷の冷たい鉄が、かじかんだ手首の皮膚に食い込み、感覚を麻痺させていく。指先はすぐに紫に変色し、ひび割れて血が滲んだ。

 セレスティナは、他の者たちと同じように、ただ黙々と作業を続けた。彼女の心は、あの鉄狼団の兵士の姿を見て以来、不可解な疑問と混乱のさなかにあった。だが、この圧倒的な自然の猛威と、肉体を苛む苦痛の前では、そんな思考さえも贅沢なものに思えた。今はただ、生きるか死ぬか。その単純な現実だけが、彼女のすべてを支配していた。

 食事の配給は、さらに劣悪になった。

 水で薄められたスープは、もはやお湯と変わらない。硬い黒パンは、凍てついてさらに硬度を増し、噛み砕くことさえ困難だった。人々はそれを、凍える手で必死に温めながら、少しずつ削るようにして食べた。

 飢えと寒さは、着実に人々の体力を奪っていく。

 最初に倒れたのは、足の悪い老人だった。彼は雪かき作業の最中、突然その場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。監督役の役人たちは、その亡骸を荷車に無造作に放り込むと、まるで壊れた道具でも片付けるかのように、町の外へと運んでいった。誰も、彼のために祈りを捧げる者はいなかった。明日は我が身。その恐怖が、人々の心を支配していた。

 二人目、三人目と、倒れる者は続出した。咳き込む音が、町のあちこちで聞こえるようになる。それは乾いた、肺の底から絞り出すような苦しげな音だった。栄養失調と寒さで抵抗力を失った体は、些細な風邪さえも命取りになる。

 セレスティナもまた、日に日に衰弱していった。

 彼女の体は、元々貴族令嬢として、このような過酷な環境に耐えられるようにはできていない。頬はこけ、すみれ色の瞳はくぼみ、その光は再び失われつつあった。歩くたびに足がもつれ、瓦礫を持ち上げる腕には力が入らない。

 夜、廃屋に戻ると、彼女は壁際にうずくまり、ただひたすら寒さに耐えた。壁の穴から吹き込む雪混じりの風が、ぼろ布の囚人服を通して、彼女の骨の髄まで凍らせるようだった。眠ることさえできない。うとうとと意識が遠のきかけると、強烈な寒さで目が覚める。その繰り返しだった。

 そんな極限の日々の中で、セレスティナの意識はしばしば、過去へと飛んだ。

 だが、それはもはや、幸福だった頃の鮮やかな記憶ではなかった。断片的で、色褪せた幻影。父の書斎の暖炉で燃える炎の暖かさ。母が淹れてくれた、カモミールの香りのする温かいハーブティー。アランが彼女の冷たい手を、自分の両手で包み込んでくれた時の感触。

 それらの記憶は、今の彼女の現実とはあまりにかけ離れていた。そして、その温かさを思い出すたびに、現在の寒さが、より一層鋭く彼女の心を抉るのだった。

 いっそ、何もかも忘れてしまえたら。

 幸福だった記憶も、裏切られた絶望も、すべて。ただの「人形」として、何も感じずに、このまま静かに朽ち果てていけたなら。

 そうすれば、もう苦しむことはない。

 彼女は、本気でそう思い始めていた。生きることへの執着が、指の間からこぼれ落ちる砂のように、少しずつ失われていく。

 ある吹雪の夜だった。

 その日の労働は特に過酷で、セレスティナは廃屋に戻ると、そのまま動けなくなってしまった。体は鉛のように重く、指一本動かすことさえ億劫だった。空腹はもはや感じない。ただ、体の芯から這い上がってくるような、絶対的な寒さだけがあった。

 (ああ、もう、いいかもしれない)

 不意に、そんな諦めが彼女の心をよぎった。

 父の無念を晴らす。ヴァインベルクに復讐する。そんな思いさえ、今は遠い。この寒さから解放されるのなら、もう何もいらない。このまま眠ってしまえば、きっと楽になれる。

 彼女の意識が、ゆっくりと白い闇の中へと沈んでいこうとした、その時だった。

 何かが、彼女の胸元で、かすかな温もりを持っていることに気づいた。

 それは、彼女が囚人服の下、肌身離さず身に着けている、小さな布製のお守り袋だった。それは、母が彼女の誕生日に贈ってくれたものだ。中には、アルトマイヤー家の庭で採れた、安眠を誘うというラベンダーのドライフラワーが詰められている。

 セレスティナは、最後の力を振り絞るようにして、震える手でそのお守り袋を握りしめた。

 布地は擦り切れ、ラベンダーの香りもとうに消え失せている。だが、それを握った瞬間、彼女の脳裏に、母の最後の姿が鮮やかに蘇った。

 父が断罪された後、心労で倒れた母。侍女からその報せを聞いたセレスティナが母の部屋に駆けつけると、母はベッドの上で、か細い息をしていた。母は、セレスティナの手を弱々しく握ると、こう言ったのだ。

 『セレスティナ…生きて…どんなことがあっても、生き抜くのです。あなたのその命は、お父様とわたくしが、何よりも大切に育んできた宝物なのですから…』

 それが、母の最後の言葉だった。

 その記憶が、凍てつきかけたセレスティナの心に、熱い楔を打ち込んだ。

 そうだ。私は、生きると約束したのだ。母と。

 この命は、私だけのものではない。父と母から受け継いだ、大切な宝物なのだ。

 こんな場所で、こんな風に、諦めていいはずがない。

 彼女のすみれ色の瞳から、一筋、熱い涙がこぼれ落ちた。それは、この辺境に来てから、初めて流す、自分の意志を持った涙だった。

 涙は、凍った頬の上を伝い、すぐに冷たくなった。だが、彼女の心の中には、小さな、しかし確かな炎が再び灯っていた。

 生きなければ。

 何があっても、生き延びなければ。

 復讐のためではない。名誉のためでもない。ただ、母との約束を果たすために。父と母が愛してくれた、この命を守るために。

 その強い思いが、彼女を死の淵から引き戻した。

 翌朝、セレスティナは自らの意志で体を起こした。

 体は相変わらず重く、寒さは変わらず厳しい。だが、彼女の心は昨日までとは違っていた。その瞳には、再び、微かだが確かな光が宿っていた。

 彼女は、配給された凍ったパンを、時間をかけて少しずつ食べた。生きるために、食べなければならない。

 そして、雪かきの作業に出ると、彼女はこれまで以上に懸命に働いた。体を動かせば、少しは熱が生まれる。今は、わずかな熱でも惜しかった。

 そんな彼女の変化に、周囲の者たちは気づかない。彼らの目には、相変わらず感情のない「人形令嬢」が、ただ黙々と働いているようにしか見えなかっただろう。

 だが、彼女の内面では、大きな変化が起きていた。

 彼女は、観察を始めたのだ。

 どうすれば、この極限状況で、少しでも長く生き延びられるか。

 彼女は、他の労働者たちの動きを注意深く見た。日当たりの良い場所、風の当たらない場所を、人々は無意識に選んで休息している。雪が積もりにくい場所、地面が凍結しにくい場所。それらを記憶に刻み付けた。

 また、彼女は鉄狼団の兵士たちも観察した。彼らは、この厳しい寒さの中でも、常に規律正しく、効率的に動いている。彼らの装備、動き、休息の取り方。そのすべてに、寒冷地で生き抜くための知恵が詰まっているように思えた。

 彼らは、なぜあれほどまでに統率が取れているのか。彼らを支配する規律とは、一体何なのか。そして、その頂点にいる「狼」、辺境伯ライナスとは、どんな男なのか。

 以前は漠然とした恐怖と疑問の対象でしかなかった彼らが、今やセレスティナにとっては、生き延びるための「手本」であり、解き明かすべき「謎」となっていた。

 絶望の淵で、彼女は再び、かつての聡明さを取り戻し始めていた。それは、貴族令嬢としての教養ではなく、生きるための、より原始的で、切実な知恵だった。

 辺境の厳しい冬は、まだ始まったばかりだ。

 多くの者が、この冬を越せずに命を落とすだろう。

 だが、セレスティナはもう、諦めない。

 彼女の心は、凍てつく絶望の中で、生きるという固い決意を、静かに、しかし力強く固めていた。そのすみれ色の瞳は、もはや虚空を彷徨ってはいなかった。吹雪の向こうにあるはずの、まだ見ぬ未来を、じっと見据えていた。

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     狼の遠吠えが響いた夜から、セレスティナの世界は微かにその質を変えていた。 相変わらず朝は絶望的な冷気と共に訪れ、彼女は心を持たない人形のように瓦礫を運び続ける。だが、その無感動な日常の底に、一つの感情が澱のように溜まり始めていた。恐怖。それは、この辺境を支配するという「狼」、ライナスという名の男に向けられた、原始的で得体の知れない感情だった。 風の音に、あの遠吠えの幻聴を聞く。兵士たちの足音に、獣の忍び寄る気配を感じる。彼女はそれに怯えながらも、その感情を表に出す術を持たなかった。恐怖はただ、内へ内へと向かい、彼女の凍てついた心を内側から静かに蝕んでいく。 その日の作業中、彼女は監督役人たちの会話を、意図せず耳にした。彼らは中央から派遣された役人であり、この町の追放者や労働者を管理する立場にある。彼らは、新しい辺境伯であるライナスを明らかに快く思っていなかった。「ちっ、あの成り上がり者め。今日も朝から、城の周りで兵士どもに訳の分からん訓練をさせていやがった」 肥え太った役人が、地面に唾を吐きながら言う。彼の顔には、辺境での退屈な日々と、自分より上位の者がいることへの不満が滲み出ていた。「まあまあ、そういきりなさんな。どうせあんな平民上がりに、本物の統治なんざ出来やしませんよ。我々がしっかり手綱を握っていればいいだけの話です」 痩せて狐のような顔をした同僚が、彼をなだめるように言った。「手綱、だと? あいつは我々の忠告も聞かず、勝手なことばかりしているではないか。まるで、この町が自分の王国だとでも言いたげに。いずれ、ヴァインベルク宰相閣下にご注進せねばなるまい。辺境伯ライナスは、分を弁えぬ危険な男です、と」「それも良いでしょうな。ですが、それまでは上手くやりましょう。あちらはあちら、我々は我々。互いに干渉せぬのが、この辺境での賢い生き方というものです」 役人たちは、意味ありげに笑い合った。 セレスティナは、その会話からこの町の歪んだ力関係を漠然と悟った。この町には、二つの権力があるのだ。一つは、城にいるという「狼」、辺境伯ライナス。そしてもう一つが、中央から来たこれらの役人たち。そして、彼らは互いに牽制し合い、決して一枚岩では

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