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第12話 凍てつく心 - 2

last update Last Updated: 2025-08-13 20:44:27

生きる。

 母との約束を胸に、セレスティナの中でその決意が確かな形を結んでから、彼女の世界を見る目は変わった。辺境の冬は依然として猛威を振るい、飢えと寒さが絶えず命を脅かす。だが、彼女はもはや、それをただ受け入れるだけの無力な人形ではなかった。その瞳には、かつて書物を読み解いていた時と同じ、鋭い観察力と分析の光が戻っていた。

 彼女の視線は、この極限の環境下で生きる人々の、些細な知恵や工夫を拾い集める。どの家の壁が風を防ぎ、どの道の窪みに雪解け水が溜まるのか。誰が一番丈夫な体力を持ち、誰が咳をこじらせ始めているのか。すべてを記憶し、分析する。それは、この過酷な現実という名の書物を、必死に読み解く作業に他ならなかった。

 そんなある日の午後、作業の合間のわずかな休息時間だった。

 追放者たちは、雪に覆われた瓦礫の山に身を寄せ合い、冷たい風から少しでも身を守ろうとしていた。あちこちから、乾いた咳の音が聞こえてくる。それは、この冬を越せずに命を落としていく者たちの、不吉な前奏曲のようだった。

 セレスティナの隣に座っていたのは、まだ若い娘だった。彼女は数日前からひどい咳に悩まされており、その顔色は青白く、呼吸も浅い。娘は、激しく咳き込んだ後、ぜいぜいと苦しげな息をつきながら、地面の雪を掴んで口に含んだ。

「やめなさい」

 不意に、隣から静かだが、凛とした声がした。

 娘が驚いて顔を上げると、そこにいたのは「人形令嬢」と呼ばれていたセレスティナだった。彼女が言葉を発するのを、この町の誰もが初めて聞いた。

 セレスティナは、娘の行動を制止しながら続けた。

「体を冷やすだけです。それに、その雪には何が含まれているか分からない」

 その声には、不思議な説得力があった。娘は、言われるがままに、口に含んだ雪を吐き出す。

 セレスティナは、自分のなけなしの配給である、錆びた器に入った白湯を娘に差し出した。

「これを少しずつ飲みなさい。気休めにしかなりませんが、雪よりはいい」

「あ、あんた…」

 娘は戸惑いながらも、その白湯を受け取った。温かいとは言えない液体が喉を通ると、少しだけ呼吸が楽になった気がした。

 周囲でその光景を見ていた他の追放者たちも、驚きの目でセレスティナを見ていた。「人形」が喋った。その事実だけで、彼らにとっては大きな出来事だった。

 セレスティナは、娘の様子を注意深く観察していた。熱に浮かされた潤んだ瞳、乾いた唇、そして時折胸を押さえる仕草。典型的な、体を冷やしたことによる気管支の炎症だ。王都にいれば、滋養のある食事と温かい寝床、そして簡単な薬草で、数日で回復する程度の病。だが、この場所では、それが死に直結する。

 彼女の脳裏に、父と共に手入れをした、アルトマイヤー公爵邸の広大な薬草園の光景が蘇る。カモミール、ミント、そしてリリア草。それぞれの薬草の効能が、鮮明に思い出された。

 (もし、ここに薬草があれば…)

 そう思った瞬間、彼女の思考は閃光のように一つの可能性に突き当たった。

 この辺境は、不毛の地だ。だが、不毛の地にも、そこに適応した植物は生えているはず。貴族の庭園で栽培されるような華やかな薬草はなくとも、民間療法で使われるような、生命力の強い薬草がどこかに自生しているのではないか。

 彼女は立ち上がると、作業場の周囲を見回した。雪に覆われてはいるが、ところどころ、枯れ木や岩陰から、植物の残骸のようなものが顔を覗かせている。

 彼女は、監督役人の目を盗み、その一つに近づいた。

 雪を払いのけると、そこにあったのは、硬い茎を持つ、見慣れない植物の枯れ枝だった。だが、その枝を折り、鼻に近づけると、かすかに独特の匂いがした。それは、彼女が書物で知っていた、ある薬草の特徴と一致していた。

 サルビアの近縁種。鎮咳作用と、弱い抗菌作用を持つ。こんなものでは気休めにしかならないかもしれない。だが、何もしないよりはましだ。

 彼女は、その枯れ枝を数本、囚人服の袖に隠した。

 その日の作業が終わり、廃屋に戻ったセレスティナは、早速行動に移した。

 まず、配給された黒パンを少しだけ水で湿らせ、柔らかくする。そして、拾ってきた枯れ枝を石で細かく砕き、その粉をパンに混ぜ込んだ。さらに、それを火を起こすこともできない廃屋の中で、自分の体温で必死に温めた。

 しばらくして、彼女はそれを持って、昼間の娘がいるというあばら家を訪ねた。

 娘は、汚れた藁の上に横たわり、苦しげな息を繰り返していた。セレスティナが無言で中に入ってくると、娘は怯えたような、しかしどこか期待するような目で彼女を見つめる。

 セレスティナは娘のそばに膝をつくと、薬草を混ぜたパンを差し出した。

「これを、少しずつお食べなさい。薬と呼べるようなものではありませんが、何もしないよりは良いはずです」

 娘は、言われるがままに、それをゆっくりと口に運んだ。独特の苦味と香りが口に広がったが、不思議と不快ではなかった。そして、それを作ってくれたセレスティナの、真剣なすみれ色の瞳を見ていると、それだけで病が癒されるような気さえした。

 セレスティナは、娘がそれを食べ終わるのを見届けると、今度は自分のぼろぼろの服の裾を裂き、水で湿らせた。そして、熱で汗ばむ娘の額を、優しく拭ってやる。

 その手つきは、かつて母が病気の自分にしてくれたものと、全く同じだった。

 娘の瞳から、涙がこぼれた。それは、病の苦しさからではなく、生まれて初めて受けた、見返りを求めない純粋な優しさに対する、感謝の涙だった。

 セレスティナは何も言わず、ただ静かに、娘のそばに座っていた。

 翌日、娘の咳は、驚くほど軽くなっていた。

 もちろん、セレスティナの作った即席の薬の効果だけではないだろう。それ以上に、彼女の看病が、娘の心に生きる希望を与えたからに違いなかった。

 この出来事は、瞬く間に追放者たちの間に広まった。

 「人形令嬢が、薬草で病人を治した」

 噂は尾ひれがついて、まるでセレスティナが奇跡を起こしたかのように語られた。これまで彼女を気味悪がっていた者たちも、今度は藁にもすがる思いで、彼女の元へ助けを求めに来るようになった。

「頼む、お嬢様。うちの亭主も咳が止まらねえんだ」

「子供が熱を出していて…何か、何か薬になるものはないだろうか」

 セレスティナは、その一人一人に、冷静に対応した。彼女は魔法使いではない。できることには限りがある。だが、彼女は持てる知識のすべてを総動員した。

 彼女は、日々の労働の合間に、雪の下から薬草を探し出した。鎮咳作用のあるもの、解熱作用のあるもの、滋養強壮に繋がる植物の根。それらを、それぞれの症状に合わせて調合し、人々に与えた。

 彼女の行動は、中央の役人たちの目には、奇妙なままごと遊びのようにしか映らなかっただろう。彼らは、追放者たちが何人死のうと意に介さない。むしろ、厄介者が減ってせいせいするとさえ思っている。

 だが、セレスティナの行動は、確実に、この灰色の町に変化をもたらしていた。

 それは、病が治るという物理的な効果だけではない。

 絶望し、互いに無関心だった人々が、セレスティナという存在を中心に、再び繋がり始めたのだ。人々は、薬草探しのための情報を交換し、乏しい食料を病人に分け与え、互いの体を温め合うようになった。

 彼女は、薬草の知識で人々を癒しただけではない。凍てついていた人々の心を、その行動で溶かし始めたのだ。

 Side: ライナス

 辺境伯の執務室の窓から、ライナスは雪に覆われた町を眺めていた。その金色の瞳は、猛禽類のように鋭く、町の隅々までを見通しているかのようだ。

 彼の側近である、ギデオンが報告書を手に部屋へ入ってきた。

「閣下。中央から派遣されている役人どもの、不正の証拠がまた一つ上がりました。やはり、奴らは冬の備蓄物資を横流しし、私腹を肥やしているようです」

 ギデオンは、苦々しげに言った。彼は、ライナスが傭兵だった頃からの腹心であり、鉄狼団の副長でもある。主君と同じく、中央貴族の腐敗を心の底から憎んでいた。

「だろうな」

 ライナスは、短く応じた。その声に、驚きはない。

「泳がせておけ。奴らの悪行は、いずれまとめて断罪する。今はまだ、その時ではない」

「はっ。しかし、このままでは町の者たちが…」

「分かっている」

 ライナスは、ギデオンの言葉を遮った。彼の視線は、町の追放者たちが暮らす、最も貧しい地区に向けられている。

「だが、面白い報告も上がってきているな」

「と、申しますと?」

「『人形令嬢』の話だ」

 ライナスの口の端に、かすかな笑みが浮かんだ。それは、彼が滅多に見せない表情だった。

「あのアルトマイヤーの娘が、薬草で病人を手当てしている、と。追放者たちの間で、『聖女』とまで呼ばれ始めているらしいじゃないか」

「はあ…私も耳にはしておりますが。所詮は素人療法。気休めにしかならないかと…」

「気休めで結構だ」

 ライナスは、きっぱりと言った。

「この町で今、最も必要なのは薬じゃない。生きる希望だ。あの女は、それを与えている。俺たちが武力で築こうとしている秩序とは、別のやり方でな」

 彼は、初めてセレスティナに出会った時のことを思い出していた。

 私兵に襲われ、泥にまみれ、絶望の淵にいながら、その瞳の奥の光だけは失っていなかった娘。彼女が、ただの没落令嬢ではないことを、彼は最初から見抜いていた。

 だからこそ、彼は彼女をあえて追放者たちの元に置いた。城で手厚く保護するのは簡単だ。だが、それでは彼女は、ただ守られるだけの、か弱い白百合のままで終わってしまう。

 彼は、彼女自身の力で、その過酷な運命を乗り越えることを期待していた。彼女の持つ知識と、その気高い魂が、この絶望の地でどのように輝くのかを、試していたのだ。

 そして今、彼女は、彼の期待を遥かに超える形で、その力を発揮し始めている。

「ギデオン」

「はっ」

「例の件、そろそろ潮時かもしれんな」

「!…かしこまりました。すぐに準備を」

 ギデオンは、主の意図を正確に理解し、一礼して部屋を出て行った。

 一人残されたライナスは、再び窓の外に視線を戻す。

 吹雪の向こう、小さな廃屋が立ち並ぶ一角。そこに、彼の心を捉えて離さない、気高い白百合がいる。

(セレスティナ・アルトマイヤー。お前という女は、俺の想像以上に面白い)

 彼の金色の瞳が、獲物を見つけた狼のように、鋭く、そしてどこか楽しげに細められた。

 二人の運命が、再び交差する時は、もう間近に迫っていた。

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