LOGIN夜明けは、冷気と共やってきた。
廃屋の壁の隙間から吹き込む風が、セレスティナの痩せた体を容赦なく刺す。ぼろぼろの囚人服一枚では、辺境の朝の寒さは骨身に染みた。彼女はゆっくりと身を起こし、手枷の嵌められた手首に走る鈍い痛みで、自分がまだ生きていることを確認する。空腹で胃がひりつき、全身の筋肉が過酷な旅の疲労を訴えていた。しかし、彼女の心は静かな湖面のように、何の感情も映し出さなかった。ただ、今日もまた一日が始まるのだと、事実として認識するだけだった。しばらくすると、外から怒鳴り声と、扉を乱暴に蹴る音が聞こえてきた。
「起きろ、蛆虫ども! 作業の時間だ! さっさと広場へ出てこい!」 昨日彼女をこの廃屋へ放り込んだ役人とは別の、痩せて神経質そうな男の声だった。セレスティナは言われるがままに立ち上がり、おぼつかない足取りで外へ出る。 灰色の町の朝は、昨日と同じく埃っぽく、そして絶望的なほどに静かだった。彼女と同じように、あちこちのあばら家から、生気のない人々がぞろぞろと引きずり出されてくる。皆、一様に痩せこけ、その目は地面の泥以外、何も見ていないようだった。 彼らは町の中心にある、だだっ広いだけの広場に集められた。そこに立っていたのは、数人の兵士と、彼らを監督する役人たちだった。彼らの顔には、この町の住民を見下す侮蔑と、こんな辺境にいることへの不満が隠しきれずに浮かんでいる。「今日の作業は、西地区の瓦礫撤去だ。先の戦争で崩れたままになっている建物を片付ける。いいか、怠ける奴には鞭をくれてやるから、そのつもりで働け!」
監督役の一人が喚き散らす。人々はそれに何の反応も示さず、ただ言われるがままに列をなし、作業場所へと歩き始めた。セレスティナもその流れの中に身を任せる。 彼女の存在は、その陰鬱な行列の中にあって、ひどく異質だった。着ているものは他の者たちと同じように汚れ、顔や手足も泥と埃にまみれている。しかし、背筋を伸ばして歩くその姿には、どうしても育ちの良さが滲み出てしまう。だが、その美しい顔貌は能面のように無表情で、かつてすみれ色と讃えられた瞳は、今はただ虚空を映すばかり。そのアンバランスさが、周囲の好奇の目を集めていた。作業現場は、想像以上に悲惨な場所だった。
かつては商家か何かだったのだろうか、無残に半壊した建物がいくつも並び、焼け焦げた梁や崩れた石壁が山をなしている。セレスティナたちの仕事は、その瓦礫を一つ一つ手で運び出し、荷車に積むことだった。 彼女は、監督役人に突き飛ばされるようにして、一つの瓦礫の山へと追いやられた。そして、指示されるままに作業を始める。重い石を持ち上げ、運ぶ。釘の突き出た木材を、手のひらに刺さるのも構わずに片付ける。 すぐに指先は裂け、血が滲んだ。だが、痛みは感じなかった。ただ、目の前の瓦礫を右から左へ動かすという、単純な作業を繰り返すだけ。汗が額から流れ落ち、泥と混じって頬を伝うのも気にならない。昼近くになり、疲労と空腹で人々の動きが鈍り始めると、監督の兵士が振り回す革鞭が空気を裂く。
「何をぐずぐずしている! 動け、この穀潰しどもが!」 鞭が、セレスティナのすぐ隣で働いていた老人の背中を打った。老人は苦痛の声を上げてうずくまる。周囲の者は、見て見ぬふりをした。下手に同情すれば、次は自分の番だと知っているからだ。 セレスティナも、その光景をただ見ていた。心は動かない。可哀想だとも、酷いとも思わない。それはただ、目の前で起きた一つの出来事でしかなかった。彼女は黙々と、自分の作業を続ける。そんな彼女の様子を、周りの者たちは気味悪げに観察していた。
「おい、見たかよ、あのお嬢様。隣でじいさんが鞭で打たれても、まばたき一つしねえ」 「ああ。働き始めてから、一言も喋ってねえだろ。気味が悪いぜ」 「貴族ってのは、俺たちとは違う生き物なのかもな。それとも、あまりのショックで頭がおかしくなじまったのか…」 最初は、没落した貴族令嬢という物珍しさから、嘲笑や下卑た視線を向けていた者たちも、彼女の人間離れした無感動さに、次第に得体の知れないものを見るような畏怖を抱き始めていた。 休憩時間に、一人の老婆が、おずおずとセレスティナに声をかけた。彼女は、セレスティナの母親と同じくらいの歳に見えた。 「あんた…大丈夫かい。無理しちゃいけないよ」 老婆は、自分のなけなしの水筒を差し出そうとする。セレスティナは、その声にゆっくりと顔を向けた。そして、老婆の顔をじっと見つめる。しかし、その瞳には何の感情も映らない。彼女は何も答えず、ただ静かに首を横に振ると、また視線を地面に戻してしまった。 老婆は、そのあまりに虚ろな瞳に怯えたように、慌ててその場を離れた。 「だめだ、ありゃ。心がどこかに行っちまってる。まるで、魂の抜け殻だ」 その言葉を聞いた誰かが、ぽつりと言った。 「人形みたいだ。綺麗な顔した、お人形さんだ」その日から、セレスティナは「人形令嬢」と呼ばれるようになった。
その呼び名は、瞬く間に労働者たちの間に広まった。それは、侮蔑でありながら、どこか彼女の存在を的確に表現しているようでもあった。 彼女は、誰からの指示にも、ただ黙って従った。どんなに理不尽な命令でも、どんなに過酷な作業でも、文句一つ言わずにこなした。誰かに話しかけられても、言葉を返すことはない。食事を与えられれば食べ、作業が終われば廃屋に戻って眠る。まるで、ぜんまい仕掛けの人形のように、ただ言われるがままに動くだけ。自ら何かを求めたり、感じたりすることを、完全にやめてしまっていた。 それが、この地獄で彼女が生き延びるために、無意識のうちに編み出した処世術だったのかもしれない。感情を動かせば、あまりの絶望に心が砕け散ってしまう。言葉を発すれば、悲鳴しか出てこない。だから、彼女は心を閉ざし、言葉を捨てた。過酷な労働の日々は、容赦なく繰り返された。
朝、叩き起こされて瓦礫を運び、夕暮れに泥のように疲れて廃屋に戻る。食事は、日に日に粗末になっていくようだった。水で薄めたスープと、鳥の餌のような雑穀の混じった硬いパン。セレスティナはそれを、味も感じずにただ胃に流し込んだ。 夜、廃屋の冷たい床に横たわると、一日の出来事がぼんやりと頭をよぎる。しかし、それはもはや記憶ではなく、ただの映像の断片だった。鞭の音、人々の呻き声、監督たちの怒声。そのどれもが、彼女の心を揺らすことはない。 彼女はもう、夢も見なくなっていた。幸福だった過去も、アランの裏切りも、父の最後の顔さえも、今は厚い氷の層の下に沈んでいる。 失われた言葉。失われた感情。失われた記憶。 「人形令嬢」は、ただ静かに息をしながら、灰色の町で、終わりの見えない灰色の時間を過ごしていく。彼女のすみれ色の瞳の奥底に、かつて宿っていたはずの強い意志の光が、今や誰の目にも見えないほど、深く深く沈んでしまっていた。辺境の空は、王都のそれよりも低く、重く垂れ込めているように感じられた。 鬱蒼と生い茂る木々は昼なお暗い影を落とし、岩がちな土壌は屈強な軍馬の蹄さえもてこずらせる。グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の進軍速度は、王都を出立した頃の勢いが嘘のように、目に見えて落ちていた。「忌々しい土地だ。まるで獣の巣だな」 副官であるモーリス准将が、鞍の上で顔をしかめて吐き捨てた。彼の白銀の甲冑も、数日間の野営と悪路のせいで、もはや輝きを失い泥に汚れている。そのいら立ちは、彼だけのものではなかった。兵士たちの間にも、疲労と、そして姿を見せぬ敵への苛立ちがじわじわと広がっている。「斥候からの報告はまだか」 ベルガーは、険しい表情を崩さぬまま、低く問うた。彼の百戦錬磨の経験が、この不気味な静けさの中に潜む危険を警告していた。だが、その警告は、辺境の狼とやらに対する侮りによって、わずかに鈍らされていた。「はっ。先ほど戻った者の報告によれば、この先の谷筋に、敵が防御陣地を築いた痕跡があったとのこと。ですが、すでに放棄されており、もぬけの殻だったと」 モーリスの報告に、ベルガーは眉をひそめる。「またか。これで三度目だぞ」 ここ数日、討伐軍は何度も同じような状況に遭遇していた。敵が潜んでいそうな隘路や森に差し掛かるたび、斥候が簡素なバリケードや焚き火の跡といった、敵の存在を示す痕跡を発見する。だが、いざ軍を進めてみると、そこに敵の姿はなく、まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥るのだ。「奴ら、我らの進軍に恐れをなして、後退を繰り返しているのでしょう。さすがの蛮族も、一万の軍勢を前にしては、戦う前から腰が引けているのです」 モーリスは、自信満々に言い切った。彼の目には、ライナス軍が恐怖のあまり逃げ惑っている姿が、ありありと映っているようだった。「だと良いがな」 ベルガーは短く応じたが、その心には一抹の疑念が渦巻いていた。 ライナス。戦場で功を立てただけの、平民上がりの男。その戦い方は、奇襲やゲリラ戦を得意とする、いわば野盗のそれに近いものだと聞いている。そのような男が、正面からの決戦を避けて逃げ回るのは、ある意味
王都を発った討伐軍の進軍は、壮麗な絵巻物のようであった。 先頭を行くのは、王国最強と謳われるベルガー元帥麾下の重装騎士団。磨き上げられた白銀の甲冑は春の陽光を浴びてまばゆい光を放ち、馬蹄の響きは大地を規則正しく揺るがした。兵士たちの顔には一点の曇りもない。彼らにとってこの戦は、王家に弓引く不届きな成り上がり者を討つだけの、単なる武勲稼ぎの遠足に過ぎなかった。「元帥閣下。実に壮観ですな」 副官であるモーリス准将が、馬を寄せて得意げに言った。彼の若々しい顔には、貴族特有の傲慢さと、これから始まる戦への期待が浮かんでいる。「これほどの軍勢を前にして、辺境の狼とやらも震え上がって城に籠もることしかできますまい」「フン、城に籠もるだけの知恵があれば、の話だがな」 総指揮官であるグスタフ・フォン・ベルガー元帥は、鼻を鳴らした。彼は、歴戦の武人らしい厳格な貌を少しも崩さない。その瞳は、眼前に広がる平坦な街道の、さらにその先にある辺境の山々を侮蔑の色を込めて見据えていた。「所詮は戦場で運を拾っただけの平民だ。正式な軍学も知らぬまま、己の力を過信しているにすぎん。あるいは我らの威容に恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ出すやもしれんぞ」「ははは、それはあり得ますな。そうなれば追撃も一苦労でございます」 モーリスは楽しそうに笑った。周囲の騎士たちからも、同調するような笑い声が漏れる。彼らの頭の中には、ライナスという男が率いる軍勢の姿など、もはや存在していなかった。あるのは、手柄を立てて王都に凱旋する、輝かしい自分たちの姿だけだ。 ベルガーは、内心でこの楽観的な空気を苦々しく思いつつも、それをあえて咎めはしなかった。兵の士気が高いのは良いことだ。それに、彼自身もまた、この戦が短期決戦で終わると確信していた。 ライナスという男の経歴は調べさせてある。平民の出で、傭兵として各地を転々とし、先の戦争で偶然にも大きな戦功を挙げた。その手腕は確かに認めよう。だが、それはあくまで小競り合いや奇襲といった、ゲリラ戦の範疇を出ないものだ。 正規の軍隊同士がぶつかり合う、本当の戦争というものを、あの男は知らない。 兵法、陣形、兵站。それら全てが複
その報せは、冬の終わりの冷たい風に乗って、辺境の地に吹き付けた。 王都の地下に潜伏していた密使ザイファルトの部下の一人が、瀕死の状態で城に帰還したのは、凍てつくような風が吹く日の夕刻だった。男は馬の鞍の上で意識を失う寸前だった。その背中には、ヴァインベルクのスパイであることを示す蛇の紋章が刻まれた矢が深々と突き刺さっている。 男がもたらした、たった一枚の羊皮紙。そこに記された短い言葉が、城の作戦司令室の空気を絶対零度まで凍てつかせた。『辺境伯ライナス、反逆者に認定さる。討伐軍、総兵力一万、王都を出立せり』 絶望的な内容だった。 部屋にはライナスとセレスティナ、そして側近のギデオンをはじめとする鉄狼団の主要な幹部たちが集まっている。彼らは、いつかこの日が来ることを覚悟してはいた。だが、敵の動きは、そしてその規模は、彼らの想像を遥かに超えていた。「一万…ですと…?」 ギデオンの声が、怒りと信じられないという響きで震えていた。「我が鉄狼団の総兵力は、民兵を合わせても二千がやっと。五倍の兵力差…これでは、もはや…」 それはまともに戦えば勝ち目のない数字だった。 辺境の民がどれだけ団結しようと、地の利を活かそうと、正規の訓練を受けた中央軍の大軍勢の前では、風の前の塵に同じ。 重い、絶望的な沈黙が部屋を支配した。 だが、その沈黙を破ったのは、当のライナス自身の、楽しげでさえある声だった。「面白い。実に、面白いではないか」 彼は玉座に深く腰掛けたまま、不敵な笑みを浮かべていた。その金色の瞳には絶望の色は微塵もない。むしろ、絶体絶命の窮地を前にして、初めて己の全力を振るえることに歓喜する、本物の戦士の目がそこにあった。「あの老獪な狐めが、ようやくその重い腰を上げ、自ら戦場に出てくるというのだ。ならばこちらも、それに相応しい歓迎をしてやらねば、礼を失するというものだろう」「か、閣下…!正気ですか!」 ギデオンが、信じられないという顔で叫んだ。「ああ、正気だとも」 ライナスはゆっくりと立ち上がった
王城の奥深く、国王の私室は、昼間だというのに薄暗い沈黙に支配されていた。 壁にかけられた壮麗なタペストリーも、磨き上げられた黒檀の調度品も、その主の心に宿る深い絶望の前では、色褪せたガラクタに過ぎなかった。老王は、窓辺の椅子に深く身を沈め、自らの手の甲に浮かんだ、枯れ木のような染みをただ見つめていた。 昨日の、あの玉座の間での出来事が、悪夢のように脳裏に蘇る。 宰相ヴァインベルクの、巧みで、そして毒に満ちた讒言。それに同調する貴族たちの、媚びを含んだ視線。そして、目の前に突きつけられた、辺境伯ライナスが反逆者であるという「動かぬ証拠」。 国王は、それが偽りであると、心のどこかで分かっていた。 あの密書は、あまりに都合が良すぎる。あのライナスという男が、これほど稚拙で、分かりやすい証拠を残すとは思えなかった。彼は、戦場で功を立てただけの蛮族ではない。その報告書から窺える統治の手腕は、むしろ王都のどの貴族よりも、怜悧で、理性的ですらあった。 だが、老王には、それに異を唱えるだけの力が、もはや残されていなかった。 ヴァインベルクは、この国の政治、軍事、そして経済の全てを、その蜘蛛の巣のような権力網で、完全に掌握している。彼に逆らうことは、この王国そのものを、内側から崩壊させる危険を孕んでいた。 そして何より、老王自身の心は、過去の過ちによって、深く蝕まれていたのだ。 アルトマイヤー公爵。 あの、誰よりも誠実だった忠臣を、自分は、この同じ男の讒言を信じて、見殺しにした。あの時の、公爵の最後の絶望に満ちた瞳を、忘れた日は一日たりともない。 今また、同じ過ちを繰り返すのか。 自問する声が、胸の内で虚しく響く。だが、答えはすでに出ていた。彼は、もう一度、己の魂を裏切るしかないのだ。王として、この国の安寧という大義名分のために。「陛下」 背後から、侍従長の、感情を殺した声がした。「宰相閣下が、勅命の署名を、お待ちでございます」 国王は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がると、震える足で、部屋の中央に置かれた執務机へと向かった。 机の上には、一枚の上質な羊皮紙が広げら
王都は、偽りの平穏を謳歌していた。 大理石で舗装された中央広場を、着飾った貴族たちの豪奢な馬車がひっきりなしに行き交う。その窓から漏れ聞こえるのは、芸術や詩について語らう洗練された笑い声。辺境で起きた血生臭い事件や、その背後で蠢く巨大な陰謀など、この都の華やかさの前では、まるで存在しないかのようだった。 だが、その輝かしい光の裏側には、深く、そして濃い影が落ちている。 宰相ゲルハルト・ヴァインベルク公爵の執務室。そこは、王国の政治の中枢であり、同時に、あらゆる陰謀が渦巻く巨大な蜘蛛の巣の中心でもあった。 その巣の主は今、珍しくその完璧な平静を失っていた。「…と、いう次第でございます。シラー伯爵は、我々の再三の出兵要請にも、『領内の治安維持を優先する』との一点張りで、応じる気配を見せませぬ。それどころか、先日より、辺境との国境警備を名目に、兵を増強しているとの報せも…」 腹心の部下からの報告を聞きながら、ヴァインベルクは窓の外に広がる王都の景色に背を向け、黙って立っていた。その手には、高価な水晶の杯が握られている。「さらに、王都の商人ギルドの一部が、辺境との独自交易を模索する動きを見せております。『辺境伯ライナスは、公正な取引相手である』などという、馬鹿げた噂を信じ込んでいるようでして…」 シラー伯爵の離反。そして、経済界の動揺。 セレスティナという小娘が放った、見えざる矢。それは、ヴァインベルクが数十年かけて築き上げてきた、盤石のはずだった支配体制の、まさに心臓部へと、静かに、しかし確実に突き刺さっていた。 彼は、自分が放った刺客たちが、ことごとく失敗に終わったことよりも、この静かなる内部崩壊の方に、より大きな屈辱と、そして得体の知れない恐怖を感じていた。 あの女は、戦い方を知っている。 自分たち貴族が、何を最も恐れ、何を最も重んじるかを、骨の髄まで知り尽くしている。そして、その知識を武器に、最も痛い場所を、最も効果的なやり方で攻撃してくる。「…下がれ」 ヴァインベルクは、低い声で命じた。部下が、安堵とも恐怖ともつかない表情で一礼し、
作戦司令室の空気は、燃え尽きる寸前のロウソクの炎だけが揺れる、深い静寂に包まれていた。 壁に掲げられた巨大な地図も、山と積まれた防衛計画の図面も、今はその意味を失っている。この部屋の全世界は、今、セレスティナの小さな両手の中にあった。 ずしり、とした重み。 黒曜石を削り出して作られた辺境伯の印章。そのひんやりとした感触が、彼女の熱を帯びた掌に、絶対的な現実として食い込んでくるようだった。 それは、ただの石ではなかった。 この辺境に生きる、数万の民の命。鉄狼団の兵士たちの、揺るぎない忠誠。そして、何よりも、目の前に立つ、不器用で、愛おしい男の、魂そのものの重み。 ライナスは、彼女の返事を待っていた。 彼は、自分という存在の全てを、差し出したのだ。その金色の瞳は、戦場で敵の大軍を前にしても決して揺らぐことのない、絶対的な王の瞳。だが、その奥の奥に、ほんのかすかな、答えを待つ男の不安が揺らめいているのを、セレスティナは見逃さなかった。 その、あまりに人間的な弱さの現れが、彼女の胸を、愛しさで締め付けた。 涙が、再び瞳の縁に熱く込み上げてくる。だが、彼女はそれを、決してこぼしはしなかった。 今、この男が自分に求めているのは、涙ではない。共に戦う、パートナーとしての覚悟だ。 彼女は、その重い印章を、まるで大切な宝物を抱きしめるように、そっと胸に当てた。どくん、と、自分の心臓の鼓動が、硬い石を通して指先に伝わってくる。「…確かに、お預かり、いたします」 彼女の声は、涙で濡れていた。だが、その響きには、どんな困難にも揺るがない、鋼のような強さが宿っていた。「あなたの、その魂。この私が、この命に代えましても、必ずやお守りいたします」 彼女は、ゆっくりと顔を上げた。そして、彼の金色の瞳を、真っ直ぐに見つめ返す。「ですから、あなたも。必ずや、ご無事で、私の元へお帰りください」 その、あまりに真っ直ぐな言葉と、すみれ色の瞳に宿る絶対的な信頼。 ライナスは、彼女のその気高い魂の輝きに、完全に心を奪われていた。 ああ、俺は、とんでもない女を見つけ