鏡の間を目指す道中、雨は小降りになったものの、遠くで雷鳴がまだ尾を引いている。
ぬかるむ道を走りながら、エリシアはちらりと横を走るクレインを見た。「……どういうことなの、クレイン。あんた、元の国の兵と一緒にいたじゃない!」
クレインは顔を伏せたまま、息を切らせながら答えた。
「違う……あれは俺の意思じゃない。あいつらは俺の生まれた国の残党だ。俺が厨房でお前たちに仕えてるって知って、脅してきたんだ。」「脅して……?」
「俺の家族がまだあそこにいる。『鏡の間への道を開け』と……従わなきゃ、家族を人質に取るって。」
エリシアは眉をひそめ、カイラムが低く呟いた。
「だが、ここで俺たちに知らせに来た……命懸けだな。」クレインは無理に笑った。
「俺は料理しか取り柄のない人間だと思ってた。でも……この国で料理を作り、みんなの笑顔を見て……初めて、守りたいって思ったんだ。」エリシアは一瞬黙ったが、やがて柔らかく笑んだ。
「クレイン……あんた、立派な“味方”よ。もうひとりじゃないわ。」雷鳴が遠くで光り、ユスティアが小声で囁いた。
「やっぱり来てよかったね。彼がいなかったら……鏡の間は敵に奪われてた。」クレインは顔を上げ、真剣な瞳でエリシアを見た。
「あの国の残党は本気だ。俺が知ってる限り、あいつらは魔王の遺産の断片を求めて……どんな手も使う。」「じゃあ、もっと急ぎましょう!」
エリシアは足を速めた。湿った空気の中に、不穏な気配が漂い始める。古い石畳の回廊が現れた瞬間、再び不気味な気配が前方から迫ってくる。
仮面をつけた刺客たちが立ちふさがり、その背後に、見慣れぬ紋章を掲げた旗が翻った。「あれは…
降り続く雪の下、北方遺跡の門は静かに口を閉ざしていた。重厚な石の扉は古の魔力で封じられ、まるで今もなお誰かを待っているかのようだった。「ここが……“祈りの礎”の眠る場所か。」ユスティアが雪を払いつつ、閉ざされた扉を見上げる。カイラムは無言で手をかざし、扉の中心に埋め込まれた紋章に触れた。その瞬間、紋章が淡く光り、静かに周囲の空気が震え始める。「この反応……認証だね。」ネフィラが頷いた。「魔王の血を持つ者が近づいたからだわ。」「でも、開かないね。」クレインが扉に手を当てた。「何かが、足りない。」「それはきっと……心だよ。」そう言ったのは、遺跡前に佇んでいた老婆だった。どこから現れたのかもわからない存在に、皆が警戒する。「私は“祈りの番人”。この遺跡を見守る者の一人さ。」老婆は静かに言葉を紡ぐ。「この扉は、“選ばれし心”が揃った時にだけ開かれる。鍵は力でも、血でもない。“記憶”と“決意”──その両方が重なったとき、門は開く。」エリシアが一歩前へ出る。「だったら、試すだけよ。」彼女の手を取り、クレインが頷いた。「俺たちが築いてきたものが、本物かどうか。今こそ、証明する時だ。」仲間たちは手を取り合い、扉の前に立つ。――その時、門に刻まれた紋様が、雪に染まる夜を照らして輝き始めた。門がゆっくりと開きはじめた瞬間、全員の胸にざわめきが走った。吹き込む冷たい風の中に、確かに“何か”の気配があった。「気をつけて……この先には、私たちの知らないものが眠ってる。」ネフィラの声はわずかに震えていた。内部は広大な円形の広間で、中心には台座があり、そこに封じられたように輝く水晶の柱が立っていた。「これは……記憶の結晶だ。」カイラムが声を潜める。「俺の祖父、先代の魔王が……いや、そのもっと前の魔族たちがここに祈りと記録を託した。」近づこうとした瞬間、結晶が反応した。“資格なき者よ、試練を受けよ。”低く響く声と共に、床が光を帯び、巨大な魔法陣が展開される。「来るよ……!」四方から現れたのは、古の魔力で構成された守護獣たち。氷の狼、鉄の蛇、炎の鳥、そして影の巨人。「これは……ただの試練じゃない。“想い”を試している……!」ユスティアが叫ぶ。仲間たちは互いに目を合わせ、頷く。「逃げないって、決めたんだろ。」クレイン
遺跡の内部は思った以上に広く、そして静かだった。石造りの長い廊下が複雑に入り組み、時折、壁には古代語で記された碑文が並んでいる。薄明かりの魔石が天井からぶら下がり、淡い光で周囲を照らしていた。「空気が……重いわね。」ネフィラが呟いた。冷気と霊気が混じるようなこの空間には、確かにただならぬ気配が漂っていた。「霊的な力が残っているのかもしれない。」ユスティアが眉をひそめる。「ここには、何かが眠っている。」カイラムが前を歩きながら、壁の紋様に目を細めた。「……この装飾、俺の記憶にある。前魔王がまだ生きていた頃、よく見た模様だ。」「それってつまり……この遺跡は魔王に関係してるってこと?」エリシアが問う。「いや、関係どころか……ここは、魔王たちの“記憶の収蔵庫”だったはずだ。封じられた知識、失われた歴史、そして……過去の罪。」その言葉に、皆が一瞬足を止める。石畳の上に響く足音すら、遠い過去からの呼び声のように聞こえた。「……何が出てくるか、わかったもんじゃないな。」ヴァルドが口笛を吹きながら、戦斧の柄を叩いた。クレインは沈黙のまま壁の碑文を見つめていた。そこには、彼の生まれ故郷の古い文字で、「祈りは記録され、記録は力となる」と刻まれていた。「祈りか……。」「どうしたの、クレイン?」エリシアが声をかける。「……いや、思い出しただけ。昔、母さんが俺に言ってたんだ。『料理は祈りなんだよ。命をいただくことへの、感謝の形』って。」ユスティアが振り返り、真剣な眼差しで言った。「それ、案外この遺跡の本質を突いてるかもしれない。ここは記憶を保存する場。祈りや想いも、記録として刻まれている可能性がある。」
南門での戦いから二日が経った。街は少しずつ平穏を取り戻し、人々は忙しくも穏やかな日常を過ごしていた。だがエリシアたちは知っている。この静寂が長く続くことはないと。朝、作戦室に集まった仲間たちは、前回確保した荷車の調査結果を共有していた。ユスティアが魔道書と結晶を並べながら口を開く。「この魔力結晶、外部から命令を送れる仕掛けが組まれてる。俺が解析した限りだと、遠隔で結界を破壊するためのものだ。」「つまり、まだ敵の指示を待っているってこと?」ネフィラが首をかしげる。「そうだ。これを利用して逆探知できるかもしれない。」ユスティアはペンを走らせ、複雑な陣を描きながら続けた。「ただし、向こうも察するだろう。下手にやれば、また奴らが動く。」カイラムが低く唸った。「奴らの目的が読めない以上、街の外にも罠を張ったほうがいいな。」「それなら俺がやる。」クレインが即座に手を挙げた。その瞳は力強く、もはや迷いはない。「俺は街の外でも戦える。兄さんが何をしようと、俺は俺の道を進む。」エリシアは短く頷く。「ありがとう、クレイン。じゃあ、カイラムと一緒に偵察をお願い。」「了解。」カイラムが立ち上がり、クレインと視線を交わした。ヴァルドが腕を組んで笑う。「俺は防壁を増築してくるさ。ネフィラ、お前は街の噂を追え。」「任せて。」ネフィラは軽やかに微笑んだ。会議を終えたエリシアは一度家へ戻り、母の焼いたパンを頬張った。父が肩を叩き、「無茶をするなよ」と優しい声をかけてくれる。胸の奥が熱くなる。守りたいものは、やはりここにあるのだと改めて思う。その後、クレインとカイラムは街を抜け、南西の丘を進んでいた。風が草を揺らし、遠くにはかすかな人影が見える。「……あれは?」クレインが目を細める。カイラムが剣に手をかけ、低く答えた。
朝焼けが街を包む頃、エリシアは石畳を踏みしめて作戦室へ向かっていた。夜明けの風は冷たく、しかし胸の奥を研ぎ澄ますような鋭さを含んでいる。彼女が扉を開けると、仲間たちはすでに集まっていた。カイラムが剣を研ぎ、ヴァルドは大きな戦斧を肩にかけて立っている。ネフィラは地図の上に細い指を走らせ、動線を確認していた。ユスティアは魔道書を片手に結界の計算式を書き込んでいる。その横で、クレインは真剣な表情で武具を整えていた。「状況は?」エリシアが問いかけると、ネフィラがすぐ答える。「夜明け前に南門近くで不審者が出たけど、追跡中に姿を消したわ。民間の被害は出ていない。」「このまま見逃せば、次はいつ来るかわからない。」カイラムが短く言う。その声には緊張と決意が宿っている。ユスティアが顔を上げた。「結界はあと二時間ほどで完成する。今回は前よりも強固だよ。俺がいる限り、簡単には突破させない。」「頼りにしてる。」エリシアは頷き、皆の顔を見回す。「今度こそ、完全に食い止める。準備を進めて。」「了解。」クレインの声は澄んでいて、これまでの迷いが消えているのがわかった。彼は剣を握り、静かに言った。「俺はもう、何も後ろを振り返らない。」数時間後、街の南門に偵察の報告が届いた。「敵影確認、三刻以内に接触!」門兵の声に、作戦室の空気が一気に引き締まる。「行くぞ。」カイラムが立ち上がり、ヴァルドが低く笑った。「よし、待ってましたって感じだな。」エリシアは剣を腰に収め、仲間を見回した。「これが私たちの街。絶対に通さないわ。」太陽はまだ高く昇りきっていない。だがその光は、彼らの決意を照らしている。隊は南門へと向かい、兵士たちはその後を無言で追った。足音が石畳に響き、戦の予感が街全体を包んでいく。◆◆◆南門を出ると、草原の向こうから砂塵が舞い上が
夕陽が街を黄金色に染める頃、エリシアは両親の屋敷を再び訪れていた。母が台所でスープを煮込み、父は小さな庭で新しい柵を組み立てている。窓から差し込む光の中で、彼女はふと立ち止まり、胸にこみ上げるものを感じた。「お母さん、ただいま。」「おかえりなさい、エリシア。」母は微笑み、鍋の蓋を開けて湯気を立てた。「今夜は特別よ。あんたの好きなハーブをたっぷり入れておいたわ。」「お前の活躍は街中で話題だぞ。」父が笑い、柵を打つ手を止めてこちらを見た。「ただ、無茶はするな。」「……うん。今度こそ、みんなを守れるようにするから。」食卓を囲んだその時間は、嵐の前の静けさを感じさせるものだった。パンの香り、スープの温もり、両親の笑顔が、エリシアの胸に力を与える。一方その頃、作戦室ではカイラムたちが次なる防衛計画を練っていた。クレインは魔導書を広げ、敵の荷車から回収した結晶を調べている。「これ……まだ封印されてる。だけど、正しく使えば街を守る結界の強化に使えるはず。」ユスティアが目を輝かせる。「なるほど、その理論なら俺の結界術と合わせられるかもしれない。」「やってみる価値はある。」カイラムが頷き、地図を指さす。「ただし、奴らが来る前に準備を整える必要がある。」ネフィラが街の噂をまとめて報告する。「敵はまだ潜んでる。でも、民衆の間に恐れはあっても、あなたたちへの信頼もあるわ。皆、次の戦いに備えている。」ヴァルドが拳を握り、声を低くした。「ならば俺たちがその期待に応えねばな。」夜風が窓を揺らす。街の外れでは火の見櫓が建てられ、見張りの兵士が交代で巡回を続けていた。平穏の中に、次なる嵐の気配が潜んでいる。その夜、エリシアは自室の窓辺に座り、月明かりを見つめながら剣を磨いた。剣に映る自分の瞳は、もう迷いを知らなかった。「…&hellip
夜が明けたばかりの街。鐘の音が響き、人々が新しい一日を迎えるために動き出していた。昨日の報告を受け、エリシアたちは再び作戦室に集まっていた。壁には地図が広がり、敵の動向や隊商の情報が書き込まれている。「クレインの兄が……」と、ユスティアが慎重な口調で口を開く。「その情報は重い意味を持つわ。敵がどこまで組織だっているかを示している。」クレインは、昨日の夜を思い返すように目を閉じた。だがその表情には、これまでのような迷いはもうなかった。「あのとき、俺は迷った。でも……もう二度と、迷わない。」カイラムが剣を研ぎながら目を細める。「その言葉、簡単じゃないぞ。」「わかってる。」クレインははっきりとした声で答えた。「兄さんが敵になった理由は、これから知る。でも、俺の選ぶ道は変わらない。この街と、この仲間を守る。それが俺の決意だ。」エリシアはその言葉に優しく微笑み、剣の柄を握った。「なら、頼もしい限りね。」「……情報を持ち帰ったあの隊商、今度は東の丘を越えるらしい。」ネフィラが報告する。長い髪をかきあげながら真剣な目を向けた。「今ならまだ追いつけるわ。」「よし、準備を整える。」ヴァルドが立ち上がり、戦斧を肩に担ぐ。「向こうも前より強く警戒しているだろう。こっちも気を抜くな。」出発の準備を進める中、エリシアは両親の屋敷へ立ち寄った。母は相変わらず薬草を摘み、父は道具の手入れをしている。「また出かけるのね。」母が静かに問いかける。「ええ。でも、ちゃんと帰ってくるわ。」エリシアの答えに、父は力強くうなずいた。「お前は私たちの誇りだ。戻ったらまた一緒に夕食を食べよう。」その言葉を胸に刻み、エリシアは仲間のもとへ戻った。クレインはすでに剣を帯び、カイラムと肩を並べている。「準備はいいか?」とカイラムが問う