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風馬は真っ直ぐ目的地へと向かった。ワインとシナモンの香りが漂う街角で、迷うように足踏みしながらも、私の勤める会社に足を踏み入れる勇気はなかったようだ。そこは、私だけの閉ざされた世界。だが幸いなことに、北ヨーロッパの雪がしんしんと肩に降り積もる中、彼は同僚たちに囲まれてビルから出てくる私を見つけた。同僚たちに別れを告げ、ふと振り返ると、見覚えのある影がそこにある。私は一瞬だけ驚いて目を見開いたが、すぐに冷静さを取り戻した。風馬は私の視線に気づき、おずおずと手を挙げようとした。けれど、私がまるで赤の他人に接するように軽く会釈するのを見て、その手を止めた。それ以来、彼は近づくことすらできなくなり、長い間、ただ遠くから私の後をついてくるだけになった。私がバスに乗り遅れそうになったとき、彼は先回りしてバスを止めようとした。けれど、私はすでに勇気を振り絞って運転手に手を挙げている。私が道で酔っ払いに絡まれ、彼が道端の枝を拾って駆け寄ろうとしたとき、私はすでに道に落ちていた石を拾って投げつけている。私が列に割り込まれ、彼が注意しようとしたとき、私はすでに相手に詰め寄り、論理立てて抗議している。かつての私には想像もできなかった光景を目の当たりにし、風馬の心には募るばかりのパニックが広がっていった。彼の庇護のもとで世間知らずのまま育った「高辻星奈」は、もうどこにもいない。もう、彼を必要としていない。大切なものが手のひらからこぼれ落ちていく感覚。必死に掴もうとしても指の間をすり抜けていく絶望に、彼はついに耐えきれなくなった。人混みの端から飛び出してきた風馬は、私の手首を強く握った。「星奈……星奈……」私を引き留めるものの、私の名前を呼ぶ以外に、彼が言葉を紡ぐことができない。謝罪など、今の私には不要だ。哀願されたところで、許すつもりもない。結末など分かりきっているはずなのに、彼は手首を握る力を強め、なおも抗おうとしている。案の定、私はその手を振り払った。瞳には、触れられたことへの激しい嫌悪と怒りが宿っている。「何をするの!二度と触らないで。警察を呼ぶわよ!」風馬の呼吸が微かに震えている。込み上げる切なさを押し殺すように、彼は掠れた声で弁解した。「すまない、星奈……ただ、お前に会いたくて仕方がなかったんだ」
星奈を探すのを諦めてから数日が経ち、風馬と唯は一緒に暮らし始めた。それはかつて二人が何よりも望んでいたことだった。もう隠れる必要も、遠慮する必要もない。けれど、違和感が常に二人を包んでいる。朝食を買うとき、風馬は今でもつい三人分を手に取ってしまう。もう持ち歩く必要がなくなったあの胃薬も、ずっとカバンの中に入れたままだ。仕事帰りに唯を迎えに行くとき、車のカーナビが真っ先に表示するのは、いつも星奈の会社の住所だ。唯がミルクティーを買うときも、つい甘めで注文してしまう。それは星奈の好みだったから。カプセルトイの店を見かけると、以前のように何千円もの札をコインに両替してしまう。けれど、そこにはもう、目を輝かせてガチャを回すあの子の姿はない。二人だけの生活のはずなのに、彼らはどこまでも三人で生き続けている。何よりも、かつては楽しく笑い合えていたはずの言い合いが、今ではただの不協和音に過ぎない。演奏会に出演する唯は、主催者側の人間と酒を酌み交わした。彼女が着ていた大胆なデザインの上着さえも、激しい諍いの種になった。仕事の重圧に耐えながら、連日の残業で溜まった風馬の汚れ物。それさえも、唯には耐え難い苦痛となった。それだけではない。全く噛み合わない趣味、埋められない価値観の違い、次第に乏しくなっていく会話。すべてが二人をひどく疲れさせた。「手に入れたい」という望みゆえに美化されていた秘密の恋は、フィルターを外して現実と直面してみると、驚くほど色褪せているものだ。皮肉なことに、記憶の中の星奈の存在だけが、日に日に鮮明になっていく。どちらから言い出したのかは分からないが、風馬と唯はあの古いマンションに戻り、結婚を祝うための飾り付けを自分たちの手で取り払った。一生を誓い合ったあの日のはずなのに、その約束はわずか数日しか続かなかった。作業を終え、二人が黙ったままあのラーメン屋の前を通りかかったときのことだ。店主がちょうど店の外に出ていて、にこやかに声をかけてきた。「寄ってきなさい。一杯食べていきな」風馬は手をポケットに突っ込んだまま店に入った。唯もカバンの紐を握りしめ、力なく後に続いた。湯気を立てる味噌ラーメンが運ばれてくると、店主が割り箸を差し出した。「不思議なこともあるもんだな。この前は星奈ちゃんが
薄い紙が、しんとした静けさの中でいつまでも震えている。まるで、誰かに宛てた最後の叫びのようだ。まつ毛に堰き止められていた涙が、唯の目から溢れ出し、手紙の上に重なった。それは、手紙に残っていた乾いた涙の跡と静かに混じり合った。「星奈……」唯は手紙を握りしめ、指先が白くなるほど力を込めた。風馬もまた、一文字一文字丁寧に綴られたその手紙を見つめ、胸の奥が締め付けられるような痛みに襲われている。いつだって自分たちの言葉に耳を傾け、幸せそうに笑っていたあの子。そんな彼女が、この裏切りによって、どこか遠くへ飛び立つための翼を手に入れてしまった。そして、彼女が羽ばたいて最初にしたことは、二人の前から永遠に姿を消すことだ。――星奈に、そんなことができるはずがない。星奈が……どうして?「そんなに焦るな。今すぐ探しに行くから。きっとどこかの隅っこで、一人で泣いてるだけだ」風馬は無理に笑みを作り、唯の涙を拭おうと手を伸ばした。けれど、星奈らしい、あの素直で几帳面な文字が目に入った瞬間、その手は止まった。宙を彷徨った末、力なく引き戻された。「私も行く」唯は立ち上がり、白いベールを脱ぎ捨てた。風馬もまた、胸に飾られた新郎のブートニアを引きちぎり、一言「ああ」とだけ返すと、歩きながら電話をかけ始めた。奇妙なものだ。かつてあれほど強く結ばれることを望んだ二人が、示し合わせたわけでもなく、この式を放り出したのだ。ラインを開くと、星奈の愛らしいアイコンが目に入った。けれど、彼女からの返信はなかった。冷たさだけが残るその電話番号にかけても、「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」という無機質なアナウンスが繰り返されるだけだ。風馬は唯と別れ、一人でかつての家へ戻った。そこには、星奈の面影がこれでもかというほど色濃く残っている。きちんと並べられたふわふわのスリッパ、カーテンにいくつも留められた可愛らしいヘアピン、そして床に転がるぬいぐるみ。「私がいない間は、この子たちが一緒にいてくれるからね。暗くても怖くないよ~」語尾に音符が付いているような、彼女の弾んだ声が今にも聞こえてきそうだ。まるで、一度も離れたことなんてないかのように。後ろめたさが、巨大な波のように風馬の心に押し寄せた。唯と密かに過ごした
「行った?」風馬は呆然と立ち尽くし、現実を受け入れられずにいる。今日は、星奈が誰よりも待ち望んでいた日ではないのか。彼女が自ら去るはずがない。けれど、唯は虚ろな瞳のまま、乾いた声で繰り返した。「星奈は……行ってしまったわ。本当に、もういないの」風馬は何かを悟ったかのように、思わず拳を強く握りしめた。「どこへ行ったんだ?こんな大切な日に、一体どこへ?」「早く見つけ出さないと!式が始まってしまうぞ!」友人たちが焦りを見せる中、風馬と唯だけが、これ以上ない静寂の中にいる。二人はようやく気づいた。星奈の許しがすべて偽りだったということに。彼女は最初から、この式を全うするつもりなどなかったのだ。「どういうことですか?この方が花嫁さんではないというのですか?冗談はやめてください。相手を間違えたら報酬はもらえませんよ!」メイク担当が慌ててスマホを取り出し、結婚式スタッフのグループチャットの履歴を見せつけた。進行を指示していたのは確かに星奈だった。けれど、彼女が花嫁として指定していた名前は、自分ではなく唯になっていた。「私たちは何度も確認しました。花嫁メイクの相手は、この部屋に住んでいる武林唯さんで間違いないと」風馬は震える手でスマホを確認すると、確かにそのグループチャットに未読の通知が溜まっている。式の段取りは決まっているものと思い込み、内容を確かめることもせずに放置していたのだ。それ以上に、昨日の彼は唯のドレス姿に心を奪われ、グループチャットの内容に全く注意を払っていなかった。あるいは、払いたくなかったのかもしれない。「私がウェディングドレスを試着してる間に、彼女はスタッフに話したの?」唯の瞳が、血が滲むかのように赤く染まっている。風馬の胸に鋭い痛みが走った。彼は否定せず、ただ頷いた。そこへ、配達員が二つの荷物を持って現れた。「失礼いたします。寒河江風馬様と武林唯様はいらっしゃいますか?高辻星奈様からの宅急便をお届けに参りました」友人たちが促すようにして、二人を前に押し出した。受け取ったのは、豪華な赤い箱。そこには鮮やかな文字で【祝・御結婚】と記されている。唯が震える指で蓋を開けると、中には大きなダイヤモンドが輝くウェディングアクセサリーがいくつか収められている。一方、風
コンコン……唯がまだ眠たげな目でドアを開けた。メイク担当の姿を見て、時計に目をやった。「こんなに早くからお化粧を?」「ええ、もちろんです。今日はあなたが一番綺麗でいなければなりませんから!」メイク担当は大きなカバンを抱え、唯を押しのけるようにして部屋に入り、手際よく鏡台を整え始めた。撮影担当のカメラマンも機材の調整を始めた。唯は状況を理解できないまま、口を開こうとした。「一番綺麗になるべきなのは、花嫁である星奈ではないのか」と。けれど、心の奥底に潜む密かな独占欲が顔を覗かせた。彼女は長いまつ毛を伏せ、無理に口元を上げて、反論せずに言われるがままに着替えに向かった。けれど、用意された服を見て、彼女は息を呑んだ。「これ……衣装を間違えていませんか?」それは介添えのスーツではなく、昨日彼女が星奈の代わりに試着したあのウェディングドレスだからだ。スタッフは背中のリボンを整えながら、早口で答えた。「いいえ、間違いありません。花嫁様が昨日、ご自身でお決めになったものですから」事態はますます不可解さを増していく。唯が問い返そうとする間もなく、スタッフは大きな荷物をまとめて部屋を出ようとした。「すみません、もう一人の花嫁様のところへドレスを届けなければならないので、お先に失礼しますね」ドアが閉まり、唯はメイク担当に促されて再び鏡の前に座らされた。「目を閉じてください。一眠りして目が覚めたら、最高に綺麗になっていますよ」唯は鏡に映る自分をじっと見つめている。何かがおかしいと感じながらも、結局それ以上は何も尋ねなかった。間違っているのなら……それでいい。そう思ってしまったのだ。一方、風馬の側でも慌ただしく準備が進んでいる。集まった友人たちは、二次会の余興について熱心に打ち合わせをしている。「風馬、花嫁の方は大丈夫か?介添え人は手配したのか?」遅れてきた一人が尋ねた。別の友人が答えた。「安心して。星奈ちゃんの親友、唯ちゃんが介添えを担当するから。まあ、星奈ちゃんの親友は唯ちゃんしかいないけど」「なるほどな」友人たちは進行表を確認しながら、二次会のゲームの役割分担に追われ、部屋は賑やかなお祭り騒ぎだ。けれど風馬は、先ほどの一言を聞いて、長い間呆然としている。――星奈の親友は唯
家に戻ると、部屋の中はしんと静まり返り、真っ暗だ。私はその暗闇の中に立ち、風馬にメッセージを送った。【同僚の家で一緒に映画を観ることになったの。遅くなるから、今日は帰らないわ】すぐに返信が届いた。【分かった。でも夜更かしはしすぎるな。胃が弱いんだから、明日の朝はちゃんと朝食を食べるんだぞ】以前のように根掘り葉掘り事情を聞き出すような追及はなかった。彼が今夜戻ってこないことを察し、私はスーツケースを取り出して荷造りを始めた。リビングで一晩中座り込んだまま夜を明かし、そのままタクシーでウェディングドレスショップへ向かった。「星奈、来たわね」「朝ごはんは食べたか?パンを買っておいた」店に入るとすぐに、風馬と唯が出迎えてくれた。その様子を見ている店員が、羨ましそうに呟いた。「幸せな花嫁さんですね。旦那様とご友人は、ずっと前からお待ちになっていましたよ」その言葉を聞いて、唯の顔がさっと青ざめた。風馬は彼女の異変に気づき、私にパンを差し出そうとした手をすぐに引っ込めた。私のまつ毛が微かに震えた。けれど何も言わず、いつものように唯の腕に絡みついて甘えてみせた。「昨日の夜、冷たいミルクティーを飲んだら、胃がすごく痛くなっちゃって。ねえ、代わりにドレスを試着してくれない?」「え?」「お願い!」私が厚かましく唯に寄りかかっておねだりすると、風馬は私の首根っこを掴んで引き離し、常備している胃薬を苦々しい表情で私の口に押し込んできた。「酒を飲むなと言えば、今度は冷たいものか。体を壊すつもりか?」私はへらへらと笑いながらも唯にすがりつき、彼女はついに折れて「わかったよ」と言った。試着室のカーテンが開いた瞬間、その場の空気が凍りついた。ウェディングドレスを纏った唯は、まるで精巧に作られた人形のように、言葉を失うほど美しい。風馬は立ち尽くし、食い入るように彼女を見つめている。その時、不意にガシャンと大きな音がした。脇にあるドレスのラックがバランスを崩し、何着もの衣装が崩れ落ちてきた。風馬の瞳が大きく見開かれた。彼は思わず駆け寄り、唯をその胸に強く抱きしめた。それと同時に、倒れかけてきたラックを横に押しのけた。けれど、そのすぐそばにいる私のことなど、微塵も目に入っていないようだ。思わず彼